新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

弁証法の正体発見

2024-05-30 12:07:31 | …弁証法…

神戸だいすきさん~

読んで下さい!私の記述コメントを~
聞いて下さい!今の私ココロの声を~

分かりました!
弁証法の正体を悟りました!

技化した弁証法は、その人の頭脳活動・認識・機能の様式なのです。
その弁証法には~
一つ、観念論的運動様式の「観念論弁証法」
一つ、唯物論的運動様式の「唯物論弁証法」の二通りがあります。

観念論的運動様式の「観念論弁証法」の完成者がヘーゲル、
唯物論的運動様式の「唯物論弁証法」の完成者が南郷継正。

今の私が、思い痛感しているのは、
神戸だいすきさんの弁証法は、「神・宗教的な観念論弁証法」なのだろうと言う事です。


神戸だいすきさんの思考・認識・頭脳活動の様式が、観念論弁証法的なのでしょう。
それを神戸だいすきさんは、現実・事実との関りの中駆使しています。
その結果、現実・事実的な結果・成果が得られています。

何もかも物事の全ての原因を「神」にはしていない!

その成果・結果の思考・認識過程の言語化は、「観念論弁証法」なので、
○○霊、因縁、運命、宿命…といった観念的言語表現なのでしょう。
それでも、確かに貴方の頭脳弁証法性・変化・運動の統括は、
目的意識的な弁証法的な頭脳活動になり得ているのでしょう。

その貴方の弁証法の体得は、貴女の苦労の連続的な厳しい人生、
そんな人生を諦めずに、宗教・神・観念論を信じる事で乗り切ってきた結果なのでしょう。

稲村氏も都築氏の彼らの頭脳の認識・思考活動は、どちらも観念論的弁証法なのでしょう。

私・自由びとには、神を信じようとした過去はあっても、
神を信じ切るには余りにも苦労知らずの人生・現実だったのでしょうね。

だから神を信じすがる程の強い思いは不要だった…

それは「神を信じ助けを求める必要のない幸せ・苦労知らずの人生…」だったのでしょう。
私は、神に頼らず自力解決の為に、「弁証法」を求めて…
神ではなく、南郷継正という書籍の中の観念的な存在を信じたのでしょうね…
著書内の記述・言葉を…頼りに弁証法の体得・修得を目指したのでしょう。

神を信じたら「観念論」
実在の人物の、その言語・認識・頭脳活動の結果・言語化を信じたら「唯物論弁証法」…
じゃん~どうやら…私も弁証法の体得・修得がなり得た、ようです。

頭脳活動が弁証法的になり得れば、
その目的に即して知識・情報…をインプットすれば…
その目的意識・情報に即して体系化された、弁証法的な思考結果になります…

そこでの問題点は、その知識・情報の現実性・事実性・信憑性ですかね…

自己の五体を駆使しての体験的な五感情・情報なら、
その体験過程の一つ一つの過程の五感情報が感情として体得できて…
その結果、感情の変化・運動が弁証法的になり得ます。

そして、その感情を言語表現した時に、
唯物論的or観念論的に分かれのでしょうね…











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tadaさんへ「概念の弁証法」について~

2024-05-28 12:01:18 | …弁証法…
tadaさんへ「概念の弁証法」について~


tadaさんに読んで欲しい!
tadaさんコメントが欲しい!



「概念の弁証法」という言葉を始めてアマゾン?ネットでのtada氏の投稿・記述で見た時、
良く分からずに更に、その意味・概念を知りたくネット検索したが…未発見…

しかたないので…自分勝手的に思ったのは、それって「認識の弁証法性」?!

その後、最近、どこかで南郷氏の「武道講義」の引用を見て・読んで…

今は以下のよう考えている。


~私から始まる「概念の弁証法」~

以下のような概念の変化・運動を意図的・目的意識的に行える・行うのが「概念の弁証法」

「具体」⇔「具象」⇔「抽象」


(一)私自由びと⇔67歳・男性⇔人間、
(二)人間⇔脊椎動物⇔動物、
(三)動物⇔生物⇔生命体、
(四)生命体⇔生命現象⇔地球上での地球・太陽の変化・運動(物体機能)…

これは、
「物体・物質の機能」から、今・現在の[私・自由びと]へ続く弁証法性の法則化(弁証法)
なのだろう…


↑~なんて…書いてみたけど…
読み方によっては、唯の「言葉の羅列」…
それでも…今後(可能なら)私の学問的な知識が、今より豊かになれで…
上記の、「言葉の羅列」が、より現実・対象に即した言語に変化・変換される可能性はある!

因みに~
(一) には、具体レベルの弁証法性があり、
(二) ・(三)には、具象レベルの弁証法性、
(四)には、抽象レベルの弁証法性…


それぞれ論理レベルの弁証法性があり、そのレベル内であれば、特に「概念の弁証法」の使用は不要。
「概念の弁証法」は、論理レベルの意図的・目的意識的な変化・運動を求める時に必要な弁証法なのだろう…


言葉の羅列には、その言葉を発した当人の認識内に、その言葉・記述に即した感情変化がない。
逆なら説くなら、その言葉・記述に即した感情変化・運動があれば、それは言葉の羅列できない。

ただし…その「感情変化」というモノが、
現代の社会的な「言葉・記述」によって生じるだろ感情変化が、多くの人々が納得し得るモノでないなら…
それは、当人にとつては正しい認識「言葉・記述」でも…
社会的には「言葉の羅列(認識)」になり得るのだろう…


ここまで書いて思い出しました!
認識は、頭脳の機能、
認識が「概念の弁証法」レベルの変化・運動をできるようになるには、
実体・頭脳は、五体・身体の変化・運動が、頭脳を変化・運動させている。
だから、日々弁証法的な生活を繰り返す事が必要である!という事なのだろう。


そうそう…認識の弁証法とは、
日々の弁証法的な生活・習慣の繰り返しで、
頭脳の無意識・本能的な変化・変化・運動が弁証法性を帯びた・弁証法的な変化・運動性へ変化した。


無意識レベルの弁証法レベルの変化・運動性を、己の弁証法を駆使して、
目的・意識的に、求める対象の変換・創造・結果を可能にし得る、のだろう。


という事は~
普通レベルの認識・機能が、
弁証法的な弁証法レベルの変化・運動性へ量質転化化して、
それを法則化したのが「概念の弁証法」…

書かれた法則は、言葉・言語の中から
その実体は、その人物の認識・頭脳の法則的な変化・運動性~



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~水の弁証法性~

2024-05-23 12:36:50 | …弁証法…
~水の弁証法性~


水(液体)の性質である「器に合わせ姿形の変化・運動する性質」が変化したら~
水が凍って器に合わせて形が変化できない(固体化)時「水⇒氷」と名称変化。
水が高温で蒸発して形が変化したら(液体化)時「水⇒水蒸気」と名称変化。
この「水の性質の変化」⇒「氷⇔水⇔水蒸気」の事を「物体の状態変化」という。


さて…「氷⇔水⇔氷」というモノの本質は?
それは、「H2O」という水素と酸素の化合物である。
この「H2O」という水素・酸素化合物も水の状態で電気分解すると…
「水素と酸素」の二つ二種類の分子に分解されてしまう…これが「化学変化」。



更に水素と酸素には、それぞれに「原子・電子」があり、それらを分解すると「素粒子」へ…
更に分解を続けると、肉眼は当然、電子機器を駆使しても確認不能な「未知の素粒子」へ~

物体の状態変化「気体⇔液体⇔個体」が「物理法則」なら、
物質の変化「化合物の分解・合成」が「化学法則」。
更に、既知の素粒子の分解・合成で未知の素粒子の発見…「素粒子の分解・合成の法則」

「物体の法則⇔物質の法則⇔素粒子の法則」の法則化が<自然の「弁証法>」の一部と言えよう。

「〇〇法則」が、ここでは、個々の(物体・物質・素粒子)の範囲内でのモノコトの変化運動性の法則化(弁証法的)であり…
それを「特定・部分的な法則の変化・運動性」の総合・総括的な「法則として把握」が「〇〇弁証法」(この場合は自然の弁証法)

同様に「社会の弁証法」・「精神の弁証法」…となり、
<「自然の…」と「社会の…」と「精神の…」>三つの「弁証法」を弁証法的に総括・統括できたから…
哲学・学問レベルの「真・弁証法」(本質的弁証法)の誕生!


自然の弁証法には、事実的には、物体・物質・素粒子の異なる論理レベルの弁証法があろう。


この「論理レベル」は…真の納得・理解、そして言語化には、まだ少々時間が必要そうだ!


本来は、ここから、私の生誕後の自然・社会環境の弁証法的把握、
私の生誕後の自然環境の変化、仙台から九州へ、そして横浜・東京・都下へ、
また、家族・親類…関係、保育園、幼稚園・学校へ社会環境の変化、
更に、その時々の私の認識・精神の変化へ、
それは時々に思った事・考えた事(記憶しているor両親・友達から聞いた話)

~思考の論理レベル~
具体レベル思考、具象レベルの思考、抽象レベルの思考…

対象に対しての自己の目的意識的な~
「具体レベルの概念⇔具象レベルの概念⇔抽象レベルの概念」~
この変化・運動を、自己の意志によるも自由自在な目的意識的な変換・運動が「概念の弁証法」?!


概念とは、対象の概ねの観念=認識である。
また、認識は頭脳活動だから、この概念の弁証法とは~

「具体的映像の創像」(実体的な頭脳の活動)から
「具象的…」更に「抽象的…」頭脳の創像・認識活動の変化・運動性の変換~


それは言うなれば、眼前の対象を、
その一瞬で同時に論理的・論理レベル別に見て取る「複眼・心眼」と言えようか…


まあ~妄想・暴走的な自由びと言説~適当に読み込んで下さいな!







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柔軟性について~

2024-05-23 11:36:56 | …弁証法…

柔軟性について~


「水は器に合わせて形が変化する」…これは「柔軟性」なのだろうか?
確かに、対象に即して変化する事は「柔軟性」だろう。
でも、対象の器がないなら、水は地面いっぱいに広がってしまい…
水そのモノ・水自体の形そのモノが、そもそもない!


人間の赤子時代も同様に、
その赤子時代の人間には意志がなく、赤子に五体・姿形はあっても…
その五体の運動は、赤子の意志・認識とは無関係になされている。
それは、「水のような柔軟性」とも言えよう!


そんな赤子は、その成長過程で、色々な運動姿形を体得・修得していく~
これは、姿形なき柔軟な運動性から、ある程度の姿形のある硬質的な柔軟性へ変化していく。

この五体の姿形はあっても、その運動に姿形がない・定まってない柔軟性が、
成長過程の環境・生活の中で、徐々にある特定の範囲内の姿形へと定まっていく~
その範囲は、環境・生活での五体の運動させ方・運動の範囲内の姿・形である。


(1)それらの五体の運動が、環境・生活からの外部的・強制的なモノなら自然成長的…
(2)それが外部から強制であっても、自らの意志で喜んでのモノなら自然的意識的…
(3)また、外部・強制とは無関係に自己の意志での運動なら目的・意識的…


(1)は、癖・習慣的運動~
(2)は、カン・コツ~
(3)は、弁証法的~


弁証法は、全体的な変化・運動性の統括・総括的な変化・運動性の法則化なら、
弁証法的とは、ある部分の変化・運動性の部分の総括・統括的な変化・運動性の法則化…



11時11分~愛柴犬マロン散歩へ出発~なので

~つづく~



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~弁証法性と弁証法~

2024-05-22 18:05:25 | …弁証法…

~弁証法性と弁証法~

「弁証法性とは、事物・事象に変化・運動性」。
「弁証法とは、弁証法性の法則化したモノ」。


弁証法性は、どこにあるか?
それは事物・事象の変化・運動的な現象形態の中に!

弁証法は、どこにあるか?
それは、対象の弁証法性を法則化できた人物の認識の中に!

他の動物と違って、100%本能的ではない人類は、
その生活の過程で、その人的な弁証法を体得・修得して生きている?!

大自然の中で生活している人類は、自然の弁証法性から、その人レベルの自然の弁証法を~
人工的な都会の中で生活している者は、半自然・半人工的な弁証法を~
集団で生活してきた人類は、時々の社会から、社会の弁証法を~
集団で多くの人々のとの関わり合いの中で、精神の弁証法を~


なんて~書いていると、
分かっているようで、分かっていない弁証法だろう。

自然・社会・精神が持ち得ているのは、
自然の弁証法性・社会の弁証法性・精神の弁証法性~

それらを法則化し得た人の頭脳の中に弁証法が存在している。
言うなれば、「弁証法=(人類の)認識・頭脳活動の実態」と言えよう~


南郷氏の著作は、彼の中の森羅万象・万物のレベルの弁証法性の法則に即した認識・頭脳活動の言語化をしているのだろう…
そんな著作に刺激されて、私も自由びと的な弁証法を修得・体得し得ている?ようだ!


自由びとは、ここで、何をしたいのか?何を書きたいのか?
それは、自己の頭脳内の「弁証法像」の文字化・言語表現化!

その言語表現の為に、
南郷氏の駆使している言語を使う事は、言うなれば南郷氏技・言語・認識の盗用と言えよう。
もっとも…弟子が師範の技を盗み・盗用するのは…大きな問題とは言えないが…

それでも、その技・弁証法の修得・体得の為の盗用ならギリセーフだろうが…
しかし、その技を盗用して出した結果を己の実力・成果として誇示してしまうなら、それはそれで問題であろう。



そこで…弁証法性を「人類の柔軟性」例えて書いてみよう。

赤子・幼児・子供…成長期の真っ只中の人間は、「弁証法性豊か」・「豊かな弁証法性」と言えよう。
この「弁証法性」とは、本能的な成長過程での「全身の柔軟性」のもたらすモノである。
でも…成長期が終了して成人・大人になり得た人間には、そのような「自然・本能的な柔軟性」はもうない!
それでも、人によっては、赤子レベルの局所・局部的な柔軟性の維持はあり得る。

では、…その人物のそのような「柔軟性」は、どのように体得・修得したモノだろう…
それは、訓練・練習…目的的・意図的・意識的な訓練・練習の結果であろう。
または、その人物の生後の環境・生活過程での自然成長的なモノかも知れない…

それは、自然成長的なカン・コツ的な、狭い環境内での事物・事象の弁証法性の法則化…?
その自然成長的であるという事は、当人にとって、
それは「法則(弁証法)」意識ではなく、ただの生活・行動様式に過ぎないモノなのだろう?

さてさて…上記のよう途中「16時14分」から、愛柴犬マロンの散歩(庭でキャンキャン…)
帰宅して今「17時32分」書き始めている~

散歩中も私の弁証法認識を見つめ続けていて…以下のような事に気付いた~

自然の弁証法と言われている「いのちの歴史の物語」について…
始まりは、真ビックバンによる「前宇宙の崩壊・消滅」即「現宇宙の生々生成」一つの現象の両面。
そこから…太陽系(星々)誕生⇒地球の誕生⇒地球の分裂・月の誕生⇒……生命現象の発生⇒…

地球上の始まりは、生命現象・可逆的な変化…だけだったのに…
その一つから、今のような地球へ~何を書きたいのか…

それは、一つの現象には多角的な面がある。

あるモノコトの消滅は、同時に他のモノコトの生々だったり、同時の他のモノコトの発展、同時に他のモノコトの衰退…

部分の消滅は、その全体にとって発展だったり、
部分の発展は、全体の衰退だったり、

全体の衰退は部分の発展だったり、
全体の発展は、部分の消滅だったり、


一つの「事実・変化・運動」の持ち得る意味には、多面・多角的意味合いがある。
弁証法は個々の法則の体系化~


~未完~!と思ったが以下の事を書き忘れて…
つしでに書いておくことにした!


私の今のモヤモヤについて…私の妄想レベルで書くなら~
今まで過去の私の認識・頭脳活動の運動性に変化が生じて…
結果的に今まで記憶している過去の認識像と現在の認識像の間に微妙にズレを感覚している…
その、微妙なズレ感覚が、このモヤモヤなのかも…しれない…
そう思う理由の一つに、最近、学校での児童との「関わり合い」の中で…
自分が自分でビックリするような「的確な発言」を児童にしてしまっている事に気付いた。
これは、授業中の学習指導ではなく、休み時間のチョットした児童との会話の中での話…



「え!俺って…こんな事を思っていたの?」
「へ~俺って…こんな事を言えるんだ!」

そんな感じである。
まあ~これは、新一年生と四年間も関わり続けての私の認識変化であろうか…
私のジジイ的な認識が、幼い一年生的な認識に弄られて…
より正確には、私は、私の認識を、私の感覚した一年生的な認識で四年間弄り続けた結果…
ジジイ認識中に、ガキ認識が芽生えた…のだろう~










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