新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

やっぱりお返しを~

2019-05-31 22:06:28 | 想いのままに…



またまた以下のコメントを頂いた。



・コメントを書いた人
フロイト

・コメント
忘れた頃に私のコメントについて記事を書いたわけですね。それもまた何とも意味があるようにも思えない文章で…。

私にたいして「素直に心を閉ざしている」自由びとさんに何を述べても暖簾に腕押しでしょうけれど、一つ気づいた私と自由びとさんとで対話の姿勢の違いを指摘しておきたいと思いますよ。
それは私が直接に自由びとさんに話しかけているのに対して自由びとさんは私に話しかけているのではなく他の誰かに私のことを解説しているような語り口調なんですね。だから私が「あなたは(You)」と言うのに対して自由びとさんは私のことを「彼は(He)」と言っている。
まあ、「素直に心を閉ざしている」わけですから、自由びとさんにとって、そんな南郷さんの著書での語り口そのままに述べることは自然なことなのかも知れませんけどね。
「自由びとの苦悩の原因を分かったつもりで」って、原因を分かってもらいたかったんですか、自由びとさんは?
南郷さんの本の読者なら「苦悩を取り除くのは簡単だ、悩むのをやめればよい」ではないんですか?
あるいは「アタマを働かせて問題解決を図ってきたのが学問でココロを鎮めることで問題解決を図ってきたのが宗教だから、ここではココロを鎮めるようにすれば良いのだな」なんてのが南郷本の読者なんでしょうかね?このブログが「悟りを求めて」「悟得を求めて」「ココロの安らぎを求めて」でもありますしね。

それで私なんぞでも気がつく「教育現場での弁証法」を教えてあげれば良いのかというと南郷本の読者からすると違っていて、それは「出来れば良い、分かれば良い」話ではなく解らないのに努力し続けることが脳の能力というか実力を養うことになるというイワユル「創出過程の話」というわけでしたでしょ?
だから予備校だとかいって効率の良い合理的な学習をしてしまうと実力がつかないから薦めないとかではありませんでしたか?だからといって出来ないのに何十年も同じことやってていいのかといったら違うというわけでタイムリミットというものがあってあることをやるのに何年以上時間がかかる生徒は絶望的だとか書いてませんでしたか?
まあ、貰ったらお返しを…なんて書いている自由びとさんが月研ぎさんのコメントにお返ししたようには思えなく、一方的に「美味しい、美味しい」と消費してるだけにしか見えませんでしたが、それでも「何を信用したんだい?」だとか「お前の師でもない私がどうしてコメント返さなくちゃいけないんだい?」などと八つ当たりされなかっただけでも月研ぎさんは幸せだったのかも?

30年以上直に学んで出来るようにならないなら、南郷さんに弁証法の実力をつけさせる指導力がないのか、指導力はあっても一握りの選ばれた人間だけにしか指導してないか、あるいは自由びとさんの素材が他の人に比べて著しく悪くて出来るようにならないか、でしょうから別に南郷さんの本を読んだ私が「知っている」のか「識っている」のかの区別なんてのはどうでもいいことのように思われますけどね。
自由びとさんの欲していることというのは別に収入に直結するものでもないのでしょうし、何だか「他人の面白いコメント読みたい」ぐらいの欲求だとしか感じませんね。
だから「思い切って諦めちゃったら楽になるよ」と言う私の助言を「お気持ちは有難いのですが、やはり私は私の道を行きます」なんて対応されたら足の骨の脱臼で空手は諦められた自由びとさんでも弁証法は(体を動かさないから楽だから?)諦められないのかと私もスンナリ引き下げるだけでしょう?
それが「あいつの認識力は…」なんて話に繋げていくところが常軌を逸しているというか新興宗教的というか…

人には誰しも見切って諦めるという時があるかと思うんですよ。プロ野球の選手目指して練習してきたが、やはり自分には無理だと違う道に行くとか、アリスの歌「チャンピオン」の「帰れるんだ、これで只の男に、帰れるんだ、これで、帰れるんだ~」みたいな、ね。
私としては善意のつもりなんですが、噂だと南郷さんの道場では「達人になるにはこれこれこういう練習しなければならない」なんて設計図みたいな形で教えられるから仕事や家庭の事情で十分な時間の取れなくなった大学空手部の卒業生は何だか不完全なものを中途半端にやってるような気がして続けられなくなるなんて話をききましたけど、自由びとさんも余り思い詰めずに呼吸は許可してますから気楽に生きたらどうですか?
専門分野で弁証法を駆使できる人間というのも確かに存在するのでしょうが「私(自由びと)じゃないな」と己を悟って。






他人のブログにイチイチとイチャモンつけ続けている。
このフロイトの人間性・精神構造がとても不思議です。

今回も例の如く長文コメント。
その内容は、どうでもいい事。

自由びと事・他人事に、
何故ここまでの長文を。

不思議以上の異常ですね。


ご苦労な長文なので一言二言コメント付けを~

>「苦悩を取り除くのは簡単だ、悩むのをやめればよい」
↑~
苦悩一般と個別苦悩の区別と連関…から

私のは、
書けない苦悩であるから、
書けば、その苦悩は消失。

だから、書けない訳を考えてを書いた。
それは、「悩むのをやめて」書いたという事。

フロイトは、
文字は読めて言葉の意味は理解できていても、
発言者にとっての現実的な意味・行動に結びつけられない。


「苦悩一般をやめる」には、「その苦悩の根源」の追及が必要です。
私の苦悩は、書けない事なので、書けば苦悩は消失です。


そうフロイトは、
「悩むのをやめる」を言葉して理解しているだけ、
それは、悩むのをやめる為には、悩むのをやめる。


フロイトは、「悩むのをやめる」為に、
現実的にどのような行動が必要か?
とは理解できない。





このフロイトなる御仁にとって、
このブログ内容はどうでもよい他人事の筈なのに…
このような揚げ足取り的な長文コメントを、
ここまで書き続けられるなんて…

きっと、
時間も金も有り余っている、
閑人なのだろうか!?


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貰ったらお返しを!

2019-05-30 11:21:17 | 想いのままに…



以下のコメントを貰った。
なのでお返しをする事にした。


・コメントが届いた記事
思いは実現する…

・コメントを書いた人
フロイト

・コメント
自由びとさんの「書きたいと思うのに書けない」理由は一言で言ったら「能力がないから」だと思いますね。
それで、どうして能力がないのかの理由を自由びとさんが敬愛する南郷さんの著述の中に探すなら幾らでも出てくるように思います。
南郷さんの著述の中には「何歳までにこれをやっておかなければ出来ない」といった記述が沢山ありますからね、還暦超えてる自由びとさんは若かりし必要な時期にやるべきことをやってなかったから出来なくて当然だと南郷本の愛読者としてスンナリ納得できるでしょう?
でも、そうした自由びとさんの書きたいことは自由びとさん以外の南郷さんのお弟子さん・論研の若人が?社会的分業としてやってくれるのでしょうから、書きたいことを書けない個人的な自由びとさんは他人に書いてもらうという社会的な自由びとさんに満足して済ませるわけでしょうからね。
それに私、自由びとさんは盛んに南郷愛を自己主張してるわりには南郷さんが書いているようにはやってないように感じてますよね。
何と言うか、面従腹背というか…。
でも、まあ、きっと今の南郷さんの指導が今の自由びとさん的なのだろうなと思います。今の南郷さんの関心事は『空手道綱要』のようなものでなくて『哲学・論理学原論新世紀編』のような形而上学への志向性なのでしょうからね。



このコメントは、文字の羅列である。
それでも、言葉・意味になっているから厄介である。

「南郷継正」の記述を知らない者にとっては、どうでもよいとなるだろう…。
また、知っている者にとっては、賛否両論となろうか?!

それは、
識っている者なら、『フロイトは分かっていないね!』…
知っている者なら、『フロイトの言う通りだ!』…


そもそも…
自由びとの書けない苦悩を書いた記事を理解したつもりで
その自由びとの苦悩の原因を分かったつもりで、
コメントを寄越せるフロイトは、如何なモノだろうか?

このフロイトがソクラテスなら、
自由びとの事も、
南郷継正の事も、
知り抜いているだろう…

もっとも…それら全ては文字から知り得たモノであり、
現実の自由びと・南郷継正を知り得てはいないだろう。
もっとも~南郷継正には、会った事があるようだが…

そんな現実のその人を知らず、
その当人が書いたモノを鵜呑みして、
どうして、ここまで書き切れるのだろう?

このフロイトの精神構造に非常なる興味関心が沸き起こっている。


しかし、そう~しかし…である。
私も現実のフロイトを知らず、ソクラテスを知らない!

なのに、フロイト・ソクラテスの事を書けるのだろうか?
その答えは、書ける場合と書けない場合がある。

このコメントは、
自由びとの記事に対してのモノであり、
それは、自由びとの書けない苦悩に対してのモノである。

自由びとの苦悩は、自由びとの個人的なモノであり、個性的なモノである。
自由びとが過去の己、現在の己を観つめ、そこから発生した苦悩である。

「自分である自由びと」の記事へ
「他人の自分勝手な思い込み」のコメントに対してなら、
苦悩の当人である自由びとは、コメントした他人に対して書ける。


ソ・ソ・ソクラテスか?
プラトンか?
みんな悩んで大きくなった!


悩む事は、成長への契機・原動力である。
人が悩める時、そこには解決がある。


フロイトは、何も分かっていない。
自由びとは、
書けない苦悩を書く事で、
書けない苦悩を解決している。


なので…
このフロイトコメントは、
自由びとの記事に対しては、
ピント外れである。


フロイトは、
自由びと記事の記述・文字は読めても、
自由びと記事の構造が読み取れない、

ナンでもカンでも、
表面的な理解で納得して分かったつもりになって、
自分勝手思い込みレベルの批判が自信タップリに、
思うがままに自由に書けてしまう精神構造~

私からすれば、羨ましい、主観的な幸せ者であろう。








コメント (2)
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続・偽りなき…

2019-05-12 12:41:44 | 弁証法



例えば、誰からプレゼントを頂いた時、

頂いた物が気に入った時、「嬉しい」と言った。
これは、偽りなき自分の気持ち?

頂いた物が気に入らなかったのに「嬉しい」と言った。
これは、偽りの自分なのだろうか?


「頂いた物は嬉しく」ても
自分が、その相手から物をもらえない立場なら、
「物を頂く事は嬉しくない」となり得る。

また、その頂き物は「気に入らなく」ても、
その相手の気持ちが「嬉しい」場合もある。


相手の気持ちが迷惑で、
その贈り物も気に入らない、のに~
「嬉しい」と言った場合。

自分の気持ちを相手に偽って表現した事になるが…
それでも、自分で偽らない自分を見つめているのも事実。

迷惑なのに「嬉しい」と自分を誤魔化したり、
気に入らない物なのに、「嬉しい」と自分を誤魔化したり、
そんな時は、自分で自分を偽って捉えている事になり得る。


迷惑な事は、「嬉しい」コトではない。
気に入らない物は、「嬉しい」モノではない。


それでも、
気に入って・好きな人からの迷惑は「嬉しい」。
気に入って・好きな人のその気持ちは「嬉しい」。


贈り物は、「贈る気持ち」と「贈くられた物」の二重性がある。
それら二つをゴチャゴチャにする事無く、
分けて捉える事は、
一つの事を二つにして考える弁証法であろう。


コテハンをコロコロと変えて、
一つ一つが、さも別人の如く、
コメントを寄越すなら、
それは、偽りの者とも言えるだろう…

もっもと…
ネット界のコテハンを現実界の氏名と
同様に認識するなら…であるが




それでも、
その本質・人格が、偽れないなら、
それは、偽りのない自分なのだろう。




名前・コテハンを偽る事が可能でも、
その本質・人格を偽る事は至難だろう。

本質・人格が偽れるなら、それは二重人格だろうが…
それでも、その二重人格という本質は偽れない事になる。





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素直に偽りなき

2019-05-12 10:50:08 | 想いのままに…




以下のコメントへのコメントを記事にした。



・コメントを書いた人
フロイト

・コメント
私の質問はスンナリ了承されるのではないでしょうか?自由びとさんが素直なご自分を記述されているのなら。

だって弁証法について書けないし書かないのに弁証法について書きたいというのは自然じゃありませんからね。
これが未成年でこれから自分がどこに向かっていくのかも皆目わからない子供でしたら分からなくもありませんが。

自由びとさんはご結婚されていて子供もいらっしゃるんでしょう?それなのに最大の関心事は自分でも良くわからないことだなんて変じゃありませんか?

客観的にみたならば、自由びとさんが弁証法について書けないし書かないのは弁証法というものに大して興味ももっていなければ必要ともしていないと結論づけて構わないように思いますし。

もしも自由びとさんが偽りなき自分をブログに綴っているのなら、このブログに描き出された人格が自由びとさんそのものでしょう。


↑~
>私の質問はスンナリ了承されるのではないでしょうか?自由びとさんが素直なご自分を記述されているのなら。

↑~
「スンナリ了承」したからといって、「素直なご自分を記述」するとは限らない。


それは、質問者の人格に素直に心を開けるか否かがカギである。

児童と教師の関係も同様である。
教師がどんにに正しい指導をしていても、
嫌いな(心を開けない)教師の言葉は聴けないのが普通である。

でも、家庭での躾が確りできている児童なら、
自分の感情を否定して、「正しい指導」を受け入れられるモノである。


ここでの「フロイト」は、
私の教師でないし…
私への指導でもないし…
だから、
コメント・質問に素直に答える必然性は皆無である。




ブログの記事なら、
自分で自分の心を自分に対して素直に開いて書ける。
でも…「フロイト氏」コメントには、
本能的に素直に心を閉じてしまっているようだ。






>自由びとさんはご結婚されていて子供もいらっしゃるんでしょう?それなのに最大の関心事は自分でも良くわからないことだなんて変じゃありませんか?

↑~
「最大の関心事」の決定は、時に至難である。
それは、色々な事があり、その一つ一つに忙しく関わっている場合。
諸々の事から、「最大の」を限定する為には、
忙しい現実を一旦離れる必要がある、ようだ…


>客観的にみたならば、自由びとさんが弁証法について書けないし書かないのは弁証法というものに大して興味ももっていなければ必要ともしていないと結論づけて構わないように思いますし。

↑~
どうぞ!どうぞ!ご自由に!

これもフロイトさんの人格がなせる技なのだろう。






>もしも自由びとさんが偽りなき自分をブログに綴っているのなら、
>このブログに描き出された人格が自由びとさんそのものでしょう。


このコメントには、弁証法性が感じられない。

そもそも~偽るとは?自分とは?
「偽りなき自分」とは?

人間として、
社会的自分として生きる為に、
個人的自分を偽り生きる事は、
社会人として偽りなき自分である。






自分の迷いを素直書いた場合、
自分の意志を素直に書いた場合、
自分の感情を素直に書いた場合、

自分の実感する・した弁証法を書いた場合、
自分が、正しいと思う弁証法を書いた場合、
師範が正しいと思っている弁証法を書いた場合、
学問的に正しいと思われる弁証法を書いた場合、

全て弁証法に対する偽りない自分の記述である。
でも、その時々で、記述は異なってしまう。
それでも、それらは偽りなき自分である。











コメント (1)
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