新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

Change of the place, Change of the brain.

2021-11-27 12:14:14 | 想いのままに…
Change of the place, Change of the brain.



「Change of the place 」と「Change the place,」の違いは?

「Change of the place」とは、「ある場所の中での移動」であり、
「Change the place」とは、「ある場所から別の場所への移動・変更」である。


地球上の生命体は、どんなに強く欲しても~
まだ今の所、地球以外の場所での長期生存は不能であろう…





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「武道…」について~

2021-11-27 12:00:33 | 悟得びと語り
「武道…」について~

「武道とは、武技を用いて生命賭けの勝負の道である」とは~
南郷氏の「武道の概念規定」であるが…
この言葉を私の私は大きく誤解していた事に気付けた。

南郷氏は「私の言葉は論理である」…と言っていた。
この事は、この「武道」定義・概念にいても言えるのだろう…

そもそも…
現代社会で「生命を賭けての空手・剣道・柔道…の武道勝負はない…」と言える。
それでも…
商人の世界なら、商売人人生を賭けての商売合戦であろうし…
学者の世界なら、学者人生・生命を賭けての学説合戦であろうし…
サラリーマンなら、サラリーマン人生を賭けての出世合戦であろう…
現代人には、
それぞれの世界での己の社会人としての人生・生命を賭けた勝負があろう…

私の叔父(母の弟)の口癖の台詞が…
「そのぐらい…死にはしない!」…

そう…人間…なんて…「死ぬ事」に比べれば、
生きていれば、どんな「怪我」も「事件」も「失敗」も…
なんて事ないモノなのだろう。

「守るベキ物ない者は、怖いモノ知らず~」と言うが…
その者達は、自分の生命さえ守る必要のないモノなのだろうか…


どんな時も最低限は己の生命を守り切る自信のある者…
怖い物知らずではなくても…
怖い物を知っていても…
怖いモノを恐れいても…
それでも…自分や他人を守る為に闘える者なのだろう…


武道を学ぶ意義は、観念的な「死」を想像して、観念的「死」と対面・直面して、
その己の中の観念的「死」を克服する認識・意志の創出にこそ…
現代の武道の意味であり、意義であろう。

果たして…
今の私は…己の中の観念「死」を克服できているのだろうか?!





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「臨済義玄」お宅へ…

2021-11-21 12:05:42 | 滅ぼし合う対立物の統一


「臨済義玄」お宅コメントへの自由びとコメント…



私は、妄想には、
自分に役立つ正しい妄想の仕方と、
自分をダメにする間違った妄想の仕方がある、と考えている。

正しい妄想とは、他人の事実と自分の事実を比較して、
異なっていた時、その他人の事実が自分の成長に役立つモノなら、
それが己の事実であるかのように妄想する仕方、
ダメな妄想とは、自分の事実を他人に押し付けて、それがその者の事実であるかのように妄想する仕方」

良い妄想の仕方、他人の事実は自分の事実(他人に出来るなら自分にも出来る)
悪い妄想の仕方、自分の事実が他人の事実(他人に出来ても自分には出来ない)


以下は、そのダメ妄想の見本の典型である。
私、この「臨済義玄」の現実生活を知らない。

この「臨済義玄」お宅も現実の私を知らない…
更に「臨済義玄」お宅は、このブログで書かれている私の事実を全て嘘だと信じている。
これで、以下のようなコメントが書けているとは…

「臨済義玄」お宅にとっては、有名人・学者・一流の人々の言葉・知識が正しい・事実…だと思い込んでいるようである。




以下のコメントは、内容があまりには、妄想が個人的・非社会的である。


・コメントが届いた記事
いのち歴史の弁証法性~

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/ab4f8737330803769809dd7627d3fa24

・コメントを書いた人
臨済義玄

・コメント


「ちょっと失礼な言い方になるかも知れませんけど、自由びとさんの生き方は南郷さんが説いて導いている生き方とは違うように思います。」


<こいつは馬鹿か?>
<何をもって「南郷さんの説いて導いている生き方と違うように思」ったか?>



「自由びとさんの「自由自在に生きる」という目標は抽象的すぎて私には皆目理解できませんけど、南郷さんが『弁証法・認識論への道』で説いていたのは「一流の人生」ということで、実社会で「一流の人」だと評価されるような人物になれということじゃないかと思いますよ。」


<ヤッパリ馬鹿だ!>
<私の自由自在を分かっていないのに…>
<南郷氏は、『一流を目指して努力・頑張れと書いていて、一流になれと書いていない』>



「そのためには自分が将来どうなりたいのか?の見本となるような師匠を見つけて弟子入りする必要があると思いますね。」


<ここも馬鹿な記述だ!>
<南郷氏には、現実に師匠なく、書物の中の人物を師匠としていた…>



「私も結構いい年齢までそのように自分のロールモデルとなる「この人みたいになりたい!」と思う人を見つけて真似をして生きるということをして来ずに自分の考えだけで生きてきましたから、大したレベルには到達できずに来てしまいました。」

<それは、その人の認識を学ぶべきであり、その人自身を学ぶ必要はない>
<どんなに真似ても、自分は他人そのモノには、なり切れないモノであろう>

「私は玄和会でも南郷学派でもありませんけど、見習うべきところは沢山あると思うんです。

自由びとさんは具体的な個人名を挙げることを嫌いますけど、やはり見習うべき個人をシッカリと見定める必要があると思いますね。「大志だ何だ」といったことは、そのもっともっと後のことで、さもなければ自分が頭に描いた大志とやらの重圧に負けて生きて行けなくなりさえしますから。」


<犯罪者を見習えば犯罪者化するだろうに…>
<その重圧に耐えるのが「オス!」=押して忍⇒重圧を押し返して忍び耐える>

「亡くなった××さんも就職した保育園の園長先生を目標に「あのような保育士になりたい」と頑張ったのだと思いますし、×××さんも業界で凄腕だと評判の治療家に弟子入りして目指し続けましたでしょう?」


<だから…私は南郷氏の弁証法・悟り・悟得の境地に到達したく南郷氏から学び続けている>
<南郷氏は精神であり、個人的実態でない>


「大体が『学城』に執筆してる人たちは専門分野で結構高い地位についてるみたいで、ネットなんかで見ると××さんなんかも大学教授になって放送大学なんかでも番組もってるみたいですしね。
放送大学で看護学の授業をするなんて、私はむかし薄井坦子さんの放送大学の授業を見たことがありますけど、看護学で国立大学の教授から学長になって全て自分の意向のカリキュラムにしたなんてのは、その分野じゃ最高の成功者・成功事例でしょう。」


<彼らは、南郷氏から南郷氏の弁証法を習得・体得し、それを現実世界へ適用・駆使した結果に過ぎない>


「××さんなんかは大学で学生に指導しつつも埼玉県の看護協会で現場で働いている看護師さんたちにも指導してるみたいですし、現場で管理職なんかやってる指導者を指導する「先生の先生」みたいなことしてるみたいですから、やはり目標をシッカリ見定めて歩いてきたのだろうと敬服しますよ。む


<これって、お宅と他人の比較? それとも自由びと他人比較?>


「『学城』の真似をしている『自由學藝』の執筆者さんたちも、それぞれの専門分野の超一流だと評価されてる人たちに実際に弟子入りして学び続けたみたいですし、私も自分の師匠はシッカリと見定めて学び続けています。」


<ならば問おう!>
<お宅は、その師匠から「他人を批判しろ!」精神を学んだの?>
<他人の言説を一々貶し、否定し、…続ける事を学んだの?>

<南郷氏は書いている…『私には師がいなかった』>
<だから…先入観なく、ここまで到達した!>


「自分なんかの独力なんかじゃ無理ですよ、たかが知れてますから、出来ることなんか(笑)。

だから南郷さんが何処かに「ヘレンケラーが凄いのではなく、サリバン先生が凄いのだ!」と書いていたように、みなそれぞれに自分の分野のサリバン先生を探して師事したのだと思います。む」


<分野別に学べるのは、専門的知識であり、その専門性・専門的な弁証法>
<一般的な弁証法・弁証法一般は学べません>
<上記の弁証法が学べないと、専門的知識・部分的知識のままで終了>
<だから…南郷氏の著書や南郷学派の記述に学んできたのだ…>


「××さんなんかは自分が師事した園長先生の実名を出してましたけど、名前を出してない××さんや××さん、××さんとか絶対に目標にして真似した医学・医療の専門分野の師匠がいたはずですよ。」

<は~は…お宅には理解でないようである…>
<彼らの師匠は、現実・事実の弁証法性である事が…>


「さもなければ、自分だけの独創で歩んだとしたなら到達した地位が高すぎます。」

<これって…お宅の嫉妬心?!>


「自由びとさんは南郷さんに憧れて「私は南郷継正である!」なんて書いていたことありますけど空手家を本職にする気はないのでしょう?南郷さんのように空手家として収入を得ていくのでしたら毎日の練習もしないといけないでしょうし、税務署の手続きなんかも学ばねばならないでしょ?」


<本当にヤッパリ分かっていない!>
<私の目的・目標は、初めから「玄和会・南郷・武道空手を通しての悟り」の体得である事が…>
<馬鹿!私は不動産・家賃・収入で毎年に確定申告を自分でやっているよ!>


「今は学校の教員ですから税金は天引きで自分で確定申告する必要もないでしょうけど、自分の道場を開いて月謝を取って教えるようになったら事業主として所得税の支払いも自分でやらねばならないでしょう。
おそらく南郷さんも毎年毎年、税務署に行って確定申告してたと思いますよ。」


<馬鹿・バカ・大馬鹿!お宅は自由びとの現実・事実を全く知らないのに…>
<お宅の自分勝手な妄想で自由びと現実を確定している>


以下は、お宅の妄想の発展的記述…阿保らしくなったので終了!
と思ったけど…
<私の考える「人間の強さ」とは、道具を駆使可能な人間の強さとは、その精神の強靭さ」







「そういう現実的な生業をしないで「ボランティア」なんて阿呆なこと言ってて一流の人生なんぞ見えないんじゃないかと思いますよ。

でも自由びとさんの文章を読んでると空手家として生きて行くような気概や覇気は感じませんねぇ。
何となく「今やってる教員補助の仕事は生活費のために仕方なくやってるけど、これが私の本当にやりたかった仕事なんかじゃ無い!」みたいな、南郷さんが書いてる本を読んでるほうが面白いから、それを題材に文章にしてるだけ、みたいな後ろ向きの人生を感じちゃうんですよね。」


<私が求めていたのは、人生を自由自在に生き抜く精神的強さと人生・世界・心・頭の「悟り」であり「悟得」>


「やっぱり××さんとか×××さんとか、×××さんとか××××さんなんかを見てると「一流の人生を目指す!」というのは教員補助を目指して教員補助の真似をして「将来は一流の教員補助、もしくは乞食」なんて思想にはならないのでは無いか?と思いますよ。」


<だから…私は一流を求めていません。それでも一流を使うなら>
<「一流>の「悟り」と「悟得」の体得ですかね…>


「義務教育の関係者だったら校長だとか教頭だとか、あるいはもっと別の腕のいい授業をしてる先生だったりするんじゃないか?と思いますね。」


<お宅の思いで自由びとの思いではありません!>


「そうした目標だとか師匠だとかが何をどうしているのか観察して真似をすれば、自分で一から考える必要がありませんから「大志」だなんだと空虚なことを考えなくても良いのでは?」

<馬鹿!バカ!大馬鹿!>
<過去に何も考えずに一流企業に就職した者達が、会社倒産でホームレスになったりしたのに…>
<「大志」とは、現実の理想像ではなく、論理的・観念的な理想像なのに…>



「私から見ると自由びとさんは弱いんだと思います。空手をやっても弱さを克服できなかったんだと思う。
それが南郷さんへの依頼心というか、自分の主体的な生き方を持っていなくて、自分より弱そうな人間を見つけて虚勢を張りたいのだと感じます。」


<お宅の幻覚ですね!>
<仮に自由びとが弱い者なら、お宅は弱い者をイジメている弱虫であろう>
<「弱い者」=人間以下の「弱虫」=虫レベルですよ!>
 
「南郷さんは自由びとさんがここに書いてあるようなことを書いてることを喜んでいるんでしょうか?

私にはそうは思えませんね。」


<南郷氏が、自由びとブログ=精神世界を除いて、一々喜ばないでしょうね…
<お宅は、私の精神世界へ土足で踏み込んで>
<お宅の勝手に妄想する事実を自由びとの事実だと思い込んでいる…>
<これが現実世界なら、精神異常者ですよ!>

<それって、お宅の観念内だけの「自由びと想い」が、自分の外の「現実的な自由びと」存在と思い込んでいる…>

もしかして…お宅って「自由びとに惚れているね♪♪♪
それって…「一目ぼれ」ではなく、「一読ぼれ」なのかもね…



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「絶対矛盾」について…

2021-11-21 10:25:49 | 悟得びと語り
「絶対矛盾」について…

南郷氏は、「ゼノンのパラドックス」を絶対矛盾だと言い切っている。
「それは何故か?」、
「どういう事なのか?」、
「そもそも運動・変化とは何か?」
「何が変化で、何が運動なのか?」、
「変化も、運動もあるのか?ないのか?」、

「動物は本能的実在である」・「人間は認識的実在である」と言われている。
この「人間は認識的実在である」については、「新・頭脳の科学(第一巻)」[現代社]のP20に以下のように書かれている

(引用開始)…
…前略…すなわち、人間が他の動物と違う様々な特徴を持っているのは、
他の動物がすべて本能のみの統括で生きているのに対して、
人間だけが、本能に加えて認識の統括によって生き、かつ生活している…後略…
(引用終了)

人間には、二重の意識がある。
一つ、現実界の事実像を見ている意識…
二つ、観念内の認識像を見ている意識…

外界の変化・運動像は、外界のモノ自体の実態・実態化の弁証法性…
内界の変化・運動像は、本能的(自然的)かつ認識的(社会的・精神的)な変化・運動像…

本能は世界の変化・運動と一体的な働き…
認識は、自然的かつ社会的かつ個性的な働き…


外界の変化・運動を自然(の弁証法)的に感覚できいても…
それを見詰めている内界の認識が非完璧(個性的・部分的)な弁証法なら…
そこに、外界の変化・運動と内界の変化・運動認識像の一致は至難であろう…

そもそも…
変化とは、あるモノが、あるモノである(と同時に)あるモノでない、という事。
運動とは、あるモノが、ここにある、(と同時に)ここにない、という事。

視覚中心の人間の認識像は、外界像を観念内では一瞬一瞬を像として捉えている。
その一枚一枚を連続的に眺められているだけなら…変化・運動的に流れていくだけである。
しかし、一枚一枚を止めて眺めたら、それは静止であり運動ではない。
それは、DVD再生像を停止ボタンでストップさせた像の連続であろう。



観念内で、自己の認識像をながめている自己を意識しているなら、
そこには静止と運動の区別と連関が起こる。


「ゼノンのパラドックス」は、外界像と内界像の矛盾であり、
それは「認識的実在の人間にとっては「絶対的な矛盾」である…という事である。
この矛盾の克服は、認識の弁証法化であろう。


外界に「変化・運動がある」のでなく、あるのは「弁証法性がある」。
その外界の弁証法性を「人間が変化・運動」と捉えているのであろう。

変化・運動とは、
認識的自在である人間が、
外界の一瞬前の認識像と今の認識像を、
その区別と連関で捉え認識できた時に、
発生する論理的な認識像であろう。


人間の脳には、本能的な動物的な変化・運動性・動物の弁証法性がある。
しかし、脳の機能である認識は、本能的では人間的認識的であろう。
それは、生後の成長過程で体験的・自然成長的・意図的・目的意識的に、体得・学習しているモノであろう。


動物の弁証法性での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は本能的であり無限小である。
人間の弁証法での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は、その人間次第で色々マチマチであろう。

人々が、「弁証法」という同じ言葉で表現していても、その内実・中身は。当然十人十色でマチマチという事であろう。

そもそも…
「アキレスの亀」の競争は、アキレスが何も考えず、
ただひたすらにゴール目指して走ったなら、ありえない事である。

「アキレス」が、外界の競争を観念界での競争として考えたから…発生した「パラドックス」である。
これは、「タイムマシーン」での「過去と未来のパラトックス」や「光速運動におけるパラドックス」にも言えるだろう。

これは、全ての「パラドックス」は、外界の弁証法性を、変化・運動ではなく
「パラドックス・矛盾」と捉えてしまっている「内界・弁証法」の誤り・誤使用であろうか…


ゼノンの時代は、外界の弁証法性を、内界での変化・運動と把えようとし始めた時代であろうか…
それは、ヒト的サルが外界に対しての「問い掛け」の始まり、でもあろうか…
ここから、
ヒト的サル⇒サル的ヒト⇒人間的ヒト⇒ヒト的人間⇒人間的人間⇒理想的人間⇒理想的悟得人間への
変化・運動が始まったのであろうか…





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いのち歴史の弁証法性~

2021-11-20 10:13:45 | 悟得びと語り
いのち歴史の弁証法性~

いのちの始まりは、連続・不断な「生命現象」の弁証法性から~
「生命活動」の弁証法性とは、
同じレベルの生命現象の
「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
新・生命現象「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
    新新生命現「生々・生成・発展…・モノ化」
新新新生命現象「生々・生成・発展…モノ化」…

これは、生物の先祖…祖祖父母・祖父母・父母・私・子供・孫…曽孫…
絶え間なく、同じレベルの繰り返しと言えよう。

動物なら、肉体も本能も同じレベルの繰り返し、だが…
しかし、人類・人間は肉体も精神も同じレベルとは限らない…
過去の人類・人間の肉体的な強靭さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の精神的な図太さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の知識・智慧と現代人の知識・智慧は同じだろうか?

生命活動の弁証法性が基本なら…
単細胞体活動の弁証法性⇒その場で蠢く事の繰り返し…
多細胞体活動の弁証法⇒水に揺らされ続ける…
クラゲ体活動の弁証法性⇒水の中で同じ場所に留まり続ける…
魚類体活動の弁証法性⇒水中を自由自在に全力移動…
哺乳類活動の弁証法性⇒野山を自由自在に全力移動…
サルの生活の弁証法性⇒地上生活から樹上での生活へ変化の道…
サルからヒトへの変化の弁証法性⇒樹上から地上生活への変化の道…
人類進化の歴史の弁証法性…


上記のような弁証法性を
自己の人生で繰り返された時、
初めて「悟り」を「悟得」を体得可能である。

我々は「認識的な実在」的な人間が、現代の「悟り」・「悟得」へ至るには…
過去の
「宗教的な悟り・悟得」⇒「武道的な悟り・悟り得」⇒「哲学的な悟り・悟得」を
己の実体・精神で繰り返しの体験・実感・言語化」…それも、それそのレベルを重層化の形で進める事。

ここには、心の弁証法性・肉体の弁証法性・頭の弁証法性があり得る。
弁証法性の原動力は「矛盾」である。
モノが変化・運動するには「エネルギー」が必要である。
「エネルギー」とは、静止状態の物質へ運動・変化(静止⇔運動)という矛盾を与える「モノ自体矛盾」といえる…
ここで、私は
「モノ自体とは、無限小の実体と無限小のエネルギー機能を保持しているモノ」と概念規定する。
全てのモノは、エネルギー(矛盾体)を得る・与えられ事で「変化・運動」を始める。

人間にとって弁証法とは、人間の頭脳活動・働きを
「いのちの歴史」に基づいた正しい論理的な活動・働きに創り上げられるモノであろう。

私の心の弁証法性とは、
大学(工学部・電子工学専攻)生活⇒教員(小学校教諭)生活へ…
何をどうしたらいいか分からない…「一週間でとんでも(非常心的)行動…
一ヶ月で落ち着き…平常心…三年後…
文学部・初等教育専攻へ編入(教師から学生、二十代前半の学生の中に27歳の私)
(非常心)…二年間卒業…

その後、再び教員…小学生担任2年間、中一・二担任に年間…
この時、小学生から中学生に移った時の違和感…
それは、『小学生では上手くいっていた指導・言葉かけが中学生ではダメ…』

二年間でギブアップ…父の商売への誘いもあって教員を止め…
商売の世界へ
塾講師の世界へ
外国人の日本語の先生へ
雑貨屋店長へ
雑貨屋店長兼塾講師…
市立小学校特別支援学級の補助員(主に自閉症児)
別の市立小学校特別支援学級補助員(主に情緒障害児)

今考えると…
私には「私の大志」と呼ばれるモノを自覚出来ていなかった。
それでも…私の心の奥底には「自由・自由自在に生きたい」とう強烈な想いがあったようである。
私の自由とは、私の劣等感からの私自身の解放、日々感じ続けていた私の劣等感から私自身の解放…

結果的に、この数十年の私の人生は、
現実で「他人といる時、その他人対して自分を上手く表現できるか?できているか?」…
そんな心の問い掛けの連続だったようである。

この問いかけは、その場の人々を私が理解できていく中で(いつの間にか)消えていた。
しかし、幸か不幸が…私の人生は職場移動・職種変化の連続であった。
それも…生活の為というよりも、私の心の声に従ってのモノだったようである。

この結果、今の私が実感しているのは
「平常心(心)⇒非常心(心の乱れ)⇒平常心(その乱れに慣れた心)」

そう武道の非常心である死との対面した心裡・心理…であるが…
これは、最高レベルの危機的非常心であろう。
この非常心を得るには「自分の死を妄想できる人のみ」であろう。
「心裡は心の中、表意者の真意の事を表す用語で、心理は心の働きやありさまや精神の状態を表す事です。」

私は、私の人生における「平常心⇒非常心⇒平常心」の連続の結果、今の私がいる。

私の「心の弁証法性(矛盾)」の発生とは~
南郷継正の「武道の理論」の出会いであり…
そこから南郷継正の著書を連続的に購読し続けた事であり…

この連続の上に、私の人生・仕事に悩み苦しんだ時、
出会った月刊「空手道」雑誌の「武道講義」の言葉に惹かれて、
信じようと始めた時であろうか…。


今なら実感として言える「弁証法性の弁証法化には、
同じレベルのモノコトの繰り返しの連続であろう。


そうそう、私は塾の講師(夕方のからの仕事)の時代に、
家内は仕事なので46歳の時に息子が生まれ、昼間は息子の子守り…
その時、南郷氏お勧めの育児書の中の
「赤ちゃんなるべく外気に外へ…」と言う言葉に惹かれて、
息子を抱っこ紐で抱いて散歩へいっていた。

私は幼児から小学生、中学生…大学生…と関わるなかで、
他人の中に自分の成長のみていたのだろう…

そして、現在は、通常級・特別支援学級の両方の補助員として、
教師・教員達の中に、過去の私の児童・教員同士の関わり・指導をみようとしている(ようである)。


弁証法性とは、その論理が正しい事の証明・あかし、であろう。






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