新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

言葉に対する想いの相違

2020-09-27 12:28:00 | 日記

言葉に対する想いの相違


今朝、家内と以下のような会話をした。

私は新聞のテレビ番組表を見ながら
「『半沢直樹』、今日最終回だね…」
と言った。

この時の私は漠然と前回のストリー展開を漠然と思い、
そして、今日の展開をイメージしようとしていた。

そんな私の言葉に家内は、
「……とれるかな?」
と言った。


私は必死に色々と考えた
『とれるって?責任?求める結果?』
そして結論が出ず家内に尋ねた。

私―「『とれる』って何?どういう事?」

家内は何も答えず…
テレビ画面をビデオの番組表にしようとしていた。


それでも…
私は何度も「とれるって何?」
と尋ねたが…
結局、返事はなかった。


少したって口を開いた家内は~
「『撮れる』って録画に決まっているでしょう!」
「今はテレビ番組の話だから、普通、『撮れる』と言われたら…」
「録画に決まっているでしょう!」

私―
「そうだね!どうせ…私は普通じゃないから…」
「今後は、私には異常者に対する態度で会話して!」

その後、色々と家内と言い合った結果、
以下のような事に気付いた。



私が思っていた「半沢直樹」は、
この番組の内容についてであり、
それをテーマにして会話を始めた。


私の言葉に対しての家内の思いは、
番組内容ではなく、前回の「半沢直樹」録画予約失敗であり、
最後まで録画できなかった事だった。
そんな家内の言葉が「撮れるかな?」であった。


それに気づいた私は家内に―
「ならば、『録画』という修飾語を入れて?」と言った。

家内―
「なんて考えが狭いの?」
「そんなの言わなくても分かるでしょう?」

私―
「分からなかったから聞いたんでしょう!」

家内―
「もっと想像力を付けなさい!」
「その為のヒントを出したでしょう!」

私―
「想像力…ではなく、私は会話を進めたい~!」

この私の「半沢直樹」という言葉で始めた会話は、
初めから私の家内の思いは異なっていた。
その相違に気付かずに…私は家内の言葉を考え続けていた。


そもそもこの「不一致」の根本的な理由は、
前回の録画失敗は私の中では終わっていた。

それは、
一つ、息子がネットで番組を見つけ出し最後まで視る事ができた。
二つ、失敗の録画予約は、私が三日前に訂正していた。


そんな私だから『撮れるかな?』という家内の言葉に、
録画失敗を想い出す事ができ難かった、のだろう。



言い合いの過程で、家内は
「…そうやって、あなたは直ぐ自己正当化する!」
「だから、私も正当化するんです。」と言っていた。


家内は、
この「正当化」という言葉の他に、
よく「あなたは正しい」とか「私が悪い」という言葉を使う。

不当な事だから、それを「正当化」する、のだろう。
初めから「正当」な事なら、「正当化」は不要。


そもそも人は、
誰でも、己の立場では、「正当」だと思うから実行する、のだろう。
心底から自分にとって『不当』だと思うなら実行しない、だろう。


言うなれば、誰もが主観的正当性を抱いて行動・実行しているモノ。
そんな己の行為に客観的正当性を求めるのは、利害関係の対立の解決の為。
夫婦の会話を「正当・不当」で終わらせるのは残念である。


また、「悪い・よい」も然りであろう。





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量質転化化の二重性

2020-09-21 10:15:23 | 弁証法
量質転化化の二重性


弁証法の三法則の一つに「量質転化」がある。

これは、「ある事」の繰り返・量の増加で、
「その事」の質が変化する、事を言う。


その量質転化・変化が起こっている状態を
動的表現として「量質転化化」と書く事にする。


例えば、
毎日朝と就寝前に歯磨きをする。
この繰り返しでの量質転化化は?

一、毎日の朝と就寝前歯磨きの習慣化。
二、その歯磨きの結果・口腔内の状態変化。

この歯磨きの習慣とは、人間の行動・機能の変化であり、
口腔内の状態とは、口腔内という人間の身体・実体の変化。


ここに「量質転化化」の二重性が見て取れる。
この二重性は、全ての量質転化化に言える事。


更に、この場合の「量質転化化」の量と質について書くなら、

たった数日の繰り返しで習慣化する者もいれば、
何ヶ月も繰り返しても習慣化でき難い者もいる。

また、容易に口腔内が変化する者もいれば、
なかなか口腔内の変化が起きない者もいる。


この違いは?
一つ、当人の意識の相違。
二つ、当人の歯磨きの仕方の相違。


意識とは、
虫歯になりたくない!という思い・感情。
朝も夜も歯磨きすれば虫歯にならない(なり難い)!という信念。
これらが強い程に、少ない回数での量質転化化が起こり易い。



歯磨きの仕方とは、
歯の汚れを落とす為の正しいと言われている
歯磨きの仕方を実践しているか?

この仕方が、自分の歯に適切であればある程に
量質転化化は容易である。


更には、一回の歯磨きの時間の問題もある。
一般的に言って、一回の時間が長い程に、
量質転化化は起こり易いが…


それでも、一回の時間が長すぎると、
意識の継続が困難になり、
結果的に時間の割に効果がない事もあり得る。







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続・弁証法について~

2020-09-12 13:01:20 | 言葉・概念



弁証法とは、弁証法性の法則化である。
弁証法性とは、モノ自体が持つ変化・運動する性質・機能。


モノ自体とは、存在する物質・物体全ての実体を概念化したもの。
(この記述は少々怪しいが…)


弁証法性と性質の区別と連関。

弁証法性とは、その性質自体が「変化・運動」する機能という事。
例えば、「すぐ怒る」性質とは、感情が怒りへ変化し易い。
感情的な怒りは、身体的な乱暴な行動・運動に直結しやすい。

弁証法性とは、「すぐ怒る」という性質が「すぐ笑う」性質へ変化できる性質。
そう「性質」そのモノが、変化・運動する機能。


動物の行動は、本能に基づいている。
動物の本能は、その動物によって決まっていて変えられない。
本能は変えられなくても、その本能に基づく行動・動作は変えられる。
ただし、そこに環境の変化・人間の認識の関与があれば…であるが。

しかし、人間の行動はその人の認識が決めている。
その人間の認識は弁証法性を有している。

生誕直後の赤子には、関わり方次第で
どのような性質を持ち得る、という機能・性質がある。


その赤子を人間が育てるからこそ、
人間的認識・弁証法性を保持した人間にあり得るモノ。


弁証法性豊かに生まれた赤子・人類だからこそ、
その弁証法性を保持しつつ大人・人類に育てたいモノである。

弁証法には、「量質転化」という構造的な法則がある。
強烈な量質転化をしてしまった性質は非常に変化・運動し難くなってしまう。
弁証法性が、弁証法性でなくなってしまうのも、弁証法性である。


人間には、実体・身体の弁証法性と機能・認識の弁証法性がある。
双方とは、一般的に加齢・老化とともに、衰えてゆく。


弁証法とは、
弁証法性を、己が望む方向に変化・運動させる為の法則化でもある。

自然を望む方向へ変えるなら自然の弁証法。
社会を望む方向へ変えるなら社会の弁証法。
精神を望む方向へ変えるなら精神の弁証法。


弁証法性とは、環境によって、いかようにも変化・運動する機能。
機能だから、そこに実体がある。
モノ自体が姿・形を持った時点で、実体の弁証法性は量質転化化され狭くなり、
また、姿・形によって機能の弁証法性も制限されてしまう。


モノ自体が、量質転化するから姿・形を持つモノになる。
その姿・形の機能だから弁証法性は性質と化す。


変化・運動とているモノには、定まった姿・形がない。
定まった姿・形がないとは、常に異なった姿・形である。

常に姿・形が異なっているモノの存在をどのように認識するのか?
そのモノにマーキング可能で、追跡確認が可能なら、認識できる。


では、機能としての弁証法性は、どのようにすれば確認可能か?
弁証法性は、弁証法性としては、認識でき難いのだろう。










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技について…

2020-09-06 10:22:01 | 言葉・概念

技について…

技とは?

スポーツや武術、工芸など、それぞれの方面で、
うまくやりこなすために身につけなければならないやり方こつ。
と辞書には書かれていた。

ネットで検索したら

デジタル大辞泉の解説

1 ある物事を行うための一定の方法や手段。技術。技芸。「技を磨く」「技を競う」
2 相撲・柔道などで、相手を負かすために仕掛ける一定の型に基づいた動作。「技がきまる」「寝技」


(1)技と術ってどう違うんだろう
https://interview.uchinokomato.me/article/kenjutsu-05.html



本当に、「ある物事を行うための一定の方法や手段」が技?


ここでは考えられるのは、

技の二重性「技の型と技の機能」である。


例えは、空手の突きの基本型は、
初心者にとっては「技の型」だけ、
熟練者にとっては「技の形・機能」となる。


ここでの「型と形」の違いは以下のブログに書かれていた。

(2)「形」と「型」の違い!使い分けはどうすればいいの?
https://leaders-action.com/manabi/10841/


>「形」と「型」の違いをまとめて一言でいうなら、
> 「形をつくりだすものが型」ということになります。



そもそも基本突き型とは、
空手の突き技の一つの形を型として創り上げたモノである。


技⇒「ある物事を行うための一定の方法や手段」は、
言葉・視覚で感覚可能に表現した技の型でしかない。

その「見る事ができる」技の型を自ら体得して
それを用いて、ある物事をやりとげられた時、初めて「技の機能」となる。


(1)のブログでは、技と術、技術について書かれていたが…


技と術を並べた時の「技」の概念と
技だけの時の「技」の概念は、その論理レベルが異なっている。

空手なら突きの練習では、基本突きの型が技として捉えられ、
組手なら、突きの当て方・機能が技として捉えられる。




基本の型を学び、基本の型に近い形で表現できるように
習得・体得できた時、それを「技化」という事にする。


しかし…これは、技の型の技化であり、真の技ではない。
次に、その習得・体得した技の型を実際に駆使して
物事と関わりつつ技の機能の修得・体得ができて初めて「技化」達成となりえる。

(個別)技の「技化」もあれば、
(全体)技術の「技化」もあり得る。


習得と修得の違いは以下のブログで

「習得」と「修得」の違いとは?分かりやすく解釈
https://meaning-difference.com/?p=2254

>「習得」の意味は、「学問・技術などを習って身に付けること」です。
>「知識や技術など教わったことを繰り返し覚えて身に付ける」という意味で使われています。

>「修得」の意味は、「学問・学業などを学んで身に付けること」です。
>「修得」は自ら学んで「学問・技術などを理解して身に付ける」という意味で使われています。


技の「習得・修得」とするなら
習得とは、繰り返し技の型を真似ての体得であり、
修得とは、その技の型を実際に繰り返し試しての体得とある。



更に以下の解説での「体得」を加えるなら、

習得・修得・体得・・・ “三得” の違いが、企業の成果を左右する!



https://mbp-japan.com/tokyo/urabe0607/column/1353807/



●習得
「知識レベル」の段階です。受講生の感想としては「なるほど、ポジティブ発想が大切なんだぁ。自分はネガティブなところがあるからダメなんだなぁ。明日から頑張ろう!」と、知識を得たことにより満足感を得ることが特徴です。
●修得
「実践レベル」の段階です。受講生の感想としては「なるほど、ポジティブ発想が大切ということは、明日から部下に対して『ダメな理由』ではなく『どうしたら出来るか』を具体的に指示しよう」と、どうしたら職場で実践できるかを模索し始めるのが特徴です。
●体得
「自然な発現レベル」の段階です。受講生は感想を思い浮かべる前に、部下に対して自然に「資金が足りないことを嘆くより、スポンサー候補を探そうよ」と、研修をきっかけにポジティブ発想による指示出しに既に取り組んでいます。





突きの型を、そのまま繰り返す事で型の習得、
その型に近い形が自然に出来たら「体得」。


次に、組手で、その突きの型に近い形で
闘う努力の繰り返しで機能の修得、
その形で自然に闘えたら「体得」。




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