新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

馬鹿者よ!

2019-07-29 12:32:30 | 論理





馬鹿者よ!では、丁寧過ぎる、
馬鹿野郎よ!と書く事にする。

このような言葉で表現された私の認識は?
以下である!

自由びとは、馬と鹿は違う、と説いている…
游士くんは、馬も鹿も同じ、動物・哺乳類と反論。

その反論を自由びとが補足したら、
以下のような~

自由びとは、「どうしようもない頭の人間…」
というコメントを寄越した。


ここでの「馬と鹿は違う」を「馬も鹿も同じ動物(哺乳類)」とする
游士くん認識が、馬鹿野郎!認識でなのある。

確かに、この「馬も鹿も動物・哺乳類」は正しい…
しかし、それでも、時には間違いにもなり得る。

同じ動物なら、馬刺の代りに鹿刺を喜んで食べるか?
長距離の移動を馬ではなく、鹿にするだろうか?
誰だって、馬か鹿かと言われれば、馬だろう。
馬も鹿も同じ哺乳類だから、俺は馬に乗る…だろうか?
もっとも…試しに乗ってみよう~なんて事もあり得るが…

なんて…例えでは、この論理は分かり難いだろうから…
以下に、今回の具体的事実を提示して、解説してみよう。


もっとも…
コメント主である馬鹿野郎!認識の
游士くんには全く理解不能だろうが…






それは、以下のコメントである。





▼ コメント ▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
~考える~

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/0f875080119ac9b8018cbceff982314b

・コメントを書いた人

游士

・コメント
自由びと氏

お宅の今回のコメントを読んでつくづく感じたのが「どうしようもない頭の人間は実際にいる」ということ。

人それぞれ考えが違い個性があるのは当然ですが、どういう育ち方をすればお宅のような思考になるのか皆目もって分かりませんね。

多分、義務教育の中身に大差はないと思いますし大学教育の水準もそんなタワケた頭を育むようにはなってないはずですから、突然変異なのか何なのか?


▲──── ────




游士くんが
>今回のコメントを読んでつくづく感じたのが…<
と書いている


上記の感想は以下の
自由びとコメントに対するモノ。

↓~


▼ コメント ────


・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/0f875080119ac9b8018cbceff982314b

・コメントを書いた人
自由びと

・コメント
なかなか上出来、お宅にしては…

游士君へ


今回のコメントは、お宅にしては、上出来ですね。
それは、お宅の個人的見解・経験・体験の記述ではないから?

それでも、状況・分析・判不足なので…
以下のように補足をさせて頂きます。

>筋肉を働かせて身体運動するわけですから当然に交感神経は働かされるんだと思うんですが、それが癌に良いらしい…?

己の必要性から己の頭脳を駆使して、身体的対応する場合の「交感神経」への刺激と
他人・天寿堂氏の鍼灸治療過程での、他者的・直接的な「交感神経」への刺激…
の区別と連関。


>筋肉を働かせて身体運動するわけですから当然に交感神経は働かされるんだと思うんですが、それが癌に良いらしい…?

己の頭脳・意志なら、骨も筋肉も神経も…同時一体的連動可能。

しかし…他人での鍼灸では、神経への直接的刺激ですから、
しかも、座ったり、寝たりしている状態です刺激です。

そこに、筋肉・骨への神経的刺激・命令はあっても、
身体の運動はなし、筋肉も骨も内臓も…動かす必要性なし、

これは、交感神経は、働いていて興奮…でも、
神経以外の実体・身体的な要求はなしで不動、
動かない・動かせない…状態です。


これって、どうなの?
身体的健康な人達なら、交感神経の命令・要求も、
全身・身体的不動状態でも、それなりに耐えられても…

病人、人工透析や癌患者には、非常なストレスなのでは?


それは、
身体的健康体での局部的な不具合での交感神経への刺激と、
身体的病気体での局部への交感神経への刺激
の区別と連関、です。


>…そうした身体運動というのは交感神経とかの部分的な活動でなくて個体全体のシステム稼働なんですかね?

その通りです。
人間は、外界・周囲・自分の置かれた立場・状況の感覚・判断から、
全身・一体的対応・反応の為に交感神経が働き、
急発進・急停止・激怒・号泣…なのです。


でも…鍼灸治療過程での、座ったり・寝たり状態での
鍼灸による交感神経への直接的刺激では、神経の命令はあっても、
全身・身体的反応・運動は不可能なのです。

それは、交感神経の命令実施不能的なストレスなのでしょうね。

そう~「ストレスについて」は、
ここ最近よく、想い・思い、考えたりしています。

▲──── ────


更に、
上記の自由びとコメントは以下の
游士コメントへのレスである。


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
~考える~

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/0f875080119ac9b8018cbceff982314b

・コメントを書いた人
游士

・コメント
自由びと氏

私の投稿の一部を故意に非公開にしているのは残念に思います。

私は天寿堂さんの発言にも余り説得力というものが感じられないなとは思うわけですが実際の患者さんの回復や悪化は術者の発言の説得力とは別のところで成立したりもすると思いますから天寿堂さんの施術が明確にダメだなんて言えないような気持ちなんですね。
言うならばヒトラーの演説の説得力に騙されてドイツが大変な事態に向かっていったように…。

さっき欧州臨床腫瘍学会なんてものの記事を見つけましてね、「すべてのガン患者は1日60分の運動をすると改善に向かう」なんてことが書かれていました。
食事と運動と睡眠なんて健康のための三原則として小学生でも知っていることですが、それは癌患者にも当てはまる、みたいな記事ですよ。
筋肉を働かせて身体運動するわけですから当然に交感神経は働かされるんだと思うんですが、それが癌に良いらしい…?
東洋医学なんかでも古くから導引といって運動療法は推奨されてきたみたいですが、そうした身体運動というのは交感神経とかの部分的な活動でなくて個体全体のシステム稼働なんですかね?
治療の世界にももしかしたなら「1+1=2にならない」なんて現実があるのかも知れませんね。


▲──── ────

では~
馬鹿野郎!認識を「馬と鹿」からの解説でなく…
上記のコメント内容から解説してみる事にする。


元々は、記事「~考える~」は、
癌とは? 交感神経とは?を
~考えて~みたモノである。


それを、上記のコメントでは、
交感神経と癌の関係性について敷衍させている。


確かに、「交感神経の活性化・刺激」としては、
全力疾走も鍼灸治療も同じモノ・刺激である。

でも、その手段は「間接的と直接的」と違っている。

ここでの交感神経とは人体内の生きた神経である。
その交感神経の役割は、全力疾走なら、
その事を可能・持続する為の全身への神経伝達・命令である。
そこには、その刺激に対応した身体・内臓…活動があり得る。

一方、鍼灸治療ではどうか?
先ずは、治療を受ける人物の全身の状態・様子である。
健康体or病気体? 持病のあるなし…
治療目的の相違―内臓疾患、腰痛、肩こり…

個々の違いはあっても、座った状態か横になった状態での鍼灸であろう。
まさか、走りながらの鍼灸は有り得ない。


そんな状態での鍼灸による、
直接的な交感神経の刺激・活性化は、非常に不自然である。
そんな不自然な刺激が身体によい訳がない。


>さっき欧州臨床腫瘍学会なんてものの記事を見つけましてね、「すべてのガン患者は1日60分の運動をすると改善に向かう」なんてことが書かれていました。

この游士コメントから察して、彼の馬鹿野郎!認識は以下だろう。
運動が癌によい!
運動すると交感神経が活性化する!
交感神経の活性化は癌によい!


そう~
ここに、「交感神経の活性化の方法・手段」考察がない。
これを短絡的思考と言うのだろう。

そもそも、その「運動」にしても、
その癌患者の体力・状態に合わせた強度だろうし…

癌患者に「全力疾走」なんてさせたら…
とんでもない医療過誤で訴訟モノであろう。


普通の人が、「昔とった杵柄」なんて認識で、
現在の自己の体力・状態を考慮・視もせず
準備体操なしで、全力疾走したら…
そく、転倒・大怪我・心臓麻痺…
なんて日常茶飯事的にあり得る事でょう。


このような自分の現状・能力…を
知ろう・視よう、しない游士くんだから…

と言うか…
己を、視ようにも…知ろうにも…
游士くんには、無理無理なのは、明白な事実であろうが…

己の馬鹿野郎!認識か見えず…
自由びとを……


そう~
そんな己を知らない游士くんだから、
自由びとを
「どうしようもない頭の人間は実際にいる」
なんて公言できる。

しかし、これは、
游士馬鹿野郎!認識が、自由びとコメントに投影されたモノ。
游士くんは、自由びと言説に游士自身の認識を感じ取っている。のだろう。


もっとも…
自由びとが、
自由びとの馬鹿者!認識を游士コメントに投影しているかもしれないが…


上記のこのような~
「相手⇒自分⇔自分⇒相手」が、
「対立物の統一」⇔「対立物の相互浸透」であろう。

もっとも…私の場合の、
こごての「統一」と「浸透」の「対立物」は
「南郷理論」であり、弁証法・認識論・学問・哲学…である。

端的には、
游士くんの相手をしているのは手段。
私の目的達成の為の手段である。

それでも…
結果的に、
私のソクラテス化も避け難い事実であろうが…

そう、
全体的な前進・進化の為には、
局部的な後退・退化の犠牲もあり得るモノ。






















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南郷学派批判の天寿堂を批判する

2019-07-28 12:27:16 | 想い思い考える



天寿堂「談話サロン」掲示板のタイトル↓
<「学城」18号批判ー相も変わらず地獄への道をひた走ろ南郷学派>
を読んで、つくづく…以下のような想いに至った~

『愚案亭主は、どうして、こうなってしまったのだろう?』
『なんで、このような姿に変わり果てしまたのだろう?』

上記の記事は、この記事の最後に転写しておいた。


私の全体的な感想は、「いのちの歴史」に書かれている事から~

地球と全体的・一体的に生き抜けたモノ達たげが進化の王道を歩めた、
それは、
単細胞体⇒多細胞体⇒クラゲ体⇒
魚類体⇒両生類体⇒哺乳類⇒
猿類であり、人類である…


進化の過程で、全体的ではなく、
局所・局部的な発達・深化し得たモノは、
その王道から外れた。
それは、爬虫類や鳥類…である。


天寿堂氏も玄和会を離れて、
居所的な深化し得ても…
全体的は無理だったのか?!

それは、爬虫類化なのだろうか?!




>1、南郷先生の、サルから人間への脳の発達の過程的構造論に欠けたるもの
……
それとは何か?それは、交感神経論です。南郷学派は、交感神経と副交感神経とは生まれた時代も異なるので、ワンセットではないというところまでは、説いておりますが、それからの発展が全く無いようです。ところが、この交感神経の問題は、このテーマにとって、欠かすことのできない重要なファクターであるにもかかわらず、全く触れられておりません。
……
>しかし、これには無理があります。サルから人間への脳の巨大な進歩はそのような領域のみで賄えるものではありません。それを可能とするものがあったはずです。その答えは、私の交感神経論にあります。これは、南郷先生に倣って、今回は、匂わせるだけに止めておきます。

↑~
天寿堂氏にとって、脳と神経は別モノなのでしょうか?
彼は、「脳の巨大な進歩…」とは、
同時に、「神経の巨大な進歩」とは、読み取れないようです。

中枢・統括器官である「脳の巨大な進歩」は、
身体・全身の機能的な巨大な進歩・変化…でもある。
そして、その機能の巨大な進歩・変化が実体・身体を変えていった。

身体・全身の実体ではなく、地球の激変に対応すべく、
全身の機能的な対応過程での脳・神経の深化・変化・進化…
の結果が「脳の巨大な進化」の原因・要因・理由なのでしょう。








>2、瀬江先生のひどいヘーゲルの誤解

……
>絶対精神が自然の事物に化体して人間にまで発展する、というのは即ちそういうことなのだ、同じ論理なのだ!とどうしてわからないのか?

>それから、ヘーゲルの学問的立場が、唯物論と観念論とを統一した絶対観念論なのだ、ということがどうして分からないのか?それがヘーゲルの弁証法なのに、自分たちが観念論か唯物論かの形而上学のアタマのまま唯物論こそが学問的立場だと思い込み、ヘーゲルのが観念論なのにどうして唯物論的なのか?訳が分からないなどと、自分の反省もなく袋小路に迷い込んで、これでどうして学問の体系化ができるのか?ヘーゲルの学問体系が分かるのか?そんな頭でヘーゲルを批判することがどれほど滑稽なことなのかが全く分かっていないようです。

↑~

天寿堂氏には、「観念論」と「唯物論」の区別と連関が分かっていない

私も言いたい~
「同じ論理」でも、観念論と唯物論では、、
具体的な表現・言葉が異なる事を、
どうして解らないのか?~と。


天寿堂氏が「どうして分からないか?」の答えは以下です。
>ヘーゲルの学問的立場が、唯物論と観念論とを統一した絶対観念論なのだ…
これです。


仮に、

ヘーゲルが「唯物論と観念論とを統一」だとしても、
それは、当時の唯物論と観念論の統一」だろう……

ならば~
その「絶対的観念論」で完璧・完成だろうか?
と天寿堂氏には思えない、ようである。


彼が、更なる世界観の進化を求めるなら、
ヘーゲルの「絶対的観念」と現代の「弁証法的唯物論」の
統一を試みるのが進化の王道であろうに…


絶対精神の自己発展から世界の誕生・発展・衰退…
モノ自体の弁証法性からの生々・生成・発展・衰退・消滅…


ヘーゲルの絶対精神は、物自体の機能面を世界の始まりとしたモノ、
過去の唯物論は、過去の物質・機能が分からず、軽視していた。

弁証法的唯物論なら、
モノ自体・実体とその弁証法性を統一してこそである。


そもそも…「精神」とい言葉は、一般的に人間だけのモノ…
他の生物・動物・物体・物質…に「精神」はない。
人間の存在しない時代に、絶対「精神」を認めたなら、
それは観念論である。


この観念論とは、外界・世界を観て、己の内界・観念から表現・認識する世界観。
だから、ヘーゲルは進化の根本・原理・論理を「絶対精神の自己発展」とした。

唯物論は、外界・世界を観て、
その外界・世界を現実に存在し得る・得たモノとして表現・認識するモノ。
だから、弁証法的唯物論では、モノ自体の弁証法性にする変化・運動。


観念論は、主観的表現でも許される。
唯物論は、理想は客観的表現であるが…




>本当に嘆かわしいことです。また医療実践論でも、前回私が批判した通り、スジのネットワーク論がないために、全く実践的な議論にもなり得ていません。障害者教育論でも、栄養学の検討がないことは、致命的欠陥であることが分っていないようです。栄養不良による障害は、まず栄養を整えて障害をどこまで治すことができるのか、その上での教育論でなければならないと思います。


全く「本当に嘆かわしいことです」…
観念論者の「スジのネットワーク」が、
唯物論者には、そうは見えない・思えないモノ、
という事が理解不能のようです。


これは、
同じような事実から同じ論理を視て取ったとしても、
天寿堂氏なら、「絶対精神の自己発展」と視えても、
南郷学派なら、「モノ自体の弁証法性」と視えるのです。

それでも、唯物論(者)なら、
過去から現在までの地球の弁証法性からの変化・運動・進化は、
ヘーゲルの絶対精神の自己発展と論理的には同じようなモノ…と認識可能で、
天寿堂氏のように、「同じ論理なのだ!とどうしてわからないのか?」
とは言わないだろう…


>障害者教育論でも、栄養学の検討がないことは、致命的欠陥であることが分っていないようです。栄養不良による障害は、まず栄養を整えて障害をどこまで治すことができるのか、その上での教育論でなければならないと思います。


↑~
私の記憶が正しいなら、

あそこで、実例として取り上げられているのは、
重度の身体的機能障害で、実体的な変質・変化もあり、
「栄養学の検討」なんてレベルは、とうに超えてしまっているのでは?

天寿堂氏は、南郷学派の批判を最優先のようで、
その状態・状況についての考慮・考察・検証…が皆無のようです。










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~考える~

2019-07-16 12:35:24 | 想い思い考える

以下の記事を読んで、改めて考えてしまった。


~~~引用開始~~~


天寿堂さんの妄想を糺す

タマゴ - 2019年07月15日 (月) 18時03分

>癌とは、組織的なミトコンドリアが働けない状況になって、緊急避難的に遺伝子的先祖がえりをして、糖を分解してエネルギーを得て生きていく、組織的経験を持たない単細胞段階に戻ったものです。

妄想を土台とし、その上に延々と妄想を積み重ねているだけ、まったく無意味な文です。
天寿堂さんが依拠しているであろう南郷派も、こんな意味不明なことは主張していません。
天寿堂さんとは異なり、南郷派の説く生命史観は弁証法の論理を前面に押し出していますが、現代医学や生物学と大きな矛盾点は無いです。

>交感神経の任務は命を守ることです。ですから、癌を発生させてしまったというのは、交感神経の任務の不完全履行の結果として生じたものと云えます。

なにが「ですから」なのかと。
「医師の任務は命を守ることです。ですから、癌を発生させてしまったというのは、医師の任務の不完全履行の結果として生じたものと云えます。」
「神様の任務は命を守ることです。ですから、癌を発生させてしまったというのは、神様の任務の不完全履行の結果として生じたものと云えます。」
「自衛隊の任務は命を守ることです。ですから、癌を発生させてしまったというのは、自衛隊の任務の不完全履行の結果として生じたものと云えます。」
・・・というのと同じ、空虚な言葉遊びに過ぎません。



~~~引用終了~~~






言葉での表現とは何か?
ここでの「任務」とは何か?
交感神経と副交感神経とは?
そして人間にとっての神経とは?



医者や自衛隊の任務なら分かるし…
人間の創った神様(像)の任務も分かり得る。
それらは、人人間の職業であり、人間の創造物だから~

でも…しかし、神経に任務がある。のだろうか?
そもそも~「神経」とは何か?神経の任務とは何か?

人間が考えた「神経の任務」?
それとも、実在する「神経の働き」?


そう~そもそも…
「神経の任務」と言う表現は正しくない。
この表現だと、余りにも擬人化し過ぎてしまっている。


まあ~表現。言葉へのダメ出しはこの辺にして…
もっとも、言葉・表現はとても大切で重要なのモノ。
それは、自分の言葉・表現との相互浸透があるから…


歴史的な神経の形成過程は詳しく知り得ていないので…
現象的な神経の働きを考えてみた。


現代の一般常識として、神経を以下のように分類している。

大きく二つ
自律神経―交感神経・副交感神経、と
体性神経―感覚神経・運動神経…


でも、初めから、これに従うのは弁証法的でない。
なので~
先ず考える事は「神経とは」であり、「神経の働き」であろう。


神経とは、生命体・実体が、地球との一体化の為に働くモノであろう。
それは、その生命体・実体の時々の状況を地球・環境に沿うように制御するモノ。
この「沿う」とは、生命活動の維持の為に地球に合わせる、である。


これが人間なら、
「闘争時」での神経の働き方。
「休息時」での神経の働き方。

闘争・緊張時、または必要な状況での神経の働き方を「交感神経」と命名。
休息・弛緩時、または必要な状況での神経の働く方を「副交感神経」とした、のだろう。


また、
「人間は創り創られて人間となる」から、
人間の身体も神経も然りであろう。


それは、
戦国時代の戦いが日常的だった武将の神経・交感神経的神経の働き
現代の日々のんびり生活の金持ち専業主婦の神経・副交感神経的働き、
を比較したなら、そこには大きな違いがあろう。

想像で書くなら、武将なら交感神経と副交感神経の同時駆使が有り得ている。だろう。
これは、言うなれば、交感神経が副交感神経をを活性化して休息・回復を促進している、といったモノ。

これは、普通の人ならでき得ない、「興奮状態での熟睡」が、可能という事なのだろう。


天寿堂氏にとっての弁証法は、
ヘーゲル弁証法であり、絶対精神の自己発展である。

これは、初めから弁証法の実体・実態があるモノとの弁証法であろう。
だから、彼の言説の全てがヘーゲル弁証法的である。

それは、天寿堂氏の精神が絶対精神であり、
彼の思い・考え・書く・言う事の
全てがヘーゲル弁証法的である、という事であろう。


その弁証法が、正しく駆使されているか?いないか?の判定は~
その結論が、現代科学の結論と一致可能であるか?ないか?だろう。

換言するなら、その弁証法の論理的結論を
周囲の一般常識的に表現できるか・できないかであろう。


なのに…「交感神経の任務とは」…
表現の段階で、逃げてしまっている!

このように感じ取っているのは、
果たして自由びとだけだろうか?














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「正しい」の正しい理解とは?

2019-07-13 12:46:13 | 想い思い考える

以下の掲示板記事を読んで思った~

天寿堂談話サロン
<交感神経の活性化で癌細胞が増殖する>



「正しい交感神経の理解」とは?
「正しい癌についての理解」とは?
「正しい癌の治療法」とは?


そう~「正しいの『正しい』理解」とは?


治療とは、
病気の治療であるから、
病気が治る治療法は正しい?

癌の治療なら、
その方法で癌が治れば「正しい治療法」?

人間には、人体に備わっている自然治癒力がある。

ある方法で、その病気が完治した時、
それは、その治療法の正しさなのか?
それとも、人体の自然治癒力の力なのか?
その判定は、どのようにする?


交感神経の活性化で、何らかの疾患が改善されたとする。
その時、ガン細胞をも活性化してしまっているなら、
場合によっては疾患は改善されたが、
ガンで死に至ったとなり得るのかも…


人工透析をしていた心に青雲氏は、
天寿堂氏から、その腎臓の疾患の改善の為に、
交感神経の活性化・治療をしてもらっていた、そうである。


その治療過程で、青雲氏は口頭?ガン!に犯された。
結果的に、心に青雲氏は、死に至ってしまったが…

少しでも健康・元気で長生きを求めての交感神経の活性化が、
結果的にガン細胞分裂をも活性化してしまったていたなら、
果たして、交感神経の活性化が正しい治療法と言えるのだろうか?


腎臓疾患の軽減法として効果があって正しいモノであっても、
ガン細胞分裂の抑制・阻止…としては効果ないなら正しくないと言える?


論理的に正しい方法を実践するなら、必ず論理的に正しい結果が出る。
しかし、それが、事実として自分の求めている結果である、とは限らない。

このような事を「事実は嘘を吐く」と言うのだろう!?…たぶん…







以下は、その記事である。





<交感神経の活性化で癌細胞が増殖する>


タマゴ - 2019年07月10日 (水) 07時36分

がん悪化原因は「自律神経」 岡山大チームが発表、新治療法に道
2019.7.9
 
がん組織に自律神経が入り込み、増殖や転移を促進しているとの研究結果を、岡山大の神谷厚範教授(細胞生理学)らのチームが8日付の海外科学誌電子版に発表した。自律神経を操作し、がんを抑制する新たな治療法の開発につながる可能性があるとチームによると、自律神経は脳からの命令(電気信号)を臓器へ伝え、働きを調節するケーブルの役割を持ち、ストレスや緊張で活発に働く交感神経と、リラックス時に活発化するとされる副交感神経がある。
 研究では、人の乳がん組織を調べ、がんの増大に伴って自律神経ががん組織に入り込むことを発見。乳がん患者29人のがん組織を解析すると、交感神経の密度が高い人は、術後の再発や死亡率が高いことが分かった。
 さらに、遺伝子を操作して局所の自律神経の機能をコントロールする技術を開発。人の乳がんを移植したマウスの乳腺で、この技術を使って交感神経を刺激すると、がんが増殖し転移も増え、交感神経を除去すると抑制されたという。

https://www.zakzak.co.jp/lif/news/190709/hea1907090006-n1.html



タマゴ - 2019年07月10日 (木) 17時45分

概要
論文掲載雑誌:「Nature Neuroscience 」(7月号)
本研究では、ヒト乳がん組織解析の結果、交感神経高密度群の患者は、低密度群に比べて予後不良であることを発見した。
動物乳がん組織に分布するがん交感神経だけを除去すると、原発がん増大と遠隔転移が抑制されることを明らかにした。
―――――――
交感神経とがん進行の関わりは以前から疫学調査の結果などから指摘されてきました。
 神谷さんらは、乳がん組織内の交感神経に着目。
国立がん研究センターで手術を受けた患者29人を調べたところ、組織内の交感神経の密度が高い人は再発しやすかったそうです。
 さらに、マウスにヒトのがん組織を移植し、交感神経を刺激しました。
60日後、刺激しないマウスと比較すると、がんの面積は2倍近く大きくなり、転移数も多かったそうです。
一方、交感神経を遮断すると、60日経ってもがんの大きさはほとんど変わらず、転移もなかったそうです。

タマゴ 07/11(木) 10:14 2
愚按亭主 - 2019年07月11日 (木) 10時14分

 この研究チームは、癌とは何か?交感神経とは何か?が分かっていないので、事実に騙されて大変な誤りを犯すことになる、と予言しておきます。

 まず、癌とは、組織的なミトコンドリアが働けない状況になって、緊急避難的に遺伝子的先祖がえりをして、糖を分解してエネルギーを得て生きていく、組織的経験を持たない単細胞段階に戻ったものです。ですから、癌を問題にする場合、そこから出発すべきであって、癌があるところから出発すると、とんでもない誤りを犯してしまうことになります。その典型がこの研究チームです。


 次に、交感神経論についてですが、このチームの交感神経についての認識は、「自律神経は脳からの命令(電気信号)を臓器へ伝え、働きを調節するケーブルの役割を持ち、ストレスや緊張で活発に働く交感神経と、リラックス時に活発化するとされる副交感神経がある。」に示されていますが、これは、現代医学の誤った自律神経論をさらに改悪したものです。

 そもそも交感神経は単なるケーブルではありません。交感神経幹という独自の中枢をもって自律的に働く神経です。なぜそういう中枢ができたのかと云いますと、脳では賄いきれなくなって、より高度な統括をするために急遽造られることになったものです。つまり、脳はほとんど交感神経幹に丸投げしているのが実態なのです。

 その交感神経の任務は命を守ることです。ですから、癌を発生させてしまったというのは、交感神経の任務の不完全履行の結果として生じたものと云えます。しかし、その結果として生まれた癌細胞も、身体の細胞の一つでもあります、だから、その命を守ろうとしてその細胞の集まりに入り込んで育てようとするわけです。これが交感神経ががん細胞の中に入り込む理由です。

 決してストレスで交感神経が緊張するから癌細胞に入り込むのではありません。リラックスしていようと、その職務に忠実に実行しようとしているだけです。

 問題は、交感神経は、任氏kに振り回されて命を守るという本来の任務に反することをやらされる場合顔いために、その職務の実践の仕方が歪ませられてしまうことがあることです。その結果として現象するのが、自己免疫現象であり、今回のような癌を積極的に育ててしまうという現象が起きることdス。

 ですから、この複雑な交感神経の取り扱いについて、正しく捉えて対処しないと、交感神経ががんの強くする原因だから、交感神経を壊してしまえばよいという短絡的発想に陥らないようにしないと、大きな過ちを犯してしまうことになりますよ、と警告しておきたいと思います。




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続・南郷先生の御言葉・「修行とは…」

2019-07-11 11:30:04 | 言葉・概念




游士氏の書き込みコメントでの
氏の、その作文・労作・苦労に対して感謝の念は否定できないが…
それでも…氏の誤読・誤解は、ここで訂正をさせて頂く事にする。


先ずは、
>自由びとさんが批判している「えぱ」さん…
という記述だが…

自由びとは批判ではなく、
>このコメントは、
>「修行とは、ダメだとわかっていても続けることだ」、
>という言葉を確り理解していない。
と書いている。


これは、批判が目的ではなく、「えば」氏のコメントから生じるだろう、
南郷氏の「修行…」についての誤解・誤読の回避を求めての記事である。



「えば」氏が、
南郷氏の言葉をどのように理解しても、
氏の個人・認識内であれば、
ここで記事にする必要は皆無である。

しかし、あのような形でネットで書かれたなら、
それは、訂正の必要があろう。

もっとも…今は亡き青雲氏が、彼のブログでハッキリと
訂正できていれば、自由びとの出る幕はなかったのだが…

しかし…この「修行とは…」の概念把握は至難であった。
今の私の認識だから、やっと到達し得た「修行とは」の概念であった。

これも、ここ数年…
我慢する必要が、あるのに我慢不能な子供達。
普通にやるべ事を、全く普通にやらない子供達。
私には、それは『絶対にやらない・努力不足』と思える事が、
本当は、『全くできない・努力不能』事という驚愕の事実。


そんな体験・経験からの言葉だったのである。



だから、自由びとは、わざわざ記事にして、
正しい「修行とは…」の解説を試みただけである。


「言葉・記述の誤解・誤読…」とは、
游士氏コメントにも同様な事が言える。


南郷氏の「修行とは、ダメだとわかっていても続けることだ」
とは「修行」一般であり、個々個別の「○○修行」ではない。

「修業」と「修行」は、
身体・実体に関わるモノと認識・機能に関わるモノの区別の為に
取り入れられた言葉・概念に過ぎない。


「修業」が、身体・実体の磨き方なら、
「修行」は、認識・機能の磨き方となる。


何の為に「磨く」のかもと言えば、
それて、現実が鋭く切れるようにする為である。

このように、
人間・全体を身体・実体と認識・機能に分科するのが科学なら、
この考え方は、
科学的と言えるのだろう。


空手の修業と修行
宗教の修業と修行。

武術の修業と修行、
武道の修業と修行。

科学の修業と修行
学問の修業と修行。


術の修業と修行、
道の修業と修行。


そんな事を思っていると想ってしまう~
現代の子供達に大きく欠けているモノ、
それは、「我慢の修行」であろう。


これは、嫌でやりたくない事を、
『嫌だ!やりたくない!』と感じ続けて
やり続けるという「修行」である。


換言するなら、
「嫌でやりたくない事」でも、
生きる為には、やり続ける必要性を
感情レベルで実感・認識する修行と言い得る。

因みに、
当然に「修行」と
同時に「修業」である事もあり得る…

これは、その人の意識・目的が、ある・なし…であろう。



現代の子供は、周囲の大人が、
「嫌ならやらなくてよい!」
と分かってあげてしまっていて…

「肉が嫌いなら、魚を食べればいい!とか…
「野菜が嫌いなら、ビタミン剤を飲めばいい!」とか…
「勉強が嫌なら…『勉強したら御褒美をあげる!』から」とか…

周囲の大人達が、子供達に代わって、
彼らの眼前の嫌な事・したくない事から、
子供たちの認識を逸らしてあげてしまっている…


これは言わば、
「認識・機能の使い方」レベルの事であり、
本来は子供達に必要な
「認識・機能の創り方」の指導ではないのである。


空手で例えるなら、
初めから、攻撃技を避ける・捌く事を教え、
攻撃技を確り凝視・忍耐する事を教えていない。


恐怖を直視して、
その恐怖から逃げたい感情を感覚して、
その恐怖感・逃亡感にジッと堪え我慢し、
(この我慢とは、身体的な脱走・回避をしない事)
その我慢の維持状態に耐え続ける訓練の欠如であろう。



世の中、
「嫌な事・やりたくない事」でも、
「逃げてはいけない事」、
「しなければならない事」は、
多く存在しているモノである。


今の私が実感・痛感している事。

それは、他人の記述・言葉…は、
どんなに努力・頑張って理解しようと試みても、
結局は読者の能力の範囲内でしか理解できないモノ。

それでも、理解したと思えた記述・言葉の数々を、
理解不能と思えた己の現実と練り合わせたなら、
その時、新たな理解が生まれる事もあり得る事。

それが、
誰の記述・言葉であっても…であるが…
もっとも…
私の場合は南郷先生の御言葉に対してのモノが多いいが…

より正確には、多くの記述・言葉の裏に、
南郷氏の御言葉が見え隠れしてしまう、のだろう。

結局は、
私も私の実力の範囲内で対象を理解してしまっている事…
という事なのだろう。


だから、

「分かった・理解した認識」裏には、常に
「分かっていない・理解していない認識」があり、

自分の分かった・理解した、では、
他人を分かった・理解した、にはなり得ない事もある、

という認識を忘れずに過ごしたいモノである…
それも、我慢であり、
「分かった」ではなく「分かったつもり」、
「理解した」ではなく「理解したつもり」、

そんな~
納得不能・消化不良的な認識に、
我慢し続けるもの修行であろう。







コメント (2)
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