新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

事実と論理~

2023-11-30 12:19:55 | 言語と認識
~事実と論理~

「体罰は劇薬の如し」について…

この言葉の意味は~


事実的に考察するなら、
この文章は、「体罰」・「は」・「劇薬」・の」・「如し」からなっている日本文である。




「体罰」とは、教員が児童・生徒への教育の機会において、その身体に対して直接的または間接的に肉体的苦痛を与える行為をいいます1。学校教育法第11条により、「児童・生徒・学生に対する体罰を加えることはできない」と明記されています1。体罰にあたる行為は、傷害行為、危険な暴力行為、暴力行為の3種類に分類されます1。教員には、体罰にあたらない行為として許容される場合もあります1。

「劇薬」とは、ごく少量でも容易に中毒を引き起こす薬物で、使用量を過ごすと生命にかかわるので、厚生労働大臣によって指定され、みだりに使用することは禁じられている医薬品です1。劇薬は、毒薬に次いで毒性や薬理作用の強い薬物で、使用法を誤ると危険なものが指定されます1。劇薬の指定は厚生労働大臣が薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて行い、直接の容器または被包に、白地に赤枠、赤字をもって、その品名および「劇」の文字を記載することとなっています1。

「如し」は、比喩的に、同等・類似の意を表す助動詞である1。例えば、「落花雪の~如し」という表現は、「落花如雪」と同じ意味を持つ2。また、「如し」は、推量する際にも使われ、「…のようだ」や「好像」という意味を持つ2

「は」と「の」は接続詞。


全体の直訳的意味は、例えるから、「体罰は劇薬のようだ」となる。
ただ、これでは、どのような点で「劇薬のよう」なのかが、分かり難い。
それでも、上記の文章から以下のように解釈するお宅がいたとは…

「>自由びと思考だと、おそらくは体罰の「打撃=激しい」というイメージと、「劇薬=激しい効果、著しい効果」のイメージとが「げき」という発音で脳内リンクしたのでしょうけど、劇薬というのは毒薬と共に「どのくらいの量で死に至るか」ということで定義されているみたいですから、モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。」


確かに、改めて、素直に、上記のお宅コメントを、このお宅の認識的に、読みとるなら~
お宅の「体罰」の「打撃=激しい」というイメージから、なら「相手を殺してしまう・危険」的に理解もできよう。


別のお宅記述~
「モルヒネを劇薬とするならば「水だって点滴で血管に入れたら死ぬのだから、水も劇薬」なんて話しになりかねませんよ。」…


これも、モルヒネを血管注射するから、水も同じように、血管注射したなら、
即死だから「劇薬」…と言えない事はないが…

確かに、このように、書かれた文章を、書き手の認識を考慮せずに、
その言葉・そのままを事実的に解釈・直訳して、読み取るなら、お宅コメントも納得可能である。


まあ~
ここれもそれも私の自己責任的に考えるなら、全ては私の説明不足であろう…

そもそも「体罰は劇薬の如し」とは、南郷氏?誰かの著書で使われていた言葉で
その時の意味を、私は以下のように読み取り・解釈した。

体罰を、その児童の成長の障害となり得る悪癖の矯正・治療的な指導の為に使用するモノ。
気を付ける点は、「体罰の使用法・用量に細心の注意」が不可欠である。

何故なら体罰には、劇薬のような(精神を壊す・殺す的)危険性がある、から…

また、モルヒネを劇薬の例えに使用したのは…不適切であった、ようだ。
何故なら、モルヒネは「麻薬」であり「劇薬」ではない。

確かに、量的に「劇薬」としての危険性は少ないだろう。
それでも、「麻薬」としての危険性がある。それは、使用法とその頻度の問題であろうが…。

モルヒネは、「激痛・痛みの緩和」目的以外の快楽・現実逃避…
のように使用したなら「麻薬から劇薬へと変質するのだろう」

そんな・こんなお宅のコメントの指摘の意図・意味は、分かるが…

「水が劇薬」の如しとは…少々非常識であろう。
何故なら、どこの誰が、何かの治療の為に「水を血管に注射する」事を考えるだろう。
それなら、空気を血管注射しても、人は死ぬらしいから「空気も劇薬」
また、洗濯洗剤なら、血管注射でも飲んだも「毒薬」レベル?!


ただ、「体罰は劇薬の如し」の異論・反論としては、
なかなか面白く興味深いモノがあって、
私にとって非常に勉強になった事も、事実であろう…

また、そんなコメントから、改めて、
私がどんな認識で「体罰は劇薬の如し」を使ったのか…
それを、思い出させてくれたコメントでもある。

自覚不能な自己の悪癖は優しく直そうとしていても、なかなか治らない。
もっとも…他人からの指摘を受け、それが「自分にとって本当にマズイ悪癖だ!」と痛感可能なら別であろうが…


このようなお宅のコメントの悪癖について…時々思ってしまうのは…

それは、ここで、自由びとを試そうと、ワザワザ、トンデモコメントを書いているの?!であるが…

その事実は、ここに書かれていて存在していても、
それは、お宅の認識・心の中にあって、
私には確認不能な「暗黒・闇」であろう…


そうそう…事実と論理が、まだ書かれていない。
事実は、書かれている文章から読み取れても、
その書き手の認識は、文章事実的に読み、
そこから書き手の論理(言葉の一般化)を推測・読み取る必要があろう。
その読み取った論理と、その人物の日頃の言動を合わせて、
書き手の認識を想像・創像・(アバウトに)認識していく、のだろう…





コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記事 「心に青雲」ブログに想う~ について~

2023-11-28 18:31:57 | 言語と認識


「2022-11-26 16:35:57 」の記事「心に青雲」ブログに想う~」について~

>以下は、2006-07-17(06:24) にアップされた「心に青雲」ブログ記事である。

>ジャリ道鍛錬の弁証法


 >ジャリ道ランニングとは、わが流派の名物鍛錬法である。南郷先生が発案された。私も夏になると近所の河原に赴いて、裸足になってジャリ道を歩く。南郷先生ほど根性がなくて、痛くてとてもランニングはできないが、歩く。途中、体調を壊してできなかった年もあるが、どうにかこうにか毎年続けている。

 >炎天下、焼けたジャリの上に裸足の足を乗せる。熱くなったアスファルト上も裸足で立つ。ときに火傷する。これは足裏を熱と尖った石の刺激で、脳細胞を活性化させるのが目的である。頭が良くなる、と南郷先生は「総合看護」に連載中の『夢講義』で説かれている。たしかに私も頭が良く…と言いたいところだが、小生ごときレベルで頭が良くなった、とは恥ずかしくて言えない。それでも昔と比べれば、という条件をつければ、私のようなものでもそれは実感できる。
 

「確かに頭が良くなる」という実感は、ありえるだろうか?

この「足裏の神経刺激」での頭の良さとは、
勉強して問題が解ける…いったモノでない。

それは、言うなれば、感覚・神経が敏感になり得た事での「頭の良さ」であろう。
頭・頭脳活動の本質は神経活動であり、
日頃から刺激不足で鈍感な足裏に強烈な刺激を与え続ける事で、
鈍感から敏感へと変化される事。それが、
この場合の「頭が良くなる事」であろう。




>さて、そのジャリ道鍛錬の効用について、別の角度から考察をしてみたい。熱い思いをしながらジャリ道を歩いて気づいたことである。
 >第一に、当初、こんなジャリの上を歩いて本当に頭が良くなるのか、という思いはあった。それでも南郷先生のおっしゃることだから、と信じて始めた。熱く、痛い思いをしながら、あと一回往復したら止めようとか、先日はさぼったから今日は少し多めになんて思いながら、続けたことであるが、その熱く、痛い一歩一歩は、一歩ごとに南郷師範を信じる過程でもあったのである。止めたくなるのを、いやもうちょっと頑張ろうと、自分で自分をなだめるというか励ますというか、それは「頭が良くなる」という南郷先生の言葉を信じなければ歩めないものであった。だからこそ、一歩一歩が、信じる道に通じていたのである。


う~ん…
「信じる」事が「頭の良さ」…~そうだろうか?

この場合に得られるモノは、嫌でやりたくない事だが、
南郷氏を信じて実践し続けられる事で、他人力による自己の実行力・頑張力…の形成・獲得と考える…
それが強烈に発揮可能な「意志力」の強化になり得た…という事。

まあ~意志力も神経だから、「頭が良くなった」と言っても間違いでは、なかろうが…



 >この信じるとは、頭ではわかっていたつもりだったが、やはり実践してこそ感情になるという発見であった。
 私がブログで「心と気持ちの違い」を書いたところ、見知らぬ方からコメントをいただいたけれど、この方は失礼ながら、南郷先生をこうした実践を通して信じるという努力はされていないように見受けられた。要は、南郷先生の本を読んで、読解力的には分かることはできるだろうが、この熱く痛い思いをして、信じる道を歩んだ者でないと、「理解の妙味」は得られないのではないか。
 
 >さてそれから、ジャリ道鍛錬の第二の効用である。これは端的には、何ごとも能動的になる脳細胞を量質転化させて創る、ということである。


「何事にも能動的…」なら「能動的に犯罪行為」?と思われても…だが~
ここは、自分のやりたくない事・面倒な事・不要だと思える事…それでも、
信頼できる人から「やった方がいい!」と言われたら頑張れる意志力の量質転化化…

その事が、「正しい事or間違い事」という自己判断が不可能な場合は、
信頼・信じられる人の意見を聞き、判断材料にするのがベストだろう。





>ジャリ道鍛錬は熱いし、痛いからやりたくない。それをあえて実行するのである。最初は「あえてやろう」「えーい、やってやる!」というような半ばやけくその実践であっても、鍛錬を始め続ける認識は、自分で創っていくものである。
 

「痛い事を我慢してでもやり遂げるメリットを識る必要もあろうが…
聞いて信じられない時は、それを説いた人の人間性が信じられるか、否かポイントだろう。


>われわれがそもそも空手をやるというのは、護身を目的とするのは当然ながら、こういう目的のためでもあるのではないか?


全ての入門者が「護身を目的」という意識が明確に自覚出来ているとは…限ないだろう。



>かつてある人間が、過酷な機長訓練のあいだほど熱心に道場に通ってきた。それは結果的に彼の能動的・積極的な姿勢というものを創っていき、見事に機長にもなれたのである。空手を私が教えたから、などと傲慢なことは言わない。ただ彼自身、自分の人生を能動的になる脳細胞を自力で量質転化させることには成功したな、という感想を抱いている。むろん、もともと優秀な人間であったが。
 
>よく道場でも言うのであるが、仕事や勉学で忙しいといって、空手をやらなければ、それだけ何ごとかが退歩していく。現状維持ではない。高校生が大学受験で忙しいなか、勉強とスポーツを両方がんばった人間ほど、そのあとの人生が見事になるという事例を知っているだろう。あれは、無理してでも勉学とスポーツの両方を能動的にこなした結果、単に体力もつき、勉強もできるようになった、というだけの話ではあるまい。脳細胞じたいがある種、量質転化をなしとげたのであり、それが後の人生に、なにごとにも能動的に取り組む魂をつくるのに絶大な効果があった、ということなのではないだろうか。
 
 >話は飛ぶが、最近、電話からメールにコミュニケーション手段が変わって、その結果、人から通知を受け取っても返事をしない、というケースが増えたように思う。メールは受け取って、読んだ、だからわかった。それでこと足りたと思ってしまうのだろうか。

 >私の道場の者でさえ、連絡したことに返事がない。「メールを受け取りました」とか「連絡ありがとう」とかもない。
 自分に手紙やメールをもらったら、返事をただちに返信するということは、単に礼儀に反するということで言っているのではない。相手の通信に対してすぐに返事をすることが、どれほど頭の回転を早くすることになるか。多忙のなか強要するつもりはないけれど、礼儀を失しない程度にただちに返事を出すことが、自分の人生へのいわば積極的・能動的な姿勢をつくることと「直接」に行うということが、弁証法の学びでもある、ということが言いたいだけである。
 
>何も行動を起こさなければ、何もしないという量質転化が起きるのだとは、弁証法の教えである。
 メールも、どうやったら自分の人生をレベルアップさせることに繋がるか、という観点から考えて実践するものではないのだろうか? 逆に、面倒だな、と思いながら行えば、なにごとにも「面倒」という姿勢になるという脳細胞の量質転化が起きかねない。
 >世間一般の庶民は、メールは単に便利な通信手段程度にしかと思っていまい。しかしそれだけではない、というのが玄和会で学ぶ意義である。

 >ジャリ道歩きは、足裏鍛錬と(弁証法でいう)「直接」に脳細胞の能動的あり方を創ることを学ぶことでもある。
 >以上、ジャリ道鍛錬の効用について、脇道に逸れての愚察である。 2006-07-17(06:24) :


>私は上記の記事を何遍読んだ事だろうか…
>そして私は何を思っていたのだろう?

>過去にあれ程に心熱くして読み続けた「心に青雲」ブログ記事である。
>今の私の思いは以下のようなモノである。


>青雲さん・都築さんが、感動した弁証法とは、上達論的な弁証法であろうか…
それは、生々・発展する弁証法で…
そこに衰退・消滅…は求められていなかったのだろう…


>彼は、南郷氏と全く同じ事を実践する事で、
>南郷氏と同様な生々・発展が得られる…と思い込んでいた、のだろうか…

>私も同様であるが…私は私であり南郷氏ではない。
>私の体力・精神力…全ては南郷氏と異なっている。
>そんな私が、南郷氏同様に裸足で、アスファルトの上を歩いて大火傷をしたら…どうなるだろうか?
>果たして、そんなダメージに私は耐えられるだろうか?

>ただ信じようとするだけで、その強烈な刺激に耐えられるだろうか…
例え精神的に耐えられたとして、もう若くない肉体が、その強烈な刺激を普通に受け入れられるだろうか…


>裸足で暑いアスファルトを歩く効用は、足裏から刺激を感覚する事である。
>それは、全身を使って歩く・走る過程で、
>普段は全く感覚不能な足裏の感覚情報を脳細胞へ送る事である。

>それは、日頃から普通になかった刺激・感覚の創出であり、
>脳細胞への新たな新鮮な感覚・刺激である。

>普通に日頃から裸足に慣れていない人が、熱いアスファルトで火傷したら…
>その刺激が強烈過ぎて二度とやらなくのでは…
>そんな苦痛を心で信じるだけで、耐えられるだろうか…

>青雲さんの書いている通りから
>確かに信じ切って耐え続けられたなら「信じる」心は、
>より強固になるのは事実であろう。



>しかし…本来は~
>事実的に真似るのではなく、
>論理的な実践する事である。

>信じるべきは、南郷氏の言葉・事実ではなく、
>この言葉の裏の論理、真似るべきは、論理的事実であろう。


>足裏の刺激は、初め少々、徐々に多々…であろう。
>初めから「火傷」を求めるのは、信じる為の精神・認識的な実践としては効果的でも…
そ>の肉体が、そのダメージ耐えられないなら…肉体的には逆効果となろう。



>誰かが、「玄和会員に癌が多い」…と書いていたが…
>それは、大学生への練習・稽古を、三十代から、
>その事実のままに実践しようと無理したからだろう…


>または、加齢とともに衰退していく肉体へ、
>若かりし頃と同様な事実的鍛錬を強制しようとし続けた為であろう…

>何事も、その事実から、論理・構造を抽出して、
>自己の肉体に即して事実的に適用する事が肝要なのだろう。

さて…さて…

他人の言説を信じて、自分も真似る事に意義はあろう…
しかし、他人の体力・精神力と自己とモノとが一致する事は殆ど稀であろう。
信じた他人と全く同じ事ができよう筈がなかろうに…

成長過程・成長期の柔軟な身体なら、真似る事は可能だろうが…
三十代過ぎで、武道空手の本格的な修行は、
0かから0.5へ、0.5から0.01へ、0.01から0.5そして1.0へまた1.0から1.5へ、1.5から1.0、そして1.5から2.0へ

なんて…細心の注意も元の修行なのだろう…


相手を信じて手本として頑張った得た成果は、信じた相手のお蔭ではなく、
その相手を信じて頑張り続けた自分の実力の結晶なのだろう…


その結果が、不味ったなら、それは、自分の頑張りの方向性の問題か?
または、信じ選んだ、その手本の間違いであろう。

信じた相手の何を、手本としたのか?
信じた相手の何を、本気で学んだのか?






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・言語が先か?認識が先か?

2023-11-16 19:16:29 | 言語と認識

続・言語が先か?認識が先か?


現代社会では、現実的は、「その人」の認識誕生以前に言葉は存在している。
それでも、認識・誕生(頭脳活動開始)後の「その人」の頭脳内に「言葉はない」。
誕生時には、言葉もなく、言葉を発音可能な声帯もない、のが人類であろう。


現代社会・外界と「その人」の内界を並べた時には、「言葉が先で認識が後」。
それでも、「その人」の内界だけなら、「認識が先で言葉が後」。

現実の生活の中で、集団の中で、「ある人」が「ある感情」を体験して、
それを大勢の人々が「楽しい」と表現していたから、「楽しい」という言葉を修得。

仮に如何なる時も、全く感情変化のない人物がいたなら、
その人は、周囲の感情表現変化から言語を修得するだろうか?

その時の修得法は、自分の感情変化・様子ではなく、
周囲の人々の顔色・表情・変化・様子から感情表現を修得するのだろう。

ここで大発見!

感情が未熟の赤子・乳幼児は、周囲の人々の顔色・表情・言動…から言語の修得?
母親が楽しいと感じての身体変化を見て彼らは「楽しい」(感情自覚はないが…楽しい感)
これが、師範の説いている「認識の原風景」なのだろうか?



う~ん!それは言葉以前の感情表現さえも、周囲の人々の変化から修得…なのだろう…

周囲が笑うから、赤子・乳幼児は、笑顔を修得!
親が、愛情を込めて子供を叩くから、子供も友達を愛情込めて「叩く」。

認識は誕生しても、
その表現様式が未修得の赤子・乳幼児は、
相手の行動様式を修得していくのだろう。


大人の一般社会では、一般的に「愛情を込めて相手を叩く」という行動様式はない。
それでも…周囲から、愛情込めて叩かれた子供なら、ありえるだろう…
また、そのような子供なら、先生から愛情を込めて叩かれた時、その先生の愛情が分かる、のだろう。


「愛情から叩く」事と、「叱る為に叩く」の違いとは?

いつも忘れ物をしてばかり子供、いくら口で注意しても忘れる子供。
忘れ物は、「当人が困れば、なくなる」と言われている」…
しかし、幼過ぎて「忘れ物で困る!とは感じない場合…
昔なら、廊下でバケツ、手を定規で叩く…
「体罰」が嫌!痛いのが嫌!」(困る)…
家に帰っても痛みを想い出し「忘れ物しない注意」…
この時、この体罰に子供が、愛情を感じられれば…


「忘れ物で叱る」とは、
忘れ物は先生が困る。
その子に教えられない!
忘れ物は精神が弛んでいる…


子供の忘れ物が、先生の不都合だから、
バケツ・定・規体罰…ここに愛情はない!のだろう…








コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言語先か?認識が先か?改めて「言語と認識」について…

2023-11-16 18:11:28 | 言語と認識
改めて「言語と認識」について…

言語先か?認識が先か?


進化の過程では、言葉で表現が必要な認識が発生する事で、人類は「言葉」を創出した。
しかし、現代では、赤子の認識誕生以前に、既に「言葉」は存在している。

本来は、言葉より認識が先であるにも関わらず、認識以前に既に言葉は存在している。
個人としての人間は、周囲の他人の書物…の言葉を通して、自己の認識の言語化をしている。

さて、先週の事である。
私が、指パッチンをしながら階段を上っていると…
横を通り過ぎた五年生の男子が、「指パッチンして楽しい?」と声をかけてきた。
間髪入れずに私は「面白いよ!」即答した。




その後…ふと…私は考えた『何故に私は、「楽しい」と聞かれたのに、敢えて「面白い」と答えたのか?』
「うん!楽しいよ!」で、何が拙いのか?」

多分、小学一年生の児童達と一緒に指パッチンをしていたなら「楽しい」と表現しただろう。
でも、その時は、横を一緒に教室へ向かっていた小3の 男子児童に聞かせる目的もあった…から?

その児童は特別支援学級生であり、二年生の頃から私の前でよく指パッチンを聞かせてくれていた。
そんな彼から私が子供時代に練習した指パッチンを想い出させてもらった…のである「感謝」。

その日は一階で、彼が指パッチンを見せてくれたので、私も鳴らしたら、今までにない程の大きい音が出た。
その音の大きさから、不思議?嬉しい?珍しい?驚き?…の入り混じった感情だったのだろうか…

そこで考え調べた「楽しいと面白い」の違いを~

「楽しい」と「面白い」の違いは次のようになります1234:
• 「楽しい」は心が満ち足りて、愉快な気持ちであることを表します。自分が好きなことをしているときや、自分が好きな人と一緒にいるときに感じる感情です。
• 「面白い」は興味や好奇心を表す感情で、滑稽で笑いたくなる、気分が晴れ晴れする、一風変わっていて珍しい、心が惹かれる、趣深いなどの感情を表します。
• 「楽しい」は持続的な感情で、「面白い」は一過性の感情です。
• 「楽しい」は自分自身の気分や感情の状態を表現した言葉で、「面白い」はある物事の性質や本質を表現した言葉です。


私が「面白い」と言った時、上記の言葉は浮かんでこなかった。
それでも、この意味・解説を読んだら、
「成る程…確かに『楽しいてはなく面白い』が正しい私の認識だった…」。


私は、「楽しい」の意味も「面白い」の意味も説明・解説できない。
それでも、私は、あの時の私の感情・認識を「面白い」と正しく表現していた。


その理由は、生まれてから現在までに、
多くの「楽しい・面白い」の表現を、多くの人達や多くの書物から、
自然・成長的に、学習・修得してきた、からであろう。


自然・成長的である理由は、
「面白いとは?楽しいとは?」なんて、考える事無く、その時々の集団生活の中で、
「楽しい・面白い」という現実・事実の反映・五感情情報と共に、学び・学ばされてきた、から…

因みに「指パッチン」という言葉は、子供達が使っているのを最近聞いて初めて知った。
児童が「指パッチンできる?」と指を鳴らしながら聞いて来たから、「これって指パッチンだ!」だと認識した。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする