新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・新・「自分をみつめる禅問答」

2021-07-21 15:51:05 | 禅問答・公案
続・新・「自分をみつめる禅問答」

前回の『新・「自分をみつめる禅問答」』では、
以下の記述について書き忘れてしまっていた。

P268~


「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。


そこで今回は上記の記述についてである。


>「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける…とは?


それは、「問い」の答えを聞いて知って分かっても納得いかない場合である。

例えば、それが突然の交通事故の場合~
「問い」
何故、私達家族は事故にあったの?
何故、私は生き残って兄は亡くなったの?
何故、事故を起こした人が無傷で私は重症なの?

これらの「問い」に「答え」は存在する。
しかし、その「答え」を知っても分かっても…
その答えに納得も満足もできずに…
結局、この「問い」は、心の中に存在し続けるのだろう…

だから、
「…向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。」と
なり得るしかないのだろう…


それでも…人は考え続けるのだろう!

神様の思し召しだから…とか、
運命のいたずらだから…とか、
日頃の行いが悪いから…とか、


それで、何とか自分を納得させようと頑張れるモノであろう。
でも…そんなの自己満足に過ぎない…。

生あるモノにとって、死は必然で当然なモノ、
ただ…何時、何処で、誰に、「死」が訪れるかは偶然である。
その偶然とは、一つ一つの出来事の重なり合いの偶然が必然の「死」となり得ただけ…


生あるモノは、「死」の必然性の中で、
偶然の出来事の連続・重なり合いの結果、
「死」という必然と対面する、のだろう…


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新・「自分をみつめる禅問答」

2021-07-18 12:02:09 | 認識論
新・「自分をみつめる禅問答」


P268~
「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。


ここでの「問い」とは、
この著者が、肉親を突然に理不尽になくした者から
「何故…?どうして…?」
と問われた時のモノであろう。




世の中に、明確な「答え」はあっても、全く納得し難い「答え」があるモノである。
それは、いつも他人事で済んでいる事実が、
ある日ある時、自分事になった時の「何故?どうして?」であろう。


ある日ある時、突然に宝くじの一等賞!これはビックリ!
「何故?」「どうして?」…
でも答えは、簡単明瞭「宝くじを買ったから…」である。
これは、答えに感情的に納得できずとも、
喜びの感情に溺れて「納得し難い感情」は全く問題外となろう。


しかし、突然の交通事故、突然の通り魔…
そんな不幸に対しての「何故?」「どうして?」の問いに対して、
「そこに立っていたから…」「車を運転していたから…」「あそこを歩いていたから…」
こんな答えに、誰が納得できよう…
アタマ・理屈で分っても…悲しみの感情で納得できない…

これは、「何故?」「どうして?」⇒「そうなったの」が問いではなく、
「悲しみと如何に関わるの?」
「この悲しみに耐えられないどうすればいいの?」


ここで、前回までの
「自己」と「非己」の関係性からの運動様式=「自己」…となろう。
その基本は、「ひどく悲しんでいる自己」を受容する事。

自分で『今とても悲しんでいるな~』といった
「自己の感情を観る」「非己」の創造であろうか…

自分には耐え難い「非己」的な大きな悲しみが自己のモノになってしまったなら、
その悲しみを自己ではない「非己」を創出して、
その「大きな悲しみ」を自己から意識的に分離した「非己」に背負わせる。

これは、言うなれば、
意識的な「二重感情の創出」であり、
大袈裟に書けば意識的・自覚的な「二重人格」の創出となろうか…


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続・「自分をみつめる禅問答」

2021-07-18 10:26:27 | 認識論

昨日の続編である。

> P147~
君は、その「自分でない何か」を「非己」と呼び、「非己」を受容し、これとの関係を編み出していく運動様式こそが「自己」なのだと言ったな。


今朝、昨日は気付かなかった事に、ふっと気付いた。
それは、以下のような事である。

自分の中にあるのに「自分でない何か」というモノについて…
昨日は、自分の中にあるなら「自分であり、自分でないモノとは言えない」と考え、
それは、自分全体と一部の自分とか、
または、外界でも出来事から沸き起こった感情とか、変異した癌細胞とか…
そんなモノをイメージしていた。

でも…全体と部分や感情以外にも、「自分の中の自分でない何か」・「非己」が考えられる。
それは、他人との関わりの中で、ある時から意識されるようになった考え方・価値観・認識…である。
その認識は、自分が関り続けた他人の言動・表情…から生じた突然の「量質転化化」と言えよう。

例えば、自分が、その人物に対して好意・敬意・尊敬・憧れ…を抱いて、
その人物の全てを受け入れ続けた時…それは生じる、のだろう。

ある時は徐々に、またある時は突然に、
今まで「自分の中になかったモノ(認識)」が自覚できるようになったり、
または自覚されずに自己の言動に出たり…

時に、今までとは異なった言動をする自分に気付いて驚いたり…
そんな驚きを自分は好意的に受け入れるか・拒否するか…
そこから問題になっていくのだろう。



そう言えば、私も中学生の頃、ある日ある時、突然に母から、
「『クチャクチャ音を立てて食べる』のをやめなさい!」ときつく注意された。
それまでは「クチャクチャ音を立てる」事はなかった僕なのに…何故???

その後、気付いたのは、
当時の家庭教師の大学生が勉強の中休みに
出されたお菓子を毎回「クチャクチャ」と美味しそうに食べている事である。


この「クチャクチャ音を立てて食べる」事は、
ここで問題となっている「非己」的な行為であろう。
その非己の裏には、「クチャクチャ」は美味しそう…快感…
といった感情像・認識があり得たのでは…

私の場合、母にきつく言われて、理由もハッキリしたので、
それ以後、「クチャクチャ」な非己は、受容され続ける事なく消滅したが…

これは、自己が、非己を一時的に受容した(クチャクチャ食べた)が、
結局、それを継続・維持する事なく消滅させた、という事実であろう。


さてさて…
この今日書かれた「非己」についての事・像は、
昨日の私・自己にはなかったモノ・「非己」である。

そして、今日の今、この「非己」を、ここに記述・言葉にして再確認した。
この「非己」は昨日の私・自己にとっての「非自己」であり、
今の私・自己にとっては自己そのモノである。


その今日の「自己」⇔昨日の「非己」の発生・誕生の理由は以下であろう。

昨日、私は「非己」という自分ではない他人の概念・認識を、
自己の体験・経験…に照らして合わせて、このブログで言語化に取り組んだ。
その過程は、言うなれば、自己認識化・像化に取り組んだ、と言えよう。

それは、
初めは、外にある概念「非己」を、自分の体験・経験「自己」とすり合わせた。
その結果は、非己であり自己である不明瞭なモノ…。

その不明瞭なモノが一日経った今日、
自己の頭脳の中でより練り合わせられ明確化していた、のだろう…

それを引き続き、ここで言語化しようとした結果、
今度は、過去の「自己」が「非己」を体験した事実が浮上した。

ここに、
「自己」と「非己」が、より明確に意識・自覚できるようになり得た、のだろう。







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「自分をみつめる禅問答」

2021-07-17 17:14:21 | 禅問答・公案


「自分をみつめる禅問答」―南直哉― 「角川ソフィア文庫」に
以下のような言葉が書かれていた。


P147~
君は、その「自分でない何か」を「非己」と呼び、「非己」を受容し、これとの関係を編み出していく運動様式こそが「自己」なのだと言ったな。

この事について以下のような事を考えた。

この「自分でない何か」=「非己」とは、どこにあるのだろうか?
それが「自分の中」ならば、
自分の中にあるのに「自分でない何か」とはあり得るのだろうか?
そもそも「自分でない何か」が自分の中にあるのは変であろう。

そこで以下のように考えた。
自己を自分全体とするなら、非己とは一部の自分と考えられる。
例えば、
自己=自分全体を「体全体・細胞」=正常細胞とするなら、
非己=一部の自分「体一部・細胞」=癌細胞なのでは…

健康体なら癌細胞は消滅させられて、健康な身体維持が可能である。
しかし、不健康なら癌細胞が増殖して正常細胞が減少してしまう…


また、「自分でない何か」が自分の外にあるなら、
それは元々「自分でないモノ」だから「非己」と捉えるのは変である。
なので、この場合は、元々「自分の外にあった何か」が、
何らかの事情・理由で、今は「自分の中にある何か」になったのだろう。


上記の記述を私が納得できる形に書き変えるなら、
内界の確固たる自分には、
絶対に受け入れ難い現実・事件・事物を
強制的に体験させられ自分の入り込んだ時、
それが自己の中にある「非己」(自分できない何か)。


例えば、
普通の生活の中で、ある日・ある時に起こった突然の肉親の不幸。
その大きな悲しみの感情は、それまでの自分の中には、全く存在していなかった「非己」感情であろう。
その悲しみである「非己」を受容しようとする事で、問題の「解決or発展or消滅」の運動が始まる。
その悲しみから目を逸らし己の心を感じようとしないなら、
その問題は、そのまま決して先へは進めないだろう。

それは自己と非己が共存している状態であり、
「自己的な自分」でもなく「非己的な自分」でもない状態と言えよう。
それは、両方に揺れ動くシーソーの如く…自己喪失状態とでも言おうか…






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敢えて「禅」というモノを言葉にするなら~

2021-07-07 10:48:24 | 禅問答・公案
敢えて「禅」というモノを言葉にするなら~

禅は言葉で表現できない。
悟りは言語表現できない。

心は仏で、仏は心…
心は心で、仏は仏…

「仏性」とは、言い換えるなら「仏の本能」である。
「仏」とは、森羅万象・万物…全ての持っている性質である。
それは、換言するなら仏性=万物の性質=弁証法性、とも考えられよう。

しかし、ここには、仏性と弁証法性の相違がある。
仏性とは「仏」の性質であり
弁証法性とは、「物自体」の性質である、という事。

ここでの「仏」とは森羅万象・万物・全てにあるモノ。
「仏」は、常に森羅万象・万物・全てと共に存在している。

「物自体」は森羅万象・万物・全ての変化の根源。
森羅万象・万物…全ては、物自体・弁証法性の変化・運動結果である。

「禅」は、仏の生き方(仏性の運動性)を体得・本能化。
「弁証法」は、過去から現在までの物自体の自然⇒社会⇒精神への
変化・運動性の体得・認識・機能的実体化、といえよう。

その物事・結果に対しの「仏性」からの正解を
「禅」では、説明・言語化は至難であり、
仮に言葉にできても、その理解は、
禅を分かる者or分かりかけた者に
しか、分り得ないモノであろう。

また弁証法でも難しくはあるが、それなりに言語化可能ではある。

例えば
「運動とは、そのモノが、そこにあると同時に、そこにない」とか、
「変化とは、そのモノがそのモノであると同時に、そのモノでない」とか…

上記の言葉、初めて
見た時、「そうなの!」と、殆ど違和感がなかった。
しかし、その内に「え…なんか少し変だ…!」と違和感が生じ、
そして、今は「うん!そうであろう…このように言葉にするしかない…」と納得している。





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