新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

記事「禅問答」の回答編~

2018-10-30 10:20:56 | 言葉・概念

ここでの禅問答とは以下である。

問い~
「まるを描かずに、まるを描きなさい。」

上記の問いに対する答えを
ホームページ竹の間[3513]から引用するなら~


「上級レベルの、駆け引き」になってくると、…

小僧「まるとは何ですか?」
老師「実は、ワシも『まる』の事は知らんのだが…
「でも『何ですか?』の方は分かっているんだ!」
小僧「では、『何ですか?』とは、何なのですか??」
老師「それは『まる』なんじゃよ!」


では、ズバリ私の回答は以下である。

一円玉、五円玉、十円玉、五十円玉、百円玉、五百円玉を描く。
そして言う。
「これらです!」
「これらを重ねてみた時、(貴方は)まるを認識します」。

如何かな?無門慧開くん!
開いた口が塞がらない…?


これでも…本来の禅問に対する答えとしては正解と言い難い、のだろう。
そもそも「禅問の回答」とは結果判定である。


その判定とは、
「悟り得ているか?いないか?」
「それは、如何なるレベルのモノか?」
を知る為のモノである。

従って、本来は、その「禅問題」が、
修行者のレベルに合わせれて然るべき、であろう。

しかし…残念な事に、ネットでは、
そのようには書かれていない。

更に書くなら、
禅答とは、
考えてから答るのではなく、
感じて即答・即反応・即対応が正解である。
それも、全身での回答表現が理想であろう。


さてさて…回答解説編を書こう~

無門から無門慧開への改コテハンまでは合理的であった。
その理由は、過去に自由びとブログへの書き込み禁止を受けた…にも関わらず、
自ら慧眼開眼の為に、無門から無門慧(眼)開(眼)としたからである。

しかし、非常に残念な事に、奴は、自由びとの見解・主張を正確・的確に理解でき難かった。
結果的に、今の奴は開きかけた慧眼が、閉じてしまい…
結果的に、今は、無門慧開ならぬ無門慧閉となり果ててしまった、のである。


前置きは以上として…
そもそも、この問いの答えを求めるには、
「描かずに、描ける『まる』」があるなら、
それは、どんな「まる」だろう?

まるとは?
描くとは?

禅とは何か?
問答とは何か?
禅問答の回答とは何か?


それらの思考・思惟過程から得たモノは~
「まる」とは、言葉である。
言葉は、認識の表現であり、
人があるモノ・コト…を認識して表現したモノが言葉である。

ならば、人は何を「まる」と認識したのだろう。
それは、普通に「〇」であろう。
これは、言葉ではなく絵である。
ならば、この絵を表現した言葉となる。

しかし、そもそも「〇」とは、どのように生じた絵なのか?
絵とは、人が認識し得たモノ・コト…を絵として表現・描いたモノである。

ならば、人は何を「〇」と認識したのだろう?
それは、存在するモノの形状を「〇」絵にして、
それを「まる」と命名した、のである。


従って、言葉の意味としての「〇」は描けても、
現実界に存在するモノの形状は直接には描けない。

だから、私は、描けない「まる」を表すために、
「まる」ではない、上記の諸々の硬貨を描いた。

これこそが、まるを描かず、硬貨を描き、
その諸々の硬貨をまとめて見た者が、
そこに「まる」を視てとる事を期待して…

そう~これは、私の相手への期待を込めての回答である。
だから、「まる」を知らない者達には、
私の描いたモノを見ても、「まる」は視て取れないのであろう。


同様な事が「悟り」や「悟得」にも言い得る。

「悟り」を識らない、「悟り」を体得していない人達には、
百万言の言葉で説いても…「悟り」は全く理解不能。

しかし、悟り得ている人なら、
相手の一言、または相手の一挙一動から、
相手のレベル、悟りの状態を視て取り得るモノである。


どうですか?
無門慧開ならぬ無門慧閉くん、
これでも、ありますか?
反論?
暴論?
愚論?
糞論?
尿論?
糞論?
尿論?


無論!ない!と確信しているが…


もっとも…
今の無門慧閉くんなら、
迷論?
はあるかも…

以上が~
迷わずに、
迷いの道を、
自信に満ち満ちて、
一直線に突き進んでゆく、
無門慧閉君へのエールである。


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禅の道⇔禅問答

2018-10-29 18:18:19 | 悟りシリーズ



自由びとの信条は、「有言実行」でありたい!
なので、以下に転写した「無門慧開」コメントを再読した。

~~~~転写開始~~~~

最後の最後に、
真面目に書くなら、以下の部分の記述は興味深いモノがあります。
禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。


自由びとさんが言う「事実は小説よりも奇なり」というのは私も同意しますけれど、そこから連想するのはこの「禅問答の続編」本記事の「まるを描かずに、まるを描かく」の実際の観念なんですよ。人間は、この言語表現されたことがらを如何に実際に考えているのか?という事実的な経験上話なんです。

そこを、自由びとさんのように「まるを描かずに、まるを描く」というのだから「まるというのは描かずに描けるものだ」なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論と違って、「プディングの味は食べてみないと分からない」とする私の解法だと「まるを描かずに、まるを描く」という文は「まるを描かない」+「まるを描く」であって、もっと詳しく述べると「まるを描く像の否定」+「まるを描く像」であり、最初の「まるを描く」像と次の「まるを描く」像とは違ってると理解できるわけです。

ですから、この認識は「最初の像」→「次の像」という像の変転として理解でき、「まる」という言語で表現された指示対象だけ比較するならば「まる」≠「まる」なわけで、時系列で思い浮かべた違う像を同じ「まる」という言語で表現したということになります。

ここでは「描かれない<まる>」と「描かれる<まる>」とは違っており、その意味では矛盾律は正しく成立していることになります。

ですので「同じ言語で表現された指示対象は同じはず」だという自由びとさんの前提が違っているのであり、頭の中での像の変転というダイナミズムを等閑視した形式論理的な自由びとさんの解法は無意味だと考えますね。

まあ、現代の分析哲学は言語分析から発展したといいますから、こうした禅の言葉をどう扱っているのか興味深いですけどね
(笑)





>禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。

いえね、既述した見解は私の見解なわけですよ。禅の公案を実際に解いてみたときに人間の思考ってどうなってるのか?どうやってるのか?という経験諸学の一つとして扱ったときに、それは盛られた器というか言語の文法をハミ出して内容の関連性として理解していく能力を人間の理解力(脳)は持っているなと私は気づいたわけです。

それは同一の著者の同一の書物の中であっても同じ語彙が違った意味で用いられており、また読み手も前後の脈絡から正しく違った意味として読み取ることが出来ているわけですが、この禅の公案では「まるを描かずに、まるを描く」という短いセンテンスの中で使われた同じ語彙「まる」で違ったモノを見ていること、人間はそうした思考や言語表現が出来るということを自分の問題・関心として披露したわけです。

このことは代数学のy=ax+bの文字式の扱いとは違うわけで、それはこうした人間の観念や表現を扱うに記号論理学をもってするには不都合が生じるのではなかろうか?との私の自分自身に対する問題提起なんですね。

この私の課題は哲学教授なり仏教学教授なりの指導教官のもとで論文として仕上げるべきものですから、自由びとさんとしては私の仕事の完成を楽しみに待っていていただきたい。

いつの日か風の噂で私の仕事の成就を耳にすることもあるでしょう。

自由びとさんの見解は既にこの公案を禅問答としては扱わないとして「まる」を「わからないもの」として「描かずに描けるもの」なんて方針を立てているわけですから、この方向性で首尾一貫して思考されて下さい。

ただ、私としてはエジソンの「99%の汗と1%の閃き」を想起いたしました。自由びとさんって、本当に「閃き」の無い人ですよね(笑)


~~~~転写終了~~~~

初見した時は、分かり難かったので、後回したが…
熟読してみると…ビックリだった。

奴(無門慧開)は、自由びとの見解を相変わらず誤解している。

それは以下である。
>自由びとさんのように
>「まるを描かずに、まるを描く」というのだから
>「まるというのは描かずに描けるものだ」
>なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論…

これは違う!
私の初めの見解は、
<「まる」とは、「そのものを描かずに描けるもの」モノである。
<そんなモノは知らない!だから、それは正体不明のモノである。


初めから「まる」は「まる」なら、この問題は解けない。
解けないモノを解くなら「正体不明」が取り敢えず回答となろう。

それでも、先へ進めるならば、
その先は、「まる」の正体の解明となろう。

禅の回答として、
一つ「正体不明」を、そのコトとして体現する。
二つ「正体不明」を、あるモノとして体現する。

考え方としては、
それが実際の「まる」とするなら、
その「まる」とは何か?

例えば、我々が、「まる」を描けば、本当にそれが「まる」なのだろうか?
それが本当のまるなら、まるを描かずにまるは描けない。

ならば、まるをまるとして描けないまるはあるのか?
……
そんなこんな、
思考・思惟・思弁…等の繰り返しこそが、「禅」の求めている「悟れへの道」である。
簡単に答えて納得するのは、禅ではない。
しかも、回答・解答の正誤判定は、禅師がするものであり、
その答えへの自分勝手に自己満足は、あってはならないモノ…禅としては。


それを奴のように、
>矛盾律は正しく成立していることになります。
とか、
>禅の公案を実際に解いてみたときに人間の思考ってどうなってるのか?どうやってるのか?という経験諸学の一つとして扱ったときに、…
とか、
>人間の観念や表現を扱うに記号論理学をもってするには不都合が生じるのではなかろうか?との私の自分自身に対する問題提起
とか…

奴のような自己満の塊のような態度では…
禅の道…悟りへ道を大きく外れてしまって…

「禅問答」が「禅」になり得ない、解答で自己満足している姿は、
他人の言説・見解を、奴的な解釈で理解・納得している姿と完全一致である。




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続・自由びとコメント

2018-10-28 10:30:42 | 言葉・概念

以下のコメントは、久しぶりに我ながら納得のゆくモノだったので…
ここにアップする事にした。
もっとも…この「納得がゆく」とは段階のモノであり変化し得るが…

矛盾律とは?



>自由びとさんの言う「相手の特定」というのには私は同意しないわけです。


「言葉」は社会的であると同時に個人的でもあります。
なので、貴君が「同意」しようがしまいが勝手です。


ただ、私と御自分の相違だけは確りと意識いていて下さい。
で…なければ、貴君は私の言葉を自分勝手に変形して、
その変形したモノを私の言い分だと主張しかねません。
それは、それで、とてもとても迷惑な事なのです。


>自由びとさんの言う「一貫性」なるものにも信頼感を感じられませんし、何故なら「指導の一貫性」ならば「無門さんと無門慧開さんとは同じ人ですよね?」と、「コテハンを変えたのが非礼」から「指導の一貫性のため」なんてのに一貫性は無いと判断できるからです。

↑~
貴君は、ここでも、また!やらかしています。
「一貫性」とは、私の一貫性であって、貴君の一貫性ではありません。
「非礼」も然り、私の「非礼」であり、貴君の「非礼」ではありません。

貴君は、自分の知り得る・考える「一貫性」・「非礼」でもって、
私の「一貫性」・「非礼」を否定しています。

更に、君の認識から私の認識を否定しています。
それは「確認すれば済む話ですから…」に表れています。

そもそも「確認」とは、迷ったり・疑ったり・確信がない場合の行為です。
しかし、何度も書いたように、(今は違いますが)あの時の私にとって
「無門」と「無門慧開」全くの別物だったのです。
別物だと信じ切っている私に「確認」という思いは浮かびません。


>一貫性なるものを求めるならば自分のブログで同じコテハンで投稿している論客のコメントの一貫性を問題にすれば済むだけで、他のブログで違ったコテハンで投稿している論客との同一人物性を問題として一貫性なるものを考える必要は無いと私は考えますね。


これって、「質問者」と「ソクラテス」の事かな?
へ~そんな…どうでもいい事を気にしているんだ!

一貫性を考える上で、必要なのは、一貫性に見えなモノの一貫性です。
質問者とソクラテスと無門慧開とが同一なら、それらの中の一貫性とは?
を問い続けるの事も重要なのです(私の認識論の学びにとっては…)。

こんな事も分からないから…以下のようコメントなのです。

>人間なんて一貫性は無いのが正常だとも言えるわけですから、学校の教師が児童の指導に責任を持つために自分が関わっていない塾や部活、校外での活動の情報を当人に確認することなく入手しようとするなんて不自然だと考えるからですよ。


こんな風に思っているから、貴君は永遠に貴君のまま、進歩ないのね!
本来は、ソクラテス的からプラトン的、そしてアリストテレス的へと進化しないとね…

「郊外での活動の情報」なんて、当人に聞くか、親に聞けば、即答ですよ。
だって、学校教育の目標は全人的な教育…
その事を理解・納得してもらえれば問題なしです。

ほらほら…ここでも、貴君の知識から現実を否定しているでしょう。
それって、知っているだけで、分かったつもり認識ですよ!


そもそも全てのモノに、そのモノなりの一貫性があります。
それは、そのモノの誕生から消滅までの過程です。
生々→生成(誕生)→発展→衰退→消滅→(新たな生成)

人間にとって求められるのは「己を識る」事であり、
この場合は、己の自然成長的な一貫性を自覚し、
それを目的意識的に己の目的に即した意識性へと改革・構築…していくのです。
何故なら、「人間は認識的実在」ですから…


>そんなのは必要ならば本人に「どう?」と尋ねれば済む話で何が個人特定か?と失笑してしまうわけです。


貴君は「失笑」ですか?
私は大爆笑!ですよ。

私は、貴君をソクラテスだと確信しています。
これは私の確信ですので悪しからず…

過去辛い体験から学びました。
奴・ソクラテスは、こちらが尋ねたからと言って、ちゃんと答えるとは限りません。
奴・ソクラテスは、自分の興味関心のない質問や都合の悪い質問は全てスルーです。

そんなソクラテスに尋ねるなんて…私のブライドがゆるしません。
というか、バカバカしくて、ソクラテスに尋ねる…なんて思いもしません。


別の角度から説くなら、
ここはネットです。
学校の教師や親、道行く人に尋ねたらちゃんと答えてくれます。
「尋ね」たら正直に答えてくれる相手かどうかの判断が不可欠です。
尋ねるなら相手を選びます。


>むしろ、それは「お前はあすこでああ言ってるのにここでこう言ってるのはオカシイだろう」といったイワユル「論理的強制」として他者を非難・批判するための材料の幅を広げるためだろうとタマゴ氏の婆さんのブログでの言動から推察できるでしょうね。

ここは私のブログです。
私の考えと異なっていれば、ここでは可笑しいのです。
だって、私との違いを分かって遠慮がちコメントしてくるなら兎も角…
遠慮の「え」の字もなく、堂々のコメントです。
これ等も私が非礼と感じる行為です。

私のブログで、コメント欄で、堂々と自分勝手な主張!なんて…
私にとっては可笑しい・非礼ですね。

だから、この「オカシイ」は、私の認識・持論・思い…と比べてのモノで、
ほかのブログで書けば、その「オカシイ」に同意が得られるかも?です。




最後~

本来の「禅問答」、「禅」の求める「かいとう」は、
「回答」・即答であり、解答・解説・説明ではありません。
もっとも…ここでは解説・説明・推論…ですが…

禅問答の解答は、己の五体で表現する即答・モノです。
それは、言葉にならない・できない、感情・感覚・認識の即時的な体現・表現なのです。

それを長々と自信ダップリに言葉を駆使して、言葉的な解説なんて…!
しかも…
>ここでは「描かれない<まる>」と「描かれる<まる>」とは違っており、
>その意味では矛盾律は正しく成立していることになります。

矛盾律の成立とは言葉です。
それでは、「禅」ではありません。

む…まてよ!
ソクラテスは多重人格という都市伝説が…
多重人格のソクラテスなら、「矛盾律は正しく成立している」事になる。
という事は、
ソクラテスは禅的生き方が出来ている者=悟り人なのかも…

しかし、待てよ!
禅の教えに、「己に仏性がある」という確信・自覚ない者は悟れない。
さすれば、己を知らないソクラテスは、悟り人ならぬ。悟り獣なのでは?

それでも、多重人格の一つ一つを己の人格だと自覚する者なら、
悟りびと、なりえるかも…
それでも、一つ一つの認識を「人格」と言っていいのだろか?
ここで言えるのは、多重に思える・見える個々の人格を視て取り、
そして総括・統括可能なその人格こそ、その多重人格的な人の中の人格なのでしょう。
それは、「多重人格」という一つの人格です。

事実的には、例え多重人格的人物でも、社会で日常生活で普通に問題なく生活できていれば、
それが「多重人格」という人格、普通に一つの人格を持つ者、という事です。

言葉で解説するから、以上が多重人格者における「矛盾律の成立」でしょうね…





最後の最後に、
真面目に書くなら、以下の部分の記述は興味深いモノがあります。
禅問答というより、認識論的な解題として、取り上げてみたい、と思っています。


自由びとさんが言う「事実は小説よりも奇なり」というのは私も同意しますけれど、そこから連想するのはこの「禅問答の続編」本記事の「まるを描かずに、まるを描かく」の実際の観念なんですよ。人間は、この言語表現されたことがらを如何に実際に考えているのか?という事実的な経験上話なんです。

そこを、自由びとさんのように「まるを描かずに、まるを描く」というのだから「まるというのは描かずに描けるものだ」なんて考えて外堀から埋めていこうとする方法論と違って、「プディングの味は食べてみないと分からない」とする私の解法だと「まるを描かずに、まるを描く」という文は「まるを描かない」+「まるを描く」であって、もっと詳しく述べると「まるを描く像の否定」+「まるを描く像」であり、最初の「まるを描く」像と次の「まるを描く」像とは違ってると理解できるわけです。

ですから、この認識は「最初の像」→「次の像」という像の変転として理解でき、「まる」という言語で表現された指示対象だけ比較するならば「まる」≠「まる」なわけで、時系列で思い浮かべた違う像を同じ「まる」という言語で表現したということになります。

ここでは「描かれない<まる>」と「描かれる<まる>」とは違っており、その意味では矛盾律は正しく成立していることになります。

ですので「同じ言語で表現された指示対象は同じはず」だという自由びとさんの前提が違っているのであり、頭の中での像の変転というダイナミズムを等閑視した形式論理的な自由びとさんの解法は無意味だと考えますね。

まあ、現代の分析哲学は言語分析から発展したといいますから、こうした禅の言葉をどう扱っているのか興味深いですけどね
(笑)



それにしても、前半なんて、どうでもよい事。
私と貴君の「一貫性」とか「非礼」の相違なんて、
表現・言葉・認識…等の相違であり、特に問題とすべきものではないと私は思っています。

もっとも…それは、ここまで書いたからの感想・思いであり、
書く前の思いとは異なっているでしょうが…ね。








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宗教について…

2018-10-21 16:57:35 | 想い思い考える

「宗教はアヘンである」とか、
「宗教は百害あって一利なし」とか、
色々は否定的に言われているが…

本当に、そうなのだろうか?

神を信じるとは?
信心とは?
何なのだろうか?

一般的に、宗教を求める人は、
苦しみの真っただ中にいて、
苦しみから逃れたい者である。

宗教で苦しみから逃れられる訳は?

そもそも…苦しみとは?
例えば、人がある日ある時も突然に盲目となれば苦しむ。
しかし、生まれながらに全盲なら、
その両親が苦しむ事があっても…
当人は特に苦しむ事はない。

人は、それが当然の事だと受け止め・受け入れられれば、
そこに苦しみはない。

だから、神を信じ切れれば、苦しみは神が与えてくれたモノ。
それは、例え過去になくても、現在それがあるのは当然。
そう思えるなら、
その人にとっての苦しみは苦しみではなく、
普通の事となり得るのだろう。


でも…現代人が、そう簡単に神を信じ切れるモノではない。
それでも、苦しみの真っただ中の、その人が神を信じようと
もがき苦しむなら、それはそれで
「眼前の苦しみから逃れられ」、
「神を信じられない苦しみ」の中にいられる。


果たして、
「神を信じられない己の苦しみ」と「眼前の現実の苦しみ」と、
では、どちらが苦しいのだろうか?


目の前の息子の苦しむ姿を見る自分の苦しみより、
神を信じられない自分への苦しみの方が、耐えられる、のだろうか。




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「文は人なり」という事…

2018-10-19 17:46:05 | 想いのままに…


「文は人なり」と言う言葉を知ったのは、2チャンネルであった。
今回もまたソクラテスのコメント投稿を受けた。

奴は非常に純粋で正直である(と…私には思える)。
純粋で正直であるが故に歪んだ心が、
その心がストレートに奴の「文」となってしまっている。

どうやら…私の「文」が、奴の歪みを増幅している、ようだ。
それは、二枚合わせの鏡の中の映っている無限の鏡のように…


別言するなら「竹を割ったような性格」なのかも…
もつとも…割った竹の中身が腐っていては…困ってしまうが…

奴は、歪んだ己の感情を自由びとの「文」に投影している。
その「文」が鏡のようであればある程、
奴は歪んで行ってしまうのだろう…

なんか…
それそれって~
心苦しい事であるが…

「文は心なり」ならば・だから…
それも致し方ない事なのだろう。




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