新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「悟り」は 悟り!

2023-04-25 17:42:54 | ♬~我が悟りへの道程~♬
▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
悟りを開くとはどのような意味ですか?

・コメントを書いた人
雲海

・コメント
>どうして自由びとさんは「そのような神秘体験」を「悟り」だと思うのですか?

「神秘体験」の問題ではなく、その体験の結果で
「植芝盛平氏は無敵な合気道家」になりえた事実が有効なのです。

これは、「過去の問い掛け的な認識」を覆すような
「新たな認識・問い掛け」の誕生だと思っています。
この有効かつ新たな「問い掛け」を「悟り」だと考えています

それは、知る⇒識る、そして更なる「悟る」への道だと思っています。

体験は人それそれでも…その体験の結果で 現実的・身体的な生活で
有効な行動の変化があり得れば、それは、一つの「悟り」なのでしょうね。

過去の「悟り」の多くが、神秘的な体験を伴なっていた理由は、
「神を信じての悟りへの道」だから…だと思います・

合気道の「養神館」は、自分の中に「神を養う」事が、合気武道への道だと教えています。
「神を信じて」・「神を養う」事が合気道への道なら、
合気道の悟り=神がかり的神秘的体験なのも当然でしょう。


「武道とは生命を賭けた勝負の道」と信じて、武道への道を歩むなら、
心理的・精神的・身体的変化が起こり得ても、
決して、それは神的神秘的な体験とはなり得ません。


私は、私の体験を神秘的とは思っていません。
確かに第一回目の変化・異常の際は「俺は児童にとって神的な存在!」と思い込みました。
でも…それは 児童にとっての「神的な存在」であり、私自身はあくまで人間だと確信していました。

以下のコメント記述は全て無効!

持論は 勝手に御自分のブログ展開して下さい!


コメント (18)
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ブッダの「悟り」について…

2023-04-23 10:11:34 | ♬~我が悟りへの道程~♬
ブッダの「悟り」について…

tadaさんから以下のようなコメントわ頂いた。
>「ところで 自由びとさん 悟りの問題はとても面白い問題ですね。ブッタが悟ったこと自体に弁証法性があり 悟りをひらく ブッタ自身の思考方法が弁証法そのものですから。論考を期待してます。」<

そこで「釈迦(ブッダ)が菩提樹の下で悟りを開くまで【四諦八正道とは?】 | まなれきドットコム (manareki.com)」を調べて考えてみた。


>ブッタが悟ったこと自体に弁証法性があり 
>悟りをひらく ブッタ自身の思考方法が弁証法そのものですから。
>論考を期待してます。


tadaさんの「期待に応えられると…いいのですが…」


(初めに)ブッタの「三昧(さんまい)」とは、
自分の感情・問い掛け的な認識からでなく、ありのままの現実・事実そのモノの直視…から始めた。


(次に) 無所有処(むしょうしょ)の境地とは、
無所有処とは「何も所有していない・存在しない」状態を指します。
ぼぉ~として、何も認識しない・焦点をぼかした状態…真っ黒暗で見えない…対象を消し去る(初めの真逆)


(そして) 非想非非想処(ひそうひひそうじょ)の境地とは、
非想非非想処とは、「何かの事象について想うこともなければ、想わないこともない」というなんとも難しそうな境地のことを言います。
認識しようとすればできるが…敢えて意識的に意識・認識しない・焦点をずらす・合わせない(初めにと次にの対立物の統一)

(初めに) 対象を確り見る⇒

(次に) 何も見ない・見えない⇒

(そして) 何かを見えても見ない・見ようとしても見ない⇒
更に「苦行(くぎょう)」
当時、肉体を痛みつけ、精神を崇高なものとすることで、神秘的な力を得ることができる!という風に考えられていました。当時に限らず、今もそんなに違和感のない考えですね。
認識・精神だけではなく、肉体への関わり、鍛錬・習練を始めた。

(最後は) 菩提樹の下で最後の瞑想
6年もの年月を無益に費やしてしまったシッダールタは、一本の菩提樹の下で覚悟を決めます。「血が枯れ果て、肉がただれ、骨が腐っても、悟りを開くまではこの場所を絶対に立たないであろう」
最後の「死」を覚悟しての 決死の精神と肉体・対立物の統一⇒止揚~

その方法論は~
これだけだとよく分からないかもしれませんが、
「世の中は一切皆苦」→
「苦には原因がある」→
「原因があるのならその原因を取り除けば苦は滅する」→
「苦を滅する方法が存在し、それこそが八正道を実践することである」



八正道 ー苦を取り除くための8つの実践法ー
四諦を踏まえ、苦を取り除くための実践法のことを八正道と言います。具体的に次の8つのことを言います。

(ここでは細かな説明は省力します。)
正見:正しい見解を持つ
正思惟:正しい考えを持つ
正語:正しい言葉遣いをする
正業:正しい行いをする
正命:正しい生活をする
正精進:正しい努力をする
正念:正しい教えをしっかり覚える
正定:正しい瞑想を行う


過去の宗教が、学問だった「時代の正しさ」であろう。
現代ならば、哲学的な学問の世界の「正しさ」であろう。

哲学的学問的なら、その対象の変化・運動性への論理的同一化が「正しい」?
論理的とは、現実的な・現時点・この瞬間での一致ではなく、
その次の瞬間ー変化・運動しえた瞬間への一致なのだろう…





これだけだと漠然としていてよく分からないかもしれませんが、「具体的に何か分からんけど、8つの実践法をシッダールタは見つけたんだ!」という風に考えてください。
四諦八正道は、シッダールタが菩提樹の下で悟りを開いた際に会得した教えであり、仏教においてもとても重要な教えと言えるでしょう。



「認識の弁証法」と「頭脳の弁証法性」について…
人間の頭脳活動は、動物的・本能的・弁証法性豊かであろう。
でも、その頭脳の豊かな弁証法性を縛るのは、五感情無き膨大な知識…
他人の弁証法認識を己のモノ化して、その他人の弁証法認識に従って、
己の頭脳活動を制御・規制し続ける事で、己が頭脳活動の弁証法化が可能になり得る。











「釈迦(ブッダ)が菩提樹の下で悟りを開くまで【四諦八正道とは?】 | まなれきドットコム   (manareki.com)https://manareki.com/bodaiju_syaka#toc9
シッダールタは2人の師の下で禅定(ぜんじょう)による修行を行いました。禅定とは、普段は様々な対象に向かっている心を1つの対象にのみ集中させることを言います。
よく聞く「坐禅」とは座った姿勢で禅定を行うことを言います。
禅定の目的は、心を1つの対象に集中し、心の揺らぎや迷いを消すことによりその対象を正しく捉えることです。そして、雑念を取り除き、集中した状態で対象を正しく捉えた状態のことを三昧(さんまい)と言います
シッダールタは、師の下で禅定の修行を行い、次の2つの境地を知ることができました。
無所有処(むしょうしょ)の境地
無所有処とは「何も所有していない・存在しない」状態を指します。禅定により無所有処の境地にたどり着いたシッダールタですが、シッダールタは「『何も所有していない・存在しない』境地というのは私の知りたい『この世の苦悩から解放された境地』とは違う」と考えます。無所有処では悟りを開くことはできないと考えたわけですね。

非想非非想処(ひそうひひそうじょ)の境地
無所有処の次に得た境地は「非想非非想処」という境地。なんだかすごい名前です。非想非非想処とは、「何かの事象について想うこともなければ、想わないこともない」というなんとも難しそうな境地のことを言います。
しかし、シッダールタは非想非非想処の境地も悟りを開いた状態とは違うと考えました。シッダールタは、禅定だけでは悟りを開く(苦悩から解放された境地へ向かう方法を知る)ことはできないと考え、次に苦行の修行を行うことにしました。
苦行(くぎょう)
当時、肉体を痛みつけ、精神を崇高なものとすることで、神秘的な力を得ることができる!という風に考えられていました。当時に限らず、今もそんなに違和感のない考えですね。
シッダールタは、苦行により得られる精神状態や神秘的パワーによって悟りを開くことができるのでは?と考えたのです。
シッダールタは苦行に6年間もの年月を費やしました。しかし、結果的に苦行でも悟りを開くには至りません。苦のない世界を知ることは容易いことではありませんでした。

菩提樹の下で最後の瞑想
6年もの年月を無益に費やしてしまったシッダールタは、一本の菩提樹の下で覚悟を決めます。「血が枯れ果て、肉がただれ、骨が腐っても、悟りを開くまではこの場所を絶対に立たないであろう」
こう決心し、一本の菩提樹の木の下で命をかけた深い瞑想を行いました。ちょうどその日は満月の夜でした。この瞑想の中でシッダールタは様々なことを会得します。夜に菩提樹の下で瞑想を始め、明け方太陽が昇る頃、シッダールタは遂に悟りを開くことに成功します。シッダールタ35歳の時でした。
ちなみに菩提樹は、シッダールタが悟りを開いたシンボルとして仏教では大変重要な存在となっています。
6年の苦行を経ても成し遂げられなかった悟りの境地です。もちろんすんなりと悟ったわけでなく、悟るまでにはいくつかの過程があります。
四諦八正道(したいはっしょうどう)
菩提樹の下で瞑想を始めたシッダールタは、悟りを開く前に「四諦八正道」を会得しました。四諦八正道とは、苦の原因を取り除くための4つの真理と、苦を取り除くための8つの実践方法を言います。
詳しい話は別にするとして、ここでは四諦と八正道について簡単に紹介します。
四諦 ー苦を取り除くための4つの真理ー
諦(たい)というのは、「諦める」という意味ではなく「明らか」という意味です。つまり「明らかな4つのこと」→「4つの真理」という意味です。
4つの真理とは次のように言います。
苦諦(くたい)
この世の一切は苦であるということ(これを「一切皆苦」という。)。この世の苦には人として受け入れなければならない4つの苦悩と人間が社会的営みを行うに際して受け入れなければならない4つの苦悩。合わせて8つ種類の苦が存在すると考えられています。これを「四苦八苦」と言います。四文字熟語ですね。
集諦(じったい)
苦しみには原因があるということ。
滅諦(めったい)
苦は滅することができること。
道諦(どうたい)
苦を滅する方法は存在すること。その方法こそが「八正道」と呼ばれる8つの実践法です。
これだけだとよく分からないかもしれませんが、「世の中は一切皆苦」→「苦には原因がある」→「原因があるのならその原因を取り除けば苦は滅する」→「苦を滅する方法が存在し、それこそが八正道を実践することである」
という流れになります。困苦のない境地に達する(すなわち悟りを開く)には、苦について以上のような認識をする必要があるということです。
八正道 ー苦を取り除くための8つの実践法ー
四諦を踏まえ、苦を取り除くための実践法のことを八正道と言います。具体的に次の8つのことを言います。(ここでは細かな説明は省力します。)
正見:正しい見解を持つ
正思惟:正しい考えを持つ
正語:正しい言葉遣いをする
正業:正しい行いをする
正命:正しい生活をする
正精進:正しい努力をする
正念:正しい教えをしっかり覚える
正定:正しい瞑想を行う
これだけだと漠然としていてよく分からないかもしれませんが、「具体的に何か分からんけど、8つの実践法をシッダールタは見つけたんだ!」という風に考えてください。
四諦八正道は、シッダールタが菩提樹の下で悟りを開いた際に会得した教えであり、仏教においてもとても重要な教えと言えるでしょう。


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「悟りを開く」とは具体的にどのようなことなのか明らかになっているのでしょ...

2023-04-16 10:30:23 | ♬~我が悟りへの道程~♬



「悟りを開く」とは具体的にどのようなことなのか明らかになっているのでしょ... - Yahoo!知恵袋
ID非公開さん
2021/10/22 18:53
5回答
「悟りを開く」とは具体的にどのようなことなのか明らかになっているのでしょうか? 仮に修行などで悟りを開いた人がいるのなら、人々が幸せになるよう悟りについて教えてくれると思うのですが、
「悟りを開く」とは具体的にどのようなことなのか明らかになっているのでしょうか? 仮に修行などで悟りを開いた人がいるのなら、人々が幸せになるよう悟りについて教えてくれると思うのですが、 ・教えようとしても言葉で教えられないような何かなのか、 ・悟りとか本当は無くて、「悟りを開いた」とか言って、考えるのをやめ、それっぽく振る舞っているだけなのか、 ・悟りの境地に行き着いたことで、人々に教える必要が無いと悟ったのか、 何なんでしょうかね? ちなみに私は悟るって何を悟ったんだろー?と考えた結果 「何も意味がないこと」を悟ったんじゃないかなー?とおもいました 悟りって本当にあるんでしょうか。だとしたらあなたはそれが何だと思いますか?どうかご意見お聞かせください。
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哲学、倫理・319閲覧
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sag********
sag********さん
2021/10/27 1:21

悟りとは、ある、神秘主義的な体験を果たして且つ、その果実をとることです。「合一」といいます。 これが、大昔から今でも、インドでの悟りです。ていううか悟りという視点はインドです。西洋では、悟りより「変容」と言います。だから、スパーダーマンや、スーパーマンの様に、普通の人が「変容」する映画がやたら多いし、キリスト教神秘主義、ど真ん中のピノキオは「変容」そのものを描いています。 で、前提ですが、悟りを日本人仏教徒に聞いても、話がややこしくなるだけで、混乱するだけですので、無視してください。その理由が分かれば、悟りが何なのか、整理できます。 伝説では、釈迦は「瞑想中」に覚ったとされます。つまり、神秘主義的体験をしたことをこの伝説は描いています。 この結論を困る人達がいるのです。 それが仏教徒。ヒンドゥー教に仏教は飲み込まれて消滅しました。また、その過程の中で、仏教徒はやたらに、インド的なものを否定し、釈迦をオリジナルな存在、教えに人工的に変えて行ったのです。隣国のスリランカは、最近までインド的なものと内戦をしていました。地政学的な要素もあるでしょうね。 ていううか、釈迦は、「私の教え」ではなく、「諸々の仏陀(悟った人)の教え」と言ってるように、自分が仏教の開祖になるなんて思ってないし、ジャイナ経典では、仏教の開祖はシャーリープッタと書かれています。釈迦はコテコテのインド(ヒンドゥー)人で、アーリア回帰思想家なので・・ とにかく、ここの洗脳から抜け出さないと、悟りの話にいけません。 簡単にいうと、霊魂、アートマンを否定するんです。 ↑調べて味噌。 ちなみに、こんな考えは、宗教団体にしか通用しない妄説(だから論文書けない)で、インド哲学の大学者たちから、全否定されています。東大名誉教授が束になって、否定した本を続々出版しています。それくらい常識です。 史料的な価値が高い、経典の挿話は、何も仏教オリジナルではなく、ジャイナ経典と同じだったりして、それは「アートマン」を大前提に認めているとか、明白だから。 だから、悟りも、自分でも何言ってるのか分かっていない、唯物的なものになっています。ともかく、まずは、宗教団体を無視して学問的考察で悟りについて考えてみればいいと思います。 それは、もろに、ヒンドゥー神秘主義的な体験とその果実とりです。 因みに、悟りとは、悟ってない人からの表現であって、ゴールではありません。 その証拠に、釈迦も「悟った後でも」悪魔の誘惑を受けて、心を動かされています。つまり、挿話を書いた人は、悟りとは完成ではないという、インド的に当たり前な事を前提にしてるのです。 なので、貴方の質問自体が、すでに変な仏教宗教団体に洗脳されているののなので、マトモな人は、ややこしくて回答しにくいでしょう。 とりあえずここまで。
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悟りを開くとはどのような意味ですか?

2023-04-16 10:20:04 | ♬~我が悟りへの道程~♬

悟りを開くとはどのような意味ですか?
悟りを開くとはどのような意味ですか?
- 最も的確な表現は「本当の自分を知るこ... - Yahoo!知恵袋

ID非公開さん
2019/5/9 19:14
16回答

悟りを開くとはどのような意味ですか?
悟りを開くとはどのような意味ですか?
宗教・2,063閲覧
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このベストアンサーは投票で選ばれました

imo********
imo********さん
2019/5/10 18:07

最も的確な表現は「本当の自分を知ること」だと思います。 ほとんどの人は「自分」を錯覚しているのです。驚くかもしれませんが、この身体が「自分」であるという感覚は錯覚なのです。 「自分」の「服」と言うように、「自分」の「身体」と言いますね。「自分」と「服」が別々のものであるように、「自分」と「身体」は別々のもののはずです。 ではこの「自分」とは何でしょうか。どこにいるのでしょうか。 この「自分」を見つけることはできないはずです。しかし、悟りをひらくと、この「自分」を知ることができるのです。この「自分」は時間も形もなく、永遠不滅の存在であることを知るのです。つまり、「自分」はこの宇宙より大きな存在であることが分かるのです。また一切が「自分」でもあるのです。 このことがわかると、死も恐れず、この世の一切の価値あるものが、取るに足らないものであることが分かるのです。 よろしかったら、エックハルト・トール著「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」をお薦めします。

コメント (3)
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続・続々と鳥肌が立つような感覚~

2023-04-13 12:24:43 | ♬~我が悟りへの道程~♬
2012年05月01日
認識のバランス
認識のバランス


認識的実在である人間…。
幼い頃は、自分しか見えない、自分が正しい!自分こそ全て!であるのだろう?!

そして成長して他人の存在を意識すると、自分だけが正しい!自分が全て!とはいかなくなってしまう。
それでも自分が正しい、自分こそ全て!と思いたい!のが人間なのだろう~。

だが…それが出来難い!ので、何かを頑張り~他人から「凄い~」と認めてもらい、自分はヤッパリ正しい、自分は全て!と自己満足をしたい、ものなのだろう~か?!

学問の世界で天動説のような自己中心的ものから、地動説に変わっていったように…。
自分が正しい!自分が全て!と思いたくても思えない現実の中で子供時代の私、身体が小さく非力で運動会では毎回ビリかビリから二番目で、勉強もあまり好きでも得意でもなかった私は、どのように自分の存在を自分で肯定していた!のだろうか?

小五の時だろうか?!ほぼ同時期に二人の同級生と喧嘩をして、爪で引っ掻いて泣かして担任に叱られた記憶がある。
先生に叱らたことより、卑怯かもしれないだろうが…それでも小さく非力な自分が相手を泣かしたことが嬉しかったようである。
小六で特に身体が大きい転校生にいじめ的な目にあった時は、犬の話をキッカケに仲良くなり、その苦境を脱出した。
中学時代、運動会では障害物競争になり、なんと小学校時代とはうって変わって一等賞になってしまった、のである。
少々の自己満足的自己への思いはあっても…劣等感は消えなかった…。

そんな劣等感に悩んだ日々があったから、その後の頑張りがあった!のだろう~。

今の子供達は、そんな劣等感や無力感に…どのように対処しているのだろうか?!

今日、息子が同級生と3DSをやっていた。
その友達は勉強ダメ、運動ダメ、弱虫泣き虫…そんな彼がゲーム中では、自分が天下でも取ったように、死ね!バカヤロー!的…無敵であった。
確かにゲームなら指先の反射神経だけでなんとかなり、自信も生まれるのだろう~。
でも…ゲームの世界バーチャルの世界での満足感で現実の自分への不満から目を背けてしまって良いのだろうか?!

ダメな自分を直視しダメな自分を認め、その自分のダメさに押し潰されそうになっても、避けることなく、そのことに耐えつつ全身で押し上げようと頑張り続ける中で精神力が養成され…。
その精神力で新たな自己を他人に誇れる自慢できる自己を創造しよう~ではないか!
現代の子供には、そんな精神力を養成する条件や場がなくなってきた、のではないだろうか?!

世の中、子供にとって優し過ぎ!…
でも…大人にとって厳し過ぎ!なのではないだろうか?!







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