新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「観念論・唯物論」世界観

2021-10-10 11:22:05 | 哲学言葉シリーズ


「世界は、私の生誕と共に誕生して、私の死と共に滅びていく」

これは、無限に広い現実世界を、有限で狭い私の生きている世界、
「世界=私の世界」としてしまっているので観念論的世界観。


「私の観念世界は、私の生誕と共に発生して、私の死と共に消えていく」

これは、初めから私の観念世界に限定して、
その全体を説いている唯物論的世界観。

「私の観念世界は、私の生誕と共に発生、私の死と共に消えていく」
「父母の観念世界は、父母の生誕と共に発生して、その死と共に消えていた」
「祖父母の観念世界は、祖父母の生誕と共に発生して、その死と共に消えていた」
「祖祖父母の観念世界は、祖祖父母の生誕と共に発生して、その死と共に消えていた」

「人間の世界は、人類の誕生と共に生まれ、その滅亡と共に消えていく」
「恐竜の世界は、恐竜の誕生と共に生まれ、その滅亡と共に消えていた」

生命体の世界は…
生命の誕生は…
地球の誕生は…
太陽系の誕生…
銀河系の誕生は…
……
現宇宙の誕生は、前宇宙の消滅と共に…
前宇宙の誕生は、前々宇宙の消滅と共に…
……
神が宇宙を創造したなら、宇宙は神の世界の消滅共に…?
それとも、今・現在も神は人間と共に存在している…?

その神の世界は、どのように誕生したのだろう?
そもそも神の誕生は、あるか?orないか?
神の世界は、神だけなのだろうか?

神が人間と共に存在しているなら、
この宇宙を創造した神は、この宇宙を滅ぼすのだろうか?

前宇宙を滅ぼしたのは神なのだろうか?

神に宇宙・物質…創造の力があるなら、
事物の変化・運動も神が実行しているのなら、
人間の生活・知識…全てが神の意志による操作…という事になろう。
人間が何をしても、「神の意志であり当人の責任ではない」事になり得る。

神が宇宙の全てを創造したなら、
全ては神の意志であったとするなら、
神の意志とは宇宙全体の意志である事になる。

宇宙の一部に過ぎない人間の意志は、決して神の意志ではない。
人間が何かをしても、それは神の意志ではない、と言えよう。
その一部の意志に過ぎない人間の意志を神の意志とするのは観念論である。


神が宇宙を創造したなら、神は宇宙であり、宇宙は神である。
ならば、人間は神の一部であり、神の一部は人間となろう。


この「神というモノ」の考え方が、
ヘーゲルの「絶対精神」であろう。

「絶対精神」の世界の前にある世界とは?
「絶対精神」の誕生とは?

観念論的世界観は、絶対精神による世界の創造から始まる世界観。
唯物論的世界観は、絶対精神の誕生以前から始まる世界観。

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世界と世界観について…

2021-10-09 11:34:13 | 哲学言葉シリーズ

世界には、
現実に実在している客観的世界と自らの主観内の観念的世界が考えられる。

客観的世界には、
私の知っている世界と知らない世界。
私が行った事がある世界と行った事のない世界。

観念的世界には、
鮮明にイメージ可能な世界と不可能な世界。
イメージ不可能でも感情的に感覚可能な世界。

客観的に実在している世界とは、全宇宙である。
その中にある世界が、銀河系⇒太陽系⇒地球⇒日本⇒東京⇒○○市⇒私の家庭⇒私の観念…

世界観とは、哲学用語としては「世界の全体の観方(捉え方)」と言えよう。
その視方・捉え方には、観念論的世界観と唯物論的世界観の二つが考えられている。

観念論的世界観とは、世界を神の創造物として、世界に始まり・起源を認めたモノ。観念的な世界の観方
唯物論的世界観とは、神の存在を否定して世界に始まり・起源なく宇宙はモノの変化運動結果というモノ。客観的な世界の観方。

「世界」は人間の外にある客観的な実在であり、
「世界観」は人間の観念(認識)的実在と言える。

現実の「世界」とは今のこの瞬間の眼前世界である。
「世界観」とは今この瞬間の眼前世界に対する観方・捉え方といえる。

今、私の眼前世界とは、全宇宙の中の銀河系の中の
太陽系の中の地球上の日本の中の東京都の中の
○○市にある私の家庭内を反映した私の中の観念的な世界の観方・捉え方である。

ここから、世界観とは日々の生き方・生きる姿勢とも言えよう。



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真理とは何か?

2021-10-03 12:04:27 | 哲学言葉シリーズ

フっと気付いた!
「真理とは何か?」を明確にせずに、
「『真理は二つ』につてい」を問うのは、手順が違っていて、筋が間違っている(非論理的)である事に…
そこで、今「真理とは何か?」を問うてみた。

真理とは、対象とする何かの「真の姿」とする。
「真の姿」があるなら「偽の姿」や「仮の姿」があろう。

例えば、私の「真の姿」とは?を考えたなら、
それは、今この瞬間、ここに存生する「現実の私の姿」であろう。

そして、一瞬前の私の姿は「仮の姿」、「過去の姿」であろう…
その理由は、生物・人間である私の姿は刻一刻と変化している。
それは肉体・表情・感情・思い・考え…
それら全てが一瞬前の私と今の私とでは異なっている…からである。

ならば「真の私の姿」とは何か?
それは、過去から現在そして未来にあっても、
ずっと変わらずに存在し続ける「変化しない私の姿」と言えよう。

ここで、真の私の姿=変化しない私の姿を考えるなら、
私は人間なので、私には、
人間として変わらない「人間の真の姿」と
私として変わらない「私の真の姿」の二重性が考えられる。

私の真の姿(私の真理)には、
「生物・人間の真の姿」(人間の真理)と「個体・私の真の姿」(個体の真理)の二つだと考えられる。

さて…ここで、「真理とは対象とする何かの真の姿」と捉えて良いだろうか?
「良い」とするから、それは五感で感覚可能であろうか?
「万物流転」が世界の絶対的な真理=真の姿である…と信じているなら、
万物の「真の姿」は決して五感では直接に捉えられないモノと言えよう。

私の真の姿は、現実に存在する私の姿であるのに…
その「真の姿」を直接に五感では捉えられないのである。

ならば…真の私の姿は、どのように捉えるのだろうか?
真理とは、
現実に存在する変化・運動している何かの中で、
「その何かとして絶対に変わらない姿」を、
人間が自己の観念内に構築・像化する事、と考えよう。

この変化・運動する・している何かの中で、
絶対に変化・運動しないモノを哲学用語で「実体」と言うのだろう。
実体の変化・運動は絶対に変わらない・止まらない…
なので、そんな実体は決して捉えられない…
それで、変化・運動している実体の姿・状態=実態は捉えられるなら…


例えば、
「私が笑っている・怒っている…」これを実態として見えても…
この場合、この「笑い・怒り」は、どのような実体の状態なのだろうか?
「笑い・怒り…」は感情である。「感情の元は心」であるから「その実体は心」?

しかし、人間の身体のどこを探しても、誰もが「心」というモノは発見できていない。
現在では、「心は人間の頭脳の働き・機能」だと考えられている。
機能は現実に存在(現存)するモノではない。
モノでないのに実体(実際に存在する体)と言っていいだろうか?

実体が変化・運動している状態を実態とするなら、
実態である「笑い・怒り」の源が心なら「心は感情の実体」と言えよう。
では、頭脳の機能である「心の真の姿」とは?
それは、その実存する頭脳の中身・構造となろう。
……
さてさて…疲れたので…

ここで、以下のように「真理」の種類について考えた。

真理を、
人間の観念内に構築・創造する、
現存する対象である何かの
変わらない真の姿、とするなら…


真理には、
「その何かの真の姿」の表現。
「その何か真の姿を構築・創造するまで時々その何かの姿」の表現。

「私の観念の中でのその何かの真の姿」。
「私以外の人々の観念内での何かの真の姿」。


真理には以下のようなモノが考えられる。

到達したと思える「真の姿」(真理)としての認識・表現。
到達したと思えるまでの「時々の姿」の認識・表現。

以下のような意味の言葉を思い出した、
「その結果が全てではない、その結果に至る過程をも含めたモノが全てである」

これは、結果論だけではなく、過程論を合わせて初めて全てという「真理」であろう。


自己の真理の表現。
他人の真理の表現。

↑これは、
自分の真理が真理ではなく、他人の真理をも含めて初めて真理である。






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「真理は二つ」について…

2021-09-26 18:50:56 | 哲学言葉シリーズ


「人間は認識的実在である」が真理なら、
「人間は本能的実在でない」も真理。

「動物は本能的実在である」が真理なら、
「動物は認識的実在でない」も真理。


人間の観念内での真理は一つであっても、
それを言語表現するなら「真理は二つ」となり得る(のだろう)。

人間が観念内で認識する「運動」は一つ でも、
それを言語表現するなら以下のようになり得る。

「運動とは、そのモノが、そこにあると同時にそこにない」
「変化とは、そのモノが、そのモノであると同時にそのモノでない」

「真理とは、あるモノコトの真の姿を認識したモノ」と概念規定するなら、
人間の観念内でのあるモノコトの真の姿「認識・真理は一つ」でも、
それを言語表現するなら「言語・真理は二つ」(になり得る)。

その理由は、言語表現には肯定⇔否定の両側面があり得るから…
「好きとは嫌いの否定」、「風が吹くとは無風の否定」…

そもそも…あるモノの表現・言葉は、
そのモノが他のモノと違う事を知らせる為に生まれた、のだから…

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一般的と具体的

2021-06-02 11:09:00 | 哲学言葉シリーズ
一般的と具体的

先週の事である。

三年生男子二人の通常級「音楽」への交流授業へ参加した時の事~
二人は少々開始時刻に遅れて音楽教室に到着、児童達は座って合唱していた。
その後、立ってリズムに乗って動きながらの合唱が始まった。

その時、席を立とうとしない二人に私は、
「立って歌おうね!みんなも立って頑張っているよ…」と促した。

そんな私の言葉にK君が「…さんかい…」
そんな理解し難い言葉に私は聞こえないふりで「…やろうよ!」と繰り返していた。

そんな私にK君は「…さんかい…」と繰り返し言っていたので、
隣に座っていたE君に「…どういう事?」と尋ねたら、
E君が「みんなの教室は三階で、僕たちは一階だから…」と教えてくれた。

その言葉に私以下のように納得した。

一階から四階の音楽教室まで階段を上がって来て、
直ぐに、立って動いて歌うのは無理なのかも…と…

でも…少し考経って…以下のような事に気付いた。

確かに、
四階の音楽教室に来るのに、
一階の特別支援学級教室から来た二人は、
三階の三年教室から来た他の児童よりも疲れている筈である。

でも…しかしである。
今は、五校時の「音楽」授業であり、その前は昼休み時間であった。
殆どの児童達は一階の校庭で遊んでいた筈である。
そんな彼らも、K君・A君と同様に、一階から四階へと上がって来た筈である。
もっとも…彼らは一度三階の教室へ寄って「音楽バック」を持っての四階上がりではあるが…

ならば、K・A君二人と他の児童の疲れ具合に大きな違いはない…筈…

以上の流れを論理的にみるなら…


私の一般論「みんなは頑張っているから二人も頑張ってやろう」、
K君の具体論「教室一階の僕たちの方が、教室三階の皆より疲れていて頑張れない」
そこで私も具体論「五校時の今日は、皆も一階校庭から四階へ来て疲れは同じ」


とかく…大人の説教は一般的レベルで始まるモノである。
しかし~それを子供は具体的レベルで理解し反論する。
そこで、大人には、その具体的事実に合わせた一般論の適用が求められる。


「皆と同じにやろう…」と言っている私、
「僕たち皆と違うからやれない…」と主張する児童、
「違うかも知れない…でも今日は皆同じだからでやれる…」と指摘する私、






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