新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

今度こそ!は、本当に本当の本当である本当のところの真の<悟得>だ!by 狼少年?なの?

2023-06-25 12:07:03 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年03月16日
今度こそ!は、本当に本当の本当である本当のところの真の<悟得>だ!by 狼少年?なの?
昨日から一夜明けた今日

私は昨日と同じ私である…今のところは…

去年までは、今日には昨日の悟りの記憶が残っていても、

その悟りの感情は湧き上がって来なかったのです。

では、今回の今日も昨日も変らないその感情とは…

昨日ここのブログを書き終わって色々な想念が頭脳を過ぎっていった。

その結果~私は洗面所の鏡の前で、鏡に映る私を見た。

その私は、大粒の涙を流しながら、なんと笑いながら泣いている、泣きながら

笑っている、のであった。

そんな~私の顔を私は発見したのである。



この顔、この姿を感動と言わずに何を感動と言うのだろう~

まさしく<驚愕>的感動なのだろう~

…そう言えば、

似たような感情の私、鏡の中の私を、過去に何回か見た事を昨日想い出したのである。

ただし…どれも、私が変になっていた時の事なのだが…


しかし…今回の今日は違っていた~



今の認識を言語表現するならば…


「One for all」「All for one」

「我即宇宙」「宇宙即我」

「ひとつ=全て」「全て=ひとつ」~

では、私的言語表現では?と言うと!以下です。

「全ての人は、その人なりの、その人にとっての真理を語っている。

その全ての人々の語る真理を自分の心と頭と体の三位一体として、

自己化できた時、それが唯一の真理となるのだろう~」息子が古本屋で買って来た


『名探偵コナン』は言っている~「真実はひとつ」と…

そう驚愕の事実は「ひとつ」なのであり、全ては「ひとつ」なのである…



では、今の私想い描いている「悟り」とは、「悟得」とは、何が!?


宗教的悟りとは、いうなれば心の悟り、である。

学問的悟りとは、いうなれば頭の悟り、である。

武道的悟りとは、心と体の悟り、である。


では、悟得とは何か?


それは~

学問的悟りと武道的悟りを一体化したもの、

即ち、心と頭と体の三位一体的悟り、という事が言えようかな…♪♪♪


現在の私の心境は、「自由びと即悟得者」、「悟得者即自由びと」



ネットの何処かで誰かが書いて問うていた~

悟った私は~何をすればよいのでしょうか?

今の私はこう答える~

己と同じ心境=境地に達した、そんな人間を育てなさい!創造しなさい!


今の悟得者の私の想いは以下です。

「鳶が鷹を産んだ」と言う故事?ことわざ?がある。

小学五年生の父親である私にとってのこれは~

「鷹になろうと、もがき苦しんでいる親鳶を、

目の当たりに見ていた子鳶が自然に、鷹に育ってしまった。」である。



これぞ~「精神の歴史の物語」なのだろう~

それは、親の精神の「生成・発展・衰退」の過程で、傍で成長している子供が、

子を産んだ時点の親の精神との相互規定的相互浸透的「正規分布的な(量質転

化的量質転化化の)過程」で「らせん的な発展過程」を量質転化化しつつ成長

してゆく~

↑これは~かなり論理的混乱を起こしているので、適当にアバウトに読み飛ばしね♪♪♪



その最終的ゴールとは、「One for all」「All for one」の境地と言う事ができよう。

人類全てが、この境地に達する事ができた時、誕生するのは、本能の殆ど無い

人類が、本能的猿と同レベルの共食い、共倒れの無い、社会を創造し、その事

で、地球が、地球船の乗船員全員の幸福が確保された理想状態になると言う事なのだろうか…






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おかしくて、おかしいと感じているのに、おかしいと思えない、おかしい私…

2023-06-25 12:04:47 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年03月15日
おかしくて、おかしいと感じているのに、おかしいと思えない、おかしい私…

昨日一日、そして今日と~

感覚が変だ!

どう変!か?というと~

身体の隅々まで神経が行き届いている感じ…

物にぶつかると気付くと身体が自然にショックを吸収している感じ…

落ちてゆく物を気付くと手が自然に触って取っている感じ…

見えているものが、いつもより~ハッキリしている感じ…

他人の視線が気になってしまう感じ…

女性の顔が妙に可愛く見えてしまう感じ…

スーパーのレジの、あのおばさんの顔が死人のように見えてしまう感じ…



これって~以前のおかしい時の私の感じと同じである~

それは、教師になって直ぐの当時のおかしかった時の私の感じ…

母が死んで、おかしかった当時の私の感じ…

そして~ここ数年の、この時期の季節の変わり目の非常に落ち着けなかった、

それでも~無理に落ち着こうと頑張っていた時の私の感じ…



でも…しかし…今の私は今までの私と大きく違っている~

それは、感覚が変なのに、

頭が!と言うか?気持ち!がというか?

今までと違って妙に落ち着いているのである。

そう~妙に~落ち着いて普通のように私には思えている感じ~

おかしいのに~

おかしいと感じているのに~

それでも自分が普通だと思えている自分は、危ない人間なのだろうか?!



これこそが、「平常心」→「非常心」→「平常心」の過程的構造なのだろう~


これこそが、「悟りへの道」→「悟得への道」なのだろう!か?…





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意図的変化運動をさせている認識

2023-06-25 12:02:40 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年03月15日
意図的変化運動をさせている認識

ある人が忠告してくれた…
「あんな日記レベルのブログ等止めなさい!」、
「あのような事は自分の日記に書いておけば、いいでしょう!」と…

また、ある人は呆れていた…
「よくも~まあ~恥ずかしくも無く、あんな内容のブログを書いていられるね~」と…

私は想う~
『両名のおっしゃる通りである。』、
『御尤もな事である。』と~

しかし、私は私の現時点での私の認識を視覚化したく書いているのである。

瞬間瞬間変化運動している私の認識、その認識はある量=厚さになると、私はその認識を私の認識として自覚できるのだろう。

しかし、認識的実在である人間において、その認識はその人物のその時々の気分的意識的恣意的問い掛けによって、変化運動してしまっている為、同じAを見続けていても、今の瞬間のA像と次の瞬間のA像とは、微妙に、時には大きく異なってしまっているものなのだろう~

このように異なっているA像の積み重ねでは、そのAをAとしての正確に認識可能な厚みのある認識に到達するのに、どれ程長い時間が必要となるのだろう~

そこで~弁証法なのである。

弁証法を駆使して自己の認識、問い掛け的認識を対象Aの変化運動に合わせて変化運動させる。

すると~弁証法を駆使して対象に則して、自己の認識を変化運動させつつ、その変化運動的な問い掛けて的認識で対象に問い掛け続ける事で、比較的短時間で対象を対象として正しく認識し得るだけの厚みある認識を獲得でき、そして、その対象を正確に認識できるのだろう~



私は今日の私が知りたい、

そして、その今日の私で、明日の私に問い掛けたい、

そして、その明日の私を知りたい、

その明日の私で明後日の私に問い掛けたい~

そして~~



でも…これって日記でもいいんじゃな~い?!

そう~私は過去に何回と無く日記に挑戦した…

そして…私は何度と無く敗れ去ってきた…

私のカラーボックスには、

一体全体?何冊の途中で終わっている日記、

十数ページも残っている日記、

書き終わっていない日記、

綺麗な日記があるのだろうか…


こんなそんな私にとってブログ形式は、

とても重宝しているのである♪♪♪





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悟得への道 <言魂>

2023-06-25 12:00:39 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年03月14日
悟得への道 <言魂>

人間がある心的状態に達した場合、その心的状態を安定化するのに、言語という道具がある。

その場合、その心境を表現するに相応しい言葉を選択する必要がある。

しかし、その心境を言語で表現した時点で、その心境の元たる心は、その言葉によって規定される事になってしまうのだろう…

その自己の選択した言葉次第で、心のそれ以上の成長・発展が望めなくなってしまうのだろう…

これは、心が言葉によって制限、固定化されてしまうからなのだろう~

それは、心と言葉の相互規定的相互浸透なのだろうか…

だから、成長・発展を望んでいる者は、弁証法的言語表現を選択してゆくべきなのだろう~

弁証法は変化・運動してゆくもの…

その変化・運動してゆく弁証法的言語を用いて言語表現してゆくからこそ、その弁証法的言語表現とその心境が相互規定的相互浸透で量質転化的量質転化化をしつつ成長・発展してゆける可能性が生まれるのだろう~

この心境の表現は、言語だけでは無く、その人間の行動、行為においても同様であろう~

「等身大の思想」が否定されてしまうのは以上のような理由からなのだろうか…

「等身大の思想」とは、今の自分の心境、現在の自分の能力にピッタリの思想という事であろう~

その今現在の自分にピッタリの思想で、自分に問い掛けつつ行動していては、自分を自己にピッタリの型に自分で嵌めこむようなもので、それは、自己の成長・発展の可能性に蓋をしてしまっているようなものなのだろうか…


だから~弁証法的言語表現を、それも魂レベルの言魂を選択してゆこう!ではないか?!


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~本日の感動~

2023-06-25 11:59:15 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年03月11日
~本日の感動~


そのあとがある

大切なひとを失ったあと

もうあとはないと思ったあと

すべて終わったと知ったあとにも

終わらないそのあとがある


そのあとは一筋に

霧の中へ消えている

そのあとは限りなく

青くひろがっている

そのあとがある

世界に そして

ひとりひとりの心に




本日付け「朝日新聞の『天声人語』より抜粋





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