新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

馬鹿は死ななきゃ治らない?!

2022-07-26 11:58:05 | 滅ぼし合う対立物の統一

「馬鹿は死ななきゃ治らない」とは、
普通は、「バカ」は死んだら治る…という事ですが…
以下のコメントお宅の馬鹿は、「死んでも治らない」程の重症のようですね♪♪♪



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
思い込み・誤解の連続!ですね♪

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/b53b491c52ee5e108c76dd55f4b7f9c6

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>また長々と意味不明なコメントを綴りましたね。
>お宅の欲求不満の現れですよ。お宅が私から先生として扱って欲しい、私と師弟関係を結びたいという欲求の強さばかりが浮き上がっていますね。

↑~

このお宅の書いている通り「長々意味不明コメント=欲求不満の表れ」なら、
過去の「一村コメントの連続長文意味不明コメントは=一村氏の欲求不満の連続」⇒
即ち、このお宅は自己の欲求不満を自由びとブログに書き綴っているお宅ですね。

確かに、私には「己の認識を多くの人々に納得できる表現で書きたい!」という欲求はあります。
その為に、私の認識運動の過程を正しく表現しよう取り組んでいる…

でも、ここで問題は、私の認識運動・過程は個性的で、一般的・知識的ではない部分が多々ある事です。
だから、他人が、私のブログ記述を理解するには、私の認識への二重化(自由びと化)が必要です。
その二重化が未熟または不能な者は、「…意味不明…」と実感する事になります。


このお宅は、知識馬鹿の論理能力不足…
より正確には、論理能力が知識量に負けている⇔知識量が論理能力に勝っている…のです。
論理能力がなくても、使わなくても、知識の駆使で問題解決が出来ている…と思い込んでいるお宅。

私が「お宅と師弟関係を結びたいという欲求」なんて皆無です。
強いて書くなら~私の欲求とは以下のようモノです。
お宅の馬鹿の内実・中身・構造・本質…が、どのようなモノかを
解明し、それを言語化する過程で、それをより鮮明化したい!

「教師と児童」⇒「教育者と学習者」⇒(授業で)「話し手と聞き手」⇒「書き手の私と読み手のお宅」…
これらの共通性が理解できないのは何故?。
理解できない理由のひとつが、お宅には、これらの論理レベルの相違が実感不能な事。

話し手は伝えたい事を話す。
聞き手は、話し手に「賛成・反対・同感・異論・反論」するにしても…

先ずは、「話し手」の伝えたい事を分理解・分かる必要があります。
相手の伝えたい事を理解出来ない・分からないのに…
正確な賛成・反対・反論…ができる筈がない…からです。
なのに…このお宅は、平気でコメントを寄越せています手か

私のお宅の関係が「教育者と学習者」ではある筈ないでしょう。
いいですか?!
人間は他の動物と違っているから、普通「人間」と呼びます。
それでも、人間とは?を考える時には、人間≒動物…として共通点を捉えます。

私は、「話し手の話の途中に、その内容と無関係な事を話し出した児童」の例が、
ここでのお宅の言動・コメントと同じ、だと書いているのです。
今だって「意味不明」と書きながら、お宅の書きたい事をコメントしています。

この事が分からないから、お宅の論理能力が皆無!です。




>要するに「煩悩」ですよ。先生として認めて欲しいというお宅の執着心を払拭できていない、悟れていない人間そのものですからね。

↑~
私が、教育者として、児童と接する時、私が欲する事は、
「その児童が私の言動から何かを学んで成長して欲しい」です。

この「教育者として、学習者を成長させたい」が強烈過ぎるなら「煩悩」ですね…
でも…補助員だと、教員程の強烈さはなくて済みます。

補助員の仕事は、直接に児童・生徒を成長させる事ではなく、その成長の補助・お手伝いだから…
今の私には、教員時代のような強迫観念(お宅の言う煩悩)は、殆どありません。


>そのお宅の煩悩、執着心が発達障害児になら自分も先生として偉そうにできると補助教員にさせたんでしょうね。

↑~
現実を知らない無知者が「発達障害児になら自分も先生として偉そうにできる」とは…よく書けますね!

先日の事、特別支援学級の女性教師が、注意して聞かない児童を叱り終わって数分後に、
その叱られた児童は、その教員が座っていた椅子を後ろから引き抜きました。
結果、その教師は、ドスンと尻もちをついて腰を痛めてしまいました。

その事で、その児童を叱っている男性教員の胸を、その児童は度ドンドン叩いて…
その男性教員は、学生時代にバスケットをやっていたムキムキの29歳です。
児童が叩いてきても、教員が手を出したら体罰で即処罰・注意ですから…
児童に叩かれ続けていました。

そうそう…この男性教員は、以前、その児童が原因で肋骨にひびが入ったそうです…
何でも、その児童をその場所から連れ出そうと手を引いたら、暴れられてバランス崩して何かにぶつかって肋骨にヒビ…だったそうです。

別の児童ですが…以前に私を後ろから蹴ってきて、振り返ったら右中指を立てていた小6男子に、
あまりにもふざけ過ぎなので、力強く「卑怯者!後ろからではなくから来い!弱虫!」と怒鳴ったら…
その児童が、怒って私に向かってくる寸前で近くにいた男性教師に抑えられ…
なかなか収まらずに、男性教員3人で近くのマット真上に抑え続けていました。

こんなそんな現実の中で「先生として偉そうにできる」なんて…
お宅は、知りもしない現実を、自分の思い通りに付く変えられるアホの天才ですね。

>私からすれば諦観できていない人間そのものですよ。


現代の教員・教師は、「諦観」できないと…長く務まりませんよ!
真面目で諦観できない教員は、精神を病んでいますね。


>お宅の「誰にでも良い顔したい」という八方美人の日常が、鬱屈した性格を生じさせて、こんな所で「自分を認めて欲しい」という欲求の爆発に繋がったんでしょうね。




「誰にでも良い顔」ではなく、誰の言葉も、その人の立場・認識から理解したい…という事です。

その言葉の理解から、その人の立場を理解したなら、
私的には納得不能な事では、その相手的には納得可能になり得ます。

その時…私と相手の社会的・事実的な関係が対立する必要のないモノなら、
敢えて、私の認識を書く必要を感じません。

>その「私を先生として認めて欲しい」というお宅の焦りが、偽物人間の証明なんですよ。


「先生と認める・認めない」…なんて…重要な事ではありません。
担任・先生と認めたからと言って、先生・担任の言う事を聞かない子供も沢山います。
その時、先生・教師は、「家に電話します」と脅しています。

また、子供によって、親の前では、ちゃんと話を聞いていて、従う様子をしても…
見えない所で、またまた悪さをしています。


子供よっては、教師を先生ではなく、友達のように思っていても、
しっかりと教師の言葉に従っています。



>素晴らしい指導者の元には人は集まるものですから、自ずと。


私は祈っていますよ……

お宅の「素晴らしい」が、真の「素晴らしい」である事を~

巨大なヤクザ組織の指導者は手下が大勢だから素晴らしい!?
振り込め詐欺の巨大組織は大勢だから指導者は素晴らしい?!

ピカソの素晴らしい芸術は、初めから多くの人々に認められたのか?
真理であった地動説は、初めから多くの人々に受け入れられたか?
嘘の天動説は、多くの人々が賛同しました。
天動説は嘘でも、その時代では「真理」。
犯罪を求める者には、犯罪の天才は素晴らしい。

スポーツ空手を求める者にとっての素晴らしい指導者。
ダイエット空手を求める者にとっての素晴らしい指導者。
喧嘩空手を求める者にとっての素晴らしい指導者。
真の武道・空手を求める者達にとっての素晴らしい指導者。
真の弁証法を求める者達にとっての素晴らしい指導者。

お宅の言葉は、一見一読だと正しい…ようですが…
私とお宅の素晴らしいの具体的な中身が異なっている以上…

そうそう…
現代の流行に乗った素晴らしいなら「現代人は集まります」
しかし、時代遅れの素晴らしいだと「現代人は集まれません」

だから、お宅にとっては「素晴らしい」でなくても、
集まる人々が少なくても、素晴らしい指導者は存在している…という事ですね、



人類史に刻める素晴らしい。
社会に貢献できる素晴らしい。

犯罪歴史に残る素晴らしい?犯罪。
戦争で敵を大量に殺して素晴らしい英雄。
敵の戦艦に突撃して死んだら英雄。
恋人を殺して自分も死んだらアホ。











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思い込み・誤解の連続!ですね♪

2022-07-24 12:32:16 | 滅ぼし合う対立物の統一


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
ヤッパリ!お宅は分っていない♪

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/bd93f7848c0e4231c43ca22be902213e

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>長々と私のコメントに反論するために時間を費やしたんですね。
>それだけのエネルギーをこのブログに注ぎ込むことは驚嘆しましたよ。


これは、このお宅の勝手な解釈です。
最近の私は、毎日パソコンを開いている訳ではありません。
この記事も一昨日パソコンを開いて途中まで書いて…時間切れ、
結局、昨日やっと書き終えたのでした。
完成まで二日でも、費やした時間はトータルで数十分ですかね…
その内の殆どが、パソコンの文字入力に使われています。
考え・書くエネルギーは、殆どないのですが…入力エネルギー強。





>お宅が理解している私の考えはお宅が自分の頭の中に作り出した幻影で私自身の考えとは異なっていますね。


このお宅は本当にバカ者ですよ。
私は書き手で、このお宅は読み手、ですよ。
読み手は、書き手の文章から、書き手の思い・考え・感情を…認識するのが「始まり」です。
それに対して、書き手は、書きたい思い・考え・感情を書く事から始まります。



書き手の文章から、始まっても、それを読み手が正しく認識できないから…
読み手の始まりは、まだなのです。

書き手である私の、読み手であるお宅へのコメント・記事は、
読み手であるお宅のスタートライン(誤解・曲解・誤読・間違いの指摘)を示している、のです。

書き手の言葉・文章の内容理解と書き手の認識を理解して共感・同感…するのは別物なのです。
お宅が、私の書いた文章を正確に理解していないのに…
互いの認識が、平行線・交わる…なんて考えられるのは、本来は不可能なの筈です。

子供が、ある諺の意味を理解できても、その諺の真意が出来ない事と同じですね。


>それに私は児童ではありませんし、お宅が私とお宅との関係を「先生と児童」との喩えで考えたことが的外れだというだけのことですから、学校の現場での教員補助と児童との関係を詳細に説いたところで無意味です。的外れなだけで。

確かに、教師と児童は、教育者と学習者の関係です。
でも、授業中の教師の児童の関係は、話してと聞き手の関係でもあります。
話し手は伝えたい事を話し、聞き手はその言葉を正しく理解する関係です。

ここでの、私とお宅の関係は、確かに教育者と学習者ではありません。
その理由は、このお宅が、「このブログ・私から学ぼう」という姿勢がないからです。

それでも、コメントを寄越してくる、このお宅は、読み手である事には変わりありません。
私は書き手でお宅が読み手、書き手は書きたい事を書き、
読み手は、その文章から書き手の文章を正しく理解するのが普通です。

教師と児童⇒話し手と聞き手⇒伝えたい事を話す者と正しく聞き取る者、
私とお宅⇒書き手と読み手⇒伝えたい事を書く者と正しく読み取る者、

どうですか?知識豊富で論理能力皆無なお宅でも、↑みれば分かるでしょう。



>それから教員補助と児童との関係を年齢差があるから先生なんだという考えもお宅の個性的な考えでしょうけれど、現代的ではありませんね。



お宅には「先生」の真意が理解出来ていないようですね。
先生=先に生まれた者の真意とは、先に生まれて経験・体験が豊富な者は、
後から生まれて、今だ未熟な者達を教え指導が可能…という事なのです。
ですから、そのような尊敬の念を持って「先生」なのです。



>儒教の長幼の序じゃあるまいし、お宅が韓国系の儒教の精神でも持っているならともかく、職業として給料を貰ってやる仕事に性別や年齢の差を持ち込むことが滑稽でしょうね。



これがバカ者の見本です。
儒教の精神は、体験・経験からなる体験智・経験智が豊富な年上を尊敬して、その者達から学ぼう!
もっとも…過去の学問・文化遺産…があまり発達していなかった時代の事ですから…

現代では、先に生まれて=先生(教える能力ある)とは言い切れませんが…

お宅には、この「先生」・言葉二重性⇒過去的理解・現代的理解…能力なし…です。



>お宅のような還暦過ぎてる人間だったら校長も教頭ももっと若い可能性がありますけど、お宅は自分の年齢が高いという理由で職業的な関係を度外視して長幼の序を持ち込むのですかね?

↑~
可能性の問題ではなく、その個人の目的意識の問題です。
私の知っている教員は、とても有能なのに、管理職は嫌だ!一生現役教員がいい!と言っていました。

え?どこから「職業的な関係」?

今の校長は、教育経験豊富で都庁への出向した経験を持っている凄い教員です。
歳は私より、下かもしれませんが、教育者経験年数・年齢は、私よりずっと上の「先生」なのです。

また…副校長も、人間・教員関係で色々とずいぶんと苦労しているようです。
そんな、人間関係苦労年齢は、私より上なので、やはり「先生」なのです。

確かに過去の未開な経験万能(知識未発達)社会なら、先生=先に生まれた=有能、です。
でも…現代の「先生」は、医者・弁護士・議員…専門的に有能な者への呼び名でもあります。

これは言葉の概念の弁証法~ですかね。


>児童から見てもシルバーシートで席を譲るべきお年寄りで、先生というより「お爺ちゃん」でしょうに。


今の学校の児童なら、外で私にあっても、○○先生ですよ。
でも、私と無関係な児童なら、確かに「お爺ちゃん」ですね。
もっとも…外見見かけは「お爺ちゃん」でも、中身・精神は「若者」ですが…




>兎に角、お宅が述べたように私とお宅とは生まれも育ちも全く違う人間で、理解し合うことはありませんし、理解し合う必要もないでしょう。


それ!それよ!
互いに「理解し合えない事」が問題なのではなく、
読み手のお宅が、書き手の私の文面を「正しく理解できていない」事が問題なのです。

お宅には、この問題点が理解できていませんね。
これぞ! 全く問題外お宅ですよ。

>「同じ時期に同じ道場で稽古した」というだけで理解し合えている仲間もいますけど、お宅は「そこ」を無視して理屈をこねていますからね。


私の理屈は、お宅が、書き手である私の文面を正しく理解していない事を分からせる為です。
「分からせる」理由は、私の記事に異議・反論しているからです。
記事の文面を正しく理解していない異議・反論・異論は、全くの無意味です。

空手では分かり合える同志でも、考え方では分かり合えない者もいました…
その時、分かり合えない理由が分かる事が、互い分かり合えない者同士の分かり合い方ですね。

私の文面を正しく読み取っていないお宅に、「理解し合えない・分かりし合えない」なんて…
そんなの問題化以前の問題なのですよ。



>私からしたなら同じ時期に同じ道場で厳しく苦しい稽古をした仲間ではなく、空手はやらなかったけど本だけ真似してる京都の寄筆一元さんじゃないのか?とも感じますけど、兎に角、お宅は『ドラえもん』のスネ夫か『坊ちゃん』の赤シャツみたいなイヤらしさばかりが際立つ性癖で、魅力に乏しい人間なんですよ。



書き手の文面さえも正しく理解不能な読み手お宅のコメントでは説得力は皆無ですが…。
こんなお宅に、他人の魅力を正しく見て取れる…とは、私には思えませんね。。



>勿論それは私から見てのことですから、別の誰かがお宅に魅力を感じないとも限りませんけど、年齢だとか性別だとかの外側のことばかりで、お宅自身の中身の魅力を示せないで何が玄和空手を学びました、ですか?


私の「魅力」の問題ではなく、お宅の論理能力・読解力、魅力発見能力…の問題ですね。
そもそも「魅力は示す」ものではなく、相手から感じ取るものですよ…




>友だちは選ぶものでしょう?さようなら、赤シャツ。

え?
何でここに「友だち」の話!
互いに分かり合えたら「友達」という事?
分かり合えないは「非友達」?
分かり合えない事が、分かり合えた「友達」もいますよ。


そもそも…
ネットで知り合って、会いもせず即友達なんて…私からすれば可笑しな話ですね。
ネットでの話が合って、実際に会って話して気が合って、一緒に遊んで楽しい…
そんな繰り返しの中から、友達が出来るのでは?

「師は選ぶもの」ですが…
「友達は自然になる・できる」もの、でしょうね。








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ヤッパリ!お宅は分っていない♪

2022-07-23 09:53:36 | 滅ぼし合う対立物の統一


お宅は、私の考え方を、お宅的に理解して、
それを、私の考え方だと、確信している…



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
存在自体の価値とは?

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/8e29978748a1661dc484407e2bcb8092

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>お宅にはお宅の考えがあることは理解できます。おそらくは私とは永遠に交わることのない、互いに理解し合う必要もないお宅個人の考えでしかないでしょうけどね。


お宅は、
私の考えをお宅の考え方的に理解して、
「私の考え方」だと思い込んでいるようですね!

でも…それは、
お宅の「お宅の考え方」の中の私なのです。

ですから~
お宅が「私には私の考えがあることは理解できます」と思えても、
結局は「私の考え方」を理解している事にはなりません。

「人間は己の理解できる能力の範囲で対象を理解している」モノなのでしょう


お宅が、私と「永遠に交わることのない」と確信するなら、
なんで、このブログ記事を読み、コメントを書き込むのですか?
それって~私からすれば、矛盾ですね。

もっとも…私は矛盾が嫌いではありませんが…






>お宅が唐突に「学校で私の知らないゲームの話しをする児童」の事例を取り出したのは意表を突かれましたね。お宅には私とお宅との関係が学校の教員と児童との関係と同じだと映るのですかね?それはビックリですよ。

↑~
ヤッパリ誤解していて…
全く私の記述の真意が分かっていない。

教員と児童の関係が問題ではなく、
先生の話を聞きながら、先生の話の内容とは全く無関係な自分勝手な事を思い、
それを近くにいた私に話してきた児童の話を、私は、なかなか理解できなかった…という事例です。

その理解できなかった理由は、
私が、先生の話に関連付けて、その児童の話の内容を理解しようとしていたから…。

人間は「問い掛け的な反映」をするモノです。
先生の話的に問い掛けた私には、
児童の自分勝手な想起(私の知らないゲームキャラ)は理解不能でした。


この児童がお宅の姿なのです。
ブログ記事読後であるお宅の自分勝手な想起の記述。
それが以下のコメント内容ですよ!



>未成年者でも人権というものがありますよね。でも未成年であるがゆえに「必然性の洞察」が為し得ない、だからお宅が何でも自由にできるかといったら違うでしょ。児童の保護者の許可や同意を得なければならないことは沢山あります。



私の授業中の仕事は、「児童達が先生の授業を正しく理解できる」為のお手伝いです。
子供が、先生の話の無関係な事を想起しても、そのような話に関わる事はできません。
もっとも…休み時間なら別ですが…

私の仕事の範囲内であれば、特に保護者の許可は不要です。
また…私が、ついつい児童の話に引き込まれてしまうと…
先生は、話を聞いている私ではなく、関係ない話をしている児童を注意します。

「必然性の洞察」=児童は授業中の先生の話は真面目に聞くのが勉強(必然性)です。



>お宅が自分の学校の児童との間で「先生と児童」との関係になっていられるのは保護者の同意があるからで、保護者がそれを認めなければ別の学校へ転校することも学校に抗議することも可能なはずですよ。

↑~

私と児童の関係は「(先に生まれた)先生と児童」であっても、「(教員)先生と児童」の関係ではありません。
その違いは、補助員先生は、学校内で児童に注意はできても、叱る事は禁じられています。
注意を聞かない児童を叱るのは、教員の仕事なのです。



>その場合の自由権は未成年の児童にあるのではなく保護者たる親にあるんでしょうから。

成る程…お宅は「学校内での自由権」について書いているのですか…
これが、お宅の「自分勝手な想起」の内容ですね。
こんなような理解で、私の「考え方」を理解できる…
ヤッパリ!全く誤解しているじゃ~ないですか?


>ところがお宅は立派な成人である私の自由権を認めようとせずに侵害し封建時代の農奴にでもできるかに錯覚してるんです。

↑~

ここは、自由びとブログです。
ここのブログ主は自由びとなのです。

確かに、自由びと記事を自分勝手に理解して、コメントするのはお宅の自由権。
でも、主である自由びとが、お宅に「書くな!うるさい!」…書くのは私の自由権。
ここでは、主の私の自由権が優先されます。


学校には、校則があります。
児童・保護者が校則を違反する自由はあっても…
その自由には注意・処罰がともないます。


ここでの、規則の決定権、主の私にあります。。
私の話に関係ないコメントを寄越す自由は認めても、
その内容が、余りには、記事内容を遺脱・無関係だった場合は、
このブログ私的な規則で対処しています。

お宅には、お宅の自由権があるように、
ここでの私にも、私の自由権があります。

お宅が「…自由権を認めようとせずに侵害し…」と思っているなら、
ここにコメントを寄越さなければ、いいだけです。


お宅のコメント
>…でも未成年であるがゆえに「必然性の洞察」が為し得ない<…

この通りです。
学校では、未成年で児童だから、私に注意され、先生から叱られる…のです。

お宅は、このブログ内での自由びとルール「必然性の洞察」ができない、ようですね。
それは、ここでの、お宅が「未成年・児童」レベルである証ですよ。

今後は、お宅の成人レベルの
「必然性の洞察」への向上を期待していますよ♪♪♪


>私はお宅が何処の誰だか分からないけれど、若い頃に一生懸命に空手をやった代償として義務教育の教員補助をしているような人間に誰がなりたいと思うでしょうか?どうして私がお宅の言うことに従う必要があるか、それも説明できない無能な人間が、読んでる側の二重化の能力を要求するなど失笑ものですよ。


↑~
「結果が全てではなく、そこへ至る過程と合わせて、初めて全て。」
「人生とは、今が全てではなく、今に至る道と今後の進む道、合わせて全て。」

因みに、私の教員免許が失効していなかったならば講師でした。
そして、私の一年上の教員免許は、無期限・一生有効なのですよ。


現役教員は、何年か毎に、研修を受けて、免許有効期限を延ばしています。
…でも…この制度なくなる…ようでが…

私も、研修を受けたら、教員免許復活で、講師には(年齢的に教員は無理)なれたのですが…
その時間数・種類が多いので…めげました。

講師と補助員の違いは、講師の時給は五百円多く、
直接に児童の指導・教育・授業…が許されています。

退職後の教員の多くは、地元の学校の講師をしている…ようですね。
教員・講師・補助員の違いは、実力・能力ではなく教員免許有無ですよ。

何事も表面・現象的にしか見て取れないお宅に、
このような考え方を理解できますか?








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存在自体の価値とは?

2022-07-19 09:53:36 | 滅ぼし合う対立物の統一

糞には、肥料としての使い道がある。
その道を歩むなら、糞にも価値がある。

以下のようなコメントでも、
使い方次第で価値が生まれるモノ。



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
存在価値はクソ以下!?

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/58fe19ff0de081b4cc22fda114049fc5

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>おやおや、随分と口汚い表現があらわれましたね(笑)。

このお宅が「口汚い」と思うのは、
「臭い糞・汚い糞…」といった糞の対する一面的な感じ方の為であろう。




母親なら、子供の糞も「可愛いうんち」、
愛犬なら、「健康そうな糞」…
愛猫なら、「立派なウンチ」…

「糞・うんち…」が、口汚い表現とは限らない。
問題は、書き手が、どのような感情・意図・思い・考え…で、
その言葉・表現を選択しているのか?であろう。

それを「口汚い表現」と、初めに感じ取っている、
このお宅には、書かれた文面から、書き手の真意を読み取る能力は感じ取れない。




>それが自由びとさんの本性だといえ、私のコメントがそれを発現させる引き金となったのだとしたなら申し訳ないことです。


己の能力不足をこのように対手の「本性」と言い切っている姿は、爆笑かつ悲しいものがある。
「申し訳ない」とは、よくもまあ~シャーしゃ~と思ってもいないを平気で書ける者である。




>ソクラテスの名前が飛び出したのは意表をつかれましたけど、奇遇にも私もこの数日、ソクラテスからアリストテレスにかけて、それからトマス・アクィナスにかけて調べていたことがありましてね、それは私の専門分野に関わることで、なんですが…



私なら「専門分野」的ではなく、
先ずは、哲学的・学問的・弁証法的・認識論的・論理的…から「専門分野」ですがね。




>私が自由びとさんとどうにも馬が合わないのは、やはり「顔が見えないから」のようなんですね。実は私も何十年も前に玄◯会で空手をやっていましたから、本当に自由びとさんが語られている時期に青雲塾にいたならば私とも会っているはずなんです。



私が思うに~
このお宅が、私と「馬が合わない」のは、
私の言葉・表現の捉え方・関わり方問題ですね。



>私はここ数年で当時の青雲塾で時空を共有した方々と再会して旧交をあたため嬉しく感じたものですが、単に「青雲塾にいた」というばかりで何処の誰だか分からない自由びとさんの書いていること??言ってることが良く理解できないのも、その「顔が見えない、何処の誰だか分からない」ところに原因がありそうです。


このお宅が私の言葉を「…良く理解できない」のは、端的には、理解しよう・理解したくない…からです。
この感情・気持ち…とても理解できます。

去年から、私は一年生の授業補助を始めました。
その一年生の児童達の多くは、突然に私の全く理解できない言葉・話をするのです。
そこで暫く聞いていると、どうやらゲームのキャラの名前・話でした。
でも…私との会話の中で、そのゲームの話はなかったのです。
児童は、私との会話の中で、突然に「そのゲーム」を想起したのでした。
その児童は、私の言動と無関係でも、突然に想起した事を言葉にしているのです。

このような「想起を言葉へ」の子供は、賢い子供なのですが…。
でも、先生との話の筋から、外れてしまう、不都合な点が問題。

このような事の繰り返しは、授業・学習には、マイナスです。
ただし…教師が、このような事を理解して、授業を進められるなら、問題ではなくなります。



そんなこんな児童との認識論的な関りが二年目の今日この頃、
ここ一年間の強烈な体験・経験から~
このお宅の私を「良く理解できない」という思いの原因は、私への二重化かできない。
対象への二重化能力の欠如だと、分かるのです。


こんな能力不足のお宅だから「相性」と言っているのです。
「相性が良い」とは、性格・考え方・生い立ち・価値観…が似ている・近い…等の
理由から、「互いの二重化が容易」とう事です。

このお宅は、己の能力不足を「相性」を理由に解消し、
哲学・学問・弁証法…的関わりを、専門的・知識的な関りに解消し、
そんなこんなで、自己満足・自己納得…しているお宅なのです。


>つい先日も尊敬する論研の先生とメールのやりとりをさせていただいて、おそらくは他の人なら何を書いているのか理解できないだろう暗号のような文章も「正に論理的とは、このような文章だ!」と感激した次第。



真の論理的な実力者は、哲学・学問…を小学一年が分かるように説ける者です。
「何を書いているのか理解できない…暗号のような文章」を「正に論理的…」
このお宅は、自分が「論理的」と納得・痛感…可能な文章だけが「論理的」なのです。

そもそも…誰もが、他人の言葉・言動…を論理的とは思えない現実が存在します。
その理由は、言葉・言動…は、論理ではない」から…です。
「論理」を論理として、直接言葉で表現すする事は至難だからです。

他人の論理は、その人の言動の裏にある認識に、
二重化できて初めて、その人の「論理・的」が浮上してくるモノです。
しかも…二重化している自己の中に、その「論理・流れ」があって初めて「論理的」となり得るモノです。




>人と人との相性というのは、そうしたものかも知れませんね(笑)


己の能力不足を「相性というもの」に解消できる程の幸せ者。



↑~
以上が、「存在価値はクソ以下!」のコメントから、
高価な宝石以上の価値を創出するかの実例である。




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続・「悟りとは?」を悟る!

2022-07-19 08:43:44 | 悟りシリーズ



「悟りを悟る」の多重性~

「悟りとは?」というモノを知る。
「悟る為の方法」を知る。

「悟りの道」を知る。
「悟りへの道」を知る。

知る⇒識る⇒悟る


「悟りの道」を知・識・悟っても、
「悟りへの道」を知・識・悟っても、
その「悟り道を歩む」事なくば、「悟得」にはなり得ない。
悟得への到達なくば、その「悟り」は単なる自己満足に過ぎず。


道を創ったとしても、その己の道を振り返り・戻り、再確認をせねば、「道を忘れる」。
道を知っても、歩まねば、何も得られない。
道を歩いても、最後まで、歩めるとは限らない。
最後まで、歩んでも、気付かずに脇道に逸れてしまっている事もある。


自分で道を創る事、自分の創った道を歩む事は、そう難しくない。
他人の創った道を、その道から逸れる事なく歩み続けるのは至難であろう。

他人の創った道が、必ずしも、己の求める道とは限らない。
己の求める道ではなくても、その到達点が己の求めるモノなら…どうする?

その時は、他人の創った道を、その創始者とは、異なった歩み方をする。

高速道路を走る能力のない者は、その道路に沿った一般道を行けばよい。




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