新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・「実に残念な事」

2021-04-18 09:57:06 | 宗教論
続・「実に残念な事」


昨日・今日と休日なので比較的時間の余裕があった。
そこで、葬り去った沢庵おたくではなく、
残っているコメントをざっと見た。
そんな中南郷氏の著書「武道の理論」からの引用部分を読んだら…
なんと…今まで気づかなかった新たな観点から氏の論説が読めた。

確かに、南郷氏は、「宗教否定論」or「宗教不要論」を展開している。
しかし、それは南郷氏の個人的視点からの見解ではなく、
南郷氏の構築した、学問的観点・人類の歴史的観点からの論説である、という事。

だから、沢庵お宅の以下の言葉も間違ってはいなのだろう。

>お宅も本当は分かっているのだろ?南郷の宗教批判・宗教否定の考えを。
>それも、それは南郷個人による独創などではなく他人との相互浸透によってもたらされたものだということを。

その通り、
そもそも学問の構築には全人類規模の相互浸透が求められる。
それは、歴史的な学問・記述、歴史的な事実、
そして現代社会の現実…等との相互浸透の結果であろう。


例えば、空手の修業・修行においての「宗教不要論」は、
南郷氏が「神・神の道」を頼らず・使わずに
武道空手の達人への到達法を創造し得た結果の「宗教不要論」であり、

また、生活における「宗教論」は、
歴史的観点から人類にとっての神誕生から宗教誕生への謎を解き得た。
その結果の「不要論」である、という事であろう。


それに対して、
私が、南郷氏の持論だと言って展開した「宗教論」は、
私の個人的見解・持論という事になろうか…

ただ…葬り去った沢庵お宅には、全く理解できていない事実がある。
それは、空手組織における創価学会の会員についての南郷氏の対応である。

学者としての南郷氏の「宗教論」、
組織の指導者としての「宗教論、
社会的な個人としての「宗教論」、
それらは、本質的部分では一致していても、
状況・条件によって異なっている見えるモノである。

学問的には「宗教論」では、現代の人類に「宗教不要」でも、
現代の人類の中の時代遅れの人間には「宗教有用」であり、
自分と個人的な関係にある他人に「宗教不要論」は敢えて主張しない。


学問的な「宗教論」を現実への適用・使用の場合、
毒があるから不要論、
毒を以て毒を制すから有用論、
「無用の用」的な視点から肯定論…

学問的な「宗教論」とは、そのようなモノなのだろう。


南郷氏の「宗教否定論」も「宗教不要論」も、南郷氏の「宗教論」の一部に過ぎず、
それは、「宗教論」という氷山の一角に過ぎない論説である、と言う事であろう。


葬り去った沢庵お宅は
人間なら「木を見て森を見ず」か「鍵の穴から天覗く」
人間以下なら「井の中の蛙大海を知らず」ですね…

煽てても木に登れない「障碍ブタ」から「蛙」になっちゃった!
これって哺乳類から両生類に退化したという事?
それって進化している時代に逆行して退化しているって事!でしょう。


よかった♪♪♪もう既に葬り去ってしまっていて…



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実に残念な事…

2021-04-17 09:50:30 | 宗教論
「実に残念な事」とは、沢庵お宅のコメントである。

それは、この記事の一番下に掲載している、
記事「続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述」へのコメント記述である。

沢庵お宅には、
以下のような連続投稿を実行可能な「熱意・執念」がある。

2021/04/15 (木) 3:06
2021/04/15 (木) 14:30
2021/04/15 (木) 18:35
2021/04/15 (木) 20:27

また、このコメント類には、私の主張・認識を覆すだけの内容が、
あるようにも思えるのだが…

しかし私の中での沢庵お宅は、もう死んで滅びいしまっている!
そんな幽霊的な沢庵お宅のコメントを真面目に読もうという意欲は今の私にはない。


それでも…以下のような大きな矛盾を発見した


2021/04/13 (火) 23:08
>佐藤錬太郎さんの『禅の思想と剣術』でも紐解いて(当然に南郷の『武道の理論』は廃品回収で処分して)勉強させてもらうが良い。

2021/04/15 (木) 3:06
>南郷の『武道の理論』(三一新書)のp28~36「宗教的思考と科学的思考」を読んでみろよ。
2021/04/15 (木) 20:27
>不自由びとに示すため数十年ぶりに『武道の理論』を読んでみたら、またまた南郷の間違いを発見したよ。


>…当然に南郷の『武道の理論』は廃品回収で処分して…
>…数十年ぶりに『武道の理論』を読んでみたら…


↑~
これって…どういう事?

古本屋で買い直した?
本屋で立ち読みした?
「処分した」のは虚偽?

まあ~もっとも…
こんな事は今に始まったモノではない…

今回の私が沢庵お宅を葬り去ったのは、
以下のような沢庵お宅の記述からである。


「>生阿片は不純物を多量に含み医療的効果が低いためモルヒネやヘロインに精製されて利用されている。

医療の現場で使われているのは阿片でなくてモルヒネなんだよ。」

↑~
こんなにも、物事の道理・論理が分からない
沢庵お宅とは、もう議論の余地がない!失望したからである。


直接使えないモノでも、加工して使えるなら、それは使えるモノ。
鉄の棒で紙は切れなくても、鉄製のハサミから切れる。

生アヘンは医療用に使えなくても、「ヘロイン」に調剤したアヘンなら使える。
そもそも医者がアヘンを、そのまま生で使う訳がない。
人間・人類は、直接使えないモノを加工して使用して来た長い歴史が…


こんな簡単な道理・論理さえ理解でない沢庵お宅では…
このまま相手をし続ければ、うつると感じて滅ぼした…


アヘン

ケシの実から採取される果汁を乾燥させたもの…

ケシの実から採取される アルカロイド は オピエート と呼ばれ、

このようなアルカロイドや、合成化合物

モルヒネ 、 ヘロイン 、 コデイン 、 オキシコドン を含む。」



結局、害があるのは、
ケシの実でもアヘンでなく、
その中の成分という事…

アルカロイドや、合成化合物は、
高用量の摂取では昏睡や呼吸抑制を引き起こす…のである。







2021/04/15 (木) 3:06


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述


・コメントを書いた人
沢庵

・コメント
バ~カ

南郷の『武道の理論』(三一新書)のp28~36「宗教的思考と科学的思考」を読んでみろよ。

「我々は歴史をふりかえることにより、科学は宗教との闘いを経てその座を獲得してきたことを知るのに、」

「創価学会にしても、その本質と抵触しない部分については、大いに科学的に動いているのを知ることができる。だが我々は現象によってその本質を判断してはならない。仮に社会事業に投資されるからといってバクチがよいわけがない。人間性をむしばむものは、それがいかに美しく飾られていようと、その本質的な部分をあばきだし、正しい姿を見せてやらねばならないのである。
 いわゆる宗教ないし哲学の存在価値を理論的に承認するということは、そこには科学の手が届かないということを、科学がそこでは無力であることを承認することになる。創価学会が主張するごとく、そこは科学の分野ではなく、宗教の分野であることを認めたことになる。科学の手の届かないところを認めるとすれば、現実の謎の解明が場当たり的となってしまって、原因不明となってしまうか、神罰のせいだとか、神の御利益だとかいうことになってしまいかねない。」

「創価学会式の原因究明によれば、事故にあうのは信心不足のせいだそうであるから、さしずめ、この事故なども幹部連中の信心不足を、わが敬愛する日蓮さんが怒って罰を与え給うたものと解釈すべきであろう。」

「モルヒネが、強壮薬が、一時的に役に立つからといってもその本質を見誤ることになると結局廃人になる以外道はないのである。宗教は阿片であるというゆえんは、人間性をむしばむからからである。」

「宗教の阿片性は科学的に証明されている。理論的に解明ずみである。しかるにその同じ宗教を心情的に支持し、積極的に道としてとりくむ武道家がほとんどであるというのが実情である。」

「我々の科学への志向は、宗教との闘い、しかも、生活の全分野に存在する宗教的な考え方との厳しい闘志を必要とするそれではなかったか。」(p32)

ハッキリと「武道の部分だけ宗教を排し、他の生活においては宗教を否定しない」などと南郷は述べていない。
科学と宗教とは敵対的な関係であり、非敵対的に両立し得るものではないのだ、というマルクス主義の唯物論的で無神論的、無宗教的な考えを文字に書き残している。

「生活の中の一部分でも宗教を認めたならば、やがては全体に波及することになるから宗教は否定して、社会科学や精神科学に取って変えねばならない」と。

南郷はハッキリと宗教否定論者であるし宗教不要論者だよ。何故なら南郷はマルクス主義者であるし無神論者だからだ。

実際に神を信仰している武道家や格闘家は少なからずいる。しかし、神を信仰しているから強くなれないとか上達できないということはないのだよ。南郷が自分が無神論者だから神仏への信仰を排除したかったからに過ぎない。
特に科学者になるわけでもない武道の実践家にとって信仰が強さを妨げるということなど無いのだよ、戯けが!




2021/04/15 (木) 14:30

▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述


・コメントを書いた人
沢庵

・コメント
明らかに南郷は宗教批判・創価学会批判を記述している。

にも関わらず馬場規子は創価学会も公明党も止めることなく玄和会の幹部となっている。

その人間世界の妙味だろうな。

般若心経の。




2021/04/15 (木) 18:35

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述

・コメントを書いた人
沢庵

・コメント


不自由びと

お宅も本当は分かっているのだろ?南郷の宗教批判・宗教否定の考えを。

それも、それは南郷個人による独創などではなく他人との相互浸透によってもたらされたものだということを。

つまりは唯物論的弁証法の「対立物の相互浸透」であり「自分の他人化」であり、この場合は「南郷継正(高橋洋一)のマルクス化・エンゲルス化・レーニン化・三浦つとむ化」であったのは明らかだ。

マルクス主義者・共産主義者は宗教否定論者であり、それが現実化されたのがソ連の宗教弾圧であり、中華人民共和国やアルバニアの国家的無宗教なのだから。

現代社会において「アヘンの医療的利用」などという話しでは全く無い。誤魔化すな。







2021/04/15 (木) 20:27

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述



・コメントを書いた人
沢庵

・コメント

不自由びとに示すため数十年ぶりに『武道の理論』を読んでみたら、またまた南郷の間違いを発見したよ。

それは宗教批判の所にあるのだが「科学は宗教との闘いを経て」というくだりだ。

おそらくそれは西洋のガリレオ裁判だとかを念頭に置いての記述だろうが、ああしたものは「科学と宗教との対決」ではなく「科学者と権力との闘い」なのだよ。

その歴史的現実を経て制定されたのが日本国憲法第20条の「信教の自由、そして政教分離」であり第23条の「思想の自由」ではないか。

しかし、南郷の理解では思想にも自由は無いし信教にも自由はない。憲法の無いソ連のような考えで、これでは何年受験しても司法試験に合格できなかったのも頷ける。

出版社の編集者も大学の学部や大学院を出た秀才揃いだから読んでレベルを見抜けるのだろうな。「南郷継正?レベル低いよ」と皆が言うからな(笑)



コメント
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