新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

二重化のついての気付き~

2024-09-07 15:24:07 | 「わたし事・学」
二重化のついての気付き~


数日前に、師範の全集の再読から以下のような気付きが得られた。
そこには、「…一つを二重化して二つへ、そしてその二つを一つへ…」のような事が書かれていた。

この全集は、もう数回も読んでいる…
そんな中、今回は、上記の記述に引っかかった…


そして以下のような事を思った。
目の前の現実・事実を自己の想像可能な「あらまほしき姿」に二重化…
そして、事実・現実を姿に変換できるような関わりを持ち続ける事で、
その現実を変えてしまう事。

「一つを二重化して二つへ」想像物へ、その「二つを一つの連続」実在物へ変えてしまう。

上記のような事を思った時、思い浮かんだのは「玄〇会の運足・足進法」の事である。

空手の普通の運足は、後ろ足を意識・力んで、前足で突っ込むモノ。
でも、私が教えられて玄〇会の運足・足進法は、前足の膝を意識して、その意識で突っ込むモノ。


これは、師範が、
当時の現実・事実的な「後ろ足意識の空手の運足」を
「前足を意識の運足」という「あらまほしき姿」に二重化して…



その為に試行錯誤の訓練法の模索…
その結果、あらたな「運足・足進法」(前足・後足の同時的意識運足)の体得…


「小志を大志へ、現実を夢へ、更に夢を大きな夢へ」二重化~
「少年よ大志を抱け」であり、「大きな夢を描け」…
大志・大きな夢が抱けたなら、それに向かって実行・頑張れ!



こんな事は、誰でも分かり・書ける事…
しかし、実際に実現的な頑張りの持続が至難。







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「死後の人生」の話

2024-09-07 14:54:18 | 「わたし事・学」

「死後の人生」の話


人間に死後の人生があるか?・否か?

普通に考えるなら機能である認識は、実体である人体の機能であるから…
実体である身体が消滅したなら機能である認識も消滅してしまうだろう。
そのような事は、他人の死という現実から見て取れている。

それでも…自分の死が他人と同じだろうか?
自分の死後…自分が消滅しても世界の存在はあり続ける…という事実。
自分にとって、自分は他人とは違う、特別な存在なのだから…
他人と同じとは限らない…と信じたいモノだから…

以前に、このブログのどこかの記事に、
「自分の死後も世界はありつづけるが…」
「自分だけが、この世界から消滅してしまう…」
そんな事実を思う事に違和感・不思議感を感じた…
という内容の記事を書いた覚えがある。


この違和感・不思議感の解消の為に、死後の「あの世」の存在を肯定し信じてみてみたら…
今度は、不思議な安心感が、生じ始めている…


私の死後、この世界での私は消滅しても、新たなあの世での私の誕生…
そこには、今のこの世界には、もう存在しない母・父・親戚・知人…の存在がある。
そんな、あの世では、この世では、別れたくないのに別れてしまった人々に会える喜び…


そんな事が、本当の事だと、信じられるなら…
それは、それで幸せなのだろう。


両方ともを事実だと信じたら、それはそれで矛盾であるが…
しかし…自分の死後の「この世」事も、死後の「あの世」の事も…正しく知り得る術がないなら……
自分が安心感を得られるほうを信じたほうが幸せだろう。

これは、私の「この世での死」が「あの世での生誕」という事なら整合性が…取り得るかも…
まあ~どっちにしても…
悲しいかな「自分の死後」を思ってしまう年齢になってしまった…
という事実の存在があり得ている…


宗教を信じようとしなかった私…
でも、宗教的な「あの世」の存在は、信じてみてもいいかな…










コメント (28)
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「信じる者は救われる」という話

2024-09-03 16:07:41 | 「わたし事・学」



「信じる者は救われる」という話


上記の言葉をネット検索したら以下であった。


~~~転写開始~~~


「信じる者は救われる」は、聖書の言葉で、修行やお布施、巡礼をしなくても、イエス様を信じれば救われて天国に行くことができるという意味です。

聖書のローマ人への手紙 10:9-11 では、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と述べられています。また、マルコによる福音書 16:16-18 では、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」とされています。

また、真言宗のお寺では、「信じるに足る教えかどうか。よくよく教えを知った上で、信じてみましょう。信じたなら、きっと救われます」と述べられています。


~~~転写終了~~~


さて~「信じる者は救われる」とは、聖書・宗教の言葉…という確認が得られた。
でも…宗教は、信じるだけで、救われるモノではない!
その信じた言葉通りの生き方が出来て初めて救われるモノだろう…


天国の存在を信じて、平穏・善良な人生を送れれば、幸せな人生。
地獄の存在を信じて、悪事をしない人生なら、それも平穏なモノだろう。

人類の原罪を信じて、悪事をしても…それは個人の責任ではなく、
人類的な私がしてしまうモノ…だから、私は悪くない・地獄へは行かない。
なんて~モノコトは考えようであろう。


さてさて…そもそも「信じる」とは何だろう?
例解国語辞典[第四版]によると~「信じるとは、本当だと深く思う事」。



↑だとするなら
「虚偽と確信している事を本当だと思える筈なし」-信じる事は不可能。
また、本当の事なら信じる必要なしー「本当だと強く思う必要なし」。
さすれば~「信じる事が出きるモノゴト」とは、虚偽の確信なし・本当だとう確信なし」の物事となろう。


更に「本当とは何だろう?」上記の辞書によると~
「本当とは、嘘や偽物だはない事。実際の事。事実である。」


事実とは、現実界で起こった事・起こっている事。
なので、人間の認識内の現実界の事実の記憶は、残念な事に「事実ではない」。
従って、ある人の事実の物事発言は、他人にとって、それを事実として認識可能とは限らない。

だから…そこに「信じる」事が必要であろう。
他人の語る事・語っている事が、自分にとっては、事実として認識不能な時・信じられない時…

その言った当人が「事実と確信している」モノでも…
自分には「その確信ができない」時、その言葉を「信じる」心が必要なのだろう…

その言葉を信じて御利益があるか・ないか…で信じる・信じないを決めるのも一法であろう。


最近の私が思った事は、
「天国・地獄」は兎も角…「あの世」の存在についてである。


元々私は神を信じる事はなかった。
ただ…子供時代にサンタさんへの御願いで、
「靴下の中に『身長を後10㎝伸ばして下さい』メモを入れた」事があるが…

最近は、「あの世」の存在を信じれば、
「死んだら家内に会える!」、「あってまた一緒に暮らせる」…
そんな希望が持てるから「あの世の存在を信じてみよう!」なんて…思っている。


そもそも…「あの世」の存在は、死人だけが、認識・確認可能であろう。
よく「死後の世界へ行った・を見た!」という体験談があるが…
それは虚偽であろう~
何故なら「真の死人なら生き返っては来ない。」
生き返ったという事は、「死んではいない事」になろう~

従って、「死後の世界・あの世」の存在は誰にも確認不能。
ならば、その「あの世・死後の世界」を信じる事で家内との再会が期待可能なら…
その事を信じた私は、現生に死後の希望が持てる事で「救われる」だろう。

どう~!
今回の「信じる者は救われる」体験談は???





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「ご苦労様とお疲れ様」の話

2024-09-01 18:45:07 | 「わたし事・学」
「ご苦労様とお疲れ様」の話

今朝、寝床で~
ふっと…「ご苦労さまとお疲れ様」の違い…について以下のように考え始めた。

一般常識的には~
「ご苦労様は、上司が部下に…」・「お疲れ様は、部下が上司に…」使う言葉。
その理由として考えた事は~
上司は部下より仕事能力が上である、から、
同じような仕事なら「部下は苦労レベル」でも、「上司は疲れたレベル」…
部下が上司に「ご苦労様」では、
その上司の能力を低く見積もっている…的に見下しor自己と同じレベル的評価になり得てしまう…

そこで起床後の今、辞書調べandネット検索をした!



「苦労と疲れ」の意味的相違は?

苦労とは苦しい労働?とはおもったが…
例解国語辞典[第四版]には~
「苦労とは、物事を進めようとして色々努力したり心配したりする事。」と書かれていた。
「疲れるとは、体や心を使った結果、その力が衰える」



また、ネット検索では~以下である。


~~~転写開始~~~

ご苦労様」と「お疲れ様」は、どちらもねぎらいの意味で使われる言葉ですが、使い分けには注意が必要です。

「ご苦労様」は、上司から部下など目上の人が目下の人に対して使う言葉で、「お疲れ様」は同等や目上の人にも使える言葉です。

「ご苦労様」は、相手の労働や努力を称える言葉で、相手が取り組んだ「仕事の内容」に焦点を当てています。一方、「お疲れ様」は、相手の心身の消耗(疲れ)に思いを致して、「とても疲れている(疲れた)ことでしょう」と、ねぎらう表現です。

「ご苦労様」が失礼にあたる理由としては、次のような説があります。


昔、お殿様が家臣に対して「ご苦労であった」と労ったことが由来になり、目上の者から目下の者に対して使う言葉になったという説

「ご苦労様」というのは他人の苦労を高みから見物しているようで、目上の者に対して使うのは失礼にあたるという説



「お疲れ様」の敬語表現には、「お疲れ様でございます」があります。「お疲れ様でございます」は、「お疲れ様です」をさらに丁寧にした表現になり、二重敬語にも当たらず文法的に正しい表現です。


~~~転写終了~~~


流石は、生成AI~


>「ご苦労様」は、相手の労働や努力を称える言葉で、相手が取り組んだ「仕事の内容」に焦点を当てています。
>一方、「お疲れ様」は、相手の心身の消耗(疲れ)に思いを致して、「とても疲れている(疲れた)ことでしょう」と、ねぎらう表現です。


これらの焦点の相違―
「相手の仕事内容」と「相手の心身の消耗」とう違いとは、私の思考にピッタリしている言語表現。

仕事は「苦労しても疲れる」し「苦労しなくても疲れる」のが普通の人間。

同じ仕事内容なら、普通に考えるなら、部下と上司の疲れに相違があって当たり前。
上司からすれば、部下の仕事の苦労なんて、苦労ではない、のが普通。
それでも上司は、部下の身になって「ご苦労様」。

また逆に~
部下からすれば上司の仕事は当然に「苦労レベル」…
それでも、上司の身になって普通に「お疲れ様」~

ここにも、認識の言語表現の為に、「上司は部下へ・部下は上司へ」の二重化がある。



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