新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

死に様は生き様・生き様は死に様

2018-09-29 11:38:55 | 悟りシリーズ



人生での選択~


昨日、NHKドラマ「半分青い」は~
すずめ(主人公)の大親友で看護師のゆうこが、
東北の大震災時、病院で動けない患者に最後まで付き添いつつ
スマフォに(万一の為の)遺言を録音して死んでいった、
そんな内容であった。

これを視て、今日の朝に以下のような事を思った~

初めは、これこそが、ゆうこ彼女の生き様であり死に様、
後から、それは看護師ゆうことしての生き様・死に様であり、
決して、母親・妻ゆうことしての生き様・死に様ではない。


看護師なら患者の事を、母なら子供の事を、
妻なら夫の事を、友なら友達の事を、
思い・考えるのが当然であろう。

平常時なら、
眼前に患者がいれば看護師的彼女、
子供がいれば母親的、旦那がいれば家内的、
そんな立場の自分であるのが普通・正常であろう。


人間は、色々な立場で生活している。
自分にとって、どの立場が重要か?で、
その人の生き様、死に様が決まってくる。

平常時なら、
特にそれを意識する必要はなかろう。

しかし、「死」を目前にした時、
そんな時こそ、自分に己に問うべきモノ、
それが、
自分にとって一番大切な事・したい事は何か?
であろう。

「大震災」という非常時、
目の前に、続きゆく「生」ではなく、終わりの「死」が迫っている時、
目の前に、患者が、子供が、旦那が、誰が…いようが、
自分の行動・行為の選択は、自分の心底の真の感情で決定すべきモノ。
その場の感情・気持ちに流されては………

眼前に患者がいるから付き添って死んでいく、のではなく。
心の底から、子供・旦那・親友…等の事を思い出し、
浮かび上がるそれぞの感情を対比させ、
自分の心底したい行動・行為を選択すべきだろう。

そんな事を家内に言ったら…
「看護師なら当然でしょう」と言われた。

仕事としての責任を問うなら、
看護師は病院の責任者でない。

仮にその患者の担当が彼女であっても、
その責任は看護師長にある。

仮に彼女が、そこ・その場の最高責任者であったとしても…
「死」を目の前にした時、眼前の他人の事ではなく、
死にゆく己の事を思い・考える、べきだろう。


己・自分が、何事を・誰の事を、一番に想っているか?
眼前の事物・人物と共に死んでいく事を心底望んでいるのだろうか?
この世の物事・人物に、深い想いを残していないだろうか?

生きられるなら、生への可能性があるなら、
全力で、生きる努力、生への執着は、捨てるべきでなかろう…

もっとも…
これらは、私にとっての「…べき」であり、
他の人にとっては、「…ない」なのかも知れないが…

どんな時でも、一度っきりの人生~
悔いの残る死だけは、避けたいモノである。
「死に様は生き様・生き様は死に様」
↑これナイス!



表題は、「人生の選択~」にするつもりだったが…
やっぱり、「死に様は生き様・生き様は死に様」にしよう。













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私も「概念の労苦」に挑戦!

2018-09-25 11:53:31 | 弁証法



談話サロン天寿堂掲示板で展開されている
[2924]【南郷先生の錯覚にもとづく壮大なる徒労】について、
私も「概念の労苦」にチャレンジしてみようと思い、
この記事をアップする。


初め、読もうと一目見た時、
『いや~文字が多すぎ…』~
『~大変そう』~
と一度は止めてしまった。

でも、それでも「錯覚」、「壮大なる徒労」…
といった文字に惹かれて再度の挑戦である。


さて…

先ずは以下の疑問からである。


>南郷先生は、ヘーゲルの志だけ受け継いで、肝心のヘーゲルの学問体系を捨ててしまいました。


南郷氏の「学問体系」、
愚案くんの「学問体系」、
ヘーゲルの「学問体系」、
これら、全てが同じ像「学問体系」なのだろうか?

愚案くんは、それらの相違を知った・分かった・識った…上で書いているのだろうか?



>つまり、南郷先生は、ヘーゲルを受け継ぐと云いながら、ヘーゲルの志だけ受け継いで、肝心のヘーゲルの学問の方を捨ててしまって、受け継いでいないのです。


ヘーゲルの学問像と愚案くんの像は一致しているのか?
仮に一致していたとして、
絶対精神の自己発展で説かれたそヘーゲルの学問が、
誰にでも習得・修得・体得可能か?

ヘーゲルの個人的な観念論的学問像を、
誰にでも理解可能な唯物論的像への変換が必要なのでは?

唯物論では、誰にでも理解可能な学問像が求められるが、
観念論なら、己さえ理解していれば、その表現は自由なのでは?

同じモノ・コトの像が観念論も唯物論も同一なのだろうか?
また、その同じモノ・コトの表現・言葉…も同一なのだろうか?


絶対的観念論者は、己の説いて・書いているモノは絶対的に正しい、と思い込んでいる。
しかし、その表現は他者理解の為である筈、ならば、それは唯物論的であろう…

そもそも…
唯物論的に説かれている「南郷氏の認識」を、
絶対的観念論者の愚案くんは理解しているのだろうか?

その理解方法とは、<即自的存在とか対自的存在、自己同一性>である筈…
ヘーゲル哲学を肯定している自分<即自的自己>があり、
南郷氏の認識を否定している自分<対自的自己>がある。

二つの自己を自らの発展の為に<自己同一性>化する為には、
ヘーゲル絶対の自己で南郷氏絶対否定の自己を潰す事であろう。

その理由は、
観念論は、いくら頑張っても個人技。
唯物論は、人によっては一般技になり得るモノ。だから…















>不思議なことに、ヘーゲルの書を一生懸命まじめに研究しているどの人よりも、ヘーゲルの云わんとしていることが分かるようなのです。それは事実として、この談論サロンで展開してきた内容を読んでもらえば了解してもらえると思います。


この『分かるよう…』が、単なる愚案くんの思い込みでない証明は?
それは、ヘーゲルの言説からではなく、唯物論的な解説・一致なのでは?















>その元・土台となったのが、ヘーゲルとは関係なしに、自力で、唯物論の<相対的真理>根本論を大転回して、絶対的真理を根本として相対的真理をその構造とする真理論へと変えたことです。


この「真理論」が真理である証明・根拠は?














> 悠季真理先生は、唯物論の悪弊ですべて論理は事実から順番に這い上がっていくものとの思い込みから、このような解釈をしているのですが、これは全く違います。アリストテレスは、まさに自ら創り上げた<学問の冠石>つまり形而上学から「概念の労苦」を通して、事実的論理との相互浸透を図って時代の学問を創り上げていった、その過程を歩んでいたという事実を、この叙述は物語っているのです。

↑~
ここに書かれている「事実的論理」は、どのように生まれているの?

事実は事実で論理ではない。
それらの事実との関わり方の相違は?
観念論的か?唯物論的か?その相違は?











> ヘーゲルは、それをギリシャ哲学の三側面として論理化しています。

<抽象的悟性>→<否定的理性(弁証法)>→<肯定的理性(統体思弁)>

 解説しますと、抽象的悟性は形而下の世界の事実的論理であり、否定的理性はエレア派のパルメニデスやゼノンの世界全体の論理であり、統体思弁の肯定的理性は、その両者を概念の労苦によって統体止揚して一体化して体系づけることを云います。アリストテレスは、まさにその作業をしていたわけなのです。ところが、そういう事実を前にしても、ヘーゲルを否定して、唯物論にアタマが囚われてしまっているから、このような恣意的な誤った解釈をしてしまうのです。、



↑~
<抽象的悟性>は、どこから・どのように生じるの?
<否定的理性(弁証法)>が、本当に正しい「否定」である根拠?
この二つが間違っていれば、<肯定的理性(統体思弁)>はどうなるの?















>どういうことかと云いますと、唯物論は絶対的真理を認めないから、観念論的な絶対的真理の系譜・潮流を、そもそも認めるわけにはいかないので、カケラとして扱うしかなかった、ということです。さらに言えば、合宿での闘論とか、本読み奴隷の量質転化が、弁証法的な論理能力を作ったという物質的原因ばかりに注目して、肝心の観念の中身自体の発展を見ようとしない、という唯物論的な方法論の欠陥が作り上げたその弁証法形成の歴史過程論に、パルメニデスとゼノンを位置づけられなかった結果ともいえます。だから、カケラとして扱うしかなかった、ということだと思います。つまり、南郷学派の弁証法形成の歴史過程論は、現実とあっていないということをこの事実は示しています。



↑~
「観念の中身自体の発展」が、正しい「発展」である条件は?
「発展」は、変化である。
その変化が、真の発展・変化である、の証拠は?


















>と云いますのは、細かい生命の歴史の論理までは究明していなかったにもかかわらず、ヘーゲルは、<生命ー認識―学問>という弁証法的な三項の発展の論理を見事に措定しているからです。これが如何に見事かは、後世の南郷学派の生命の歴史論の発展を、自らの構造と化して発展できる発展性を持っている点に在ります。具体的に云いますと、生命の遺伝子の体系性に支えられた本能が、一旦否定されて、発展性のある認識に置き換えられ、その認識の発展によって、即自的な遺伝子の体系性が、認識の発展を通じて対自的な体系性を持つ概念となって、「概念の労苦」を積み重ねていった結果として、学問の体系化が完成して、即自的な絶対精神が、対自的な絶対理念へと発展すると直接に自らに回帰する、という具合にその構造がどんどん進化してく見事さなのです。


↑~
「生命の遺伝子の体系性に支えられた本能」とは?
「…一旦否定されて、発展性のある認識に置き換えられ…」
の具体的な置き換え方とは?

「その認識の発展」とは、どのような発展?
だれもが、そのような発展が可能なの?

まだまだ…あるが…
こんな・そんな疑問を投げかければ…切りがない。
例え、愚案くんが、絶対的に正しかったとしても、
その記述を読み解いても、
絶対的に全く正しい生き方・生活…
そんな日々が送れるとは思い難い!
















>[2928] 【「概念の労苦」によって「精神の王国」は更新・発展」する】
> いきなりの閑話休題ですが、何か誤解されているようですが、私は唯物論を否定してはいません。観念論を否定して唯物論だけで学問を創ろうとしていることに対して、異を唱えているだけです。そして、それが如何に間違いかを証明するために、唯物論だけだとこのように学問の歴史を正しくとらえられず、歪めてしまうことになる、という南郷学派が実際に犯している誤謬を指摘したのです。

↑~

あれ・れ…
南郷氏は、世界観としての観念論は否定していても…
世界観としての唯物論の保持を元に、その自らの観念を駆使しての論理展開は肯定しています。
愚案くんの認識内では、
世界観としての観念論と観念を駆使した論(観念論)がゴチャゴチャなのかも?
















> しかし、この滝村先生の評価は、マルクス主義の形而上学的発展史観に囚われた、まさに物理的・物質的要因を歴史の原動力と見て肝心な点を見ようとしない、唯物論者特有の欠陥がもろに現われたものです。では、その肝心な点とは一体何か?それは、日本は、「和を以て貴しとなす」という国家理念を憲法として国創りを行った、国家の本質論に則った世界で唯一の国だということです。しかも、その憲法制定は、近代国家を世界で最初に作ったと云われている西洋の憲法制定(それも本来の憲法とは程遠いものでしかなかった)よりも六白年も早かった、というまさに異次元の凄さでした。
>天下の国家論学者ともあろう者が、このような国家論の特筆すべき事実を知っていながら、ガラパゴスなどと、あたかも歴史に取り残されたような評価のしかたをするというのは、考えられないことであり、学者生命をゆるがしかねないレベルの失態!といっても過言ではないと思います。その原因は唯物論にあります。その唯物論が、ヘーゲルを学んでも、ヘーゲルを正しく吸収できなくしてしまうからです。

↑~「ガラパゴス…」とは、
世界的な激しい変化的な環境から隔離された、
世界とは異なった安定した変化の環境、という事で、
決して「歴史に取り残された」ではない、と私は理解しています。


それは、世界歴史とは、異なった歴史的発展をしたモノです。
ただ…そんな異なった環境での発展だから、
周囲・環境の状況が激しくなれば、その安定は崩れゆく宿命という事。


例えば、温室で育った植物は、どんなに美味しくても、
温室の外へ出されれば、全く異なったモノになり得る、というモノ。

そんな理解が愚案くんにはでき難いのでしょう。


これも、「絶対的観念論」とか言って、
他者の言葉を唯物論的に理解していない罰ですね、



















> では、観念論からこれを見ますとどうなるかと云いますと、全体を統括する一般論=学問の冠石=概念を主体と見ますから、まず最初に、これが生まれますが、こっれはまだ中身が空っぽですので、その中身となるべき事実の論理の成熟を待ってじっと待機しています。ある程度事実の論理が成熟しますと、学問の冠石は、そろそろとそのままでは全体の一部にはなれないよと否定的な干渉をはじめます。これによって、定有が対自有へとへと変化して、全体に組み込まれる準備が整っていきます。
>一方で、論理の論理である本質論の方も、部分性の全体と全体性の部分との統一が図られて組み込まれる準備が着々と進行していくことになります。その結果として、有論の中身と本質論の中身とが統一されて概念の実質となり、構造となった時、即自的な概念は対自的な概念へと更新されバージョンアップされて、発展していくことになります。

> これが本当の「概念の労苦」なのです。つまり、これらの一連の作業は、概念の統括の下に行われるということであり、それを論ずるのが概念論なのです。つまり、概念論は、概念が、概念の労苦を通じて学問体系として発展していって、絶対理念へと至る道筋を説くものなのです。ですから、南郷先生が批判した訳者の注の方が正しいのです。参考にその訳者の注を引用してみましょう。

>「ヘーゲルが『概念』という時、この言葉は非常に強い意味をもつ。事物について我々が抱いている一般観念とか、あれこれの言葉について辞書に書かれているような意味内容と言ったことにつきるのではなく、事物自身の内的本質とその関連を表わし、ほとんど、事物を構成している原理そのものと考えられる。やがて論ぜられるように、こうした概念の自己運動を把握することが、すぐれた意味での『学問』だというのである。」


> これは全くその通りです。なぜそれが分かるかといいますと、私自身その概念すなわち「精神の王国」を自らのアタマの中に創り上げることに成功したからです。すると、はじめは、直観的に捉えていたものが、その不動の骨格の下にその細部の構造が、自己運動のように概念の労苦によって、くっきりと明らかにされていくからです。これには自分でも驚きます。こういう観念論的な表現は決して間違いではないのです。否、むしろそうでなければ正しく表現できないものなのです。ヘーゲルは「大論理学」の序にそのことを書いています。つまり、まだ中身が何もないから思惟によって創られた現実性のない学問の冠石しか書けない、しかし、これが、基本的な骨格となり、これから概念の労苦によって中身が創られていくことになる、ということを述べています。

>個別科学が事実の究明を充分に明らかにしている今こそ、本当の意味での「概念の労苦」が可能な時代になっているのに、肝心の南郷学派が、「概念の労苦」は概念の論理化のことである、などと言っているようでは、何時まで経っても本物の学問の体系化など無理な話です。南郷先生は、認識学への修学なしには学問の体系化はないと豪語されていますが、概念=精神の王国も解けない認識学で果たして可能なのか?……









↑~
いや~「概念の労苦」とは非常に疲れるモノである。
私の場合、南郷継正的南郷氏私なので、
南郷氏否定の言葉の数々を読み続けるだけでも疲労困憊である。


絶対的観念論も絶対的真理も…
初めに絶対的に正しい観念・真理ありき。

でも…しかし…です。
ちっぽけな一人の人間が、
初めからそんな境地に到達できるのでしょうか?

確かに、歴史を歴史的に学べば可能なのかもしれません。
それでも…初めから完璧に歴史を歴史から学べるモノなのでしょうか?

人は、学んでも、学んでも…
絶対的に正しい真理に到達不能だと私は確信しています。

絶対的真理は、無限のモノ・コトの真理であり、
有限な人間には、無限のモノ・コトを絶対的に正しく理解不能です。
人・人類に出来る事は、
その絶対的真理へ到達し続ける労苦、
そう「概念の労苦」なのです。

絶対的真理とは、無限の相対的真理を集め切った時、
初めて形成されるモノなのでしょう。

だから、有限の人間には無理無理なのです。



これは、「ゼノンの絶対矛盾」なのです。
確かに、絶対的真理はある。
しかし、人類には体得不能。
だから、「ある」かつ「ない」絶対的真理。
なので、「絶対矛盾」なので~す。


そこを実感し得ない愚案くんに、変化・発達はあり得ても、
今以上の真の発展的変化は不能なのでしょう。


自己を完璧だと確信し切った老人に、
幼子のような未来発展はないだろう。

果たして、
老人化しつつある、
自称永遠の若者の私に、
明るい発展的未来はあるのか?















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テーマは「悟り」!

2018-09-23 14:49:37 | 悟りシリーズ

「悟得」とは、「悟り」を「悟りレベル」で体得・実感し得た時である。

例えば、宗教的悟得がある。
または、学問的悟得がある。
そして、武道的悟得がある。

宗教的悟得とは、その宗教的悟りを悟りレベルで体得・実感し得た場合。
学問的悟得とは、その学問的悟りを悟りレベルで体得・実感し得た場合。
武道的悟得とは、その武道的悟りを悟りレベルで体得・実感し得た場合。


ならば、宗教的悟りとは?
または、学問的悟りとは?
そして、武道的悟りとは?


私の問題は、私が求めている悟りの具体的中身である。
それは、どのような悟りなのか?

それは宗教的?
または学問的?
または武道的?

宗教的な悟得へは、宗教的な悟りへの道。
学問的な悟得には、学問的な悟りへの道。
武道的な悟得には、武道的な悟りへの道。


私が、私が悟りたい悟りの具体的な内容を明確に意識しない限り、
私に、私を悟得へ至らせる事は、無理無理なのだろう。





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体罰は嫌いだ!

2018-09-23 14:32:45 | 教育



私は、体罰が嫌いだ!
体罰という表現が嫌いだ!

罪を犯したから身体的に罰を与える!
間違いを犯したから罰を与える!

そんなの可笑しい!
人は人を罰する程に偉くない、と私は思う。


ネットの定義だと「体罰」とは以下のように書かれていた。
>体罰とは(国語辞典的定義) 体罰とは、「肉体的苦痛を与えるような懲戒」です。 懲戒とは、「特別の監督関係ないし身分関係にある者に対し一定の義務違反を理由として科する制裁」です。 つまり体罰とは、親、教師、監督などが、悪いことをした子を叩いたり、長時間立たせるなどして、こらしめ、指導することです。<



そう~「肉体的苦痛を…」と書かれている。
さて~ここで問題が…

人間には、サドディスとマゾヒストという者がいるが…
これらは、極端な者達ではあるが…

ここまでいかなくとも…
筋肉痛が快感と感じる者もいれば、
同じ筋肉痛を苦痛と感じる者もいる。


教育の過程において、親が与えた「肉体的刺激」を、
その子が苦痛と感じ得ない時、
それは「体罰」と言い得るだろうか?

その子が、親からの教育的指導の過程の身体への刺激を心の励み・糧…にでき得るなら、
それは、「体罰」ではなく、教育的指導であり、教育的な身体への刺激となる。

体罰も暴力も現象的には、どちらも同じ、身体への刺激である。
体罰と暴力の相違は、
刺激する者の立場と刺激を受ける者の感じ方あろう。

その違いによって、同じような身体的刺激が、時に体罰、時に暴力となり、
そして、時に何て事ない、日常の生活指導の一コマであったり、である。


私は、「暴力」だと判断・認識・感じさせてしまうような身体への刺激には反対である。
同様に、「体罰」だと判断・認識・感じさせてしまうような身体への刺激にも反対である。

別言するなら、「体罰」とも「暴力」とも判断・認識・感じさせない身体への刺激…
それも相手の為になり得るような成長・発展を促す刺激には大賛成である。


だから、体罰・暴力には、時に反対、時に賛成である。

その反対・賛成の理由は、同じような身体への刺激でも、
それが、教育者と非教育者間では単なる指導であり、
当事者以外の者には、体罰と見られるな身体への刺激である場合である。




このように書いても…
体罰は体罰、暴力は暴力、としか思えないソクラテスには、
何の事やら皆目見当もつかないだろうが…


事実として存在しているのは、体罰でも暴力でもなく、身体への刺激であるのに…
それを、体罰?暴力?教育指導?…と分けるのは、人間の認識であるのに…


だ・か・ら・そんなソクラテスだから、
自由びとブログの記事の記述が、読んでも読んでも全く理解不能なのである。

理解不能な癖に、
イッチョ前にコメントを寄越して自己満足している自己満ソクラテスよ!
まあ~まあ~お宅はお宅で一所懸命に頑張り続けたまえ!
そうこうする内、少しは…まともに賢くなり得るかもしれないし…



















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「一つ」とは面白い言葉である。

2018-09-21 11:33:30 | 言葉・概念


先刻、視た録画ドラマ「東京ラブストーリー」の中で、
以下のような会話があった。


リコ:「一つ聞いていい?」
完治:「もう、聞いてんじゃん!」

これを、言葉を聞いた・字幕を視た時、
なるほどと痛感した。

この会話では、
「聞いていい?」と
「一つ聞いてしまっている』
からである。


こう考えると、
「沈黙は金」というコメントをソクラテスが書いたなら、
ヤッパリ!ソクラテスは言動不一致の己を知らない無知者である。
本当に、「沈黙が金」と実感・痛感している者なら、
ここで、「沈黙は金」とは書くべきではない。

もっとも…「沈黙」とは黙っている事・話さない事だから、
黙って書き続けるのは「沈黙」しつつ書き続ける、であるが…


一つの筈が、二つ目の分かった事になってしまった。
弁解を一つ、書きたかった一つとは以下のような事。


絶対的観念論者の愚案くんは、
「絶対真理はある」と絶対的自信を持って言いきっている。

この言葉は、真理だろうか?

先ず、唯物論的事実に考えよう!
真理とは、人間にとっての真理。
人間とは、認識的実在である。

認識的実在の人間とは、
対象を(動物的)本能的ではなく、認識・精神・観念的に把握する。

認識とは実体の機能であり、それは無限的な働きが可能である。
でも、それは実体・身体の機能であるから結果的に有限的なモノである。
もっとも、個体ではなく人間の総体・人類の機能としてなら無限足り得るが…

人類は続いていても、個体の人間は誕生と死亡の繰り返しである。
また、個体の人間は無限の対象と有限的に関わり把握していくモノ。
そして、人類は個体に比して無限的であっても、
世界・宇宙に比べれば、やはり有限である。

宇宙・世界の真理とは、無限の世界・宇宙の真理である。
もっとも…人類の存在し続ける世界は有限だろう。

仮りに、人類の存在可能な世界の真理を「絶対真理」と言うなら、
その「絶対真理」も体得し得るだろう。

しかし、真理に「絶対」という言葉を付けるからには、
人類に有無に関係なく、「無限的宇宙の絶対真理」となる。
そんな無限的宇宙の「絶対真理」も、絶対にない!と言いきれない。

ここで、無限的宇宙の「絶対真理がある」と仮定しよう。
これは、唯物論的「直観的本質論」と言えようが…

存在するだろう無限的宇宙の「絶対真理」だから、
例え人類といえども、宇宙に比べれば有限であるから、
結果的に、
有限な人類には、無限的宇宙の絶対真理の体得は不可能である。
可能なのは、人類が、存在可能・想定・想像可能な世界の真理である。
それでも、その真理へは時代ごと一歩一歩の歩みが必要であろう。


愚案君の言葉「絶対真理がある」は正しい・真理だとしても…
人類は、「絶対真理」に近づき続ける事は可能でも、
絶対に、「絶対真理」への到達は不可能であろう。


なのに…「絶対真理の体得」とか「ヘーゲルは絶対真理」とか…
未完成品をを既完成品と誤解している、
現在の愚案くんに発展的未来はない!と私は確信している。

89歳の父親も、そしてあと少しで62歳の私、
そして、私より若いと宣っているソクラテスも…
それぞれの観念は、それぞれに実体化していて、
「己が正しい!」という無自覚的先入観・確信の元で
生きてしまっている、のだろう。


天寿堂の愚案くんの言説を、そのままに理解・納得してしまう事は、
己の変化・成長・発展を阻害してしまうだろう。


あんな、
スパイでは絶対にあり得ない、
流雲さんをスパイと自分勝手に確信して…

当時はゼミの指導者であった彼なら、
直接に詰問して正誤確認が可能だったのに、
それをせずに、勝手に確信してしまった彼…

悲しく残念な事に
真の「絶対真理」へ到達の当然に不可能だろうし、
それに近づく事さえも、絶対的に不可能であろう。







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