新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「栄養」について考える~

2019-10-22 12:55:42 | 想い思い考える



さて、この表題は、<「栄養」について考える>だから、

先ずは、「栄養とは」?、であろう。
そこで辞書を調べたら、以下のように書かれていた。
「生物が生命を保ち、元気を出す為に、体に取り入れる養分」

次は、「考える」とは?
「考える」を考えるには、
私ではなく、他人の認識(師範)とするモノの記述・認識を借りて、
私の思っている考えるを動かす事だろう。

そこで、師範の「生命史観」を用いて、私の認識を動かし考える事にする。

ここで、考える栄養とは、私にとって栄養だから~
私の生命を保ち、私を元気にするのが栄養となろう。

生命とは、生命体の活動・代謝である。
生命と生命体とは、機能と実体の関係である。


生命を保つためには、生命活動・機能を維持可能な、実体・身体の栄養。
元気にする為には、実体・身体を活発に活動させる。機能の為の栄養。

ここで私にとって必要な栄養とは、二通り~

身体・実体への栄養。
認識・機能への栄養。


私は人間、人間は雑食性の動物だから、
基本的には好き嫌いなく何でも食べる。

私は人間、人間は認識的実在だから、
その機能・認識は本能的ではなく、教育・自然的に技化・育つ。


身体・実体への栄養は、比較的理解し易いが…
機能・認識への栄養となると…少々難しいモノがあろう。

人間の機能・認識とは、像である。
それも、視覚中心として映像的な「像」である。

その認識が外界の変化に関係しながらも、ある程度は無関係に、
元気・活発な状態を維持可能なモノが栄養となろう。

私にとっての「元気」な状態とは、
前向きに、積極的に、物事と関わる…そんな事。
それは、今・現状維持ではなく、未来・変化を受け入れられる状態。

前向きとは、後ろを向きたい現実があるから、の前向きであり、
積極的とは、消極的になりたい現実があるから、の積極的である。


そう、それもこれも変化であろう。
何もなければ、前も後ろもなく、積極的も消極的もない。

私にとっての、元気にする栄養とは、
日々の子供達の関りからの変化・成長…であり、
息子の日々の成長でもある。

しかし、全ての人にとって、
他人の成長・家族の成長が栄養になるとは限らない、



ならば、人間にとっての認識・機能への栄養とは何か?
それは、端的には、運動・変化を喜び・快感して感覚可能な認識であろう。



最後に、
脳細胞の栄養とは、身体・実体への栄養であり、
頭脳の栄養とは、認識・機能への栄養となろう。


これが、

ブログ
「鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~」の

記事
「何を食べるべきか(3)〜脳そのものに必須の食べ物とは?〜」への
 現在の私なりの解答である。



再度の読み返しの結果、
以下のような事を認識した。

実体の栄養とは、雑食する・何での好き嫌いなく食べる事。

実体・機能的の栄養とは、そのバランスを考え、人間に身体維持可能な食べ方のしゅ。

機能的栄養とは、元気にするための認識創出維持の為の認識・創像方法の習得。















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事実と論理について…

2019-10-22 11:49:52 | 言葉・概念
事実とは、実際に起こった事、起こっている事、である。
それは、五感で直接に感覚・認識可能な事。

では、論理とは?

う~ん…これは難しい!

時の経過は、事実か論理か?
時間は、事実か論理か?

人の死は事実か論理か?

言葉で表現されたモノは事実か論理か?
言葉は事実か論理か?

そもそも五感で感覚可能とは?

「問題」というモノは、事実か論理か?


現代社会では、時計の針が時を刻み、暦の数字がが月日を表している。
時計の計も暦もの数字も五感で感覚可能だから、
時・月日は事実である?

否!
時計を五感で感覚可能なのは、
視て、針と数字…、
触って、冷たい鉄・プラスチック…等の物質感触、
舐めて、何とも言えない味、
聞いて、チックタック…コチコチ…等の機械音、
嗅いで、汗臭い?香り、

それらのどこに、
時・月日を感じさせるモノがあるだろうか?!


「死」にしても、同様であり、

目の前にある猫の(死?)体から感覚するモノは、

熱を感じない冷たく固い体。
聞こえない「ニャー」という鳴き声、
舐めたいとは思えない姿、
何とも言えない香り、
全く動きが見えない体…

それらの事実的な感覚・認識は「死」ではない。
正確には、「死」を知らない人にとって、「死」ではない。

以上の記述は、事実ではなく、事実を言葉で表現したモノである。
事実は、直接に事実として表現できない。
事実は、言葉・絵画・動作・態度・表情…等を
用いて・媒介として、初めて表現可能である。

言葉とは何か?
言葉とは、認識の表現、
言葉とは、人間が創造したモノ、
言葉とは、記号である。
言葉とは、論理である、と言える。

正確には、言葉を使った事実の表現の為には、
先ずは、その事実を論理的に解釈・理解する必要がある。


「人が走っている」は、事実か?

「人」という事実はない。
あるのは、私の知っている「○○さん」とか…。

「走っている」事実もない。
それは、足を速く動かして、体が宙に浮かぶように、前へ前へと動いている。

しかし「動いている」事実もない。
それは、今は真ん前にいた、と想ったら、
次の瞬間は、横にいた…といった事実である。


時計を見て時刻・時間を感覚するのは、
その針の位置・初めと終わりの針の変化を
時刻・時間として、
人間が、その人の認識内で変換している、からであろう。


このような「ある事実」の認識内での変換を
論理的把握・理解、というのでは?

そして、その変換能力を論理能力というのでは?


学校では、言葉・国語を知識・事実として教える。
「ある事実」から言葉・国語への変換も教える。

それでも、その「ある事実」から言葉・国語への
変換過程を直接教える事は、殆どないのだろう。


「事実と論理の区別なく…」とは、
南郷師範の御著書での言葉であるが…

そこでは、
論理を論理として教えられず、
論理を知識として教えてしまっている…と
現代の教育の大いなる弊害を説いている。





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禅問答の正解について…

2019-10-20 17:31:26 | 認識論


ここ最近は、公案と縁遠かったが…
過去のブログ「悟りを求めて…」の
1916年の記事を再読して気が付いた。


それは、禅問答の正解について、である。

南郷先生が以下のような事を書いている。
「禅とは、問題を問題とする己を問題にして…」


ここから類推して、

禅問答の正解とは、
「全ての禅問いへの即答である」

それが、客観的に、正解・不正解は無関係であり、
己が、全ての解答を正解と確信しての即答である。

そこで、
少しでも迷ったり、躊躇したりすれば、
それは、不正解となり得る。


問題を問題としない認識とは、
全ての禅問いに瞬間的に返答可能な認識である。


問題ではなく、普通事なら、当然に迷いもなく、躊躇もない筈であろう。
問題ではないなら、考える事無く、普通に瞬時に返答・対応可能なのだろう。

全ての事柄が問題となり得ない認識こそが、禅的悟りと言えよう~

しかし、禅としての正解が、社会的には不正解になり得てしまう。
または、禅としての正解が、学問的には不正解になり得てしまう。
そして、禅としての正解が、道徳的には不正解になり得てしまう。


ここで、禅問答の正解が分かったところで、
日常生活で発生するのすべての事柄に対して、
瞬時に普通に対応可能になり得るのは至難であろう。


現代社会での「悟りとは、
宗教的悟り、学問的悟り、武道的悟り、
の統一なのだろうか?!


それは、全ての問いに対して学問的正解、武道的正解の即答であり、
「禅的感情」と「学問的頭脳」と「武道的実技」との三位一体化だろう…






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続・「問題」とは何か?

2019-10-20 16:45:02 | 認識論
前回の記事<「問題」とは?>に、

例の如く、例のお宅から、
以下のようなコメントが~。


>……前略……「問題とは何か」との表題で綴られた文章の内容が「問題とは外界の実体でなく頭の中の観念である」みたいな、なんとも「ニンジンは鍋の外の調理器具ではなく鍋の中のカレーの中にある」みたいな「で、色々はいってますけど、どれがニンジン?」みたいな物言いで。……後略……




「問題」を「ニンジン」に例えるとは、
なんと的外れなのだろう。

そもそも「ニンジン」という言葉は、
ある特定の植物の事であり、
それは現実に存在してするモノを表している。

それに対して、
「問題」とは、以下のような意味・概念である。

問題とは~
①  学力や知識などを知る為に出す問い。
②  解決しなければならない、または、解決をせまられている事柄。
③  たくさんの人の話題になっている事柄。


問題の辞書的意味は、上記の三通りである。

① の「…出す問い」とは、実際に存在しているモノではあるが…
それでも、その問いは、特定の一つの問いではない。

② と③は、「…事柄」であるから、
この場合は、
初めから「問題」があるのではなく、
特定の個人、不特定多数の人々が、
特定ある事柄を「問題」とは感じ・思い・捉え「問題」が生まれたのである。

今、目の前に「問題」が、あったとしても、
人が変われば、「問題」の中身が変わる。

例えば、
ハムレットにとっては、
「生きるべきか?死ぬべきか?」、「それが問題だ!」

でも、別のある人にとっての問題とは、
「生きるか死ぬか」ではなく、
「どのように、生き抜くか」だったりもする。


このコメントを寄越したお宅の問題は、
分かっていないのに、分かったつもりで、
コメントを寄越している事なのだろう。

では、「分かっていないのに、分かったつもり」のどこが問題か?
それは、
己の認識を知らないのに、
己の認識の通りに生きている、
と確信している事であろうか…



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「問題」とは何か?

2019-10-19 14:49:37 | 悟りシリーズ


問題は、実体・事実としてあるのではなく。
問題は、その人の観念内で生じている認識。


問題とは、その人の観念内での矛盾とも言える。
それは、外界・現実と内界・理想との葛藤・矛盾とも言える。

この事から問題の解決法は、二通りと言える。

それは、
一つ、内界である自らの観念・認識を変える。
二つ、外界である現実を変える。
であろう。

また、内界を変える方法も二通り。
一つ、自ら理想像を変える。
二つ、問題持続状態を感じつつも平気にする。


ある事を、問題と認識するのは、
その心理・感情・状態に不安・落ち着けないからであろう。

その不安・落ち着けないのは矛盾を感じるから…でもあろう。
もっとも~これを矛盾と捉えなくても、特に差し支えない。

そもそも…その状態で、
先へ進むことなく、解決なくても、
不安もなく落ち着いていられるなら、
何の問題もない事になろう。


国語・算数の問題は、他人が作った、他人の問題であり、
そんな他人の問題は、自分にとって何ら問題とはならない。
それでも、問題を作成した他人の認識に二重化できたなら、
その時から、その他人の問題は、自分の問題化するだろう。


矛盾状態に耐えられる認識。
不安を不安のままに、安心していられる認識。
超難問題を諦める事なく、解答を究明を続けられる認識。
不安を不安のままに、普通にしていられる認識。


私の勤務している学級の情緒障害児達は、
カッとなったら、
即~壁を蹴る、
教師を叩く、髪の毛を引っ張る
近くのモノを壊そうとする…

小学生で、腕力・体力も力もそれ程でないから良いが…
このまま。中学生になったら…大変であろう。

彼らに必要なのは、「カッ」となった自分状態に耐える心。
その気持ちを言葉で表現する事。

…そのような事なのだろう…

書く事・言う事が簡単であっても
その体得・修得は至難であろうが…





コメント (3)
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