新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

認識は脳が描く像である。

2018-01-28 10:48:22 | 想い思い考える


月研ぎさんのコメント~とても刺激になります。

その刺激とは、以下のようなモノです。

全く分からないのに…
正直に分からないと書くと、見離れされそう…
だから書きたい!
でも…書こうにも、分からないから書けない!
それでも書かねば…先へ進めない!先はない!

これが、刺激とは何故?
それは、のんびりと落ち着いている私の認識への変化・運動を求めているからです。

私は、月研ぎさんのコメントを、私への要望・期待と認識しています。
だから、私は私の認識を月研ぎさんのコメントへ重ねられるモノ化したく思っています。



さて~具体的に書けば以下です。

今回のコメント「繋ぐ=交換 (月研ぎ)」で、私は私の失念に気付かされました。
それは、南郷継正が『夢講義(3)』で書いている以下の記述です。

「武道のなかの武技を教えるということを先生と弟子の2人を用いて「武技を教える」像と「武技を教わる」像とで、言語表現と武技の表現で同じことがまったく違ったこととして現象させられるという「過程的構造」・「構造の過程」を、「直接的同一性」として説いてくれたものだったのです。」

「具体的には、先生は自分の頭の中の像を武技の形とその武技の形の言語表現とを用いて弟子に伝えようとするのであるが、弟子の方は見事なくらい武技の形も言語表現も像として伝わってはいかないという、なんともすばらしい「武技に関わっての認識と言語の具体的交通関係がなぜうまくいかないのか」の説明だったのです。」


しかも…この記述を失念していただけではなく、
この言葉の像化ができ難い事にも気付かされました。

でも…私は別の所に書かれた、その事の記述を確りと記憶していました。
それは、一つは、私がメモっている「師範御講義」の記録ノートに書かれた師範の言葉。
もう一つは、「学城」の何れかの号に書かれている、その記録です。

今朝、探しました、二階の本棚を!
玄和会の現役時代の練習ノートの確認をしたのですが…
その記録は見つけられず…取り敢えずは断念しました。

でも…「学城」の記述は見つけました。
それは、第六号の本田克也「海保静子が残してくれた未来への手紙」のP38、
『これが歴史上初めての「認識は脳の描く像である」ことの証明でもあったのである。』
から始まる記述です。

その要点は以下だ、と私は認識しました。

P39~
……しかし、海保静子は、その指導場面からは少なくとも指導者Aとしての自分の立場で描いた像と、Bの立場に立って描いた像があり、一方、被指導者Bとしても同様に、自分の立場で描いた像と、Aの立場に立って描いた像との二重の像があり、それぞれの像が異なっていることこそが問題なのである、ということをまさに絵として描き出しながら説かれていったのであった。……


今、再読して、分かっていると思っていたのに…実は分かっていない部分に気付いた。
それは「…それぞれの像が異なっている…」部分である。

これは、「A(とB)の二重の像のそれぞれ」なのか?
それとも、「Aの(二重)像とBの(二重)像」なのか?

その説明が、P38からP39までに書かれている。

指導者Aが、被指導者Bの姿形から
『Bは言われた通りにやっていない!』という像を描いたのに…
その事を言葉にして確認せず指導を続け……

その像を言葉で確認した所、
Bは「言われた通りにやっている」と返答。

これは、
指導者Aの言葉・武技を聞き視ていても、
被指導者Bには、Aの認識・像の通りには像化・認識できていなかった。
それなのに…Bは、Aの言ってる見せている型の通りに、やっている、と認識している。

その究極的な像の相違とは、
指導者は『教えている通りではない』であり、
被指導者は『教えてもらっている通りである』なのである。

この問題の解決は、指導者が自身の像を言語化する事。
それも、指導者の中の自分像と相手像の相違を表現する事である。
同時に指導者は、その相違の理由・原因を自らに問い続ける事。






「過程的構造」とは、
一つ、指導者も被指導者も、像の相違のままに進む指導か?
または、逐一像の一致を求めて、進められている指導か?

「構造の過程」とは、
個々の相違の一致への取り組み。
「やっていない!」と「やっている!」の解決・統一。
「力が入っていない、入れろ!」と「入れている!」の統一・解決。

上達論的な指導での~

「過程的構造」とは、
指導過程で逐一、指導者は正しく指導する為に、
自己の認識・像の表現を実践する。

「構造の過程」とは、
指導者は、自分像と相手像の統一の為の適切・可能・有効な表現を探し出す過程。




私が忘れていたモノ・コト…
それらを想い出してみる作業は結構辛いモノがある。
それでも、過去の事実の再確認は非常に有益である。

今回は、1994年代の練習ノートにざっと目を通してみた。
そこには、万年筆で今の私には書けないような丁寧な文字が並んでいた。

そして大会や講習会でも、数々の師範講義の記録、
今日は当時では、思ってもいなかった(だろう)想いを抱いている。

最近は、
日常の忙しさからか…
不精な性格からか…
大志を忘れてしまったからか…

なかなか空手、武道、を想う機会がない、
ように思えている私である。


これを機会に、過去の記録から師範の御講義の振り返りをしたいモノである。
でもでも…家内と親父、そして私の三人分の確定申告書を書かねば…
私は、私の内界・認識世界に没頭したくとも…
その時々に厳しい現実が私を現実へ引き戻している。

もっとも…引き戻しているのも現実ではなく私なのだが…









参考コメント

「地図」について~
2018-01-27 09:05:01


繋ぐ=交換 (月研ぎ)
2018-01-27 13:58:56
「地図」の過程的構造の一つは、はっきりしました。
では「地図」の、次の段階は何か。

自由びとさんの、「繋ぎ」という問題の立て方が面白いと私は言いました。

問題は、「地図」が、他人の持っている「地図」と、つなげられるかどうか、ということなのです。

そう、繋ぐ=交換できるかどうか、なのです。

「道」(地図)を尋ねられて、一生懸命教えたのに、わかからなかったという場合、いったいそこでは何が起こっていたのでしょうか。

そこでは二人の持つ「地図」の作り方が、かみ合わず、「地図の交換」「ができなかったからなのです。

教える=教えられるという師弟の関係は、師の持っている「地図」と、弟子の持っている「地図」が、繋がっていくところに、成立するものなのです。

こういえば、たちどころに、自由びとさんは、ピンとくるはずです。
南郷継正と海保静子の師弟関係に。

三浦つとむさんの弟子である南郷継正さんは、三浦つとむさんの『認識と言語の理論1』をいくら読んでも、「認識とは何か」がまるで全く分かりませんでした。

ところがある日、海保静子さんの講義を聞いて、南郷継正さんはひっくり返るほど驚愕します。
南郷継正さんの専門である、「武道の指導方法について!」の海保静子さんの講義が、まさしく「認識とはなにか」の像の展開だったからです。

そこを南郷継正さんは『夢講義(3)』で、こう書いています。

「武道のなかの武技を教えるということを先生と弟子の2人を用いて「武技を教える」像と「武技を教わる」像とで、言語表現と武技の表現で同じことがまったく違ったこととして現象させられるという「過程的構造」・「構造の過程」を、「直接的同一性」として説いてくれたものだったのです。」

「具体的には、先生は自分の頭の中の像を武技の形とその武技の形の言語表現とを用いて弟子に伝えようとするのであるが、弟子の方は見事なくらい武技の形も言語表現も像として伝わってはいかないという、なんともすばらしい「武技に関わっての認識と言語の具体的交通関係がなぜうまくいかないのか」の説明だったのです。」

南郷継正さんの先生である三浦つとむさんは、「認識論」を、「認識の発展」から始めます。
それは「認識とは何か」から書くだけの実力がなかったからなのです。

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完璧にしたい「『完璧』について…」

2018-01-27 10:12:25 | 想い思い考える



前々回の記事では、完璧にいて考察を行っている。
その記事をアップし得た後、新たな記憶が再生された。

それは、児童達が体操服を畳んで片付けている姿・像…
それの中で、前回思い出さなかった部分である。
より正確には、それは想い出し描いていても、スルーしていた部分である。

具体的には、体育着の畳み方である。

子供によって、
ゆっくり丁寧に紙でも畳むように体育着を四角に畳んでいたりしている。

その畳み方は(小学生とって)紙の畳み方としての完璧であり得ても、
決して、体操服の畳み方としては完璧とは言い難い。
それでも、「丁寧に畳む」・「一定の畳み方で畳む」事は完璧であろう。

そう~ここに「完璧」の二重性があり得る。
それは、言葉としての「完璧」の二重性。
それは、意味と現実の二つである。

そして、現実としての完璧の二重性。
それは、行為と形型の二つである。

「完璧」の言葉の意味は社会的、
「完璧」な行動・現実は個人的、

完璧な行為は過程、
完璧な姿形は結果、

完璧という言葉を使用している当人に、
上記のような二重性の二重性意識はある、のだろうか?…

もっとも…「完璧」という言葉・表現とは
上記の個々の部分的な完璧の全てを完璧になし得て、
初めて、使用可能なモノなのかも…しれない。

師範が言っていた。
空手の緑帯や茶帯として完璧な者は、それ以上の上達は難しい。
これは、初段として完璧・二段として完璧でも同様である。

ならば、上達するには如何に?
それは、緑帯して未熟・物足りない状態で、次の茶帯レベルへ、
初段しての完成前に、二段へ…次へ次への進む事~、であるそうだ。
そんな物足りない・不満足状態の維持・普通継続…
それは普通の状態では至難であろう。

「完成とは、衰退・崩壊・消滅へ道」
これは師範が「弁証法の教えである」と言っていた言葉である。

何かある物事に対して、
自分自身が『完璧だ!』と自信を持ち得た瞬間が、
下落、衰退・崩壊への始まりである、そうだ。

一般的には、
上には上が、下には下がいる・ある。
上を見て、這い上がろうとし続けるか?
下を見て、満足・納得し生き続けるか?

もっとも…現代は、自分から自分を観て、
等身大に生きているのが普通の人なのかも…

周囲の人々・物事・自然をみる事無く、
それらと関わっている自分だけをみて生きている…のかも~

これらも…唯物論的と観念論的で理解可能である。
哲学者・全体的レベルの観念論的か、
科学者・部分的レベルの観念論的か、
唯の人・個性的レベルの観念論的か、

唯の人レベルの唯物論的か、
科学者レベルの唯物論的が、
哲学者レベルの唯物論的か、


その言葉・論理・理論が真理か?否か?は、
観念論者か?唯物論者か?ではく、
現実・対象の究明の過程・深さの相違なのかも…

ただ言える事は、現代社会のように、
情報・知識・言葉…で溢れ返っている状況では、
観念論者・的は・容易でも…
唯物論者・的は、至難である。


対象をみている自らの観念に、合う言葉を探し繋げて表現する事。
対象を直視し対象に合う言葉を、自らの観念で模索し表現する事。


自分の畳みたい畳み方をするか?
周囲から教えられた畳み方をするか?


畳みたい畳み方と教わった畳み方を踏まえて、
目の前の服を、今の自分が可能な最高の畳み方をするか?

観念論と唯物論の統一とは、
観念論の唯物論的な駆使、
唯物論の観念論的な駆使、~と~

…どこかに書かれていたかも?

または、過去の観念論と唯物論を対象として、
唯物論的に統一統合して、
新たな○○論の創出であろうか…

想い・思い・考えは、
表現・行動して
初めて…
その正しさ・間違いが分かり得る…のだろう~








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「地図」について~

2018-01-27 09:05:01 | 想い思い考える

月研ぎ氏のコメント~
「地図」とは、分かり易い表現である。

南郷継正は、学問を「地図」という言葉で例えていた…
と私は記憶している。
また哲学とは、世界を掌に乗せて自由にするモノ…

学問が世界へ至る地図なら、哲学はその地図の使い方・駆使…
なのかも…

子供時代は、周囲の大人の助けを借りて、地図を創っている。
その地図は、周囲の大人の力量の範囲内の地図になり得る。

大人の助けがない子供は、自然成長的・自分勝手な地図を創る。
自然から、周囲の人間関係から、自分の好みから…創る。
思春期は、その地図の再検討・再構築の時期なのだろう。


地図の存在意義は、目的地への到達の手段として、である。
地図があるのに、自分の目的が不明瞭では、宝の持ち腐れだ。

自分で地図を創るか?
他人の地図の借用か?

自分だけで創る地図の完成度?
借用した地図の見方使用の至難度?

現代社会は、個性的な地図が多すぎる。
全体を記した地図よりも、部分的個性的な地図の多彩さ。

南郷継正は、「武道の理論」で達人への地図を描こうとした…
それは、初心から達人までの技創出の道、上達論であり、

技の達人的使用法への道、
意識的から無意識的な技の使用・勝負論なの…
だろう。

以下は、私の勝手な感想である。
「武道の理論」は、上達論と勝負論から構成されている。
この二つの根底には、人間論があり、
この二つの上部には、極意論がある、のだろう。

武道の悟りと悟得
学問の悟りと悟得、
宗教の悟りと悟得、

これらを「地図」で例えるなら。
悟りとは、その地図の収得であり、
悟得とは、その使用法の修得であろう。

武道・学問・宗教…これは全ては人間だけのモノ。
それでも、それぞれに、その個別性・特殊性がある。

南郷継正は、哲学を極めたく、
武道の地図を創る過程で、
学問・宗教の地図を描き、
最終的に武道・宗教・学問…三者を合わせた
世界レベル地図の創出と駆使を遂げようとしている…
のかも知れない…のだろう。




参考コメント


記事<言葉と世界>

2018-01-25 10:08:58



地図=道 (月研ぎ)
2018-01-26 18:25:48


「小世界から大世界の繋ぎ」という、自由びとさんの問題の立て方がとても面白いです。

海保静子さんが、哲学を学んでいた師を、認識論で超えることができたのは、子供たちに直面していてその一番の関心ごとを決して手放さなかったからです。

「世界」はどういう姿・形をしているのか、その世界像を描けないうちは、言いようのない不安や恐怖につきまとわれます。
幼い子は母親に抱きつき、手をつなぎ、どこかで安心をもたせてもらいながら、「世界」をのぞき見します。

親がそばにいなくても「世界」の中に出かけられるようになると、ある程度「世界」の姿・形が見えてきたときです。

この世界像は「地図」と言いかえることができます。観念というのも、言ってみれば一つの「地図」です。
(南郷継正さんはこの頃、さかんに地図という言葉を使っています)

子供は、世界像という姿・形を観念として、思い浮かべられるようになり出します。それはアタマの中に地図が作られてきたことです。

地図と言えばすぐ地図帳を思い浮かべますが、ここでの「地図」とは、自分が自力で出かけ自力で戻れる、まさに自分を案内する地図です。
自己案内の地図を手にすると、親元を離れて一人の行動ができるようになり出します。

古代の人は、この地図を、「道」と呼びました。世界が「地図=道」として発見できないうちは、世界はまだ恐怖の対象です。
コロンブスが世界を「地球地図」として発見できなかった時代には、世界のどこかが常に恐怖の対象でした。

子供は母親のヒザの上で絵本を読んでもらって、お話を聞く中で、幼いころから時間(過去―現在)の中の行き来をおぼえます。

この時間の中の旅は、子供のアタマの中に、時間の地図を作り出させることになります。

この地図は、空間的にはじっととどまったままでも、アタマの中ではいろんな遠征ができてゆくことになります。
海保静子さんという保母さんの話をじっと聞きながら、アタマの中で時間の地図を行ったり来たりして子供は遊んでいるのです。

大人から見たら、この子は遊べない遊ばないと見えていても、その子にとっては思いがけない形で遊んでいることがあります。
遊びとは、子供たちの世界体験そのものの道筋になっているのです。




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言葉と世界

2018-01-25 10:08:58 | 想い思い考える


コメントをありがとうございま~

月研ぎさん♪♪♪

余りの長文なので、
コメント欄への書き込みではなく、
ここにアップしました。

>つまり、人は言葉の介在なしに世界そのものを、
>直に、生きることはできないのではないか。

当初、一読して思った事~それは、
人は言葉なしでも体験・経験で生きているじゃん!
でした。

でも再度…深く考え以下のような事に気付けました。

体験・経験から生きている世界とは、自分の関わり合える範囲の狭い世界。
そこから形成・創造される世界は、小世界といったようなたモノ…
それを「世界像」と言っていいのだろうか?

哲学用語に「世界観」という言葉がある。
それは、地球レベルの世界であり、
単なる人ひとりの体験・経験レベルの世界ではない。

と考えた時、人が体験した事のないモノを知る手段は何か?

現在なら、ネット映像でかなりリアルに知る事が可能である。
それで、言葉での状況説明なしで、長時間の映像を見続ける辛さ・難しさ…
また、その映像だけから、当事者同士の内面・心の内を知る至難さ。

そもそも…相手の心の中を推測するには、相手の態度・言動からである。
そのような自分の見たい・聞きたい・感じたい…
細部の情報は、ネット映像・写真…等では知り難いのだろう。

結局、地球レベルの世界像の創出には、過去から現在までの多くの情報が必要。
そして、過去の情報の殆どは「言葉」であり、文献であろう。
だから、「人が世界を知る」には言葉が必要である。

では、体験・経験可能な狭い世界なら「言葉」は不要であるか?

今、勤務している学校での去年の話である。
特別支援学級の小6の中の良い男子二人H君とT君。
荒れる日々が続いていたT君が理由は忘れたが、
その日も朝から荒れていた。
その背中を、日頃とても良いH君が叩いた。
すると、H君が狂ったようにH君を叩き返した。
これを受けたH君は、更に強く叩いた。

もともと力関係は、H君が親分でT君は子分であった。
H君に、更に強く叩かれてT君は、その場を走り去った…

そして、その後その日は、何と午前中の授業全てに二人は参加していなかった。
では何をしていたか?
体育館やその周り、一階校舎をT君が逃げ回り、
H君が追いかけ探し回っていた。

その時の私の仕事は?というと?
そんな彼ら二人を追いかけ探しまく.事であった。

最終的に私のした事は、
追いかけ続けるH君を捕まえ、
彼がH君の背中を叩いた理由を、
何とか聞き出した事である。

その理由は、何とビックリ
「(荒れていた)T君が気になっての働き掛け」
だった、そうである。

そのH君は、ネコ好き・動物好きで、とても優しい男子。
でも、言葉での自己表現が不得手で…言葉より行動である。
そんな彼のT君への優しさが「後ろから背中を叩いた」であった。

もし…H君がTを君を叩かず、言葉で、「どうしたの?」、「大丈夫?」と言えたら…
または、叩かれたT君が叩き返さずにH君に「何だよ!」と言えたら…
あの学校中の走り回りに使われた数時間は勉強に使う事ができていたのだろう。

また、私が初めからH君から、T君を叩いた理由をちゃんと聞けていたら…
私の…あの数時間の疲労感はなかっただろう。
でも…私的にはとても楽しい時間でもあった。
それは、最終的に解決できたからでもあるが…

そもそも、その解決法に気付けたのは、
H君とT君両名と関りが深かったO先生の御蔭であった。
O先生は、その時は通常級二年生の担任で、支援学級との接点はなかった。
それでも、廊下ですれ違ったO先生に私が走り回っている理由を伝えたら、
H君を探し出してくれて、話し合ってくれた。
それを横で聞いていて私は、やっとH君の動機・気持ちを知る事ができた。

最後に、私のやった事は、T君にH君が叩いた理由・気持ち・動機を伝え落ち着かせ、
二人を校長室へ連れて行き、校長立ち合いで四人で話し合った事であった。

長く長かった長い長い午前中の四時間で、
私は、言葉で自分を表現し得ない子供の気持ちを
言葉で聞き出す事の必要・重要性を痛感させられた。
同時に支援学級の子供達から、その本心・本音を聞き出す難しさ、


彼らは素直に本心・本音を言う。
しかし、それは別の本心・本音があるモノでもある。

正確には、その相手に合わせて、
自分の本音・本心を言葉にする。

しかも…時に
教師を教師と思わずの発言。
大人を大人と思わずの発言。

それは、自分立場の正しい認識不足・認識不能から…なのかも?



しかし、その裏には彼らが自覚不能な更なる本音・本心があり得る。
それは、関わりたいから、憎まれ口・言葉を吐く、関わり合いたいから叩く、
もっとも…それは何も彼らだけではないが…

同時に、H君の気持ちを聞き出す具体的な方法も修得した。
それは、体全体で彼を包み込んで、彼を逃げ出せない状況にして、
彼が、受け入れやすい肯定的な言葉で言葉かけで彼の言葉を引き出す事である。

H君の事を当時の担任は「自然児」と言っていた。
実際に、彼の運動神経は抜群で、特に攻撃に対する反射神経はネコレベルであった。
私は、彼とは、時々「闘いごっこ」をしていたが、彼の突き・蹴り・受けはなかなかのモノであった。


結局に、自分の周囲の狭い世界を、知り得るにも、言葉は必要・不可欠である、という事。
しかし、言葉があっても、正しく世界を知り得る、とは限らない。

世界を正しく知るには、同じ事実に対しての
立場の異なった人達の、視点・観点の異なった言葉、
それも多くの言葉を体系的に統一・統合する必要がある、のだろう。

それは、運動・変化する像として、弁証法的な統一・対立物の統一、なのだろう。
事実を識る為に、必要な多くの言葉を集め、
その事実の弁証法的像=変化・運動像の創造・創出が必要、という事…かな!?




一番下の最後の最後には、私のコメントがあります。





参考コメント

記事  <「完璧」について…>
2018-01-24 10:58:01




世界像という隔たり (月研ぎ)
2018-01-24 23:11:53



同じ言葉を使って違う事実を思い描いていた、という自由びとさんの言葉を受ければ、こういうことが言えそうです。

私たちが一つの共通の世界に生きているというのは錯覚に過ぎないと。

本当は一人一人の内なる世界像を生きているに過ぎないのです。そして言葉はそのことに深く関わっています。

ふだん意識しませんが、自らの内なる言葉がつくり出した世界像の上で生きているのではないか。

つまり、人は言葉の介在なしに世界そのものを、直に、生きることはできないのではないか。

逆から言えば、言葉によって世界像は書き変えられることになります。

私たちはどんなに不快な相手でも、その相手の核心を言い当てて、名付けたとき、ある種の解放感をおぼえます。
それは不快な相手に対し私が忍耐強くなったのではなく、一つの言葉で不快な相手を迎え撃ったことによって、世界像が変化したのです。






このような運動性を含んでいる(と私には思える)
月研ぎさんのコメントは、
私にとっては非常に有意義なモノです。

ありがとう~月研ぎさんコメントの数々を~♪♪♪




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「完璧」について…

2018-01-24 10:58:01 | 想い思い考える


例解新国語辞典には~

「完璧とは、傷のない玉の意味から、
どこにも欠点がなく実に立派な事。」

~と書かれている。



ネットでは以下である。

完璧とは何か?
 ( 哲学掲示板 )

完璧に生きたい。
そう強く思う時があります。
しかし、完璧がなんなのかいまいち分かっていません。

完璧な練習とは? 完璧な道筋とは? 完璧な人生とは?
2006/08/31 01:24 No.0



は~い。
理想の羅列っていうのはどうですか?w(いいにくい)

完璧と一言で言っても、実は様々な経験が入り混じって、完璧たる一つの考えを生み出している訳で、その生み出された考えがいかに理想に近いかでその度合いを判断してるんじゃないかなと。
そしてさらに、そこで生まれた一つの考えがいくつもあって、更に相乗的に、人間性レベルでそういう思考になっていくと。

まぁ、人間性であるからには気の持ちようで変化もするわけですから、完璧っていうのは単なる理想的な満足度合いの気まぐれではないかなって思います。

ただ、気まぐれであった筈の完璧度合いを文明開化によって記録してしまったものだから、色々発達してきたのかな、なんて。

言ってみれば、きちんと記録さえ出来ていれば、記憶さえ出来れば、より沢山のことを出来るし洗練も出来るってことでしょうか?^^
だから天才というのは完璧の匂いがあるのかもw

2006/08/31 03:58 No.1






ここで改めて「完璧」について考察しよう。

昨日、私は洗濯物を畳みながら、
知らず知らずに思っていた。

四年前から、現在の学校・特別支援学級で
体育の授業後、体操着を畳んで片付ける指導をしている。

初めの頃は、彼・彼女らの畳み方の酷さ・醜さに、
ついつい私は手を出して畳んでしまっていた。

そんな中、担任教諭から、
親切過ぎは子供の為になりません。
補助員は、少々不親切の方が良いです。
なるべく本人にやらせて下さい。
といったような事を言われた。

昨日、そんな事を思い出しながら…ふっと思った~
『いくら急いでいるとはいえ、この畳み方は杜撰だ!』
『もっと丁寧に畳もう!』
『いや~完璧に畳もう!』
『う~ん…「完璧」って何?』
『どのように畳めば完璧なのか?』

子供ににとっての完璧。
大人にとっての完璧。
完璧な畳み方。
完璧な畳まれ方。


完璧の意味は分かった。
でも…「完璧」の姿形は描写・像化できていない私に気付いた。


さて、言葉の意味に戻って考えてみよう。

「完璧とは、傷のない玉の意味から、
どこにも欠点がなく実に立派な事。」

そもそも…自然の状態で「傷の無い玉」はあり得るのだろうか?
「玉」は人間が磨いて創り上げたモノである。
それは人造物であり、自然界に無傷の「玉」はない、のだろう。

更に
「どこにも欠点がない」
「実に立派な事」

欠点は初めからあるのではなく、
その関係性から生じるモノ。
それは、人が求めているモノとは相反するモノ。

ならば、完璧とは、人が「完璧」判断したモノとなり得る。
自分自身からの完璧。
仲間達からの完璧。
国家からの完璧。
宗教からの完璧。
学問からの完璧。


その人間が求めている姿形と完全な一致が「完璧」な姿形と言える、だろう。
動物は決して完璧を求めない、だろう。
子供も完璧を求めない、だろう。

では~誰が「完璧」を求めるのだろうか?
それは、「完璧」を求める人々であろう。
その「完璧」とは、自らの理想的姿形との完全な一致であろう。

従って、その理想が高ければ高い程に、完璧になり難い状態が継続される。

その過程で、
目指す完璧を諦め、現状に満足するか?
諦める事を諦め、完璧を求め続けるか?
心の葛藤が生じるのだろう…

この「心の葛藤」の解決方法は?
それは、過程的納得・満足、全体的不満。不満足、である。

今日の自分、この環境での私、この条件での俺…
だから、取り敢えず「今は完璧」としておこう。

しかし、今・今日の完璧、次・明日は崩壊、として、
次・明日は、新たな完璧を目指して頑張り続けよう。






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