言葉に対する想いの相違
今朝、家内と以下のような会話をした。
私は新聞のテレビ番組表を見ながら
「『半沢直樹』、今日最終回だね…」
と言った。
この時の私は漠然と前回のストリー展開を漠然と思い、
そして、今日の展開をイメージしようとしていた。
そんな私の言葉に家内は、
「……とれるかな?」
と言った。
私は必死に色々と考えた
『とれるって?責任?求める結果?』
そして結論が出ず家内に尋ねた。
私―「『とれる』って何?どういう事?」
家内は何も答えず…
テレビ画面をビデオの番組表にしようとしていた。
それでも…
私は何度も「とれるって何?」
と尋ねたが…
結局、返事はなかった。
少したって口を開いた家内は~
「『撮れる』って録画に決まっているでしょう!」
「今はテレビ番組の話だから、普通、『撮れる』と言われたら…」
「録画に決まっているでしょう!」
私―
「そうだね!どうせ…私は普通じゃないから…」
「今後は、私には異常者に対する態度で会話して!」
その後、色々と家内と言い合った結果、
以下のような事に気付いた。
私が思っていた「半沢直樹」は、
この番組の内容についてであり、
それをテーマにして会話を始めた。
私の言葉に対しての家内の思いは、
番組内容ではなく、前回の「半沢直樹」録画予約失敗であり、
最後まで録画できなかった事だった。
そんな家内の言葉が「撮れるかな?」であった。
それに気づいた私は家内に―
「ならば、『録画』という修飾語を入れて?」と言った。
家内―
「なんて考えが狭いの?」
「そんなの言わなくても分かるでしょう?」
私―
「分からなかったから聞いたんでしょう!」
家内―
「もっと想像力を付けなさい!」
「その為のヒントを出したでしょう!」
私―
「想像力…ではなく、私は会話を進めたい~!」
この私の「半沢直樹」という言葉で始めた会話は、
初めから私の家内の思いは異なっていた。
その相違に気付かずに…私は家内の言葉を考え続けていた。
そもそもこの「不一致」の根本的な理由は、
前回の録画失敗は私の中では終わっていた。
それは、
一つ、息子がネットで番組を見つけ出し最後まで視る事ができた。
二つ、失敗の録画予約は、私が三日前に訂正していた。
そんな私だから『撮れるかな?』という家内の言葉に、
録画失敗を想い出す事ができ難かった、のだろう。
言い合いの過程で、家内は
「…そうやって、あなたは直ぐ自己正当化する!」
「だから、私も正当化するんです。」と言っていた。
家内は、
この「正当化」という言葉の他に、
よく「あなたは正しい」とか「私が悪い」という言葉を使う。
不当な事だから、それを「正当化」する、のだろう。
初めから「正当」な事なら、「正当化」は不要。
そもそも人は、
誰でも、己の立場では、「正当」だと思うから実行する、のだろう。
心底から自分にとって『不当』だと思うなら実行しない、だろう。
言うなれば、誰もが主観的正当性を抱いて行動・実行しているモノ。
そんな己の行為に客観的正当性を求めるのは、利害関係の対立の解決の為。
夫婦の会話を「正当・不当」で終わらせるのは残念である。
また、「悪い・よい」も然りであろう。