弁証法性から弁証法へ~
事件の弁証法性…
↓
ある特定の事件に関する弁証法~
弁証法とは、事物・事件・事象・「森羅万象・万物の弁証法性」の法則化~
では、ある特定の事件の弁証法性とは、その事件の「生々・生成・発展・衰退・消滅」であろう。
でも、実際の「ある事件」とは、その事件が発生して初めて「事件として現象するモノ」
さて~では、昨日の私の日々・日常で普通に、よく発生している事件について書こう。
昨日、いつもの夕方の愛柴犬マロンの散歩中に、
信号のある交差点で、勤務している学校の顔見知り四年女子児童に遭遇した。
その児童とは、同じ場所で、もう何度も遭遇している。
なので、昨日も普通に
私の「今帰り…?」から「児童「そう!」~チョットした会話をしていた。
すると突然その児童が「AO!」と言った。
私は―「何?」
児童(少し大きな声で)「『AO!』になった!」
私―「…??…!」
児童―「信号「あお」になった!」と更に声を大きくして言った。
その時、初めて私は、「信号」という言葉から、児童の「AO」が信号の色の「あお」だと気付いく事ができた。
そして、後ろを向いて、私は、その信号が「あお」に変わっていた事に気付いた。
また、その児童の家のある方角―私の右側の信号は、「あか」である事も確認できた。
この事件とは、児童の発している「あお!」という単語を、
私は「AO」とは聞こえていて、その「AO」の意味が理解不能であった。
そして、児童の三回目の「…信号…」という単語で初めて、それが信号の色だと認識できた。
この単語の音声である「AO」が明確に聞こえていた私、
でも、その「AO」の意味が不明だった私。
この私の状態が、この一件を生々・生成・発展~させた!のだろうか…
その「AO」が不明だった理由は、私には、直ぐ分かった。
最近の私のマロン散歩は、愛柴犬マロンの行きたい方に合わせて歩き続けるモノ。
その児童との会話の時、マロンは私の横で大人しく座って動こうとしていなかった。
なので、私には『行く方向が未定、信号待ちの意識なし…』
そんな会話の中で、その児童は、『私が後ろの信号待ち』しているだろう意識で、
その児童が目に入った、私の後ろの「信号の色「あお!」と叫んだ。
私が、児童が「あお」と言った時に、その目線を捉えていたら、
たぶん後ろを振り返った「信号の色あお」と認識可能だっただろう。
さてさて…上記の事実・事件・一件を、弁証法的に思考するなら…
まず、今の私には、この一件の具体的な、生々生成・発展・衰退・消滅の過程り想像は可能である。
しかし、この一件発生当時の私には、最後の「信号」という単語を聞くまでは、全て不明であった。
生々・生成~過程は、
その児童の想像・認識・『私の後ろの信号待ちかをしている』が間違っていた事。
実際に、私には『信号待ち・信号の色変化注意』という目的意識はなく…
私は、児童の信号待ちに付き合っていた…というより~
「ただ児童との会話を楽しでいた」。
「児童が会話を中断するのを待っていた」。
「マロンが動き出すのを待っていた。」
そんな・あるような・ないような・希薄な目的意識だったのだろう。
そんな私の意識状態での突然の児童の言葉「AO!」に、
私は、たぶん、児童との会話の中での「AO!」の関係性から、
その意味を探そうと必死だったのだろう。
軽い気持ちの私・その会話の前後関係を無視可能な私なら~
きっと~「『AO!』って何?」とオウム返して聞き返しただろう?
さすれば…「児童も信号の色『あお』!」と一発回答であろうが…
最近の私…過去の若い頃私は、変質してしまったようだ!
以前なら、オウム返しの平然とできたが…
今は、
聞いていなてと思われたくない?!
人の話が分からない奴・失礼と思われたくない?!
耳が遠いいと思われたくない?!
理解力不足と思われたくない!?
そんなマイナス感情・思いから…素直な「オウム返し」ができない!と思ったら…
もう一つ、考えられる事があった!
それは、以前に右耳が痛くて、医者へ行った時に(その痛みの原因は耳ではなかった)が…
ついでの聴力検査をしてもらった~
なんと!
普通の会話の範囲の音声はギリギリ聞こえていても、
高音域が聞こえなくなっている…という検査結果を聞かされた。
そんな感じなので…
たぶん児童が高音で発声した時、その音が聞こえていないだろう事。
そして、もっと重大な要因が思い当たった。
それは、もう何年経つだろう…
以前から、他人との会話で注意深く相手の話を聞く習慣があまりなかった私…
そんな私だから、テレビドラマでよく会話の音を聞き逃ししまう事が多かった。
そんな時、テレビの新たな機能で「字幕表示可能」になった。
そこで、私は、その時点からテレビに字幕表示をして、聞く事よりも読む事を重視していた。
そんなだから、更に目的・意識的・意図的な「聴覚認識努力」が薄くなり、
更に、家族以外・他人との会話をあわり好まない…社交範囲が狭い私だから…
他人との会話も少なくてん
そんなこんな自覚・想像から、私は、自己の聴覚能力に自信がなく、
聞こえている音声が、本当に正しいのかを疑ってしまい…
友達・親しい間柄なら平気で「オウム返し」的に聞き返す事は出来ても…
そんな間柄ではない相手には、出来なくなっている…
いや~本当は、事件の発生から、過去を振り返って、
事件の生々・生成・発展・衰退・消滅…過程を書きたかったのに…
事件の発生の~原因・理由・責任~解決法~
そんな事が書きたかったが…
上記の記述から、
そんな私の認識を~
理解して頂ける人々は、存在しているだろう?
or
存在していても読んで頂ける人々はいるだろうか?
仮に、もし「存在していない」という事なら、
それは、私の言語表現力の問題であろう…
事件の弁証法性…
↓
ある特定の事件に関する弁証法~
弁証法とは、事物・事件・事象・「森羅万象・万物の弁証法性」の法則化~
では、ある特定の事件の弁証法性とは、その事件の「生々・生成・発展・衰退・消滅」であろう。
でも、実際の「ある事件」とは、その事件が発生して初めて「事件として現象するモノ」
さて~では、昨日の私の日々・日常で普通に、よく発生している事件について書こう。
昨日、いつもの夕方の愛柴犬マロンの散歩中に、
信号のある交差点で、勤務している学校の顔見知り四年女子児童に遭遇した。
その児童とは、同じ場所で、もう何度も遭遇している。
なので、昨日も普通に
私の「今帰り…?」から「児童「そう!」~チョットした会話をしていた。
すると突然その児童が「AO!」と言った。
私は―「何?」
児童(少し大きな声で)「『AO!』になった!」
私―「…??…!」
児童―「信号「あお」になった!」と更に声を大きくして言った。
その時、初めて私は、「信号」という言葉から、児童の「AO」が信号の色の「あお」だと気付いく事ができた。
そして、後ろを向いて、私は、その信号が「あお」に変わっていた事に気付いた。
また、その児童の家のある方角―私の右側の信号は、「あか」である事も確認できた。
この事件とは、児童の発している「あお!」という単語を、
私は「AO」とは聞こえていて、その「AO」の意味が理解不能であった。
そして、児童の三回目の「…信号…」という単語で初めて、それが信号の色だと認識できた。
この単語の音声である「AO」が明確に聞こえていた私、
でも、その「AO」の意味が不明だった私。
この私の状態が、この一件を生々・生成・発展~させた!のだろうか…
その「AO」が不明だった理由は、私には、直ぐ分かった。
最近の私のマロン散歩は、愛柴犬マロンの行きたい方に合わせて歩き続けるモノ。
その児童との会話の時、マロンは私の横で大人しく座って動こうとしていなかった。
なので、私には『行く方向が未定、信号待ちの意識なし…』
そんな会話の中で、その児童は、『私が後ろの信号待ち』しているだろう意識で、
その児童が目に入った、私の後ろの「信号の色「あお!」と叫んだ。
私が、児童が「あお」と言った時に、その目線を捉えていたら、
たぶん後ろを振り返った「信号の色あお」と認識可能だっただろう。
さてさて…上記の事実・事件・一件を、弁証法的に思考するなら…
まず、今の私には、この一件の具体的な、生々生成・発展・衰退・消滅の過程り想像は可能である。
しかし、この一件発生当時の私には、最後の「信号」という単語を聞くまでは、全て不明であった。
生々・生成~過程は、
その児童の想像・認識・『私の後ろの信号待ちかをしている』が間違っていた事。
実際に、私には『信号待ち・信号の色変化注意』という目的意識はなく…
私は、児童の信号待ちに付き合っていた…というより~
「ただ児童との会話を楽しでいた」。
「児童が会話を中断するのを待っていた」。
「マロンが動き出すのを待っていた。」
そんな・あるような・ないような・希薄な目的意識だったのだろう。
そんな私の意識状態での突然の児童の言葉「AO!」に、
私は、たぶん、児童との会話の中での「AO!」の関係性から、
その意味を探そうと必死だったのだろう。
軽い気持ちの私・その会話の前後関係を無視可能な私なら~
きっと~「『AO!』って何?」とオウム返して聞き返しただろう?
さすれば…「児童も信号の色『あお』!」と一発回答であろうが…
最近の私…過去の若い頃私は、変質してしまったようだ!
以前なら、オウム返しの平然とできたが…
今は、
聞いていなてと思われたくない?!
人の話が分からない奴・失礼と思われたくない?!
耳が遠いいと思われたくない?!
理解力不足と思われたくない!?
そんなマイナス感情・思いから…素直な「オウム返し」ができない!と思ったら…
もう一つ、考えられる事があった!
それは、以前に右耳が痛くて、医者へ行った時に(その痛みの原因は耳ではなかった)が…
ついでの聴力検査をしてもらった~
なんと!
普通の会話の範囲の音声はギリギリ聞こえていても、
高音域が聞こえなくなっている…という検査結果を聞かされた。
そんな感じなので…
たぶん児童が高音で発声した時、その音が聞こえていないだろう事。
そして、もっと重大な要因が思い当たった。
それは、もう何年経つだろう…
以前から、他人との会話で注意深く相手の話を聞く習慣があまりなかった私…
そんな私だから、テレビドラマでよく会話の音を聞き逃ししまう事が多かった。
そんな時、テレビの新たな機能で「字幕表示可能」になった。
そこで、私は、その時点からテレビに字幕表示をして、聞く事よりも読む事を重視していた。
そんなだから、更に目的・意識的・意図的な「聴覚認識努力」が薄くなり、
更に、家族以外・他人との会話をあわり好まない…社交範囲が狭い私だから…
他人との会話も少なくてん
そんなこんな自覚・想像から、私は、自己の聴覚能力に自信がなく、
聞こえている音声が、本当に正しいのかを疑ってしまい…
友達・親しい間柄なら平気で「オウム返し」的に聞き返す事は出来ても…
そんな間柄ではない相手には、出来なくなっている…
いや~本当は、事件の発生から、過去を振り返って、
事件の生々・生成・発展・衰退・消滅…過程を書きたかったのに…
事件の発生の~原因・理由・責任~解決法~
そんな事が書きたかったが…
上記の記述から、
そんな私の認識を~
理解して頂ける人々は、存在しているだろう?
or
存在していても読んで頂ける人々はいるだろうか?
仮に、もし「存在していない」という事なら、
それは、私の言語表現力の問題であろう…