続・「実に残念な事」
昨日・今日と休日なので比較的時間の余裕があった。
そこで、葬り去った沢庵おたくではなく、
残っているコメントをざっと見た。
そんな中南郷氏の著書「武道の理論」からの引用部分を読んだら…
なんと…今まで気づかなかった新たな観点から氏の論説が読めた。
確かに、南郷氏は、「宗教否定論」or「宗教不要論」を展開している。
しかし、それは南郷氏の個人的視点からの見解ではなく、
南郷氏の構築した、学問的観点・人類の歴史的観点からの論説である、という事。
だから、沢庵お宅の以下の言葉も間違ってはいなのだろう。
>お宅も本当は分かっているのだろ?南郷の宗教批判・宗教否定の考えを。
>それも、それは南郷個人による独創などではなく他人との相互浸透によってもたらされたものだということを。
その通り、
そもそも学問の構築には全人類規模の相互浸透が求められる。
それは、歴史的な学問・記述、歴史的な事実、
そして現代社会の現実…等との相互浸透の結果であろう。
例えば、空手の修業・修行においての「宗教不要論」は、
南郷氏が「神・神の道」を頼らず・使わずに
武道空手の達人への到達法を創造し得た結果の「宗教不要論」であり、
また、生活における「宗教論」は、
歴史的観点から人類にとっての神誕生から宗教誕生への謎を解き得た。
その結果の「不要論」である、という事であろう。
それに対して、
私が、南郷氏の持論だと言って展開した「宗教論」は、
私の個人的見解・持論という事になろうか…
ただ…葬り去った沢庵お宅には、全く理解できていない事実がある。
それは、空手組織における創価学会の会員についての南郷氏の対応である。
学者としての南郷氏の「宗教論」、
組織の指導者としての「宗教論、
社会的な個人としての「宗教論」、
それらは、本質的部分では一致していても、
状況・条件によって異なっている見えるモノである。
学問的には「宗教論」では、現代の人類に「宗教不要」でも、
現代の人類の中の時代遅れの人間には「宗教有用」であり、
自分と個人的な関係にある他人に「宗教不要論」は敢えて主張しない。
学問的な「宗教論」を現実への適用・使用の場合、
毒があるから不要論、
毒を以て毒を制すから有用論、
「無用の用」的な視点から肯定論…
学問的な「宗教論」とは、そのようなモノなのだろう。
南郷氏の「宗教否定論」も「宗教不要論」も、南郷氏の「宗教論」の一部に過ぎず、
それは、「宗教論」という氷山の一角に過ぎない論説である、と言う事であろう。
葬り去った沢庵お宅は
人間なら「木を見て森を見ず」か「鍵の穴から天覗く」
人間以下なら「井の中の蛙大海を知らず」ですね…
煽てても木に登れない「障碍ブタ」から「蛙」になっちゃった!
これって哺乳類から両生類に退化したという事?
それって進化している時代に逆行して退化しているって事!でしょう。
よかった♪♪♪もう既に葬り去ってしまっていて…
昨日・今日と休日なので比較的時間の余裕があった。
そこで、葬り去った沢庵おたくではなく、
残っているコメントをざっと見た。
そんな中南郷氏の著書「武道の理論」からの引用部分を読んだら…
なんと…今まで気づかなかった新たな観点から氏の論説が読めた。
確かに、南郷氏は、「宗教否定論」or「宗教不要論」を展開している。
しかし、それは南郷氏の個人的視点からの見解ではなく、
南郷氏の構築した、学問的観点・人類の歴史的観点からの論説である、という事。
だから、沢庵お宅の以下の言葉も間違ってはいなのだろう。
>お宅も本当は分かっているのだろ?南郷の宗教批判・宗教否定の考えを。
>それも、それは南郷個人による独創などではなく他人との相互浸透によってもたらされたものだということを。
その通り、
そもそも学問の構築には全人類規模の相互浸透が求められる。
それは、歴史的な学問・記述、歴史的な事実、
そして現代社会の現実…等との相互浸透の結果であろう。
例えば、空手の修業・修行においての「宗教不要論」は、
南郷氏が「神・神の道」を頼らず・使わずに
武道空手の達人への到達法を創造し得た結果の「宗教不要論」であり、
また、生活における「宗教論」は、
歴史的観点から人類にとっての神誕生から宗教誕生への謎を解き得た。
その結果の「不要論」である、という事であろう。
それに対して、
私が、南郷氏の持論だと言って展開した「宗教論」は、
私の個人的見解・持論という事になろうか…
ただ…葬り去った沢庵お宅には、全く理解できていない事実がある。
それは、空手組織における創価学会の会員についての南郷氏の対応である。
学者としての南郷氏の「宗教論」、
組織の指導者としての「宗教論、
社会的な個人としての「宗教論」、
それらは、本質的部分では一致していても、
状況・条件によって異なっている見えるモノである。
学問的には「宗教論」では、現代の人類に「宗教不要」でも、
現代の人類の中の時代遅れの人間には「宗教有用」であり、
自分と個人的な関係にある他人に「宗教不要論」は敢えて主張しない。
学問的な「宗教論」を現実への適用・使用の場合、
毒があるから不要論、
毒を以て毒を制すから有用論、
「無用の用」的な視点から肯定論…
学問的な「宗教論」とは、そのようなモノなのだろう。
南郷氏の「宗教否定論」も「宗教不要論」も、南郷氏の「宗教論」の一部に過ぎず、
それは、「宗教論」という氷山の一角に過ぎない論説である、と言う事であろう。
葬り去った沢庵お宅は
人間なら「木を見て森を見ず」か「鍵の穴から天覗く」
人間以下なら「井の中の蛙大海を知らず」ですね…
煽てても木に登れない「障碍ブタ」から「蛙」になっちゃった!
これって哺乳類から両生類に退化したという事?
それって進化している時代に逆行して退化しているって事!でしょう。
よかった♪♪♪もう既に葬り去ってしまっていて…