新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「モノ・コト」・「実体・機能」の話

2024-10-27 13:43:58 | 「わたし事・学」

「モノ・コト」・「実体・機能」の話



落ちている枝を二本拾って、それを使ってアスファルトの上のミミズをつまんで、地面に戻した。
この時、枝は「モノ」、それを使ってミミズを掴んだのは「コト」。

「モノとモノ」との変化・運動の関係性で起こるのが「コト」。
モノである自動車と自動車の衝突は事故であり「コト」。
人間と自動車の衝突は、生物・人物と物体でおこの「コト」。



では、実体とは、自動車の実体とは、自動車の機能を有するモノ自体・自動車自体。
ならば、故障して動かない自動車は、自動車ではあるが、自動車自体ではなく単なる物体の自動車。

動かない自動車は、単なる物体。
そこに、自動車の機能があって、
初めて「自動車自体」として完成する。


南郷師範の御著書の中での「手の実体」の解説に…
手の皮から骨まで一つ一つ分けても実体は見えない。
手の実体とは、皮・肉・筋肉・骨・神経…が、一体的に頭脳の信号に従って運動している可能な状態「手自体」。

ピアノを一つ一つの部品に分解したら、そこにピアノ実体は消滅。
そのピアノを組み立てても、正しいピアノの機能の復活がないなら、
物体ピアノは完成しても、ピアノ魂のあるピアノ自体にはならない。




そう、実体そのモノ・実体自体は、五感で直接感覚不能!
その一つ一つの「実体の状態=実態」感覚を通して、初めて「実体自体」を識る事が可能。

それは、五感で、感覚できた一つ一つの実態を、
頭脳活動として認識内で、総括・統括する事が出来て、
初めて、その実体自体の姿形が見えてくる~モノだろう…



アスファルト地面に落ちている木の枝には「モノを掴む」機能はない…
二本の枝で、物が掴めるのは、人間の手・指に「モノを掴める機能」があるから…
この場合の「二本の枝」は、人間の手・指の延長…と言えよう。


ここからは、事実的な記述~

以前、洋犬のゴールデンレトリバー犬」を飼っていた。
現在、日本犬の柴犬を飼っている。


洋犬と日本犬は、同じ犬でも…大きく異なっている。
それらには、犬自体を共有しているが…

ゴールデンレトリバーは、「洋犬自体」であり、
柴犬は、「日本犬自体」と言えよう。


端的には~
日本犬の柴犬は、その姿形・性質…が狼に近いモノである。
洋犬のゴールデンレトリバーには、人間的な学習能力があった。



この事から~生命体には、
その進化・発展過程における過程にある「○○自体」が内蔵しいる。
「いのちの物語」に書かれている~
生命現象自体、細胞自体、多細胞自体、魚類自体、両生類自体、哺乳類自体…
それらの上に犬自体、狼自体…そこからの人間との関わりの中から~
洋犬vs日本犬への相違が…


因みに、我が家のゴールデンレトリバー犬のマファは、
滑り台の登りを私のマネをして、斜面はもちろん、階段からも登れた。
水の公園の口のみの蛇口かせ飲む事ができた…


それに比べて、柴犬マロンは、滑り台に興味なし、
水も水道から飲めない…
一度私が蛇口から手で水をすくって口へ持って行ったら…
何と、私の、その手に噛み付こうした…


同じ犬でも…
それらに関わり続けた人々の関わり方によって、
こうまで違っているのは、驚きであった。


本能的統括である動物でさえ、このようである。
ならば…認識的統括である人類が「個性尊重」の元に、教育・生活…し続けたら~
その結果である、人々の多様性は、犬以上のモノになりえようか…


個性的な多様性に何が拙いのか?
それは、個性的人類の集団では、「集団力の発揮」が至難になり得てしまう。
また…人類としてではなく、個人としての指導者が支配している国々では、
その個人・指導者の個性的・個人的な目的達成の為の政治となり得てしまう…のだろう。


集団的な本能のない「猿集団」のボスざる…なのかも…
その集団の利益の為では、ここの団員の利益の為でもなく、
ただ、ただ…自分のしたいようにする指導者。


それは、現在は、全く指導的な立場にない日々の「わたし」の姿のように感じている。
幸か不幸か…指導的な立場・指導者ではない今の「わたし」の言動には影響力が皆無!




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「いい加減」な「理屈・屁理屈」の話

2024-10-10 11:53:03 | 「わたし事・学」

「いい加減」な「理屈・屁理屈」の話


接骨院で出会った93歳の御老人の聞いた長生きの秘訣。
それは、「私は、いい加減・いい湯加減に生きて来た!」

もともと私は「いい加減」という言葉は知っていたが…
この「いい加減」を「湯」を加えて「いい湯加減」とは…

聞いた当初は~「ふ~ん『いい湯加減』とは…
「風呂の湯の温度以外で使った事のない言葉」

しかし…改めて「いい湯加減」という表現について考えてみた。

風呂の湯の温度の適温は、人それぞれ…
この論理を以下のような日常の場面で考えるなら~

親が子供にに「そんな事は、いい加減にしなさいよ!」という時~
それは、親にとっての「いい加減」であり、
子供にとっての「いい加減ではない」!
子供には、その子供の「いい加減(無自覚)」でやっているだけ…

それを「いい加減にしなさい!」では…
また「いい加減に止めなさい!」も然り…
これでは、あまり教育的ではない。


ここで教育的指導を求めるなら、
まず、親は「自分のいい加減」(再確認)思い考え知る事。
更に、親は「社会一般的いい加減」(再確認)思い考える事。

この三者の「いい加減」を比較・検討して、
平均的な「いい加減」を子供ともに考える。

教師達の注意の仕方・叱り方・声の大きさ…には、
それぞの教師の「いい加減」がある。
また、児童達にも、それぞれの「いい加減」がある。

大人・教師が「42度のお湯」が「いい加減」でも…
それは、児童には、熱すぎで「いい加減」になり得ない。

昨日、授業中に、担任が「iPad閉じてください!」と何度言っても閉じない児童がいた。
そこで、私が近くに言って「閉じる!」と言っても聞かないので…
そこで~
「いい加減に閉じろ!」
「私が小学生頃なら…先生から往復ビンタされたぞ!」

これは、別言するなら、昔の銭湯の時代に
風呂屋に言って40度の湯が熱くて水で温度を下げようとしたら、
近くの大人に「水入れるな!」と怒鳴られた体験的だろう。

昔は、先生の指示は絶対的で、一度で即従うのが「いい加減」。
でも、今は、とにかく最終的に聞けばOK!が「いい加減」。


集団的な行動の決まり要求の温度が~
昔は高温・厳しいのが「いい加減」。
今は、高温・適温・低温なんて、「どうでもいい加減」。

この「どうでもいい加減」とは、勝負論的思考・価値観。
また「高温のいい加減」を求めるのは、上達論的・思考・価値観。











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「嘘と本当」の話

2024-10-06 11:08:24 | 「わたし事・学」
「嘘と本当」の話


神を信じ込んでいる人物にとっての神は、確かに存在している。
それは、現実界での神ではなくても、彼の認識の中に観念化された観念的な神であろう。

そんな彼が語る神の御言葉は、彼にとっては本当の神の言葉。
しかし、神を信じていない人々取っては、
その神は彼の妄想であり、その言葉は彼の妄言であり、決して神の言葉ではない。
過去の多くの教祖は、自分を神とは言わず、預言者・神の御言葉伝道師…と言っていたらしい…


他人の嘘も、信じれきれれば、それは本当。
他人の本当も、信じられないなら、それは嘘。
嘘と本当は、信じ切れるか・否かの相違?!


ならば、その信じ切れる・信じ切れない理由・根拠は何か?
何故に「信じ切れるか?」or「何故に信じられないか?」
その判断基準・方法・理由・根拠は?


一つ、感性・感情的に信じ切れる・切れない!
一つ、論理・理論的・理屈で理性・知性的に信じ切れる・切れない!


私にとっての死後の世界は、
理性的・論理的に考えて、その存在は信じられない、ありえない。
でも、感性・感情的に思った時、あったらいいな!そんな世界!

ならば、死後の世界ない!と確信していても、あると信じて損はない!(心安らぐ得がある)


では、神の存在は?
私は、理性的に、神の存在を信じない!
では、感性的にはどうか?
神に頼み事をしても、神は、何もしてくれない!
神が世界を創ったとしても、それは人類の為に世界を創った訳ではない…
人類の為に、神が何かしてくれる筈がない。

神を信じても信じなくても、自分の人生は変わらない!
何もしてくれない神を信じて何かいい事はあるのだろうか?

神に頼れば安心!苦しい時は神が助けてくれる…ならば、
それでも、苦しい人間が存在するのは理屈に合わない。
神は信じる者を助けるなら、何故に信じても救われない人間がいるのか?


ならば、「神は嘘」か?
違う!「神は信じる者の中に存在している」
信じて救われたのは~
自分の中の神を信じる事で、自分で自身を信じて、自力で救った…
神を信じるとは、自分自身の信じている神の存在観念的に創像して信じる事。


神を信じ切っている者の「神」は、確かに、彼・彼女の中に存在している。
その神の存在は、彼・彼女の主観的事実・本当でも…
彼・彼女の神を信じていない人々には、取っては…ただの妄想・妄言レベルの「嘘」!


現実界の現実的な本当・嘘。
観念界の観念的な本当・嘘。

本当・嘘の二重性








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「概念と観念」の話

2024-10-05 12:16:01 | 「わたし事・学」
「概念と観念」の話


以下はネットからの転写である。



観念と概念

概念は物自体に関したものであり,定義によって与えられます。観念は対象物に対して心の働きが加わったもの,つまり認識されたものです。したがって,です。概念は外的・共通的なものであり,観念は内的・個人的なもの

概念は物自体に関したもので,心の働きとは無関係ですから,例えば「数とは……である」というように,その概念の定義が与えられたからといって,その意味内容がわかるとは限りません。
観念は認識ですから,程度の違いがあります。物の観念を育てることは,物についての認識を深めることであり,物に対するイメージを豊富にすることです。

例えば,6という数を見た場合,ブロックが6個ある,または鉛筆が6本あるといった具体的な存在が頭に浮かぶこともあるでしょうし,トランプの6のカードやサイコロの6の目のような象徴的な図を思い描くこともあります。また,計算に関連して,5+1と見たり,3×2と見たりすることも考えられますし,順序的に5の次の整数と考えることもあります。これが6のイメージです。これは,その数が出てきたときの様子に左右されますし,人それぞれによっても違います。こうした数に対する豊富なイメージ,つまり数の観念があれば,場合場合に応じて適切な姿を思い浮かべることができ,数を生かしていくことができます。

また,量は単位と数値で表されて初めて概念となります。しかし,実際の量は経験的なものであって,その経験の過程では初めから数値があるわけではなく,漠然とした大きさの感覚,つまり量の観念があって,それが概念化され客観化されて数値表現に至るのです。
このように,算数では,概念の理解ということよりも,観念の育成ということが,目標となるのです。



カントの物自体論とは、現象界の背後には五感で認識できない世界があり、これを「物自体」と呼ぶという考え方です。物自体については、次のような特徴が挙げられます。
我々の感官を刺激して表象を生じさせるが、その実態は不可知である
時間、空間、因果関係といった規則から自由である
人間が認識する姿とは別の姿で存在している

カントは、物自体を「コペルニクス的転回」と呼ぶ新説として提唱しました。また、物自体を不可知とする「不可知性テーゼ」や、物自体にカテゴリーを適用することはできないという「カテゴリー適用不可能性テーゼ」を提唱しています。

意味と概念の違いは、意味は言葉について知っていることであり、概念は物事や事柄に対して大まかにまとめた意味や内容であることです。

意味は、人が言葉について知っていることで、その言葉について説明するものです。同じ日本語を話す人であれば、ある程度は共通している意味知識を共有しているという感覚を概念形成の原理が支えています。



一方、概念は、物事や事柄に対して関係する意味や内容を思い浮かべることです。物事から、くもの糸のようにたくさんの意味や内容のネットワークを繋いでいくと考えると、分かりやすいでしょう。概念は、一般的な捉え方であり、共有している解釈です。



「固定観念」とは?意味や具体例、「固定概念」との違いを解説 -
「概念」は、「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」という意味です。

固定観念とは、思考が束縛され、考えや価値観が凝り固まっていることを表す言葉です。
周りの状況が変化していても自身の考え方を変えず、人の意見も聞かないという頑固な考えや意識のことを指しますも


固定観念」とよく似た言葉に「固定概念」があります。
「固定概念」は、辞書に載っていない言葉で、「固定観念」の誤用といわれています。

「概念」は、「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」という意味です。
言葉として「固定概念」は辞書に載っていない誤用であると覚えておきまし

↑~
上記の記述から以下のような事を思考した。
上記の記述では~

>「概念は物自体に関したものであり,定義によって与えられます。」
>「概念」は、「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」という意味です。
>概念は外的・共通的なものであり,観念は内的・個人的なもの


ここで問題!
「ものごとを大まかにまとめた意味や内容」は、
誰が?どこに?まとめて、あるの?

その「おおまかな意味や内容」は、
誰が、どのようにまとめ、どりように定義するの?


それは当然、人間・ある人物であろう。
その人物が対象の意味や内容を認識して、おおまかにまとめる、という事であろう。
しかし、十人十色・千差万別の認識を抱くだろう人間が、同じ対象に、同じような大まかな観念をを抱けるのだろうか?

概念が「モノコトの大まかな意味や内容」なら、
その概念を認識したのが、大まかな概ね観念=概念、と言えよう。

ここに「概念の二重性」が考えられる。


「対象も持っている概念」と「それを認識した人物の概ね観念(概念)」。
理想は、概念=概ね観念…であろうが…「現実は≒」。


その完全一致を目指して、その人物は、その対象の概念を自己の概ね観念で「概念規定」をするのだろう…
それが>「概念は物自体に関したものであり,定義によって与えられます。」

対象の概念を自己の概ね観念に基づいて「定義」する事、「概念規定」なのだろう。

>「このように,算数では,概念の理解ということよりも,観念の育成ということが,目標となるのです。」

実に意味深い記述であろうか…
抽象的な「数」の概念理解とは、直接に「数の概念」そのもを理解するのではなく、
抽象的な「数」を具体物に置き換え、その事実の観念化から始める。
そして、多くの観念を創像して、大まかな観念から「概ね観念=概念」を理解・創像・認識していく。


>「カントの物自体論とは、現象界の背後には五感で認識できない世界があり、これを「物自体」と呼ぶという考え方です。」

物自体とは、物自体の存在している世界がある、とも言えるという事かな?!
これって、プラトンのイディア論…的ですね。

それは、言うなれば「人間の認識の世界・観念界」なのだろう。
ただ、全ての人間の観念界=イディア界とは、なり得ない。

人類の目標・目的は、自己の観念界を現実界に近づける事?
ただ「現実界に近づける」と言っても、その人物の眼前の現実は、現実界の一部に過ぎない…
どんなに頑張っても、常に「一部」しか認識できない人間に全世界・現実界に近づく事は至難。

だから、人は、自己の眼前の事実を、他人に弁じて、
その他人との相違から、自己の部分性を知り・理解するのだろう。


言うなれば、人類・人間は、現実界と観念界の二重の世界を生きている。
現実の世界は、常に一つ!
でも、観念界は、人類・人間の数だけ存在している、のだろう。
それも「十人十色」で「千差万別」な人類・人間の観念世界の存在が…



因みに最近、やっと気づけた事。
それは南郷氏の著書に書かれていて、もう過去に何度も読んでいてのに…
なのに…全く記憶できていなかった事。

「十」と「千」の違い!
数の大小・多少の違い!


昔の人類「一、二、沢山」の時代。
両手の指「十」で最大…
両手・両足「二十」が最大…
「一・十・百」「千」で最大…万札なく千円札が最大…

「十人十色」は、十が最大の時代~
「千差万別」は、万が最大の時代~

「森羅万象」も「万」が最大!






>意味と概念の違いは、意味は言葉について知っていることであり、概念は物事や事柄に対して大まかにまとめた意味や内容であることです。

>意味は、人が言葉について知っていることで、その言葉について説明するものです。同じ日本語を話す人であれば、ある程度は共通している意味知識を共有しているという感覚を概念形成の原理が支えています。


ヤッパリ、同じ言葉でも、その言葉の意味するモノが違うなら、その意味するモノの概念が違う。 
結果的に、同じ言葉なのに、その概念が違う。





また、同じ言葉でも、人によって、その言葉の「大まかな観念・概ね観念」が違えば、
同じ言葉で、その意味するモノも同じ…なのに、その概念の相違があり得る…だろう。


最後に「嘘と誠」・「正直・嘘吐き」について…

自分に対して「正直な者」は、他人に対しても「正直か者」か?
この解答は~
自分の感情に満足する為の正直・嘘吐きか?
社会の常識に従っての正直・嘘吐きか?
自分の思考に即しての正直・嘘吐きか?
自分の夢の為の正直・嘘吐きか
自分の成長・将来の自分の為に正直・嘘吐きか?

絶対的・常に「正直・本当の事を言う」人間も
絶対的・常に「嘘吐き・嘘を言う」人間も、ありえないのだろう。


あり得るのは、「気まぐれ天使」なのだろう?


人間の不思議・面白さを実感してのは、
「逆さメガネの実験」の事をネットで知った時であろう。


「嘘つく」事に、快感を感じ続けている人物(ついた嘘で失敗ナシ)は、
「自分嘘を本当だと信じ込める」正直な嘘つきになり得てしまう、のだろう。


正直村と嘘吐き村の二択なら、
正直村の嘘は、嘘つき村、嘘つき村の嘘は正直村、
だから「あなたの村は…」の質問が可能。

しかし、「正直村・嘘吐き村・気まぐれ村」と三択の場合、
または、嘘つき天使・正直天使も「天国出身」という一択の場合は、
「あなたの村(国・出身)…」の質問では、ダメなのだろう。

また、「ここが正直村だと質問したら、ハイと答えますか?」にしても、
確かに「ハイの嘘はイイエ」だが…

ここで「分かりません」と答えたなら、どうなのだろうか?
確かに嘘つきなら、その村が、正直村なら「イイエ」だが、
その「ハイと答えますか?」に対して「イイエ」では、「本当の事イイエ」なので、
嘘のイイエの反対の「ハイ」だろうが…

それでも…
その「答えは分かる」という認識に対いして、
その「答えは分かりません」という答えは嘘になり得る。


従って、
事実・現実レベルの「正直村か否か」に対しての「ハイ・イイエ」と、
また、認識レベル「分る・分からない」~的な解答があり得るだろう。
これは、事実・現実レベルの嘘・誠ではなく、認識レベルの嘘・誠と言えよう。















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続・「クイズ・正直村・嘘つき村」の話

2024-10-01 19:25:42 | 「わたし事・学」

続・「クイズ・正直村・嘘つき村」の話


以下のような、(二)の問題の別解を考えてみた。


(二) 正直村と嘘つき村
ある国では、「必ず嘘をつく人だけが住む村」と「正直者だけが住む村」が隣接している地区があるという。
ある人がこの地区に旅行に来て、自分が今いる村がどちらの村なのかが、わからなくなってしまったので、通行人に尋ねてみることにしました。 
一回の質問でここがどちらの村か判断できるようにするには、どう尋ねたらよいでしょうか?
但し、通行人は、隣接している嘘つき村か正直村の住人である可能性もあります。

この問題の答え:「この村は正直者だけが住む村ですか?」という問いに対するあなたの答えは「はい」ですか?



ここで、「通行人に尋ねてみる」事をやめて、
近くの住民宅へ訪問して玄関先で、以下のように質問する。

「ここは貴方の村ですか?」
仮に、ここが正直村の正直住民なら答えは「ハイ」!
また、嘘つき村で嘘吐き住民なら、答えは「イイエ」!

このように問題(一)と同様な質問で正しい問題解決が可能。

もっとも…その住民宅に、訪問者がいて、その者に質問していたならNG!

そう「通行人・訪問者」の登場・条件により、
質問の難易度が問題(一)上がったのだろう。


ここで、正直言説を(+1)・嘘吐き言説を(-1)とするなら~
「あなたの村を訪ねる」事は、

正直者は「正村×(+1)=正村」
嘘吐き者は、「嘘村×(-1)=「嘘村の反対」=正村」

住民に質問したなら、必ず「ハイ」なら正直村、「イイエ」なら嘘吐き村。
でも、ここに「通行人・訪問者」という、必ず「イイエ」と答える要素が入る…
そこに「訪問者・通行人」という、正直村・嘘吐き村の住民とは限らないから…
そこが、正直村or嘘吐き村であろうが、答えは「イイエ」だから…

正直も嘘吐きも「ハイ」、正直も嘘吐きも「イイエ」の中に、
常に「イイエ」が混じってしまう可能性の発生!

これが、問題(三)・(四)の気まぐれ天使・気まぐれ村へ続いている~
気まぐれとは、嘘と誠の混じった言説…だから~





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