新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・お宅コメントへの私コメント

2021-12-31 17:39:13 | 滅ぼし合う対立物の統一

以下が前回の「お宅コメント」の続きである~


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「お宅コメントへの私コメント」





>コメントを書いた人
>ドゥルガー

>コメント
>お宅、否、お前の認識ならぬ観念が南郷継正の武道家として、そして指導者としての全てなんだよ。


私コメント~
その通り?!なのでしょうかね…♪♪♪
「武道家としての指導者」だから、武道としての空手、武道居合、武道合気…
を指導者としての責任において、それらの指導を全うしている、のでしょう。

学者としての南郷継正は言うなれば「おまけ」であり、
武道修業・修行を弁証法的・認識論的・論理学的…に実践した結果の「おまけ」ですかね…
と言うか、弁証法・哲学・学問を求めた結果である「武道家」が「おまけ」なのかも…




>お前の嘘八百が、全国の武道家たちの南郷の著述に対する不満であり怒りの正当性を語っているのだから。

私コメント~
お宅の私への「お前」とは下品で乱暴な呼び方ですね!
私のお宅への「お宅」の呼び方の方が上品ですよ!




>「武道の定義」=だから何?



私コメント~

え?「だから何?」とは…
お宅って~それでも人類?人間?なの!

お宅には、人類・人間が「道具」を創る時の、
創出物の目的意識・「定義」の必要性認識が全くない…とは驚きですね!

誰が…「ハサミ」を作るのに、
「挟んでモノを切る道具」の定義を無視して、
「穴掘りの道具」(定義)の道具を作りますか?


>「生命を懸けた」=だから何なの?

私コメント~
またまた~「だから何なの?」とは、泣けてくるね…涙・涙・涙

それでも…お答しましょう!
いいですか~よ~く・目を大きく見開いて確り誤読・誤解のないようお読みなさい!
それはね~
「自分にとって自分の人生で一番大切・大事な生命」さえも失える覚悟・精神の創出・養成の為でしょうが…


>「南郷継正にも言いたいことがある」=だから何だって言うんだい?人間だったら誰にだって言いたいことぐらいあるだろう。

「だから教えてあげよう!」
「生命の賭ける・失える覚悟」を、普通には「必死」と言うでしょうが…
そして、「人が物事を必死に頑張りやり通す」事ができた時、
そこに大いなる結果・成果が得られる事は、誰もにとって「一般的常識」ですよね!
だから…言葉としての「必死」ではなく、論理として精神としての「必死」修得の為ですよ!

こんな普通の常識も失念してしまう程に
お宅は「南郷氏に恨みがある」のですね(…憐憫の情…)

問題は、「言いたい事を言う」ではなく…
その「言いたい事の中身」と「その正しい理解」なのでしょうね…



>そして戦後の日本で空手の道場として成立している以上は、南郷が批判した全日本剣道連盟や全日本柔道連盟、全日本空手道連盟のように「生命のやり取りなどない、安全性に気を配った道場経営をしている」のに変わりはない。


私コメント~

空手道場で「スポーツ空手」や「健康空手」を教えても問題はない…のでしょうね。
「スポーツ」空手なのに、「武道」としての空手を教えるなら…少々問題はありますが…
それでも…その空手組織・道場主が
「現代武道=現代スポーツ」とでも、定義して教えれば、特に問題ないのでは…

個人的・組織的に「穴を掘る道具」としての「ハサミ」を作って、
「穴掘りハサミ」として売る事に問題がないのと同じようにね…

そもそも…
その組織に所属する人達が問題を感じなければいいんじゃない?!



>南郷の言う「生命がけ」というのは「日本刀は美術品として鑑賞するものでなく人を斬るもの」ということであり、「空手の突きや蹴りは寸止めで筋肉を鍛えて健康増進するもの」ではなく人体を加撃して相手を殺すもの、という意味だからだ。自分が相手を殺そうとする以上、相手も自分を殺そうとしてくる。相手を殺せなかったら自分が殺される。だから「生命がけ」なわけだ。



私コメント~
これも誤解・誤読ですね!
南郷氏の武道の定義は、
「武技を用いて生命を賭けた命懸け勝負の道」であり、
決して「生命を賭けた殺し合い」ではありません。
あくまで、最悪・最難関の「勝負の道」が「敗北=死」となるのでしょう。
弁証法的に書くなら、「最悪の事態を想定して、最善の結果を求めていく」モノでしょうが…

お宅って…南郷氏の著書を読んでいるのに…
今に至っても全くもって「弁証法的思考」ができない…のですね!


>南郷は全日本剣道連盟や全日本柔道連盟、全日本空手道連盟を向こうに回して「お前ら皆んな間違ってる。俺が正しいんだ」と威張りたかったんだ。

私コメント…

「威張のたかった」とは…それは「お宅の意識・認識」でしょうね…
だから、私を「お前!」と偉そうで乱暴な呼び方でしょうが…
これって「人は自己の認識・能力の範囲内で他人を認識する」ですね…




>お前の持ってる自信なんかは「生命がけの勝負」なんぞしなくても普通の社会人として成長していく過程で養われるもので、普通に人と会って談笑したり自分の意見を言ったりする自信を持つのに空手の自由組手なんぞ経験する必要はない。


私コメント…

凄いビックリ!
お宅には、「私の自信の中身」が分かるんだ…
しかし、それは誤解ですね。

それに…私は「観念的な生命賭け」を他人との勝負で実践した事はありません。
それでも、何度か下手すれば、死ぬ可能性ある失敗や事故に出会っています。
その時に感じた事は、「現実の『死』を意識できなかった」から、
自然体に体が危険を回避していた…ようだという事です。

私の過去の経験から言って、
少林寺拳法の「乱取り」も、寸止め空手の「自由組手」も、
「生命賭け」を意識するには至難です。



>お前が仮に、玄和会の実戦部隊を代表する田島翔鷹だとしたならば、その玄和会代表が私の前で顔に恐怖の表情を浮かべた事実だけは指摘しておこう。

私コメント~
お宅の「前で顔に恐怖の表情…」それって!超納得できます。

「文は人なり」ですから…
お宅のような妄想狂・変人・狂人を現実界で目の当たりにしたら…
普通の正常な人々なら
『ヤバい!(恐怖!)』、
『こんな狂人と関わって勝負したら、自分の人生も狂ってしまう!』
『ここは、逃げるが勝だ!』と思うでしようね…

だって…
狂人が「勝利して人を殺しても無罪でしょうが…」
正常人なら「狂人を殺して『殺人者』となり、まともな人生からの逸脱」です。

そもそも…「生命賭けの勝負」とは、その当人が決定した勝負ですよ。
どこの誰が…お宅のような狂人相手に「生命賭けの勝負」をしますか…

お宅には、
「生命賭けの勝負の道」での、
相手の強さに「恐怖する表情」と、
自分が勝利した結果に対する「デメリットに対する恐怖する表情」と、
または、真剣に闘って「勝利して相手を殺してしまった時の恐怖する表情」と、
相違を分かってしませんね。

そもそも…
「生命の賭けた勝負の道」の意味が分かっていますか?
「道」ですよ!
過去の武道勝負・決闘は「敗北=死」であても、それは、勝負の道の過程的事実であり、
現代の勝負では、生命を賭けて負けても「現実の死」は皆無でしょうね…
そもそも…現代社会で~
真面目に「必死」に物事に取り組んで、失敗して現実に死んだ人がいますか?
現代の「必死」がこのレベルなら…現実の死は、非現実的です。

だから武道では、
観念的な「武道の定義」とは、観念的な「死」を修行するモノで、
現実的な「肉体の死」を通して「修業」するモノではありません。


>人間、誰しも恐怖心はあるものだから別にそれがどうしたわけでもないわけだが、玄和空手を真面目に稽古して飛翔隊の副長だとか肩書きはついたとて、見知らぬ相手に間合いを詰められたなら恐怖のために顔を引き攣らせる。

私コメント…
ヤッパリ何も分かっていない!
「勝負の道」とは、双方の同意の上の「勝負」であり、
勝負する必要のない相手に恐怖したから…何だっていうの?

「見知らぬ相手に間合いを詰められて恐怖」する人間のレベルを知らない!ね…
昔に読んだ漫画「男一匹ガキ大将」の中で以下のようなくだりがありましたよ。

ガキ大将(主人公)が、一人のただの老人と対面して恐怖した時、
その老人曰く、「お前は、鏡に映った、機関銃を構えている自分の姿」をみて恐怖した」

即ち、玄和空手達人達の恐怖とは、相手に映った己に恐怖している…
または、勝負する必要のない相手に襲われて瞬間的に倒してしまう…結果に対する恐怖かな…



>だが、そんなことは「だから何?それがどうしたの?」というだけのことでしかない。自信があろうが無かろうが、恐怖に顔を引き攣らせて小便をもらそうが、生命をかけていようが無かろうが、「だから何?それがどうしたの?」という唯それだけ。

私コメント…

そもそも普通の人々なら、道端で近寄って来た狂犬に恐怖するのは普通ですよ。
それでも、市役所の人なら、狂犬と確りと退治しますが…。

お宅が、他人から恐怖されるのは、
お宅の人間力ではなく、
お宅の狂人力なのでしょうね…


>そして全てを相手のせいにするウンコ南郷の配下。私に南郷の本を読まないように強要するのでなく、南郷に本の出版を止めるよう進言することもできないタワケうんこ。

私コメント~
高校時代も大学時代にも、各教科で先生・教授から教科書を指定され買ったモノです。
責任ある教育者や指導者なら役立つ・勉強になる書物・論文を指定するモノですよ。

それを買うか買わないかは、本人の意志の問題です。
組織に所属して組織指定の教書や論文を読むのが嫌なら、
その組織を脱退すればいいだけですよ。


過去に極真会館の通信教育を受けて時には、
高価な教科書や空手着を買わされましたよ!

玄和会に限らず…組織というモノは、そのようなモノです。
お宅は、玄和会以外の組織の実情を知らな過ぎますね。










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お宅コメントへの私コメント

2021-12-30 10:38:46 | 滅ぼし合う対立物の統一

お宅コメントへの私コメント

以下のお宅コメントへのコメントは一言で書くなら~
それらは、全てお宅の妄想に次ぐ妄想の結果です。



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「武道」について…

・コメントを書いた人
ドゥルガー




>・コメント
>自由びとさんの心情としてご自分が学んでいるものや所属している団体を一足飛びに擁護したいのは理解できますが…。


私コメント~
これは、お宅の事実誤認でしょうね…
確かに過去に所属していた団体ですが…
今・現在は「所属している団体」ではありません。
私は、ただただ「武道の定義」に納得できているから取り上げたのです。
それに、お宅のような誤解・誤読する者が多いようなので…


>一応、そうした心情は置いておいて南郷さんが実際に書いて世に問うたものの価値というものを真面目に考えてみることも意味のあることだと思われますね。

私コメント~
お宅にとっての「価値」と私の「価値」の中身には相違があるでし…
お宅の「価値」が多くの人々の「価値」と一致するとは思えませんが…

また、「お宅の真面目に」と「私の真面目」の中身も雲泥の差かあるようだし…
このように誤解・誤読の多いお宅の真面目は、私の真面目ではありません!



>自由びとさんが言ってる「自分に自信をつけるための武道」というのは、おそらくは「現代武道」として南郷さんが否定したものと同じ考え方でしょう。


私コメント
「自由びとさんが言って」いません・書いていません!
これはお宅の誤解・誤読です。

「私にとっての武道」と「武道の定義」は違います。
「武道体得」を目的に頑張った、私の結果が「自信」なのです。
武道の定義の従って、武術修業・武道修行した結果が私の自信なのです。

南郷氏の否定しているのは、「現代武道」ではなく、
現代の「武道の捉え方・修得過程」ですよ。
これも誤解・誤読ですね。


>南郷さんが「現代武道批判」ということで「スポーツでもなければ人格陶冶でもない武道」というのは、南郷さんが具体的に挙げている事例を検討していけば自ずから見えて来るように思います。

私コメント
お宅~南郷氏の「現代武道批判」を理解できていませんね。
武道をスポーツ・人格陶冶的にするのは個人の自由です。
それでも「武道の定義」としては、武道はスポーツでも、人格陶冶でもない…という事です。

これは「本来の武道の目的」と「自己の武道の目的」の相違ですね。
ハサミは「モノを切る」為に作られたモノですが…
目的として、人を傷つける為にも使用可能です。

だから…「武道の定義」に従って武道を体得できても、
何も「生命を賭けた勝負」をする必要はありません。



>南郷さんが武道を説くに挙げている事例は「西部劇のガンマン」だとか「浅沼稲次郎暗殺事件」だとか「戦場」だとか「死刑囚」だとか「宮本武蔵」や「大菩薩峠の机竜之介」や「千葉周作」「清水の次郎長」「新撰組」といった本当に人が生命を失っていた時代の生命を失った事例ばかりなんです。

私コメント
だから…何なの?


>そして、生命がかかっていない勝負の中からは「五輪書」や「兵法家伝書」のような極意は生まれてこないと説いていたように記憶していますね。

私コメント~
だから何?



>ですから少なくとも南郷さんの頭の中では本当に負けたら命を失うような勝負の世界が思い描かれていたのだと思いますし、それは道場での習慣化された稽古(日常性)にではなく暴漢に襲われる(非日常性)などの事例を想定していたと思われます。

私コメント~
それで?



>それを考えたなら、ケガしないように防具をつけた組手だとか、個人個人に合わせた上達論的試合なんてものは全く生命に関わりませんから命懸けなんかではありません。

私コメント~
お宅は、「武道の理論」の「創ると使う」が、全く分かっていませんね。
自動車教習所で、安全に運転を習ったとしても、
現実の道路では、死にそうな事故にあいそうになります。
運転実技を習得したなら、事故を想定した運転も必要となります。

だから…武道は(修業ではなく)修行なのです。
現実の死を想定して、それをどれだけ本物・事実だと思える訓練して、
それでも平常心の維持が…

お宅って…小学校の避難訓練を馬鹿にしている不真面目小学生レベルですね。
そうそう…一人だけ避難訓練中に、
「先生…『怖い』…」と真剣に怖がっていた一年生男子児童がいましたが…
全ての児童が、その子レベルの恐怖で避難訓練ができれば…
本物の火事・地震…災害があっても安心なのですが…




>南郷さんが説いたような「現代武道ではなく歴史的な武道」といったなら、間違いなく日本では実際に剣術を用いて相手の生命を奪っていた時代がありますし、生命がかかっていたのでしょうが、それを復活させる必然性があるのは警察官や自衛官、要人警護などの実際に仕事中に殺される可能性があって家族に「殉職したときは覚悟しているように」と伝えている者たちだと思います。

私コメント

お宅は現代社会を分かっていません。
最近、一般人が通勤・通学・買い物移動中に電車内で殺されたり、死にそうな目にあっています。
それでも…一般人でも「死を覚悟」が可能な自己認識の創像を不要だと思いますか?!


>つまりは「プロフェッショナル」の場合であって、趣味でやってる人間に生命なんかかかっていない、と。


私コメント…

お宅の「プロフェショナル」って趣味でやれるの???
私は「プロフェショナル」とは、
それを仕事にして稼ぐ人だと思っていますが…

私は、趣味で武道をやっている・教えている場合は、
「プロフェショナル」だとは思いません!

もっとも…
スポーツ的武道や健康・体操的武道の「プロフェショナル」なら勿論「死の覚悟」は不要ですがね。


自由びとからお宅への忠告!

お宅は南郷氏の著書は読まない方が無難ですよ。
私からみれば、全く南郷氏の伝えたい事が理解できていない…
なのに…理解している・分かっている…と思い込んでいる。
そんなお宅には、私へのコメントも南郷批判も時間の無駄使いですよ!



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「武道」について…

2021-12-28 14:32:23 | 悟得びと語り


武道とは、武技を用いて生命を賭けた勝負の道…と南郷氏は定義・概念規定している。



「定義」 という表現は、 「ある物事の意味・内容を他の物事と区別できるように、言葉で明確に説明して限定 (規定)すること」 や 「ある用語・事物の意味を、言葉 (数式も含む)ではっきりと規定 (説明)すること」 を意味しています。 論理学における 「定義」 の意味は、 「概念の内包 (概念内部に包摂される意味)を明確にして、その外延 (意味するものの限界)を確定すること」 になります。


「定義」は「ていぎ」と読みます。

意味は、「ものごとの意味や内容を、他と区別できる様に、明確な内容を述べて限定すること」になります。

「概念」は「がいねん」と読みます。

意味は「ものごとの大まかな意味や内容のこと」「倫理学で、ものごとの本質をとらえる思考法」になります。

「定義」は、「ものごとの条件を限定して言葉に表すこと」です。

「概念」は、「ものごとの本質的な考え方や内容に対する共通認識のこと」です。


さすれば…
武道の概念は「武の道」となろうか…
武道の定義が「武技を用いて生命を賭けた勝負の道」となろうか…

まあ~ここでは「定義」と「概念規定」の相違が問題ではないが…
上記の解説では、私には…今ひとつ意味不明である。


ただ言える事は、概念と概念の言語化の相違であろうか?
「概念」とは、己の頭脳内の対象の姿形・認識であろう。
それは、言うなれば、頭脳内の変化・運動性を持ち得ている観念的な認識像…?
それを言語化する時、当然にその対象の己の概念像を規定する必要が生じる…?
さてさて…そのような事は、私の妄想という事で…次へ進もう!


武道とは「武技を用いて」「生命を賭けた」「勝負の道」…
と聞くと「生命を賭け」即「殺し合い」…と連想する者がいて…
それなら「武道とは殺人者へ道」と思い込む事だろう…

しかし、「自分の生命を賭ける」事は、直接に「相手を殺す」事にはならない…

そうそう…
以前に「人を殺せば死刑になれる」と言って、電車内の無関係な人々を殺そうした者がいたが…
その者は、自分の生命を賭けて人を殺そうとした訳ではない。
自分が死刑=殺してもらう為に、人を殺そうとした…


そもそも…「勝負の道」に必ずしも「生命を賭ける必要はない」…
人殺しが、他人を襲う時に、襲ったら逆に殺されそうな人間を狙うだろうか?
人殺しが、自分の生命を賭けて、他人を襲うだろうか?
そもそも…人を殺す事が「勝負の道」なのだろうか?


己の弱さの克服の為に武道にすがる者は、
何も…他人を殺せる武技を求めてはいない。
求めるモノは
「自信ある己」、
「闘いで勝利を求めるならいつでも獲得可能な己」、
「いつでも・どのような状況でも理不尽な事に意見を言える己」、
「『やろう!』と思えば実行可能な己」、


「生命を賭けられる」強さは、「人を殺す」事でも「人を殺せる」事でもない。
「勝負の道」は、決して「人を殺して勝利する道」ではない。
「武技を用いる」事も、決して「武技で人を殺す」事ではない。


南郷氏の「武道の定義」の裏にある…
「強靭な人間的な精神の養成」…
「勝負に人間的に勝利する道程」…
「人間的な武人としての武技と使用法の体得」…

そのようなモノが読み取れない…のだろうか?


この「人間的」しとは、南郷氏の説く・説いている…
理想的な「人間像・人間論」的な、人間を目指し、
そのような己の創出を目指し果たそうしている人間であろう…


そもそも…
「人を殺したい者」には、武道の習得は不要!
相手に、凶器を用いて、襲い掛かれば終了!





コメント (2)
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夢について…

2021-12-08 15:18:29 | 悟得びと語り


数日前、朝起きたら…ふっと…「夢って?」という想いが浮かんだ~
そこから想い出したのは漫画「頑張れ元気」の事である。

元気の父は、元々プロボクサーだったが…病弱だった元気くんの母親が亡くなり、
父も生活の為にプロボクサーを辞め普通の仕事を始めた…

でも…日々の暮らしの中で息子・元気くんの元気じゃない姿を目の当たりにして…
『元気くんに元気に頑張って欲しい~』そんな想いからか…
『父親自身の頑張る姿を見せる』為に、再びプロボクサーに復帰した~
そして…何と、まあ~無謀な事に「世界チャンピョン」を目指してトレーニングを始めたのである…

結果的に、途中の試合で命を落としたが…
それでも…残された元気くんが亡き父親の夢の現実化に向けて頑張り始めたのである。
元気くんは、父親の夢が「世界チャンピョン」だと信じて頑張って…
そして~ついに父親の夢を現実化したが…

でも…しかし…本来の父親の夢は「元気くんの頑張る姿の実現」であった。
そして、元気には、父親の真の夢を分かっていなかったにもかかわらず…
結果的に、世界チャンピョンを目指して必死に頑張り続けたのである。

そんな父親の夢を現実化してしまった(夢の達成=夢の消滅)の元気くんと思いきや…
引き続き~彼は亡き母親方の祖父母の夢(自分たちの跡取り)~
大地主で事業家である祖父の夢を目指して~

以前、ボクサーになる為、最短距離で世界チャンピョン目指す為に…
合格しても通わなかった有名高校入学から再度の人生を始めたのであった~


ここで私が思ったのは、
では…他人の夢・希望を叶える為に頑張り続けている…
「元気くんの夢とは?」であった…

それは自分に関わっている周囲の人々の幸福な姿・笑顔が見続ける事?
それが「元気くんの夢なのだろう…」?

周囲の人々の喜ぶ姿が自分の夢であり自分の幸福であったなら~
これは…元気くん自身の主体的な人生の生き方であるのだろうか?

この場合、元気くんの周囲の人々である母親、父親、祖父母…
彼らが求めたのは「元気くんの幸福」であった…元気くんの夢・幸福であろう…

元気くんが思ったがどうかは不明であるが…
若い元気くんには、祖父母の希望・夢を現実化しても…
その後の彼には、まだまだ長い人生が続くだろう事を想っただろうか…

自分の事を真に想ってくれている周囲の人々の希望・夢を現実化しても…
その後には…元気くん自身の夢・希望の実現化の時は十分残されていたのだろう…



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信じる事から始まるこの世界~

2021-12-05 13:47:12 | 悟得びと語り
信じる事から始まるこの世界~



表題~より正確には~
「信じる事から始まる自由びと精神世界~」
となるだろう…

何度も書いているが…
このブログは自由びとの観念的・精神的な世界である。

それでも…不特定多数者に読まれる事を前提に、
書かれている普通とはチョット違った精神・観念的な世界であるが…

基本的に個人を特定可能な具体的な情報を書く事は避けている。
それで…「嘘や誤魔化し」は極力避けて書く努力はしている。

その方法として…事実を事実として書くのではなく、
その事実を極力論理的に書こうとする努力を続けてきている。

ここが自由びとの精神・観念的な世界である以上…
ここでは、私が神である。
私の意志が神の意志であり、私の論理が神の手でもある。

この世界で神である私の論理を否定する者には、
この世界での「天罰」が落ちる…だろう。


過去から現在まで…
この世界を否定し続けている「お宅」(私の命名)は、
この世界での「大馬鹿者=大馬鹿お宅」であろう。


この「馬鹿…」とう表現は、
私の記憶が正しいならば…
これは私が初めて担任していた児童を「馬鹿野郎!」と
怒鳴りつけた時からの使われ始めた言葉であろう。

私の「馬鹿野郎!」・「バカタレ」・「馬鹿者…」の意味・概念とは?
一般的には、「普通の人より頭の働きが鈍い事」…である。

それは、「馬と鹿の区別がつかない」…という所からきている…のだろう…
もっとも…ネットで調べるなら色々な説があった…

私が児童・生徒に使っている「バカ」とは以下のようなモノである。
児童・生徒であり、教師・先生から学んでいる者なら、
先生的な考え方で「物事を考えよう」とする努力が必然・当然であろう。
それなのに…はなから~教師・先生の言っている事を聞こうともせずに、
自分の感情・考え・思い…を言語化してぶつけてくる児童・生徒への言葉である。

新任教師の時は、そんな時には大声で怒鳴り・叱りつけて…
その根本的な認識・間違いを正そうとしたモノであったが…

時代が変わり、
私の立場の教員から学習指導補助員へと変化し~
若者が高齢者へと変化し~
精神も子供的から大人的へと成長・成熟しつつある現在の私には…

以前程の迫力で「バカ野郎」とは言えなくなっていた…事に気付いて。
それは数日前に余りには「バカな児童」に…ついつい~
小声である「バカタレ」と口から出てしまっていた…からである。


小二の彼は、私が補助をしている最中に「鉛筆を削る…」と言って「離席した」。
なかなか戻らないので…みてみると…戻る途中に他の児童の席の前で立ち止まって見ていた。

私が「早く戻って来て下さい!」と少しきつい口調で注意した。
戻っての開口一番の台詞が「叱らないで!」であった…
そこで、
私―「××(名前)!途中で他の人と話しているから…」
××―「話してないよ…呼び捨ては止めて!」
私―「××は友達の机の前で立ち止まって見ていた…でしょう」
私―「××君?××様?××ちゃん?××殿!…どれにする?
××―「君がいい!」
私―「××君は鉛筆を削りに行って、なかなか帰って来なかったから…きつく呼んだ…」
私―「××君が、チャンとやらないから××で、チャンとやるなら「××君」だよ」
私―「どっちがいい?」

すると…なんと…
××は「もう~その話は止めて!」と宣ったのである。
小二とは思えない…自己正当化の言葉ばかりで…呆れての「バカタレ」であった…
彼にとっては…
「授業中の鉛筆削りは間違いではなく正しい」
「離席の帰りの他の児童の席への立ち寄りも間違いではなく正しい」
それは、言うなれば、
「自分のしたいようにするのは間違いなく正しい事」という認識であろうか…

私の小学生時代では、「鉛筆は家で削る」のが当然で、学校には「鉛筆削り」がなかった。
でも…今は、全ての鉛筆が削れていないなら…
「字を書く為にはショウガなくOK」。
「トイレもどうしても我慢が出来なければOK」。
「今は授業中の水飲みもOK…なんて考えられない」モノだった…
最近では…大きく違ってきている…



さてさて…本題の「大馬鹿野郎」のお宅の話である。
私が「奴を大馬鹿野郎」と言う理由は以下である。

この私のブログである観念・精神世界の中~
私が書いている私の日常生活でも論理的な事実を、
奴は「全て嘘!信じない!」と断言して…
それでいて…私の記事への奴独特の愚にもつかない長文コメントの連続的な投稿である。

奴の内容をどうの…こうの…と言う前に、
私的に見てこれらは全く馬鹿野郎的な行為である。


例えるなら、二人の者達が「何かを見て」…
「あれは、○○だから馬だ!」⇔「違う…、××だから鹿だ」と
二人が同時に共通・同じ動物を見ての議論は有益かつ有効であろうが…


同じ物事・世界を観ているのではない奴と俺に議論の有効性・有益性は問題外であろう。
言うなれば…暇つぶしの遊び感覚であろう。
もっとも…
最近は、結構忙しくなり、奴のクダラナイ馬鹿言説に付き合うにも嫌気がさしてきたのも事実。
また…奴の間違いに気付けた事も事実であろう。


そもそも世界観も弁証法も…全ては現実の問題解決の為であり、
ブログのネタで…どうの、こうのと、議論するモノではない。

例えば、二人が共に働く場合において、
二人が全く異なっている弁証法・論理を使おうが…
二人が共に、同様な問題解決が達成できたなら、そこに何の問題があろう~

弁証法・世界観・哲学を議論するのは若者達の特権であり、
老人・年寄には、特に必要なモノでないのだろう。

だから…私は現実世界で他人との議論は、
極力避けるような日々を送るようになって来た…ようだ。

ならば…私がこのブログを精神・観念的な世界の展開を書く意味・意義は何か?









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