新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

そう思い・考えたのは何故どうして…

2020-02-29 12:26:53 | 認識論



私は、何故・どうして、
『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』
と思ったのか?

私は、何故・どうして、
初めに「その時の解答が、『十進法だから!』」が
正解あると確信したのか?


これは記事・「論理・論理的について」で書いた、
その記述の中身への問いである。


コメント欄での、
無ソクラテスとのコメントの応酬で
気付い事は、以下のようなモノである。


1+1=2、2+3=5…
1を9個以下足した時の答えと、
1を10個足した時の答えを、
私は異なっていると認識していた。

しかし、無ソクラテスは、全て同じと認識している。
その私と無ラテスの認識の相違は何故?どこにあるか?  


ここで、奴の当然・当たり前が、
私には、そうでは、なかったという事に
私は気付かされた、という事である。


 

私は「十進法」だから」と結論している。
それは、十進法とは、十個足すと、
「位が上がる」、「桁が増える」、
「一桁が二けたになる」という事・意味であった。


1から9までの数字と10の違いは、
桁数の違いであり、その数字・記号の質の相違である…
そんな当然の・当たり前の事を文字化・表現し得ていなかった。
そんな事にも気付けた。

十進法では、1から9までの数字と0を組み合わせて、
全てのモノ・コトの数量表現を可能にしている。

これが二進法なら、1と0であり、
五進法なら、1から4と0である。

十進法が、
人類にとって有効な理由・生まれた理由は~
人類の指が10本だった、からだろう…


それは、それとして…
数字「1」とは、
事実ではなく、論理的である。

その理由は、
「1」 という数字は事実・現実であっても、
「1」=ひとつというモノ・事実・現実はないから、である。

あるのは、「1」ではなく、
1個のリンゴ、1個の果物、1個の食物、1個の果物…であるから、

では、「2」は?  それも「1」と同様である。
1個がリンゴなら、2個のリンゴ、
1個が果物なら、2個の果物…  であろう。


1は、ひとつの何かを1・「ひとつ」の数字で表現しているが…
2は、少々違う、2は1と1を合わせたふたつを2という「ひとつの数字」で表現している。
ひとつの数字での表現するとは、「ひと纏まり」・「ひと括り」という事なのだろう。


これは~
人類の脳細胞の集合体がひとつの頭脳であるから、
多種多様な世界・現実を認識・記憶…するには、
多くを全体を「ひとつ」として、認識する必要があったから、
なのだろう。


それに対して「10」は、ふたつの数字で十個を記して、
そのふたつの数字で、ひとつの数字としている。


だから「1」ひとつの表記と、
「10」と書かれた中の「1」とでは、
同じ「1」でも意味・中身が異なっている。



ドラえもんの「もしもボックス」があり、
「もしも世界が二進法だったら」~

二つが「10」であり、
モノを数える時は、
1、2、3、4、5、6…ではなく、
1、10、11、100、101、110…となり、

「1をふたつ足すと何故に10となるの?」という問いは生まれず、
ここは、同じく
「1を10個足すと何故「10」になるの?」


五進法の世界なら~
1、2、3、4、10、11、12、13…となり得るのだろう。
同様に
「1を10個足すと何故に「10」になるの?」であろうか…


私達は、二進法・五進法も十進法から捉え返したいるので、
1を10個たしたら、十進法だから「10」となる、は正解でも、

二進法だけで考えるなら、1を「10」個足したら、同じく「10」になり、
五進法だけなら、1を「10」足したら、同じく「10」になる。



そもそも、
「…進法」とは、その数だけ足したら、
「位が進む法」であり、
そのようなルール・規則でつくられた
数の体系だから…である。


だから、初めの問いである以下の~

『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』の
完璧な正解は~
人類が、そのように「十進法」の体系を創り上げたからである。

この場合の「十個」とは、
図で書けば

◎◎◎◎◎◎
◎◎◎◎◎◎

であり、
既に、ここは十進法表記である事は致しかたないが…























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今と過去の現実の相違

2020-02-29 10:52:18 | 想いのままに…
今の現実=過去の現実、ではなく、
今の自分=過去の自分、ではなく、

今の現実∽過去の現実、
今の自分∽過去の自分、


構造は一緒、実体も一緒、
でも、その現象・変化に違い相違が~





ウンチ・オシッコたれ無さん~

以下は、
お宅コメントへの私コメントである。




>自由びとさんが誤解をしているのは私にとって自由びとさんが「まったく見ず知らずの単なる個人の自由びと」だと考えているところです。

↑~
お宅は、自由びとを知っているつもりでも…
私は、お宅の事を全く知りません。
私にとってのお宅は、見知らぬ御仁。

それなに…~
これって「ストカーの心理」ですね。
お宅が考える事が、現実ではありません。

もっとも…お宅が「ソクラテス」なら、
認識・観念的には、見知らぬ御仁とは言い難いですが…

それでも…
ネット界で知り得ている者と現実社会での知人とは、別物です。




>そうではなく自由びとさんは私にとっては玄和会という団体の自由びとであり南郷学派側の自由びとだということです。玄和会の自由びとだということは徹底的に他流派・他団体を批判非難している「あの玄和会であり、あの南郷学派」側の自由びとだということです。

↑~
過去の現実が必ずしも、今の現実ではありません。
それって、トラウマ的な心的障碍者ですね。





>そうした「玄和会側の自分」をやあやあ我こそは!と名乗った上で「まったく見知らぬ同士の初対面の対話」を想像するのも無理があるでしょうね。

↑~
いつの時代の話ですか?

これって…お宅の妄想です。
というか…
お宅の心的世界=外界・現実界にしてしまっている、ようですね。

そもそも…ここで「全くの阿保…」と喧嘩・口論を吹っかけてきたのはお宅ですよ。

私は、ただ平和に私の「問い」を書いてるだけで、
他流派の批判など、していませし…



>「他流派他団体の武道家を笑ってしまってバカだと思っている」と書籍で公言している「あの人」の身内の自由びとさんなのですから、私の発する言動への価値観を小学生の倫理性と等価だと考えるところに勘違いがあるのです。

↑~
これ妄想です。
過去に玄和会会員だった事を「身内」と書くなら、
地球人は、全員が身内ですね。
すると、お宅と私も、お宅と南郷氏も「身内」となりますね。

お宅の「身内」の意味が広義すぎます。



>自由びとさんはご自分が教員時代にまだ授業中にも関わらず児童をほったらかしにして学校を去ったエピソードを綴っていましたけど、そんな行為に及んだ人間でも直に会ったことがない相手なら阿呆と呼んではいけないという倫理性ですか?


↑~

ほ~ほ…

ならば、赤んぼ時代にオムツにウンチ・オシッコを
垂れ流していただろうお宅だから~
今のお宅を
「ウンチ垂れ、オシッコたれ」と呼び続けても、間違いないという事ですね。


では~続きは

ウンチ垂れのオシッコたれのお宅「無」へ


>私は私の考えがありますから、既に述べたように「1を十個たしたら10」になるということは将来は社会に出ていく児童たちは何としてでも理解し身に付けなければならない基礎知識であり、それはn進数における他の2進数や5進数、16進数と等価ではまったくなく、他のように考えていいものだとも考えていないわけです。


↑~
だから、どうした。
私は、
二進法・五進法と十進法が等価とは、
思っていません・書いてもいません。

十進法が、優れた数の体系である事は、私にとって当然で当たり前です。

等価でないモノでも、
その価値ではなく、その構造の比較・検討は、有効です。
それは、その比較から、十進法の優れた構造の再認識が可能です。




>なぜなら社会における10進数の位置づけが他の2進数や16進数と等価でないからですし、それは「生きていく」「収入を得ていく」ということに直結していくわけですから、「10進数」だとか「自然数の計算」ということを「単なる算数」と考える系統性の無い(人によってはそれを単細胞と言ったりもしますが)理解と「義務教育の学科」と理解する、つまりは国家的に税金を投じて果たされる事柄だと理解しているものとの違いなわけです。
ですから、自然数の計算というのは義務教育においては「こうでなければならない」という定まったものがあり、教育指導に関わる者としては定められた正しい計算ができるように導くまでであり、今まで考えられてこなかった新しい思考を創造することではないと考えるのですよ。
もっとも、生まれながらというか幼少期の育ちによってというか偶然に天才的な創造性を発揮する子どもたちもいるようで、海外ではそうした子どもを選別して英才教育を施すシステムもあるようですけれど、それはそれで「公的な教育」としてシステムが公的に認可されていなければならないでしょうね。




ウンチ・オシッコたれのお宅・無さんへ

これって…十進法の世界にどっドップリ浸かっている事実的・現象的発言ですね。
十進法は、数の進化・発展の結果ですから、優れた面が多くのあるのは当然です。

それでも、パソコン・電子機器…は二進法で、
時は、六十進法…など、色々と便利に使われていますよ。

十進法から、世界を観ていますね。
本来は、世界の中に数を見る・個々の体系を見るという視点も必要ですね。




>ちなみに「教員免許を所持した正規教員としての仕事」ではなく「補助員」としての仕事をすることに不満を覚えるというのも還暦すぎた大人としては未成熟だと言わざるを得ませんね。
非公開ですから門外漢の私に詳しいことは分かりませんが、自由びとさんの所属している玄和さんでは『ガラスの仮面』を使った「他者を演じる」指導がされているとか。
ガラスの仮面の北島マヤが演じる役を選り好みするのも変な話で正規教員を演じるときは正規教員としての自由びとに成りきればいいし、補助員を演じるときは補助員としての自由びとに成りきればいいだけで、そこに自由びと個人の嗜好・選り好みなど介入させたら役者失格なだけでしょう。
そんな理由で小学生の教育指導という税金が投入された国家的仕事において卒後の子どもの生活力というものを考えもしていない公務員の思考を税金を支払っている国民市民という次元から「阿呆だ」と考えることについて「職種や立場の違いを超越した裸の人と人」という次元から不服を述べてる自由びとさんの思考には了承しがたい旨を説きたいと考えますよ。
ま、もっとも自由びとさんが実際には小学生の補助員などではなく、玄和だか南郷学派だかの上の立場の人間でもっと下の立場の指導員の補助をしてるといった奥歯にはさまった言い方ならば、なんだか辻褄合わない変な記述もそれなりには合点がいきますがね。
最近、自由びとの名前で2ちゃんねるにコメントしたのは自由びとさんご本人?


↑~


ウンチ・オシッコたれのお宅・無さん


ウンチにオシッコの垂れ流しだけではモノ足りず、
妄想・幻想・夢想に無想の垂れ流しですよ。


「不満」というか、「物足りなさ」と言うか…

補助員をしていると、
『今の自分が教師だったら、あの時このようにすればよかった~』とか、
『過去の自分は、ああしたが、いまなら、こうできる~』とか、
『この先生は、こうして失敗た゜から、ああすれば成功かも?』とか…

その時々に生まれる、よりよくできる・成功法…等を、
補助員の立場では、地頭に対して実践できない…

まあ~そんな「物足りなさ」というか「後悔」というか…
そんな複雑に入り混じった感情・言葉・表現ですね。







それでも、ここ最近は、補助員としての実践が可能になりました。
その理由は、
以前の私は「教師なら…」と考えていたのですが…
最近は、「補助員の自分なら」と思い・考える事が可能になった…のでしょうか。

それは、私が、
やっと「補助員の立場が当然・当たり前」と思える・自覚できる、
ようになった、のでしょう。


お分かりかな?
ウンチ・オシッコたれ無さん~

垂れ流すのは、ウンチ・オシッコ・妄想・幻想・夢想だけにして、
私の真意のコメントも一緒に垂れ流さにいで下さいね!



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新たな問い「10とは?」

2020-02-24 21:44:10 | 数学


初めの問いは、「どうして・何故に1を十個足したら10なの?」だった。
それに対しての初めの答えが「十進法だから」であった。

その後、二進法でも、五進法でも、1を10個足したら10になる事に気付いた。
それは、同じ10であっても、
二進法の10は、●●であり、
五進法の10は、●●●●●である事に気付いたからである。

そこから、気付いた事は、
同じ10という数字で書かれていても、
その数の体系によって、その10の中身は異なっている、であった。

ならば、中身の異なっている「10とは?」という疑問が浮上してきた。

10と、他の1から9までの数字の違いは?
それは、10は、1と0という二つの数字の合成という事である。

ならば、1とは何か?、2とは何か?3とは?4とは?


ここで、アラビア数字は、
●は1、●●は2、●●●は3、●●●●は4、●●●●●は5…と表現している。

漢数字なら、
●は一、●●は二、●●●は三、●●●●は四、●●●●●は五…であり、

ローマ数字では、
●はⅠ、●●はⅡ、●●●はⅢ、●●●●はⅣ、●●●●●はⅤ…

十個なら
アラビア数字では、10、
漢数字ならば、十
ローマ数字では、Ⅹもである。


漢数字ては横棒が、ローマ数字では縦棒が
●、●●、●●●に対して、Ⅰと一、Ⅱと二、Ⅲと三といった
具合にに対応させて表現している。


それに対して、アラビア数字では、

1とは、1と●を全体として、一文字で表現、
2とは、●●を全体として、一文字で表現…
これは、一から九までを全て一文字対応である。

10とは、その数の体系における基準になる最小のまとまり…
十進法なら十個、二進法なら二個、五進法なら五個…

それは、それまでの一桁の数字とは異質の数字…とでもて言った感じかな…
物質でいうなら原子・電子で分子となり、分子が集まって物質・物体…となる…


個々の事実から哲学へ
哲学の発展から科学へ…
科学から個別科学へ…
個別科学から一般科学へ…


部分が集まって全体的一つへ、
全体的一つが分かれて部分へ、
また部分が集まって、より大きな全体へ、


その時々の過程的な量質転化化の繰り返しで、
少しずつ全体的な完成・完璧へと近づいていくのだろう。

幼児は幼児として、完成・量質転化化し、
小学生は小学生として、…
中学生は中学生として、…
高校生は高校生として、…
大学生は大学生として、…

成人は成人として、…
中年は中年として、…
老人は老人として、…


もっとも…
その完成・量質転化化の中身となると~
それは十人十色なのが人間だが…



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問いと答えから~……

2020-02-24 11:13:01 | 認識論

問い、「1-1は?」
答え、「H!」}

問い、「1-1=?」
答え、「日!」

問い、「1+1=?」
答え、「田!」

問い、「1-1は?」
答え、「零!」

問い、「1-1=?」
答え、「0!」

問い、「1+1は?」
答え、「2!」

問い、「1+1=?」
答え、「二!」



問題、「Ⅰと-とⅠを横に続けて繋いで書いたら?
解答、「Ⅰ-ⅠでH です!」


問題、「Ⅰ-Ⅰ=を横と上下の組み合わせたら?」
解答、「Hの上下に=で田!」


問題、「Ⅰ-Ⅰを計算すると?」
解答、「0また零!」

問題、「Ⅰから1を引くと幾つ?」
解答、「答えは零です!」


問題、「右の計算をせよ、『Ⅰ-Ⅰ= 』。」
解答、「Ⅰ-Ⅰ=0」


以上のように書かれた事実から、

何を読み取りますか?
何が読み取れますか?

書き手のどんな意図・思い・認識…
を読み取りましたか?
が読み取れましたか?

ヒマな人は、お付き合いを~
忙しい人も、お付き合いを~
興味ある人、お付き合いを~  してもらえたら有難いですね♪♪♪







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1を10個足すと、10と書くのは?

2020-02-22 15:29:54 | 数学
全く分かっていないのはお宅です。

私の問い掛けは、私の個性・認識での問いかけて゛あって、
決して、お宅の認識・個性からの問いかけではありません。

なのに…
お宅は、私の問いかけを、お宅の個性で理解しました。
そして、その結論が、「全くとことん阿呆ですね。」なのです。

さて~
ここで問題です。
「全くの阿保」は私・お宅のどちらでしょう?


答えは、たぶん「両方です」と…
考えたら間違いないでしょうね。







数字は人間が創出した「数の体系」からなっています。

時を数字で表現するなら、
一秒→2秒…59秒→1分
1分、2分…59分→1時間
1時間→2時間→23時間→1日…

それらは、人類が創出しモノであるのは、当然の前提なのです。

問いを書き変えるなら、

1を10個足すと、何故に1に0を付けた「10」と表現するのか?
2を10個足すと、何故に2に0を付けた「20」と表現するのか?


この理由は当然に人類が、そのように決めた、ですが…
それは、分かっていて…
では、その「数の体系は?」と問うたのです。

その初めの答えが、「十進法という数の体系だから」、だったのです。

十進法も二進法も五進法…当然に、人類の創出物であり、そう決めたモノです。
これは、当然事であり、そこから始めたものです。

これらの創出過程が、
手のひら一つで指五本…五進法
一人の人間に、指が十本…十進法
一人の人間に腕が二本…二進法



1から2.、2から3…の変化と、
9から10への変化には違いがあります。

それは、位が一桁上がった事であり、
それは、表現としては、2と0の組み合わせたモノですが…
その意味・表現は、2でも0でもありません。

こうなる理由を初めは十進法だから、と考えました。
その理由は、二進法・五進法では、
1を10個足しても10とは書かないからです。


「十進法」だから、
9から1増えると10と書くから、
と考えたのですが…

しかし、結果的に、二進法でも、五進法でも、
「10」個増えれば、「10」と書くことが分かり、
初めの解答である「十進法だから」は否定されました。


因みに、くどいようですが…

「人間がそう決めた」という、
以下の前提は当然なのです。

十進法から、十個で「10」と書き、
十進法の10は「十個」だから、
十個で繰り上がり。

二進法なら、二個で「10」と書き、
二進法の10は「二個」で、
二個で繰り上がり。

五進法なら、五個で「10」と書くき、
それは、五進法の10は「五個」だから、

ように決めたのです。


なので、初めの解答である。
「十進法だから、1を10個たしたら、10になる」は誤答と分かったまです。


それを初めから、「そう決めた」では、何も始まりません。
「そう決めた」とは、「どうような体系を創り、どのように決めた」と考えるから、
そこに始まりが、生じるのです。


以前の中学の数学の教科書には、
二進法・五進法が書かれていました。
現在はなくなっているようですが…

そうそう以前に、どこに書かれていましたが…
アマゾンかどこかの奥地で
「1、2、たくさん…」と数を数えている原住民が発見された…と、

これなどは、三進法となります。

二進法は、1が10個で、1010、
五進法は、1が十個で、20、
どちらも一の位は「0」でしたが…

三進法だと、

3+3+3+1ですから、
10+10+10+1で、
101となり、一の位は、0になりません。












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