新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

問題解決過程での目的の変質…

2018-06-23 16:59:13 | 悟りシリーズ

特別支援学級の児童が通常級の授業に参加する事を「交流」授業と言う。
先日、私が〇学年の男子児童T君の「交流」授業に付いて行った。

その学級は、普段から騒がしく、席を離れて歩き回る児童が数人いる。
その日も、何人かの児童が歩き回り、他の児童も騒いでいた。

そんな中、T君も一緒になって騒いでしまった。
すると、担任のM先生は言った。
「T君、騒ぐなら交流は無しです!」
「そう約束しましたね…」

すかさず、T君は言った。
「そんな約束してません!」

M先生「しました。している筈です。」
T君、「絶対にしてくません。知りません!」
…………………


この繰り返しがいつまでも続いているので、
私が「分かった。後でO先生(支援学級担任)に確かめてみよう。」と
繰り返しT君に言って、何とかその場を収めた。


その後、特別支援学級に戻って担任に、その事を伝えた。
すると、O担任「約束したでしよう。○○の教室で伝えたでしょう。」
T君「知りません。そんな事…」
…………


後日、そんな彼らのやり取りから私は以下のような事を思った。

O担任は、騒ぐT君を静かにする為に「約束」の事を言った。
しかし、T君はその約束を認めない(失念?)。
そこで、O担任は「約束」を強調し続けた。

ここでは、
当初の目的「静かにする事」が、
「約束」を認めさせる事に変質しまっている。


また特別支援学級のO担任も、
T君が通常級で騒いだ事よりも
「約束」を認めない・忘れている事を問題にしていた。


ならば、どうすれば良かったか?


静かにする為の「約束」の強調であった筈が…
そんな「約束」を忘れ認めない児童とのやり取りで騒がしいならば
それ以上「約束」の話は無効である。

「約束」を忘れ認めないなら、
そんな「約束」の事は置いておいて、その場で、
「騒ぐなら今すぐ、〇×(支援学級の名称)へ戻って下さい!」
と強く言えばよかったのだろう。

また、支援学級の担任も、本人が認めないなら、
再度、約束し直す事で、交流での授業態度の再確認を…

また、再度の「約束」時に、他の先生の同席で、
今後二度と「してない!」と認めない状況の回避を、である。


ここでの「約束」ではないが…
昔なら「学校の先生の言葉は絶対!」と暗黙の前提・約束があっただろう。
しかし、今は、
「先生の言葉でも、嫌な事はやらない!」児童が増えてきている、ようだ。

「嫌な事は嫌!我慢したくない!」
「自分の気持ちに正直に生きたい!」
「僕・私の人生は僕・私のモノだ!」

子供なのに…そんな想いが強いようである。








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超実感!絶対真理!

2018-06-16 11:41:30 | 弁証法



私は、真理とは現実と認識の一致であり、同一的運動状態とする。

そこで哲学を考えるなら、
哲学とは、その時代・世界に対する人類の認識であろう。

その哲学者の認識・学説が、
その時代の人類の認識・精神合致するなら、それは絶対真理と言える。

認識的であり、社会的な人類は、時代と共に変化・進化・発展して行く。
ある時代の哲学が、その時代の人類にって絶対真理であっても、

時代が変われば、人類が変わる。
変化した人類にとって、過去の絶対真理は絶対たり得ない。
過去の時代に合致した絶対真理でも、変化した現代には合致し得ない、から。


確かに絶対に正しい「絶対真理」はある、と言うよう。
それは、その時代で絶対的に正しいモノである。
そして、時代が変われば、その時代の「絶対真理」は生まれる。
しかし、それは、過去の絶対真理と同じ内容たりえない。

「絶対真理」という言葉として同でも、
その「絶対真理」の中身・内実は異なって行くものだろう。


絶対真理を遺言書に例えれば、
現代日本の法律に合致している限り、その遺言書は絶対的に正しく有効である。
しかし、国が法律が変われば、その遺言書は正しく足り得ず無効となり得る。
または、新たな遺言書が書かれれば、その遺言書は正しくなく無効である。


絶対真理を空手技の例えるなら、
絶対に相手を倒せる技=絶対技を持っている達人がいる。
そんな達人でも、その技の使い方を間違えれば絶対技足り得ない。

絶対技が絶対であるには、常に対手と絶対技の合致が必要である。
常にその技を対手に一撃必倒で使用できる状態の技が絶対技なのだろう。

愚案君はヘーゲルを絶対真理としている。
でも…残念な事に、それは彼の思い込みだろう。

彼の人生で絶対的に正しいモノでも、
他人の人生では正しいとは限らない。

私は、相対真理=絶対真理である、とは思っていない。

絶対真理は絶対真理である。
相対真理は相対真理である。

しかし、それらの内実をみた時、
絶対真理の中身・内実は相対的である。
相対真理の中身・体実は絶対的である。

これらは、
事物の構造の過程・過程の構造の表現の相違・問題である。






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小学四年の道徳で~

2018-06-11 16:39:18 | 弁証法


小4の道徳授業で「きまり」について勉強していた。

それは、
小4の児童が目覚まし時計をプレゼントされて、
毎日、時刻通りに早寝早起きのきまりを作って、
それを破って後悔している様子であった。


担任は、授業で他人は児童達の「きまり」について聞いて板書した。
それら色々のきまり中に
「ゲームの時間は一時間以内」というものがあった。

別の児童が、
「時間を守れずオバーした時は一週間ゲームをしない」と言った所、
担任は、「ゲームは一時間以内と同じだね…」言った。
そこで私は「…本当に同じかな?」と思った。

それは、
この「時間を守れずオバーした時は一週間ゲームをしない」
というきまりは、
「第一のきまり」を守れず破った時の「第二のきまり」である。

自分が決めた「きまり」が守れず落ち込んだ時、
次の「きまり」を守る事で、
破った失敗を守る成功へと導けるようにする。

その事は、その子に新たなチャンスがうまれ、
それを守れるように努力すけば、
その子にとって自信に繋がるのだろう。

ゲームに関して同じに思える二つのきまりである。
でも二つのきまりには重層性・弁証法性があった。





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個体と全体

2018-06-03 16:54:09 | 弁証法

先日、勤務している小学校の運動会を観に行った。
九時開始だったのに、到着は十時半過ぎであった。

到着と殆ど同時に、
三、四年生の「ソーラン節」の入場開始であった。

それは、南中ソーラン節であり、
大学生が演じた動画を、子供達と一緒に音楽の授業で視た。

運動会で七十数人の子供達が一斉に踊るソーラン節は、
なかなか見応えのあるモノだった。

私は、その中で踊っている特別支援学級の二人を視ていた。
一人は、とても楽しそうに踊っており、
もう一人は、真剣な顔付で真面目に踊っていた。

この二人、個体として、好感が持てていても、
全体の中では、腰が高く、動きが合っていない。
別言するなら、それは全体の中で、目立ってしまうような踊り方であった。

この場合の、踊り方上手・下手の基準は、動画で視た大学生の踊り方である。
子供達は、動画の「南中ソーラン」を目指して踊るよう先生達は指導していた。

これは、全体として素晴らしく観えていも、
個体を視ると下手である、いう事でもある。

もっとも、この準備は、二、三週間位なので、
もっともっと練習したなら、
その下手な個体も全体の影響・相互浸透で上手になって行くのだろう。

ここが仮に、全体の踊りが下手で、一人だけ上手だった場合はどうだろう。
私には、動画という基準がある。
しかし、動画を視ていない人の基準は何か?
それは、全体との同一性であり、全体との一致であろうか…

みんなと同じような踊り方が上手、
みんなと違っていたら、それは下手。

これは、言うなれば、「みにくいアヒルの子」なのだろう?!











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判断と判断力

2018-06-03 09:32:15 | 弁証法

現在、要介護3の親父と同居中である。
そんな親父と関わって思う事は以下のような事である。

有効な判断力を持ち得ていても、
的確な判断を下せるとは限らない。

今年の3月で89歳となって親父、
根っからの商売人の親父、
金勘定は得意中の得意の親父、
儲け話には敏感に反応して、
裸一貫・無一文から、それなりの富を築き上げた親父、
そんな親父の判断力には、目を見張るモノがある(と私は思っている)

そんな親父と話していて、最近時々感じる事は、
『その判断はおかしい』である。

そんな時、更に突っ込んで話してみたら気付けた。
それは、私でも知っている親父自身の体験・経験的な事実を思い出せていない。

的確な判断には、その事に関わる情報が不可欠である。

情報には、自己に関係する情報と関係しない情報とが考えられる。
それは、経験・体験的な情報と知識的な情報、と言えよう。

現在の親父の判断は、他人との話の中では的確である。
でも親父自身の案件についての判断には狂いが生じている。

他人事では的確、自分事では不的確な理由は?
それは、他人事では、当人から十分な情報が得られる。
しかし、自分事では、過去の出来事を思い出せない事が多く、
情報不足となってしまう事がある。


ならば、その判断力の形成過程とは?
それは、今までの人生の過程での養成・創出・形成。

親父の有効な判断力は、
時々の商売上の判断の失敗・成功からのモノである。

実体・頭脳が老化しても、機能・判断力は健在である。
でも、脳細胞の老化から記憶の想起が困難となってしまっている現在、
親父の判断力は健在でも、常に的確な判断を下せるとは限らなくなっている。


論理的に同様な事が…
過去にスポーツ選手だった人が、年を取ってそのスポーツで大怪我。
それは、年を取っても認識・機能としての身体の操作法は健在。
しかし、実体・筋肉・骨格…等が衰えてしっまている為であろう。

別言するなら、機能と実体の老化の相違であり、
それは実体の弁証法性と機能の弁証法性の相違であろう。


認識・身体の操作力は、想像を続ける事で現状維持は可能である。
でも実体・筋力・骨格…等の維持は、実体的な運動負荷が必要である。

日々の人生における、現実界と観念界の内実の相違であろう。

実体と機能の相対的独立、絶対的独立…そんな事もあるのだろうが…


「知識と論理」を結びつけるモノが弁証法なのだろうか?
事実から論理を抽出するのも弁証法?
論理から理論を形成するのも弁証法?


















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