新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

南郷継正の「夢を動かす」について~

2024-01-11 07:31:57 | 「わたし事・学」
南郷継正の「夢を動かす」について~


私は誤解していた⇒南郷継正の「夢」を…
私は失念していた⇒南郷継正の言葉を⇒「私の言葉は論理」を…

論理のレベルには、現象論・・構造論・本質論レベル…がある。
夢には、夜見る夢・白昼夢・人生の夢…がある。

私は、私の夜見る夢の中で、夢を動かした。
私は、夢そのモノを動かせただろうか
私は、人生の夢「悟りを求めて~」を動かせただろう?
人生で日常の変化・過程で「悟り」を使って頭脳・感情をコントロールする事。
そもそも…本当に私は「悟って」いるのだろうか?


南郷継正は、言っていた?書いていた!
「私は、認識を三回変えた」⇒「弁証法学・認識学・論理学」


結論から書くなら…

南郷継正は、
初めの夢「弁証法」⇒「弁証法」を駆使して「認識論学」⇒「論理学」⇒「弁証法唯物論哲学」
成る程…南郷継正は、「弁証法体得の夢」⇒「弁証法唯物論哲学(学問)・完成の夢」に変えた!?!

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続・月研ぎさんへ ♪♪♪書けました♪♪♪

2024-01-10 17:24:19 | 「わたし事・学」
続・月研ぎさんへ ♪♪♪書けました♪♪♪



いや~失敗ですね。ドツボに嵌ってした、いたようです。
狭い土壺(今の私・認識)なのに…宇宙・世界・自然だ…なんて思い込みで書き綴って…


私が、書こうと「すべき」は~
教育における「先輩・同輩・後輩」とは?・それらの間の距離とは?

ここで「ベキ論」の不要論が、コメント欄へ届いていました。
私は、簡単に○○は「すべきだ」!ストレスなら○○を「やめるべきだ」…と言って終了していたが…
その後、色々と考えていた。

例えば、
「勉強すべきだ!」(知識・一般論)
でも「大嫌いで出来ない!」(個人的感情の結果)
なら「嫌なら止めるべきだ!」(他人の意見・感情・認識)
それは「親が許してくれない・できない」(親の希望)


このようなに考えて思った事は~

子ども自身が「子供の僕学校で勉強すべきだ!」と心から思っているのか?
それとも、親から「小学生のお前は、勉強すべきだ」と言われたのか…

↑上記の記述、過去にどこかで、書いた記憶が…デジャブが…

べき論は、自分から自分への縛りである筈なのに…
それは理性的自分が、感性的自分を縛るモノ。

その縛りとは、自分が、その場・その環境で上手く生活できる為のモノ。
更に、その場の変化・その環境の変化に耐えられだろう自分に対する為の縛りのようなモノ。



教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
教育とは、人類の文化遺産を教え、文化を発展させる能力を育てる事。

教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。



上記のような認識を持ち得た・持とうとする者の自分への縛りが「べキ論」であろう。

新一年生に、その担任は、自己のべき論を直接児童達に教えるのは早急だ。
まだ教える「べき」ではない。

その指導の仕方とは、一般般的に~
「ここは学校で、みんなの家とは違う。」
「だから、先ずは、学校でのルールを覚えようね。」
「学校は、勉強する所。勉強とは、できない事を少しずつ、出来るようにする所。」

「だから、初めは、『できなくて』いいだよ!」
「チョットずつ、出来るよう、先生と一緒にがんばろうね♪」

言い変え(換言す)るなら、教師の中で「べき論」を展開して、時々の児童達がすべき事を、優しく
「○○しようね!」「○○できたね♪」「よく頑張ったね」「次はもっと頑張ろうね…」~と褒めて~

児童達の一人一人の、まだ「十人十色」的な、その行為・言動の中での、
「先生の目的・目標」に対する一致・不一致的な「彼らの成功・失敗」的な事実を、
彼らが、失敗しても・成功しても・「快感」と感じるように関わる事が「先生のべき論の現実への適用」なのたろう。

さてさて…ここで…
時刻・「2時45分~4時25分」…までの昼寝へ~今復活して書き始めた。

上記は事実であるが…言うなれば、論理的な事実~
ここからは、私の体験した事実で書く事にした。

時はー1990年、場所―炎天下の砂浜・海岸での玄〇会、師範主催の夏合宿~

私達は、その炎天下で、いつ終了するか知らされる事無く、全員で立って、手拍子での大声合唱~

そんな練習に疲れ…もう止めたい!と思った私…
そこで、ふ…と気付くと、笑顔で 楽しそうに 全身を使っての思いっ切り(に見える)手拍子で口を全開で唄を歌っている大学生を発見した。

年下だろう彼は、私の人生では後輩。
共に同じ空手の練習をしている同輩。
でも、空手合宿初めての私にとって、たぶん先輩(空手着の帯色を見なかった…が)

すると彼は、後輩・同輩・先輩…という同時・同一性がある。
「現実界の後輩」(唯物界)・「空手の今の練習での同輩」(現在)・「空手道の先輩」(観念界)…

ここで、私は、彼の中に、「先輩」を見た!
それは、私の苦しみを、楽しみに変えている姿~

これならいける!と私は確信(したのだろう)か…

その後の私は、はずっと彼の姿を観続け・歌い続け・私も全力で(彼のような笑顔は無理!でも)
これは、私は私の疲れを感じた認識・心を、観る事をやめ、現実の彼の姿を見続けた。
結果、私は最後まで、ほぼ全力で歌う事が可能だった。

そんな彼は…最終的に「疲れ果ててブッ倒れた…」ような 記憶・像、
そして師範ら褒められていた像。

普通なら「こいつ・体力無え~」なのだが…
自己の限界まで頑張り続けられた意志力・気力は私の先輩である。

何故なら、その気力・精神力・意志力は、玄〇空手の求めているモノ。
だから、彼は、その点で私の先輩で、私は、先輩の認識を借りる為に、その先輩の姿・表情・言動を全力で真似しようとマネつづけた。

彼は、私に、教育・指導・指図…は、一切していない。
私が、自分の為に、彼から盗んだ・借りた・学んだ…・だけである。


どうですか?
私の生活感でていますか?










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月研ぎさんへ ♪♪♪書けました♪♪♪

2024-01-09 13:13:10 | 「わたし事・学」










送り主さんへ

以下のような、不思議なメール(こんなの初めて…どこから・誰が)今日きた。

1年前に書いた記事の感想を書いてみませんか?
また、ライフログとして1年後の自分に向けて素敵な思い出をブログにまとめましょう♪

月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて
2023-01-08 15:56:37 | ~教育~

月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて


教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
教育とは、人類の文化遺産を教え、文化を発展させる能力を育てる事。

教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。

教育する者―教育者。  
教育を受ける者―学習者。


師範⇒先生⇒先輩⇒後輩⇒同輩…

師弟関係について、


師範は、弟子を教育して一人前に育てる。
教師は、児童・生徒・学生…を教育して一人前に育てる。
どちらも、教育者と被教育者の関係。


教育関係において、「距離」とは何か?
以下の記述から考えてみた。



距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。

1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育

例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。

つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。

学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。

自由びとさんの展開
楽しみにしています。


「悟りを求めて…」いる私は南郷継正を師範と仰ぎ、「悟り」を習得しようと努め続けている。
私にとっては、南郷継正は、悟りを教えてくれる教師であり、手本・模範・ゴール師範…といえる。



私の学習・習得・修得…目標は師範の認識の中身―認識像である。
この場合、師範の認識像と私が思い描いた師範の認識像の相違・遠近を「距離」と考える事が可能である。
私の先輩とは、その者の師範の認識像が私より師範に近い者。
後輩とは、師範の認識像が私より遠い者。
同輩とは、師範の認識像が私と同じ程度者。


認識像について、

師範の認識像の二重性
一つ、師範の描きたい認識像―理想的な認識像
二つ、今の師範が描いている認識像―現実的な認識像。


師範は、師範の求める理想像を追い続けて…
私は、師範の現実像を追いつつ、その先の理想像を求め続けている。

算数には、「距離」と「道のり」という単元がある。
この場合の「距離とは直線距離」の事。「道のりは、ある道を通った時の距離」。

私が、師範の認識像を知って分かった…としても、
また、師範の通ったその道程・過程像・道のりも知って分かったとしても…
私が、師範と全く同じ「道のり」を行けるかどうかは不明である。


同輩とは、師範像と同じ距離・遠さにいる同行の者だから、互いにその先の道を闘論しつつ進める。
先輩は、先を行く者だから、アドバイスをもらいつつ背中を見ながら追いかけつつ先へ進める。


確か、南郷氏の著書に大学生の師範への手紙が紹介されていた。
その中で、「師範を目標にして、そこへの過程に大学・教授・授業を位置付けて学び続けている」といった内容のモノがあった。


これなど、師範をゴールと設定して、そこへの道を色々な教授・授業を位置付けている。
師範認識に近づく為の、踏み石を並べている…のだろう。


月研さんの以下の文面は~


>つまり、「距離」という概念で
>教師と先輩と学生が相対化されます。

教師の認識像をゴールとし、その過程・道程に多くの先輩を位置付ける。



>学生からは遠い教師像が
>先輩からのより近い教師像を介して
>学生により鮮明な教師像が描かれ、

それらの道標・踏み石として歩む事で、
より教師像に近づける。



>教師は、その学生の距離の変化で、
>学生像が更新される。

学生像が更新される事で、学生の分かる・が分からない部分がより鮮明になり、
教師の理想的像は、変わらずとは、表現に使われる言語をより学生像に近づける事が可能になる。


別言するなら、
大人が、普通の対等な会話が難しい子供に対して、
その子供の特性を理解できたなら理解可能な易しい言葉を選ぶ事。

教師が、その発達障害児の特性を正しく理解出来た時、

その言動が、その児童が受け入れられる型に変化可能し得る。

ゲ・ゲ・ゲの鬼太郎のような驚きです!
これって誰が書いたの? え?! 俺が!
凄い・感動だ!驚愕の事実だ!(俺が書いていた?とは!…まさか本当!)

さて…今日の私は、このパソコンを立ち上げる時、
内心『今日は、いくつメールくるかな…・昨日までと同じかな…』と思っていた。
それを読んでからレスメール、そして、今日の記事にしようかな……
と思ったら…何とビックリ!こんなモノが贈られてくるとは…
とても素敵なプレゼントだ!!!本当の心からの感謝の念をテレパシーと言葉、送信しますね♪♪♪





さて…ここから以下では一つ一つの言葉・文面の集中・纏まりを考えていってみよう。
そてし、<過去・当時の私コメントに、今・現在のコメント>を追加しよう。




月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて
2023-01-08 15:56:37 | ~教育~

月研ぎさんへ、教育における「距離」ついて

<以下の知識を参考に考えてみた。>


>教育とは、「文化遺産の継承と発展」(by南郷継正)。
<南郷先生の観念・概念の表現である知識・教育の本質=本質レベル>



>教育とは、人類の文化遺産・英知を教え、文化を発展させる能力を育てる事。>
<教育とは、人類の文化遺産・英知を理性・感性、的に教え、文化・生活を発展させる能力を育てる事。>



以下は、英知・文化遺産のネット解説。

「叡智とは、人類が考え出した食を巡る発想や知恵を指します。文化遺産とは、人類の叡智が世界各地に点在する存在で、将来の文化的発展のために継承されるべき過去の文化を指します。」

「文化遺産には「継承」という概念が含まれています。たとえば、富士山は自然の営みに宗教性や芸術性を見出してきた日本人の自然観や文化観が国際的に認められ、2013年6月に世界文化遺産に登録されました。」




>教育の目的は、生物として無限の可能性を持って生まれた人を人間に育てる為(人類文化を教える)。
<教育の目的は、ひと(生物・肉体)有限・頭脳(認識・精神)無限…の可能性の限界までバランス育てる事>


>教育する者―教育者。  
>教育を受ける者―学習者。


>師範⇒先生⇒先輩⇒後輩⇒同輩…

>師弟関係について、


>師範は、弟子を教育して一人前に育てる。
教師は、児童・生徒・学生…を教育して一人前に育てる。
どちらも、教育者と被教育者の関係。


>教育関係において、「距離」とは何か?
以下の記述から考えてみた。



距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。

1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育

例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。

つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。

学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。

自由びとさんの展開
楽しみにしています。




<旧>「悟りを求めて…」・<新>「悟りを求めて~ブログで、悟り求めている私は南郷継正を師範と仰ぎ、「悟り」を習得しようと努め続けている。
私にとっては、南郷継正は、悟りを教えてくれる教師であり、手本・模範・ゴール師範…といえる。
<今の気持ち…よくぞ!(ビックリ)・まあ(あ・き・れ)…ここまで(敬意)書けたモノだ~
<(この認識を維持したいモノだが…至難だ!(断定)>





私の学習・習得・修得…目標は師範の認識の中身―認識像である。
(結果的には、旧・新ブログでのヘルプ・コメントを全身(理性・感性的に)で真面に受け続けた結果が、師範の擬き像)


この場合、師範の認識像と私が思い描いた師範の認識像の相違・遠近を「距離」と考える事が可能である。
(旧・新・ブログでの、各コテハンへの私のレス内容が、私と師範の距離・の変化)

私の先輩とは、その者の師範の認識像が私より師範に近い者。
後輩とは、師範の認識像が私より遠い者。

同輩とは、師範の認識像が私と同じ程度者。



↑…これは、間違ってはいないが…
問題は、このブログのコメント欄を見て…、
御覧の通り、分かる人には分かる・分からない人には分からない、ように…

私自身が、そのコメントが、師範認識のどの地点なのか?
そのコメントが後輩or同輩or先輩か否か、ましてや師範なのか…絶対に判断不能だった。





認識像について、

師範の認識像の二重性

一つ、師範の描きたい認識像―理想的な認識像
二つ、今の師範が描いている認識像―現実的な認識像。

像の二重性

認識とは、対象の反映である。
これは、その対象を反映した人の頭脳の理性的・感性的な反映である。
理性的とは、その人の意識的な反映。
感性的とは、その人の感情的な反映。

ブログコメントでは、その書き手の感情が読めない。
現実なら、相手の表情・全身的なアクション・無自覚・無意識的微動…から、ある程度、その人が、その言葉に込めた感情が見える。



~つづく~今から昼食で~す!




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今まで誰にもに言えなかった「私の夢」!

2024-01-07 12:47:17 | 「わたし事・学」
今まで誰にもに言えなかった「私の夢」!

それは、師範の入れた美味しいコーヒー(都築さん曰く)を、
飲みながら師範と以下のような「茶飲み話」をする事。

いつか、どこかで、師範が生きている内に、師範の実体験が聞きたい!


流石、今回の弥勒さん
このタイミングで登場とはナイス!ですよ。
>「唯一、南郷先生の「夢を動かす」という発言です。
いや~その結論が出たのですよ。

夢とは、人生のこれまでの体験時の脳細胞の活動=感情認識を元にし、
それが、その日・その夜の頭脳・活動・感情・その時々の現実界の情報・過去の体験情報…

う~
そうだ、その晩の頭の活動に即して、過去から現在までの感情と一致する像を描く、

…うまく表現できない!知識的になら、夢とは、頭脳が描く像である。白昼夢・夜の夢。
「夢を動かす」については、私の結論はでています。

自分の意志を滅し
「己を空しゅうする」事、その時・何が起きるか?」

(昨日か一昨日に再読した私の師範御講義メモです)

答え・自分の夢が見られる事…
己を空しゅうするとは、自分で「己と言う」意志を消す。
究極の二重化・他方の否定です!

それは、一人っ子で淋しかった私が現在まで、続けている「独り言」ですね。
そうそう、南郷継正の著書で「独り言」をやっている…
を読んだ時、彼も私と同じだ!恥じる事はない!ちょっと安心。


そう「劣等感の塊コメント」への今日の私のコメントです。
私には、国籍・職業に対しての劣等感は、ありません。
唯一あった劣等感は、「背の低さ」です…。
クラスで一番・背が低かった私は、思春期の頃からですかね…
好きな同級生の女子より「背が低かった」…それが嫌でした。イヤな理由は、隣に並ぶとカッコ悪い!

その後、高校のサッカー部で、背が私くらいなのに、自信満々な同級生に出会って不思議でした。
後に知った、彼はヤクザの親分の息子だった事。
それは、彼の家で麻雀をした時でした。その時の私は、大勝ちしたので、
「私の勝ちを飯山?彼の負けから引いておいて…」その時彼はもう就寝。

そんな彼を見た私でも、心の底(思春期)から劣等感は…解決不能!
ただ…体は小さくても…私には「母譲りの気の強さ」があったようですね♪
小学五六年の頃、私より大きかった(誰かは不明・でも私がクラス一番のチビ)友達とのケンカで、相手を爪で引っ掻いて泣かして先生に叱られました。
また、トイレで結構ガタイのいい同級生と掴み・押し合いの喧嘩になり…
最終的に、お前って「豆タンクだ!」と言わせて・引き分けました。

そう…相手を攻撃する時、相手の弱点を探しますね。
自分の弱点・劣等感が、出生・職業なら、自由びとも同じだと思ったのでしょう。


玄関のマロンが騒いでいます。
散歩に行ってきます。


ここで今日の「見て動かした夢」を書きます。

「初めに、うっすら浮かんだ…石畳道路…歩いていくうちに人が…
そして像が鮮明化……遠く・近く窓が見える、近寄って行ったら開けてある・いている、そこへ飛び込んだ、砂道…歩いていくとレストラン…食べずに二階へ、そこには半開きの非常口、下りたら、そこからまた像が不鮮明…女性が現れた、触ろうと触っ(以前は夢の女性に触れなかった・今回触れた)ても反応なし、人間なのに人形みたい…人形なのに人間みたい、…その後、「リナ」、母の妹の養女の事(養女のリナは伯母の着せ替え人形)、が想起された…起きた時にリナへ電話した…留守電に伝言を~」これが夢の中身です。


夢の中で、「この夢・忘れまい」と必死に記憶しようとする私だった。



夢の始まりから終わりです、

「昨晩も1時過ぎのトイレ起き、から眠れず…
途中から「夢トレーニング」色々、途中にメモ書きをと思って一度は起きようとしてスマフォで時刻確認を確認した!のですが…よし五時までは床の中…トイレへいってもう一度トイレの時刻は3時25分…(時刻記憶間違いが…)

で、その後、何度も起きようと思いましたが…『ここで起きたら…夢の続きかが見られない…』と思い…途中で眠り、覚めて(さめて=悟めて、ですね…イヤ!悟りましたよ!)」


~ここから散歩~



そして、散歩から帰って食事をしながら「サンデーモーニング」を見てたら、

「戦争・地震」⇒「人災・天災」ニュース=人間界の激動・自然界の激動

私は、季節の変わり目には、眠れない・少々ハイになる・無落ち込む…
私は、過去に(今日はなんか変だなと思ったら満月の夜だった)
「これは思い込みだったのかも…狼伝説知っていたから…」


で~思いつきました。

自然界の激動・人間界の激動・私の心の悟り化への激変、

これって「自然・社会・精神の弁証法」ですね…
そうなんです!これって驚駭(きょうがい)ですよね…


私は笑って・大声で笑いながらの音のない号泣。
笑い声の号泣でしたよ!

笑い声での号泣!


さて今日の結論が出たので、
さて、以下のコメントを読もうかな♪♪♪


初めにチラッと目に入ったのが、>「唯一、南郷先生の「夢を動かす」という発言です。











・コメントが届いた記事
うん~今日は、何の記念日にしようかな…「またまた悟った記念日」?

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/a468a2c03fe23c57ff06e0563a823246

>・コメントを書いた人
>弥勒

>・コメント
>たくさん書いてありますが、私が思ったことは唯一、南郷先生の「夢を動かす」という発言です

>確か『武道講義』の中で「三浦つとむの弁証法レベルの認識論では夢は如何とも動かせない」みたいなことを書いていた記憶があります。

>私はこれも「知識の問題」、知っているか否かの話しだと思いました。というのは精神科医の行う精神の治療の中に「悪夢を見ないようにする」というのがあり、それが患者にマッサージしたりの筋肉をゆるめて身体を快の状態にするもので、南郷先生的な言い方をしたならば「認識と実体」ということになるのでしょうけれど、夢は認識だから認識をどう動かすではなく、肉体のほうに働きかけて悪夢を良夢?に変えるというような内容でした。

実は、初めて、このくだりを読んだ時、「言葉だけで何で…?」と言う疑問が…


今なら以下のような理解です.固まっている身体を、「話をゆっくり聞きながら(慈悲の心)でのマッサージは、

その慈悲の心(あの弥勒さんですね)と「相互浸透」します。
そこで固まったその頑な心がほぐれていきます。
そして、そのタイミングでの固まった身体へのマッサージ(私も整体)。


の家内は、自分の事より「オーケストラ」活動を優先していました。
彼女は、慈悲の心をもっていた。しかし、私はやさしいだけの自己中です。

そうそう、息子に「自分の優しさを相手に向けた時が慈悲なんだよ」と言ったら…
すると息子は、「それて思い遣り、だね…」
う~ん…私しは迷いました…何故「思いやり」…でもなんとなく納得。

今検索した結果が以下です。


引用↓
「慈悲とは、最後まで相手の心に寄り添っていくということなのです。

そう言えば、家内の死まで見取ってくれた訪問看護師は、その慈悲の心の持ち主だったかも…
この事実はいつか、書いて再確認したいですね、
●思いやりは想像力(で)相手を理解するってどういうことでしょうか。
相手が全く違う意見を言った場合、「自分はこう思うけど、相手は全く違う考え方なんだ。 どうしてその考え方をするのだろう?」


最近・「家内の死」後…息子と二人暮らしで、息子の良さ・凄さが分かってきました。
息子が、政治家になって、政治世界に毒されずに、首相に慣れたら、確実に日本は変われますね。
家内が日本籍だから息子も日本籍、彼なら日本でも政治家になり得る。
でも…彼は政治に興味なく、オービックに内定しています。
何度も…とてもフレンドリーな雰囲気、社員さん達も、とても話し易かった、そうです。
よく…息子が「頭がいい!」いうので、「頭がよいの解説」するのですが…

さっきですかね…
「頭が良いの二重性」
一つ、頭の回転が速い
一つ、心の変化・運動が弁証法的

分かりますよね…この矛盾を~
心は自然・社会・精神の弁証法性に従って変化・運動している。
頭は、回転の速い頭は、外界の感覚情報を元に変化・運動している。

「こころ」は即自的・(本能的反応)vs「アタマ」は対自的(問い掛け認識)。

弁証法の体得とは、心の弁証法性を「弁証法化」
こころの弁証法化は、事実的な対象を弁証法的に学ぶ、
その過程で、その各段階の「こころ」を弁証法的言葉で捉える…

例えば、白帯⇒紫帯⇒茶帯⇒黒帯⇒技の使い方の心を~
それらを、弁証法の学びと並行に実践する事で、

空手の生々・生成・発展・衰退・消滅までの、心と言葉が対応可能になり得る。
そこに「武道としての空手」から⇒仏教の悟りへの道の論理が適応…
ただし、ゴールは「生死を賭けた勝負の道」=「死即生」、
「死」とは「仏」になる事、「心を殺して」」即「体「生かす」…

私には、無感情・自分の心を閉ざす事を自分にやらせる事が、玄〇会入門以前から、たぶん幼少時が可能だった。
「いざ鎌倉」と、なったら、全てを自己の生存の為に、全力投球可能なのだろう。

むかし…読んだ漫画の中の、ケンカの達人が、勝てないだろう相手に、突然に持っていた赤鉛筆でさした…
これって、非常に動物的・本能的・「自己の生存が最優先」です






>当時、南郷先生の高弟に精神科医のYさんという人がいて、おそらくそこから知った知見を踏まえての発言だったのだろうと思います。それは保育士だったK保さんの育児の話しでも赤子の身体(実体)を如何に快の状態にするか?ということが赤子が夢の中で泣いているか、笑っているかの違いだということなんでしょう。


そうなんですよ!最近「活元運動」を体得している自分を発見したのです。
始まりは、数年前に、近くの整体院で「背骨ゆらし整体」、
去年あたりから「内臓矯正整体」もセットになって、
それを眠れられない時に時々やっていて…「内臓矯正は一人ではできない」
途中から、背骨だけではなく、同時に両手・両足もブルブル…これがなかなか同時は難しくて…苦戦でしたね。
そんなある日、去年でしたかね…全身が強烈にブルブル体験を~
そして、この数日前に、初めにゆっくり、全身を意図的にブルブル…
すると…ある状態になると…床の中で、全身が強烈に動き始めている自分を発見。
それが、井上先生の、立ちながら、私達に披露してくれた「片手の強烈なブルブル・ブラブラ運動みたいで…
これって、もしかして「全身の活元運動」、その後、再度やってみたら「エクソシスト」そっくり、
でも、「首は後ろ向きにならない?」と思いきや、最近みた番組で「四歳から体操している女性が、背骨をサソリのように反り返っていた映像」を想起…なる保持…首の真後ろ向きは至難でも…う~ん、マニャ猫は、ほぼ後ろに首を向けられる…

「エクソシスト」は、心中の悪魔が出て来た。

そうそう…本当は、tadaに聞いてもらおうと思っていたけど…
「集中」について、以前から感じていたのですが…最近・幻聴・見間違えが多発していて…
夜のマロン散歩で、テープを巻いて後ろに色々あったポールを見て、
「誰か立って、こっちを見ている?」
「まさか…こんな夜中に…でも親子で立っているみたい」
「近くに言って再確認したら、ただのポール」、
あと…マロンのキャン!キャン!」鳴き声の幻聴が…
理由は分かっています。
それは、以前に夕方の散歩or餌が、欲しくて(不快の除去)したくて、
「キャン・キャン」泣いているマロンに、ちょっと忙しくて何もしなかったら
「柴犬マロンは自分の尻尾先を2、3㎝食いちぎってしまった…

さあ~その後が、大変!私はマロンを散歩へ連れ出し…
マロンを引っ張りそれに必死についてくるマロン…後は忘れた…
家内が帰宅して動物病院へ即行!
後で、家内から「どうして…直ぐ病院へいかなかったの?」
私「思いつかなかった!」

今の私なら、こう言います。散歩させて、マロンのストレスの原因の除去…
その強烈過ぎる悲しいマロンの体験を思うと…キャン・キャンを何とか…
なので、今のマロン尻尾は、毛が生えてダンゴ状…その理由は、病院でまた噛むから数センチ残して尻尾の切断!
でも、それでもお尻の穴をなめられるマロンは、その尻尾にも届く…
そこで、最大限のマロンストレスの削減の散歩…マロンの話はまた次


赤子への快適な現実的刺激は、その「こころ」を快にする。
そう言えは、アメリカに産湯・体あらい…ないという事が、書かれていて「何で?」と思いました。
自分のこころの快が分かる人間は、他人のこころの快が分かる。
分からないアメリカ人は、相手が分かるよう全てを言葉にする。



>三浦つとむの弁証法レベルの認識論とやらでは肉体への働きかけによる感情の不快から快への変化が考慮に入れられていないから夢はどうすることも出来ない、というお話しなのだと思いますよ。

>でも、まあ、専門分野の小難しい知識など不要な自由びと氏には関係ないですけどね。


そんな事は、とっくに、南郷継正から学びとりましたよ!
でも…再度の確認ができて「し・あ・わ・せ」♪♪♪ですよ。
この弥勒さんも、私の南郷継正、でしたね…









ナイーブ(naive)は、フランス語で「童心的」「うぶ」「世間知らず」「お人よし」「無警戒」「ばか正直」を意味します。

日本では、飾りけがなく素直であるさま、純粋で傷つきやすいさま、単純で未熟なさまを意味します。また、近年の日本では「sensitive」に近い意味で使われることもあります。

繊細(せんさい)には、次のような意味があります。

物の形が細くて小さいこと、ほっそりとしていて優美な様子

感情などがこまやかであること

繊細は、外見的な意味で用いられる場合は「外見がか細く美しいさま」を表します。しかし、一般的に繊細という言葉は、内面的なことを表す意味を指して使われることが多いようです。

繊細な人とは、ひといちばい感じる力が強い人です。音や光、相手の感情など、まわりの人が気付かない小さなことにもよく気付くため、疲れやすかったり、ストレスを感じやすかったりします。

主にメンタルヘルスの分野において、対人関係がうまく保てないほど感受性の高い人、とても敏感で傷つきやすい人などを指す表現として「繊細すぎる」という表現があります。いわゆる「HSP」(Highly Sensitive Person)を日本語で言い表す語として知られています。

「繊細すぎる(せんさいすぎる)」の意味や使い方 わかり ... - Weblio辞書



仏教では「優しさ」を「慈悲」と言います。慈悲は「慈」と「悲」を組み合わせた言葉で、「慈」は「人を幸せにすること」、「悲」は「苦しみを取り除くこと」を意味します。

優しさは、その人が生まれ持った感情や育った環境に依存するもので、相手がいなくても成立します。一方、慈悲は、仏や菩薩が人々や生命あるものの苦しみや苦悩を除き、楽や幸福を与える心です。慈悲深い人は、自分が苦労することをいとわず、他人のために尽くす行動をとります。



コメント (6)
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劣等感の塊コメントへ

2024-01-06 16:09:31 | 「わたし事・学」
以下のコメント非常に下品で国籍差別に職業差別を痛感させます。
しかも、私の本名を知っているようなので、非常に身近な人のようですね…

これは、今までの弥勒とは異質である。
劣等感の塊、ですね。


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
続々・西暦2024年・令和6年・今日は私の悟り記念日

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/375228e1b4c8ef78712b1a49bf74b779

>・コメントを書いた人
>弥勒

>・コメント


>自由びとさんの言ってることが事実なら正当防衛は成立しませんね。警察に通報すれば良かっただけですよ。

お互いに怪我して・どちらもかすり傷ですから、喧嘩両成敗ですね。
ただ、私には、相手のズボンの弁償責任が発生するでしょうね。


「通報」とは、私の事実を知らないバカ者ですね…
通報も何も、話し合いの途中に、奴から殴って来たのですよ。
どこに通報のチャンスがありますか…

殴り合いの途中でやめたら、私が一発決まって奴は逃げて終了です。
私コメントの事実部分をちゃんと読みましたか?

互いにすれ違って、ぶつかって、互いに持ち物を落とし…
でも、それらは壊れてなくて…良識ある者同士なら、互いに謝罪して終わり。
なのに…奴は、そんな事、お構いなしに、弁償しろ!ですよ。


>南郷先生の『武道講義』で人を殺してしまった了海が償うためにどれほどの事をしなければならなかったか?


それって大馬鹿者ですよ。
私は人を殺していません。
奴も悪い・私も悪いで…何で、私が何を償うのですか?

>それが玄◯の武道空手の示す人の道だと思いますけどね。
>まー、実際には殴っても逃げてもいないのでしょうから、これぐらいにしときますけどね。


では、お宅・「上〇さん」は、アリを踏み殺したら、償いますか?
上〇さんは、相手に殴り掛かられて、黙って、殴られますか?

例えば、そこで反射的に手が出て、相手に怪我を負わせたら、贖罪で人々の為の「トンネル穴掘り」をしますか?
それが、できないなら「償い」なんて軽々しく使わない事。

>相手を殴りつけるより事件を回避して未然に防ぐことこそが護身だと思いますけど、

↑~
ほ~ほ!面白い!
護身の技が、完成するまで、相手から殴られない為に逃げ続けるか、
殴られてから通報・間に追わず加害者に逃げられる…そんな人生ですよ!



>〇〇人のパチンコ屋風情だと仕方ないのでしょうね。


このお宅は、劣等感の塊ですね。
そう言えば、上〇さんは、自分「愚生」と書き、公務員である自分を卑下していますね。

毎回、聞いていて違和感がありました。
国籍がなんですか?単なる生まれた場所の相違です。

それを○○人パチンコ風情…とは、自分を自分で卑下している心からの言葉ですね。

更に、私が、ここで書いた国籍が本当だとは限りません。
他人を貶めの為の、その国籍を書くとは…下品というか…低脳というか…

増してや、それが本当だと知っていて、書いたなら人間失格…私への攻撃として最低ですね…
ここは、言うなれば、自由びと国家なのです。
ここでは、私が法律です。
それに従うのが嫌なら、二度と来ないで下さい!
自由びどの「自由」とは、他人の尊厳を傷つけない範囲内での自由なのです。


上〇さんは、「〇〇人の尊厳」を傷つけ、
パチンコ店に勤めている人々の尊厳を傷つけました。
私は、上〇さんに、私と彼らへの償いを求めます!


ここは私の國、言うなれば国家です。
そこに、土足で踏み込んで、攻撃的なコメント…

何が、自衛隊・何が「専守防衛」ですか…
上〇さんは、自由びとの「粗を探して」をして、この自由ブログ・国家に乱入しています。
それって、他国を攻撃しているでは、ありませんか?

そんなだから論文が上手く書けないのですよ!

ここには、ここでの最低限のルールがある。
それは、相手を馬鹿にする時は、実名が分かっていても使わない事。
持ち上げる時でも、相手が喜ばないと予想可能なら書かない。

基本的に個人情報はなし…
ただし今回はあまりにも腹が立ったので…
(感情コントロールできていても「喜怒哀楽」は感覚します)

もし…上〇さんでないなら、反論を続けて下さい!
それが事実だと分かった・納得し得た時点で心からの謝罪をします。
でも…本当に上〇さんだったら、償いを要求します!



こんな劣等感をこんなコメントで書くなんて悲劇で喜劇ですよ!
書き手には悲劇、見ている者達には喜劇。

こんな劣等感の者達ならば、「南郷継正」の呪縛から逃れないでしょうね…。
その劣等感が、自分で自分を縛っている、ようなモノ。




コメント (1)
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