人生での選択~
昨日、NHKドラマ「半分青い」は~
すずめ(主人公)の大親友で看護師のゆうこが、
東北の大震災時、病院で動けない患者に最後まで付き添いつつ
スマフォに(万一の為の)遺言を録音して死んでいった、
そんな内容であった。
これを視て、今日の朝に以下のような事を思った~
初めは、これこそが、ゆうこ彼女の生き様であり死に様、
後から、それは看護師ゆうことしての生き様・死に様であり、
決して、母親・妻ゆうことしての生き様・死に様ではない。
看護師なら患者の事を、母なら子供の事を、
妻なら夫の事を、友なら友達の事を、
思い・考えるのが当然であろう。
平常時なら、
眼前に患者がいれば看護師的彼女、
子供がいれば母親的、旦那がいれば家内的、
そんな立場の自分であるのが普通・正常であろう。
人間は、色々な立場で生活している。
自分にとって、どの立場が重要か?で、
その人の生き様、死に様が決まってくる。
平常時なら、
特にそれを意識する必要はなかろう。
しかし、「死」を目前にした時、
そんな時こそ、自分に己に問うべきモノ、
それが、
自分にとって一番大切な事・したい事は何か?
であろう。
「大震災」という非常時、
目の前に、続きゆく「生」ではなく、終わりの「死」が迫っている時、
目の前に、患者が、子供が、旦那が、誰が…いようが、
自分の行動・行為の選択は、自分の心底の真の感情で決定すべきモノ。
その場の感情・気持ちに流されては………
眼前に患者がいるから付き添って死んでいく、のではなく。
心の底から、子供・旦那・親友…等の事を思い出し、
浮かび上がるそれぞの感情を対比させ、
自分の心底したい行動・行為を選択すべきだろう。
そんな事を家内に言ったら…
「看護師なら当然でしょう」と言われた。
仕事としての責任を問うなら、
看護師は病院の責任者でない。
仮にその患者の担当が彼女であっても、
その責任は看護師長にある。
仮に彼女が、そこ・その場の最高責任者であったとしても…
「死」を目の前にした時、眼前の他人の事ではなく、
死にゆく己の事を思い・考える、べきだろう。
己・自分が、何事を・誰の事を、一番に想っているか?
眼前の事物・人物と共に死んでいく事を心底望んでいるのだろうか?
この世の物事・人物に、深い想いを残していないだろうか?
生きられるなら、生への可能性があるなら、
全力で、生きる努力、生への執着は、捨てるべきでなかろう…
もっとも…
これらは、私にとっての「…べき」であり、
他の人にとっては、「…ない」なのかも知れないが…
どんな時でも、一度っきりの人生~
悔いの残る死だけは、避けたいモノである。
「死に様は生き様・生き様は死に様」
↑これナイス!
表題は、「人生の選択~」にするつもりだったが…
やっぱり、「死に様は生き様・生き様は死に様」にしよう。