新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「我思う故に我あり」とは?

2023-03-25 08:22:55 | ~哲学~
「我思う故に我あり」とは?


師範は「我思う故に我あり」は、デカルト個人的認識・事実と考えるのではなく、
哲学的な「我思う故に我ありむとするなら、凄い発見である…とった内容の事を書いていた…(?)

そこで、「哲学的に考える」なら、どのように考えるが書いてみよう。

「我」・人間は、「思う」・精神活動をする「故に」から、「我」人間「あり」である」
⇒人間は精神活動をするから人間である。


ヘーゲル哲学的に書き変えなら⇒
人間は絶対精神の自己運動をするから人間である。
人間は絶対精神の自己運動を続ける限り、人間であり続ける。
人間は絶対精神の自己運動を続けられる限り、人間であり続けられる。
人間は、絶対精神的存在と、信じ続けられる限り、人間である。


現代風に書くなら~色々~

もう疲れた!!


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絶対矛盾コメント

2023-02-12 11:17:48 | ~哲学~
「絶対矛盾」コメントの実例


以下は、記事「分かった!絶対矛盾」へのお宅コメントである。

このコメントに書かれた言葉・認識と雲海の行為は
絶対矛盾していると感じて、ここに記事にした。



Unknown (雲海)    2023-02-11 12:11:55


>「自由びとさんのコメントを否定するつもりはありません。」  

と書かれているが…
雲海の行為―他人である自由びとブログに反論を自分から進んでコメントを寄越した時点で「否定」になり得る。
本当に否定するつもりのない人々なら「否定するつもりはありません」とは書き込まないだろう…。
何故なら、自由びとは、他人の意見も持論も異論も共感…
他人の中を求めて書いていない、から…
だから、「ここは自由びとの精神世界」と言い切っている。
もっとも…求めてはいないが、自ら進んでコメントを寄越してくれる事には感謝している。

確かに、互いの議論・討論の中でなら、
自分の見解として「否定するつもりはありません」と言い切る事はありえる。

しかし、この議論・討論の場ではない、
自由びとブログに雲海持論の展開という行為そのものが「否定」と捉えられる。

この雲海のコメント記述・認識は「否定するつもりはありません。」であるが、
その雲海のコメント投稿した行為が「否定」となり得る。


「否定するつもりがない認識」で「否定する行為」の連続」を「絶対矛盾」と言わずに何と言う?!



>私は自由びとさんよりも実年齢としては随分と若者でしょうけれど、自分と異なる見識に強硬に反逆するには少し齢を重ねてしまっているのでしょうね。


反論コメントの連続書き込みが「強引な反逆」と書かずになんと書く?
度重なる反論・異論コメントの連続で」ありならも…
「強引な反逆には少し年齢を重ねて…」とは、
ここでも認識と行為の絶対(的)矛盾。



>「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいますが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で解っていけば解っていくほど相手に対して優しくなれる自分がいますね。


雲海自身の言動の矛盾に気付けずに、雲海自己正当化・自己美化の連続…
何の為に、この「自由びとブログ」を読み続けているのか?
その当初の目的and時々の目的意識は何のだろうか?



>乞食に対抗意識をもつ職業人もいないでしょうし。

そうでしょうか…
人間関係のしがらみ・苦しみに囚われない生き方・自由に憧れが無くはない…ですが…
また、会社・社会・相手と約束・拘束に縛られない日々自由にも…

乞食ではないですが…
職業人を止めて、ホームレスに転身する人達のいますよね。



>解ってくれば解ってくるほど、南郷氏の述べた「学歴コンプレックス」ということが著述の核心として理解され、自由びとさんに対して優しい気持ちになっている私がいますね(笑)


「馬鹿に付ける薬はない」如く「雲海お宅に書くべき言葉なし」

南郷氏の述べた言葉である「学歴コンプレックス」を、
雲海認識で「解れば解ってくるほど」、南郷氏の「学歴コンプレックス認識」から遠ざかっているのに…

なのに、雲海自身は「解れば解ってくるほど」に解かったつもりになって、書いている。

ここで言葉ではない、二者の「学歴コンプレックス」の認識・像を見た時、
雲海お宅と南郷氏とでは、その認識・像の一致はない…
なのに…雲海は「南郷氏の言葉」として学歴コンプレックス」を引用している。

他人の言語・認識・概念と自己の言葉・認識・概念の一致について…

この雲海お宅は、
他人の言語と自己の言語の一致が、
他人と自己の認識・概念の一致として確信している(本来は誤解・誤信なのに…)。
この場合の雲海お宅の認識と外界(南郷氏認識)は「絶対(的)矛盾」。


雲海氏が、南郷氏の引用ではなく、
雲海自身の「学歴コンプレックス」と言い切っていれば…
この「矛盾の発生」は無かったからである。


人間が、どんなに頑張って努力しても、
絶対に止められない阻止できないから矛盾だから「絶対矛盾」なのだろう。

もっとも…
他の人なら、上記のこのような事は「絶対的矛盾」であろうが…


馬鹿は死んでも治らない的なお宅だから、
「絶対矛盾」とい確信して言い切っても間違いはない…だろう。
↑~
さてさて~
上記の私的な記述・認識・像とお宅の実体は~
「絶対真理」?「絶対的矛盾」?「絶対矛盾」?






コメント (7)
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「アキレスと亀の競争」について…

2023-02-11 08:38:37 | ~哲学~
「アキレスと亀の競争」について…


俊足のアキレスは、鈍足の亀に追いつく事だけを考え必死?に走った…。
それは正しい事か?

亀の現在地点目指して走ったゼノン。
その地点に到着したら、今度は先にいる亀の地点を目指して走った…、
どんなに鈍足でも走れる亀は、前の地点より必ず前に移動している。
その移動した亀の地点を目指してゼノンは走る。


何が拙いのか?
そもそも…競争の目的は、誰よりも早く「ゴール到着」である。
なのには、ここでのゼノンはゴールを目指さずに、
亀のいる地点を目指して、その地点との一致を目指して走っている。

本来の競争では亀のいる地点は、通過点であって、到着点ではないのに…

本来の教育は、教科書を教えるのではなく、教科書を通して教える。
教科書の知識は、ゴールではなく、ゴールへの通過点である。

ゴールは、教科書の学習を通して、現実世界像を描かせる事。
なので…ゼノン的な俊足秀才がテストで満点を取り続けても、
ゴールである現実世界を目指していないなら、絶対そこにゴールへの到着はない。


絶対矛盾とは、俊足ゼノンは競争で勝利を目指して、
前を行く鈍足カメを追いかけているのに…
それでは、絶対にゴールできない・勝てない。

勝利を求め確信しての行為が、絶対にゴールできない・勝てない行為。
主観的には「勝てる」⇔現実的には「勝てない」…そんな矛盾。


ゼノンは、眼前を亀の地点をゴールへの通過点として考えて走れたら…なら、
「ゼノンの絶対矛盾」的な思考はなかっただろう…

それは、走る「目的意識が異なっている」から…
これ程に、人間は目的意識的な存在であろう。

その目的意識の二重性~
習慣的・無意識的「目的意識」と自覚的・意識的な「目的意識」。

使う意識はあっても、創る意識の欠如。
創る意識はあっても、使う意識の欠如。
「使うと創る」の関係性であろう。


また…亀はゴールを知っていて、ゼノンがゴールを知らない場合?

……つづく……



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分かった!絶対矛盾!

2023-02-09 21:54:17 | ~哲学~
名無しの権兵衛さんへ

何と!
コテハンも書けなくなる程にボケましたか♪♪♪
しかも以下の引用も、いい加減ですね♪♪♪

>「>お宅には南郷氏の「絶対矛盾」という像は創れない<
これは正確に書くなら
「まあ~お宅には、南郷氏の「絶対矛盾」という認識・像は創れないでしょうが…
「もっとも…私にも無理でしょうが…」
「それでも、創ろう・創像しよう…という思いはあるのです。」

↑全然ニュアンスが違っていますよ!!!


>2020年6月28日の「「達人」について~」の記事<とは、古い記事をよく覚えていますね…
「概念規定」の創像過程の認識化・言語化・文字化は非常にムズイものがありますね♪♪♪

>……「絶対的に違う」……<、ともニュアンスが異なります。
人間には、絶対に現実とは一致しないような思考が可能な実力がある。
その現実とは絶対に一致しないような思考と事実は、「絶対矛盾」。
現実に起こり得る事実のようなのに、絶対に起こらない思考事実…「絶対矛盾」。

まあ~言語表現は難しいでするね。

確か…南郷氏は、ある時代に哲学が完成(ミネルバのフクロウが飛びった)時、
その時代の現実社会は、既にその一歩先へ進んでいる。

だから…その哲学は決して、その時代の現実社会の歩みに追いつけない。
そう~追いついたつもりが、決して追いついていない。

出来たつもりが、決して出来ていない。
分かったつもりが、決して分かっていない。

お宅の認識・確信みたい…ですね♪♪♪

分かった!
その時代の哲学とその時代の社会は絶対に一致しない」。
「絶対に矛盾」している。
分かった!
人間の認識・像は、現実の反映であっても、常に現実とはズレがある。
人間の眼前の事実を感覚して、頭脳に到着して認識するまでには、現実の先へ変化している。
人間の現実認識は、絶対に現実には追い付けない。
人間の認識像と現実の事実は、絶対に同時に完全一致はあり得ない。
これが「絶対矛盾」。
事実を感覚した瞬間、その事実は変化している。

南郷氏の「絶対矛盾」とは、上記のようなモノなのでは?


コメント (5)
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ゼノンのパラドックス

2023-02-05 10:07:51 | ~哲学~
ゼノンのパラドックス

「パラドックスについて「パラドックス」とは?意味と例文が3秒でわかる! | コトワカ/KOTOWAKA」では、以下のように書かれている。

>パラドックスとは、逆説という意味です。
世間一般で正しいと認識されているものに対する、反対の主張を指しています。
つまりは「定説に逆らう意見や主張」となるため「逆説」を意味するのです。
さらに「見かけ上の真偽に対して、本質的な真偽が異なる」というニュアンスもあります。<

>パラドックスは、哲学などで専門的に使われる単語です。
哲学などの世界で使われる場合にはややニュアンスが変わります。
そこで意味するものは「間違いに見えるものの、実は正しいこと」、「正しく見えることなのに、正しいと認識されていないこと」です。
ここでの使われ方は「矛盾」に近いニュアンスと言えるでしょう。
日常会話などでのカタカナ語ではあまり使われなかった意味が、哲学などの専門分野でのシーンでは採用されているわけです。
こうした専門分野のパラドックスの代表例には「誕生日のパラドックス」、「モンティ・ホール問題」などが挙げられます。<
ゼノンは運動の否定の為に、「詭弁」と呼ばれているモノを提示した。

>パラドックスの語源は、英語のparadoxです。
「paradox」の意味はカタカナ語と同じで、「逆説」や「ジレンマ」となります。
さらにカタカナ語よりもはばが広く「背反」、「矛盾」などの意味も含んでいることが注意点です。
語源の英語の方が意味の幅が広いので、カタカナ語になるとやや狭義の使い方に変化していると言えます。
カタカナ語では「背反や矛盾」の意味で使われることはあまり無く、語源とで全く同じでは無いので注意しましょう。
また英語のparadoxにも語源があり、こちらはギリシア語の「para」と「doxa」となっています。
「para」が「反対」を意味しており、「doxa」が「意見や通念」の意味です。
組み合わせると「反対の意見」などとなるので、大元のギリシア語に関してもカタカナ語とほぼ同じ意味と言えるでしょう。<



ゼノンの絶対矛盾―「アキレスと亀」は、ゼノンのパラドックスとも呼ばれている。

それは、「運動がある」という事に対して「運動はない」と主張する為に、
「運動が起こらない」事を「アキレスと亀」のパラドックスを作った…のだろう。




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