新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

なんで?

2021-01-24 13:28:45 | 認識論
なんで?


なんで?
人は、同じモノを見ているのに、異なるモノを見てしまうの!

なんで?
人は、同じ言葉を発しているのに、その中身が違っているの?

なんで?
人は、同じ体験なのに、笑ったり、怒ったり、泣いたりするの?


我が家の柴犬マロンは、気まぐれである。
時に、私に首振り、尻尾振り振り…で走り寄って来るかと思うと、
時に、ウ~と唸りながら歯をむき出して私に近づいてくる。
時に、「マロン」と呼んでも、全く無視される。

それって、マロンの気まぐれなのか?
それとも、私の精神状態の相違なのか?


飼い猫のマニャは、陽だまりで寝転んでいる時、
私が首や頭を撫でると目を細めて気持ち良さそうに
「ニャー」と鳴いている。

マニャが歩いている時、寄って行って触ろうとすると逃げる。
追いかけて捕まえようとすると、その手を引搔こうとする。
マニャは呼ばれても、殆ど走り寄って来る事はない。

それでも、飯時は、向こうから「ニャー」と鳴きつつ、
いつもの餌皿置き場に向かう。



人間とペット・動物は、同じようでいて、違っている。

何時も同じような事に対して、
同じように反応するとは限らない。

異なった事に異なった反応をする時もあれば、
異なった事に同じような反応をする時もある。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「強さ」について~

2021-01-11 12:51:26 | 想いのままに…
「強さ」について~

バスケットボールが強い者と
バレーボールが強い者が闘ったら、
どちらが勝つか?

サッカーが強い者と野球が強い者が闘ったら?

協会空手の日本一と極真会の日本一が闘ったら?

スポーツ空手と武道空手の強者が闘ったら?

バスケットボールが上手な者とバスケットボールが強い者が闘ったら?


「闘う」とは?
「勝つ」とは?
「勝者」とは?


バスケットボールの闘いは試合であり、
それはバスケットボールの試合ルールに則って勝者が決まる。
そのルールは初めから明記されていて、
全ての選手がその共通のルールに従って争っているモノである。


スポーツの試合・闘いにはルールがある。

現代での武道と思われている競技の試合にも全てルールがあり、
勝ち負けはルールで決められている。

協会空手と極真空手が闘ったら、どうなるのか?
同じ空手なのにルールが異なっている闘いでは?

協会選手は、協会的な寸止めルールで勝者と納得し、
極真会選手は、その協会選手の勝ちを納得しないだろうし…
協会選手も極真会的な勝ち方を納得しないだろう…


ならば、武道的な共通ルールでの闘いなら双方が納得可能なのでは?
その武道の闘いとは、武道の勝負であり、武道としての空手の勝負となるが…

では…
果たして極真会勝者と協会勝者の「武道」の概念は同一なのだろうか?
そもそも現代に誰もが納得・了解可能な「武道概念」があるだろうか?

現代社会には、過去に存在した武道的に技の型は確かに存在している。
でも、過去の真剣勝負・殺し合いがあった時代の武道的な勝負・認識はないだろうか?


現代社会の誰が、武道的な勝負をやろうとするだろうか?
武道の勝負では、負けたら即死であろう。
負けを認めるのは、確実に己の死を実感した時だけであろう。
そんな勝負は現代では不可能であろう。



玄和会空手が武道空手を目指しているなら、
普通の試合での負けは、武道的な負けではない事になる。

普通の試合では負ける事があっても、、
武道的な勝負では勝てる実力があるかもしれない…


バケットボールが上手な者が、試合で必ず勝利するとは限らない。
バスケットボールが下手でも、試合で勝利する者もいる。

バスケットボールの技術が劣っている者が、
巧みな者に勝利する場合もあり得る。

そこには、勝負に対する認識の相違があるのだろう。
言うなれば、勝負勘があるのだろう。
それは、勝利獲得への一瞬の判断力の素晴らしさ。的確さであろうか…


ネットで、
玄和会が試合で負けている動画を視て、
玄和会は強くない・弱い…と書かれているモノを目にするが…


玄和会が目指すモノは、武道であり、
武道空手である。

試合で負け勝てなくても、現実の生活で負けなければ、
それは、武道空手としての「勝利」であろう。


現実で負けないとは?

身体的に負けない。
心理的に負けない。
思考的に負けない。

病気に負けない。
心が挫けない。
人に騙されない。
他人からの身体的な攻撃を回避する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強くなる上達法

2021-01-07 12:26:07 | 悟りシリーズ
強くなる上達法


https://stat.ameba.jp/user_images/20161211/18/huruhatatamasaburou/b4/73/j/o0480051713818966534.jpg?caw=800

これを見て以下のような事を思った。

人が相手に強い言葉をぶつけるのは、
弱い心の表現だったり、
己の強い意志を持ち続ける為だったり、
相手の勢いに負けない為だったり…
色々なケースがあろう。


ならば自信のある者は、
大声や強い口調、態度で相手を威嚇・威圧する事はないだろうか?

もしも強い者が、大声・強い口調や態度で相手を威嚇する時があるなら、
それは、敢えて、そのような態度で無謀な相手の勢いを抑える為、
そのままでは、相手から手を出しかねない状況なのだろう…


勢い余っている若者は、恐いもの知らず、
相手の力量も読み取ろうとしない無謀ものであろう。


そんな者達なら、敢えて大声・勢いで圧倒できる場合もありえる、
しかし、かえって、それが相手に手を出させきっかけになってしまう場合も…



弱い者の大声・強い口調、威嚇するような態度、
強い者の大声・強い口調、威嚇するような態度、
同じ相手へのモノであっても、結果は同じとは限らない。



認識の強さと言動の強さは、
必ずしも一致しないモノである。

認識が機能なら、言動は?
言=言語は?
動=動作・行動は?


認識・機能の強さ=実体・脳の強さ、なのだろう。




強さには、動物的な強さと人間的な強さ、
人間的な強さには、頭脳的な強さと身体的な強さ、
身体的な強さには、道具を使っての強さ、五体だけでの強さ…


弱い者でも、強くなれるのが人間である。
ならば、弱い者が強くなる為の上達法は如何に?


人間は認識的実在である。
それでも実体があるから認識できるのが人間。

真に強い人間は、認識が強い。
真に弱い人間は、認識が弱い。


弱い人間が強くなるには、認識を強くする必要がある。
でも、認識は実体の機能だから直接認識を強くするのは不可能。
しかし、弱い己の認識では、己の実体・身体を強くするのは無理。

ならば、どうするか?
だから、「形」なのだ!




弱い者は、強い者の認識の直接的な表現を形として、
その行動・行為・言動・態度を真似し創像する事から始める。
それが、威嚇・大声・強い言葉…
無理に、相手を威嚇・大声・強い言葉…等で、
その強い心の形を学び、


その強い心・認識の形で、
自己の求める強さに合致した、
武術、格闘技、スポーツ…等の実体的な動作習得を目指す。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする