新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

二つの真理とは?

2022-07-16 12:54:01 | 認識論
二つの真理とは?


「モノの変化」とは、あるモノが、あるモノである。
「モノの変化」とは、あるモノが、あるモノでない。


「モノの運動」とは、あるモノが、そこにある。
「モノの運動」とは、あるモノが、そこにない。


「場所の変化」とは、そこにあるモノがある状態。
「場所の変化」とは、そこにあるモノがない状態。

「場所の運動」とは、そこにあるモノがある。
「場所の運動」とは、そこにあったモノがない。


上記の二つの真理が、
一つに統一さけれたモノが、真・真理だろう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事実と言語について…

2021-11-03 10:40:51 | 認識論

事実と言語について…

言語とは、認識の表現である。
言語とは、事実を捉えて文字・音声表現にしたモノ。
言語とは、その人が関わった事実を文字・音声で表現したモノ。
言葉は、他人へ自分の思い・考え…認識を伝える為の道具として人類が誕生したモノ。

言葉の始まりは、人に何かを伝えたい…という感情…。
言葉の始まりは、人に見せる為の落書き・絵画…。

相手に「俺は怒っている!」と言う言葉は、
「怒(怒鳴)っている)事実・感情」ではなく。
自分が「怒(怒鳴)るに至った…その思い」を伝えて・知って欲しい思いの表現…。


言葉は事実か、否か…
言葉は、認識の文字・音声表現したモノ。
事実は、今・現実に起こっている物事、過去に起こった物事。

現在の事実は無限。
過去の事実も無限。

その無限の事実の全てを人間が認識する事は不可能。
だから、人間は、全ての事実の中から、
自分の必要・可能な事実を認識する努力・言語化する努力をし続けてきた…。

その結果、事実の「ひとまとまり」を言語で表現した。
「ひとまとまり」≠事実ではなく、
「ひとまとまり」<事実であろう。

その「ひとまとまり」は、事実の中の「開始⇒途中・過程⇒終了」。


事実の言語化とは、事実の論理化であり、事実の論理的表現。

言葉が
事実の部分的・論理的表現なら、事実の全体的表現とは?
それは、その事実に対する瞬間的・直接的な感情表現であろう。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「普請」について…

2021-10-30 12:01:29 | 認識論
「普請」について…

「普請」の常識とは?
「普請」とは、「普」と「請」と二文字漢字の熟語。
漢字には音読みと訓読みがある。
二文字熟語の読み方には、音訓・訓音・訓訓・音音…読み方がある。

その「普請」の場合は、音音だろうと推測できた。
そこで私は「ふせい」と考えた。

ここでの私は「請の読みを「請求」の(せい)と決めつけていた。
しかし…改めて辞書を調べると、請には、(せい、しん)が書かれていた。

考えた「私には、請=しん…の知識がなかったのだろうか?」と問い。
そこで「新漢和辞典(大修堂)[三訂版]」を調べたから
「請」を(しん)と読む二字熟語が見つからない。

この辞書の優れている所では、
意味は書かれていないが、最後に「〇請」の二字熟語がいくつか書かれている。
その中にも、(しん)読みは載っていなかった。

「請」は、清(せい)、精(せい)、青(せい)…から(せい)は納得できるが…
「請」の(しん)読みは納得し難かった…

そこで横にいる家内に尋ねたら、
「それはセットで(ふしん)」と読ませる!」と言われた。

これは、「普請は(ふしん)」と決められているモノ。
それは、慣習として決められているモノ。

しかし、多くの場合が「請(せい)」読みであるのに対して
「普請」の二字に関しては(請しん)と読ませるという特殊なモノであった。
だから、家内の言葉「常識!」であった。

私が、この言葉を小学校にいてある辞書で調べた時に、
「ふるい言葉」と書かれていた事から考えると「普請は過去の言い方」であり、
現代では「普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識…」常識ではなかった。

その証が、現役小学校教員10人に「普請」の読みと意味を聞いた結果である。

「言葉の読み方は決まっている」という考え方は常識である。
家内が常識と言うには、普請は(ふしん)を知っているからである。
その理由は以下である。
家内は日本の歴史が好きで歴史について多くの事を詳しく知っている。
そういう意味で、家内にとっては「常識」である。

しかし、そのような事を知らない私や現代人にとっては、
「普請」の読みは決まっているという考え方の(常識)はあっても、
実際の「普請」読み方や意味(過去の常識)を知らなかった。
また「普請」が古い表現だとも、過去の普通の社会人の常識だったとも知らなかった。

今私は知った!
「普請」の読み方に意味を…
そして「常識とは何か」を…

これも家内ともやり取り・口論レベル事があり、
その結果に納得出来ずに、
現実社会で、書物の世界で、ネットの世界で…
調べまくり、考えまくり、書きまくり…その結果である。


仮に私が誰かさんのように~
常識とは「当たり前の事…一々説明する必要のない事…」なんて
考え方をしていたら…今の私のような事は知り得なかった、のだろう。

弁証法の始まれは、
何事も「そう考えるとは限らない」と思う事…
結果がそうであっても、過程は違う、過程がそうであっても、始まりは違う。




コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人の振り見て我が振り直せ…

2021-10-24 13:55:16 | 認識論
人の振り見て我が振り直せ…は、事実 or 論理?

一人前の大人には、その大人の考え・意志がある。
それを赤の他人が、とやかく指摘して何になろう…
未熟で半人前の子供ならいざ知らず…


喫煙している大人に向かって「体に悪いから止めましょう」と言ったとして~
果たして、それで、その人は喫煙をやめるだろうか?
たぶん…無理であろう。

大人の他人の歩き方を見て、「もっと…胸張って歩きましょう!」と言ったら…?
普通の人なら…たぶん相手にせず「無視!」
相手が悪かったら、「この野郎!俺にケンカ売っているのか?」…となるだろう…

その人には、その人の人生観・価値観・思い・考え・趣味趣向…
を貫こうとする「意志」がある。

それを赤の他人が指摘して言う事に何の意味があろう?
それは、それは単なる自己満足に過ぎない…のだろう…

「人のふり見て我が振り直せない」臨済義玄お宅…
「直せない」どころか…自己正当化尽くしの臨済義玄お宅…

人類の文化遺産である先人の教え・諺を生かせない臨済義玄お宅…
そんな臨済義玄お宅には弁証法の全体像は永久に観えないだろう…




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「気付き」とは何か?を気付いた。

2021-08-16 12:07:19 | 認識論
「気付き」とは何か?を気付いた。


「気付き」とは何か?
「気付き」とは以下のようなモノであろう…
今までの経験・体験・知った事・学んだ事…自分の中の諸々なモノが、
それなりに筋を通して繋がった瞬間と言える。


では、私は何について気付いたのか?
今日、ふと思った!「武道の勝負」って何?と…

真剣を使って決闘したら「武道の勝負」?
時代劇の中で百姓が刀を振り回して闘っていた。
武技・真剣を駆使しての命を守る勝負だから「武道の勝負」!

南郷氏は、一般的・本質的には、
武道とは<武技を用いて命(いのち)を賭けた勝負の道>と書いている。

ならば、百姓には、武技=真剣を使える技術がない。
だから、これは、武道の勝負ではない。
真剣という武器は使っていても、武器を操る技術・武技はない、のだから…

日本刀・真剣を用いて命を賭けて勝負しても、
武技のない素人では武道の勝負とは言えない。


ならば、剣術家同士の闘いは、全て武道の闘いと言ってよいのだろうか?
例えば、一刀両断を目指すのではなく、先に相手の小手先をチョコっと切って、
後は、出血して相手が弱るのを待って切り込むような勝負の勝ち方は?

武道とは、<武技を用いて命(いのち)を賭けた勝負の道>であるなら…
それは、「道」である。「道」とは一本とは限らない。

正々堂々と<武技を用いて命を賭けて>「勝」のも武道勝負なら、
卑怯・姑息な手段で<武技を用いて命を賭けて>「勝」のも武道勝負。
または、<武技を用いて命を賭けて>逃げるのも武道勝負。


今回の私の「気付き」とは以下のようなモノである。

一つ~
武技=真剣・日本刀ではない事。
武技とは、武器を用いたから武技になるのではなく、
その武器を有効に使える技術を持って武器を用いた時、である事。

これは、武器(実体)と武技(機能)の区別と連関が
分かっていなかった事に「気付いた」という事である。

剣道なら上記のように分かり易いが…

空手や柔道の場合は、より分かり難いモノであろう。

相手に空手の形で突きを当てたら「武技」の駆使?
相手に空手の形で突きを当てたら「武器」の使用?

相手を背負い投げで投げたら「武技」の駆使?
相手を背負い投げで投げたら「武器」の使用?


真剣・日本刀は、誰もが使用した時点で「武器」の使用である。
しかし、素人が空手を突きの形で相手をついても
「武器」の使用にも「武技」の駆使しもなり得ない。

当然に柔道の背負い投げも然りであろう。


二つ~

武道とは、勝負の「道」である事の意味である。
「道」とは、一本ではない事。色々諸々の「道」がある。

勝負に勝つ事の選択も「道」、
勝負に負ける事の選択も「道」、
勝負を中途でやめる事も「道」、
負けを認めて相手の隙に乗じて倒すのも「道」、
敢えて勝負を選択しないのも「道」…

闘い方の選択も「道」なら
その結果の選択も「道」である。


三つ~
以上二つのような事を分かっていなかた自分に「気付いた」


では…何でこのタイミングで私は上記のような事に「気付けた」のか?

これには、実体と認識の双方の関係からであろう。

つづきは…またにしよう!




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする