新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・論理・論理的~

2020-02-22 12:20:15 | 論理
コメント欄の「無」のコメントについて~

この「無」のコメントには、
少々無理がある、ように私には思える。

この「無理」とは、
この「記事の記述=記述者は阿保」であるが…


ここで、私は、論文を書こうとも、
作文を書こうとも思っていない。

ただただ、私の思っている・思っていた事を
私が読み返して、納得できる形で、
言葉でしようと書き続けているのである。

それを、「無」は以下のようにコメントしている。
>この文章を読んで端的に「作文と論文の違い」が分かると思います。

これは、私的には、笑止千万であり、
「無」の言葉で書くなら、
これこそが「阿保」丸出しコメントである。


そもそも…
この記事の表題は「論理・論理的について~」である。
確かに、書き始まめは十進法、二進法、五進法…の事からであり、

結論は、十進法を基準に数字を見ている多くの人々は、
「10」と書かれていれば、
普通に、1→2→3→4→5→6→7→8→9→「10」

十番目・十個と理解している、のが普通であり、
これを
1→「10」とか、1→2→3→4→「10」と理解するのは稀である、であるが…


でも、これを論理として、論理的に捉え返なら、

我々が時々に使用している個別の言葉に込められている、
その話し手の個人的感情・思い・認識…も、「10」と同様に、
必ずしも、聞き手が理解・感覚・認識した通りだとは限らない…

それは、大人が子供の言葉を理解したからといって、
その理解が、その子供の認識に合致しているとは限らない。
…といった事である。

……もっとも…子供の場合、
その子供が大人の理解・認識に合わせてしまう事もあり得るので、
結果的に合致してしまう事もあり得るが…




それは、「無」が、
この記事の記述・言葉から自由びとの真の認識を読み取れずに、
以下のような結論を出している事からも、事実的に証明・認識可能であろう。

>自由びとさんが先ず初めに為すことは己が阿呆だということを自覚し認めることでしょう。

仮に真に自由びとが阿保であったとしても、
その阿保には阿保の感情・認識・論理…があり、
それは、阿保な認識・言葉・感情・論理…表現・表記されている。

それらを、阿保・聡明・馬鹿・天才…
そんな立場を超越して俯瞰できたなら、
決して、己が阿保に思える、
その阿保な相手の事を阿保だとは、
思えなくなるだろうに…


もっとも~
以上のようには、書いているが、
あった事も無い見ず知らずの赤の他人の記述を、
こうも簡単に「阿保」呼ばわり可能な

この「無」は
ソクラテスであり、
正真正銘な真の超人的阿保マンであろう。

ここで以下の疑問が~
私が「阿保」だから、「無」の事を阿保だと思えるのか、
それとも、「無」が阿保だから、そう思えるのか…

この答えは以下であろう~
自由びとを「阿保」と思っている「無」だから、
そんな「無」だから「阿保」である。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論理・論理的について~

2020-02-20 11:15:50 | 論理



去年の事だろうか…
ある時、私はふっと思った。

『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』と…

その時の解答が、「十進法だから!」であった。

1+1+1……「1」を十個たすと「10」となる。
2なら十個で「20」となる。


でも…これが二進法なら、、

1+1=10、だから、
1を10個たしたら、「1010」であり。

五進法なら
1+1+1+1+1=10だから、
1を10個足したら「20」となる。

以上のように考えて、
問い「1を10個足して、『10』になるのは?」の
解答「それは十進法だから…」は正しいと確信した。


しかし…その後、
またある時ふっと思った。

「10個」とは?

十進法の「10」とは、「一が十個」であるが…

二進法の「10」なら「一が二個」となり、
五進法の「10」なら「一が五個」となる。


ならば、
二進法の世界・ルールなら、
1を10個足すとは、「1+1」であり、
当然その答えは「10」で、

5進法のルール・世界なら、
1を10個足すとは、「1+1+1+1+1」だから、
その答えも当然に「10」となる。


ここで、更なる疑問が浮上した~
それは、

では…何故に初めの私は
「十進法である」という回答を正しいと
確信し得たのだろうか?

それは、
二進法・五進法の世界に
十進法の世界・ルールを適用してしまったから、
である。

それは、
実際の数量の表現である「10」と
記号としての「10」を混同していたからである。

●●●●●●●●●●=10……………
とモノが「十個」ある時、


十進法なら「十個=10」と書く、


●●●●●=10
●●●●●=10

五進法から、「十個=20」と書く、

●●=10
●●=10
●●=10
●●=10
●●=10


●●●●=100
●●●●=100
●●=10


●●●●●●●●=1000
●●=10

で答えは「1010」となり得る。

以前に聞いた話によると

十進法は、手の指は十本だから、
五進法は、一本の手には五本だから、
二進法は、腕が二本だから…



同じ「10」個と書かれても、
その事実的数は、それぞれ異なっている、という事。




以上の事実を論理として捉えて、
敷衍するなら~

教師には、教師的な世界観・ルールがある。
と同時に、児童には、児童的世界観・ルールがある。

当然に、
大人には大人の~小人には小人の~
親には親の、子供には子供の~

皆それぞれの異なったルール・世界観を持ち得ている。

この事が痛感・実感できた時、
そこには、その子供の言動を怒鳴る・叱るのではなく、
ゆっくりと心から諭す事が可能な境地に到達可能であろう。


もっとも…怒鳴って諭すも叱って諭すも…もありなのだが…


世界観・ルールが異なっているなら、
全く同じ単語・言語で会話していても、
そこには、概念的相違が多々あるのが現実世界である。


それは、同じ行動であっても然り!

これは、
私が私の狭い経験から…
ここ6年間に発達障害児達と関わって、
痛感・実感し続けている事でもある。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私・人間の認識運動…

2019-09-29 12:39:49 | 論理



先日、通常級の児童が、
近くをたまたま通りかかった私に、
「先生、誰々が泣いているよ」と
私に言って来た。

そこで、その泣いている子傍に行って理由を尋ねたが…
ただただ…泣いているだけで何も言えない・言わない…

そこで、隣のクラス・一組の担任に。その事を報告したら、
「あ~それは、(二組の)担任から叱らたから…でしょう」と教えてくれた。

理由が分かった私は、また彼の傍に行って、
「子供は叱られるのが仕事で当たり前…」と
色々と言って慰めてみた。

少し落ち着いたようなので、傍を離れて、
本来の特別支援学級児童の補助の仕事へ戻った。

夕方、また泣いている彼を見つけたので理由を尋ねたら、
「キャンプファイヤーに出られない!」と言った。

私は、『気持ちの整理が出来ずにいるのだろう…』と思い、
「大丈夫だよ!出てみてダメだったら先生に言えばいいよ!」と
参加を促すよう試みた。

後日、担任に事の真相(少し大袈裟?)を聞いたら…ビックリである。

担任が、彼を含めて三人の男子の非集団的な言動を叱り、
「このままだと、キャンプファイヤーへの参加は無理…」
「もっと確りと、先生の指示に従って集団的に行動して下さい!」
いったような事を言った。

上記の言葉を、泣いていた彼は、
「キャンプファヤーに参加してはいけない!」と理解してしまっていた」。
他の三人は、普通にちゃんと理解していた(ようで…)。

だから、彼が泣いていた理由は、
「叱られた事」でなく、
「キャンプファイヤーへの参加をダメだと言われた」
という思い込み・聞き間違え…であった。
~という事実を私は知り得た。


という事は、
大泣きしていた彼への私の理解・認識は少し的外れであり、
その言葉掛けも、正解ではなかった。


今回の「泣いていた彼」についての私の認識運動を振り返るなら、

初めは、全くの無知=何故泣いていたか知らない。知ろうと関わった。
次に、知り得た=理由を聞いて知り、慰めようと関わった。

そして、夕方~
理由を知っている(つもりで)関わった。
最後に、後の祭りだったが…真相・真実を知った。

これを一般化するなら、
無知→有知→行動…⇒無知の知


ここでの「無知の知」とは、
「知っているつもりの自分を知った」という事である。

知らない事より、知っているつもりがまずい。

知らない事は、知る必要を感じたり、知ろうとする。
知っているつもりは、知る必要を感じない・当然に知ろうとしない。


言葉にすれば以上であるが…
実際、現実的な困難は、
自分は、「本当に知っている」のか、
それとも、「知っているつもり」なのか、
その事実を知る事である。



今回の一件は、
たまたま後日担任から、
その事実を聞かされたから知り得たが…


実際は、知ったつもり、知り得たいるつもり~
そんな多くの事が、私にはあるのだろう…








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬鹿者よ!

2019-07-29 12:32:30 | 論理





馬鹿者よ!では、丁寧過ぎる、
馬鹿野郎よ!と書く事にする。

このような言葉で表現された私の認識は?
以下である!

自由びとは、馬と鹿は違う、と説いている…
游士くんは、馬も鹿も同じ、動物・哺乳類と反論。

その反論を自由びとが補足したら、
以下のような~

自由びとは、「どうしようもない頭の人間…」
というコメントを寄越した。


ここでの「馬と鹿は違う」を「馬も鹿も同じ動物(哺乳類)」とする
游士くん認識が、馬鹿野郎!認識でなのある。

確かに、この「馬も鹿も動物・哺乳類」は正しい…
しかし、それでも、時には間違いにもなり得る。

同じ動物なら、馬刺の代りに鹿刺を喜んで食べるか?
長距離の移動を馬ではなく、鹿にするだろうか?
誰だって、馬か鹿かと言われれば、馬だろう。
馬も鹿も同じ哺乳類だから、俺は馬に乗る…だろうか?
もっとも…試しに乗ってみよう~なんて事もあり得るが…

なんて…例えでは、この論理は分かり難いだろうから…
以下に、今回の具体的事実を提示して、解説してみよう。


もっとも…
コメント主である馬鹿野郎!認識の
游士くんには全く理解不能だろうが…






それは、以下のコメントである。





▼ コメント ▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
~考える~

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/0f875080119ac9b8018cbceff982314b

・コメントを書いた人

游士

・コメント
自由びと氏

お宅の今回のコメントを読んでつくづく感じたのが「どうしようもない頭の人間は実際にいる」ということ。

人それぞれ考えが違い個性があるのは当然ですが、どういう育ち方をすればお宅のような思考になるのか皆目もって分かりませんね。

多分、義務教育の中身に大差はないと思いますし大学教育の水準もそんなタワケた頭を育むようにはなってないはずですから、突然変異なのか何なのか?


▲──── ────




游士くんが
>今回のコメントを読んでつくづく感じたのが…<
と書いている


上記の感想は以下の
自由びとコメントに対するモノ。

↓~


▼ コメント ────


・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/0f875080119ac9b8018cbceff982314b

・コメントを書いた人
自由びと

・コメント
なかなか上出来、お宅にしては…

游士君へ


今回のコメントは、お宅にしては、上出来ですね。
それは、お宅の個人的見解・経験・体験の記述ではないから?

それでも、状況・分析・判不足なので…
以下のように補足をさせて頂きます。

>筋肉を働かせて身体運動するわけですから当然に交感神経は働かされるんだと思うんですが、それが癌に良いらしい…?

己の必要性から己の頭脳を駆使して、身体的対応する場合の「交感神経」への刺激と
他人・天寿堂氏の鍼灸治療過程での、他者的・直接的な「交感神経」への刺激…
の区別と連関。


>筋肉を働かせて身体運動するわけですから当然に交感神経は働かされるんだと思うんですが、それが癌に良いらしい…?

己の頭脳・意志なら、骨も筋肉も神経も…同時一体的連動可能。

しかし…他人での鍼灸では、神経への直接的刺激ですから、
しかも、座ったり、寝たりしている状態です刺激です。

そこに、筋肉・骨への神経的刺激・命令はあっても、
身体の運動はなし、筋肉も骨も内臓も…動かす必要性なし、

これは、交感神経は、働いていて興奮…でも、
神経以外の実体・身体的な要求はなしで不動、
動かない・動かせない…状態です。


これって、どうなの?
身体的健康な人達なら、交感神経の命令・要求も、
全身・身体的不動状態でも、それなりに耐えられても…

病人、人工透析や癌患者には、非常なストレスなのでは?


それは、
身体的健康体での局部的な不具合での交感神経への刺激と、
身体的病気体での局部への交感神経への刺激
の区別と連関、です。


>…そうした身体運動というのは交感神経とかの部分的な活動でなくて個体全体のシステム稼働なんですかね?

その通りです。
人間は、外界・周囲・自分の置かれた立場・状況の感覚・判断から、
全身・一体的対応・反応の為に交感神経が働き、
急発進・急停止・激怒・号泣…なのです。


でも…鍼灸治療過程での、座ったり・寝たり状態での
鍼灸による交感神経への直接的刺激では、神経の命令はあっても、
全身・身体的反応・運動は不可能なのです。

それは、交感神経の命令実施不能的なストレスなのでしょうね。

そう~「ストレスについて」は、
ここ最近よく、想い・思い、考えたりしています。

▲──── ────


更に、
上記の自由びとコメントは以下の
游士コメントへのレスである。


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
~考える~

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/0f875080119ac9b8018cbceff982314b

・コメントを書いた人
游士

・コメント
自由びと氏

私の投稿の一部を故意に非公開にしているのは残念に思います。

私は天寿堂さんの発言にも余り説得力というものが感じられないなとは思うわけですが実際の患者さんの回復や悪化は術者の発言の説得力とは別のところで成立したりもすると思いますから天寿堂さんの施術が明確にダメだなんて言えないような気持ちなんですね。
言うならばヒトラーの演説の説得力に騙されてドイツが大変な事態に向かっていったように…。

さっき欧州臨床腫瘍学会なんてものの記事を見つけましてね、「すべてのガン患者は1日60分の運動をすると改善に向かう」なんてことが書かれていました。
食事と運動と睡眠なんて健康のための三原則として小学生でも知っていることですが、それは癌患者にも当てはまる、みたいな記事ですよ。
筋肉を働かせて身体運動するわけですから当然に交感神経は働かされるんだと思うんですが、それが癌に良いらしい…?
東洋医学なんかでも古くから導引といって運動療法は推奨されてきたみたいですが、そうした身体運動というのは交感神経とかの部分的な活動でなくて個体全体のシステム稼働なんですかね?
治療の世界にももしかしたなら「1+1=2にならない」なんて現実があるのかも知れませんね。


▲──── ────

では~
馬鹿野郎!認識を「馬と鹿」からの解説でなく…
上記のコメント内容から解説してみる事にする。


元々は、記事「~考える~」は、
癌とは? 交感神経とは?を
~考えて~みたモノである。


それを、上記のコメントでは、
交感神経と癌の関係性について敷衍させている。


確かに、「交感神経の活性化・刺激」としては、
全力疾走も鍼灸治療も同じモノ・刺激である。

でも、その手段は「間接的と直接的」と違っている。

ここでの交感神経とは人体内の生きた神経である。
その交感神経の役割は、全力疾走なら、
その事を可能・持続する為の全身への神経伝達・命令である。
そこには、その刺激に対応した身体・内臓…活動があり得る。

一方、鍼灸治療ではどうか?
先ずは、治療を受ける人物の全身の状態・様子である。
健康体or病気体? 持病のあるなし…
治療目的の相違―内臓疾患、腰痛、肩こり…

個々の違いはあっても、座った状態か横になった状態での鍼灸であろう。
まさか、走りながらの鍼灸は有り得ない。


そんな状態での鍼灸による、
直接的な交感神経の刺激・活性化は、非常に不自然である。
そんな不自然な刺激が身体によい訳がない。


>さっき欧州臨床腫瘍学会なんてものの記事を見つけましてね、「すべてのガン患者は1日60分の運動をすると改善に向かう」なんてことが書かれていました。

この游士コメントから察して、彼の馬鹿野郎!認識は以下だろう。
運動が癌によい!
運動すると交感神経が活性化する!
交感神経の活性化は癌によい!


そう~
ここに、「交感神経の活性化の方法・手段」考察がない。
これを短絡的思考と言うのだろう。

そもそも、その「運動」にしても、
その癌患者の体力・状態に合わせた強度だろうし…

癌患者に「全力疾走」なんてさせたら…
とんでもない医療過誤で訴訟モノであろう。


普通の人が、「昔とった杵柄」なんて認識で、
現在の自己の体力・状態を考慮・視もせず
準備体操なしで、全力疾走したら…
そく、転倒・大怪我・心臓麻痺…
なんて日常茶飯事的にあり得る事でょう。


このような自分の現状・能力…を
知ろう・視よう、しない游士くんだから…

と言うか…
己を、視ようにも…知ろうにも…
游士くんには、無理無理なのは、明白な事実であろうが…

己の馬鹿野郎!認識か見えず…
自由びとを……


そう~
そんな己を知らない游士くんだから、
自由びとを
「どうしようもない頭の人間は実際にいる」
なんて公言できる。

しかし、これは、
游士馬鹿野郎!認識が、自由びとコメントに投影されたモノ。
游士くんは、自由びと言説に游士自身の認識を感じ取っている。のだろう。


もっとも…
自由びとが、
自由びとの馬鹿者!認識を游士コメントに投影しているかもしれないが…


上記のこのような~
「相手⇒自分⇔自分⇒相手」が、
「対立物の統一」⇔「対立物の相互浸透」であろう。

もっとも…私の場合の、
こごての「統一」と「浸透」の「対立物」は
「南郷理論」であり、弁証法・認識論・学問・哲学…である。

端的には、
游士くんの相手をしているのは手段。
私の目的達成の為の手段である。

それでも…
結果的に、
私のソクラテス化も避け難い事実であろうが…

そう、
全体的な前進・進化の為には、
局部的な後退・退化の犠牲もあり得るモノ。






















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする