ドゥルガーお宅へ
一番下に転写してあるお宅コメントへの私コメントです。
長文は、目が頭が疲労困憊して読みたくないようなので…
今回は短くいきましょう!
初めに以下の一言!
今回の宅コメントの始まりの言葉
>今の自分に満足、というのはそれも貴兄が南郷さんから言われたことですか?
前回の私コメントの終わりの言葉
<「今のお宅に満足していたら、将来もずっと今のお宅のままですよ。」と書いてあります。
以下のお宅コメントの全てが、独りよがりの超主観的な記述です。
そんな主観的な文面は、どうぞ御お宅の自身のブログやって!
以下の記述は、お宅は読み飛ばして結構です。
私の論理的・弁証法的…の自学・自習なので…
>▼ コメント ────
>・コメントが届いた記事
>続・続・続お宅コメントへの私コメント~
>・コメントを書いた人
>ドゥルガー
>・コメント
>今の自分に満足、というのはそれも貴兄が南郷さんから言われたことですか?
私の前回コメント
「今のお宅に満足していたら、将来もずっと今のお宅のままですよ。」
「お宅は若者だそうですから、今のお宅のまま老人!なんて大変!」
>私は既に述べたように師について武術の稽古をしていますし、自分独りで完結しない環境を持っているということが自分を成長させる秘訣だと思っていますけど?
私コメント
「自分独りよがりで…完結しない」とは弁証法的な私からすれば、笑止千万!ですよ。
人は「自分の能力の範囲内でしか対象を理解できない」というからショウガないでショウガ~
環境が全てでなく、その中での自己の認識・意識の持ち方が最重要事項です。
「自分独りよがりで完結しない環境」…と思った時点で「完結しない」と完結しています。
>確かに私は昨日のコメントを書いて「なかなか上手いこと書けたな」と満足したところがありましたね。でも、そんなことは貴兄が言ったように直ぐに忘れる私のことですからいつまでも覚えていたりはしないもんです。
私コメント
ほ~ヤッパリ>「なかなか上手いこと書けたな」と満足、でしたか…
私が思うに、弁証法への道を目指す以前の若かりし頃の南郷氏なら…
お宅書いているような思いがあったのかも知れません(私はない…と思いますが…)
それでも、最終的には「弁証法を求め」、「弁証法への道」を歩み始めたら以後は、
仮にあったとしても、お宅のように「…忘れた…」でしょうね。
>先生の所へ稽古に行けば自分の欠点ばかりが露わになりますから余り満足感に浸る余裕はないですね。
それに南郷流もそうでしょうけど長年修業を続けてきた先生や兄弟子の動きは桁違いですから、自分に満足する機会がないですよ。
私コメント~
お宅は私の言葉を誤解しています。
私の指摘している「独りよがり」は、
他人の記述・言葉に対する「お宅の独りよがり」理解・誤解・解釈の事です。
お宅を知らない私が、お宅の日頃の行動・行為が「独りよがり」であるか否を分かる筈ないでしょう。
このように、私の指摘している言葉・「独りよがり」の中身・内容を
お宅は「お宅の現実生活の事」だと、自分勝手に思っている事が、
私のしている⇒「独りよがり」のお宅の姿なのでよす。
更に書けば「自分は独りよがり」ではない…断言できる事が問題なのです。
一般的に言って、テスト終了時に「大丈夫満点取れる!と信じている学生程、
満点は取れないモノです。
真の実力者は「あの…問題は間違えかも?」と自信・確信が持てないモノですよ。
や~い!ヤッパリ、こんな言動が「独りよがりお宅」の姿です。
>それに学問は学問で、また師がいます。自分独りの独学で何かを成し遂げられるような器だと思ってませんから、ちゃんと師弟関係を結んでるんですよ。
私コメント~
私が、お宅の記述・言葉を読んで、確実に自信を持って断言できるのは、
お宅の思い考えている「学問」と南郷氏の学問は全く別物、という事です。
>それから貴兄からも指摘されましたけど、私も相当に昔読んだ『武道の理論』を想起しながら即興で武道論を語ってみましたけど、あらためて現代社のホームページで目次を確認したら、昨日説いたのは南郷さんの武道論ではなく「私の武道論」だったみたいですね。
私コメント~
ほ~それは、それは、良かったですね。
あれ程、私が「南郷氏の武道の定義」だと見飽きる程に繰り返し書いていたのに…
やっとですか…
これは、私との繰り返しやり取りの中で「武道」に対する「お宅の独りよがり」が判明した、と言う証ですね。
これ程に「独りよがり」とは、納得・分かり得ないモノなのですよ。
>私は自分が好きで武術を学んではいますけれど、貴兄もチラッと述べた通り現代の治安がいい日本では安全な場所を選んで生活している限り武道や護身術は必須のものだとは思いませんからね。
武術の嗜みがあればそれを使って何かすることのできる状況でも、武術や護身術の嗜みの無い人はまた別の方法で回避することを可能とするものですから。
私コメント~
ほらほら…またまた「独りよがり」コメント~
「治安がいい日本の安全な場所」とは、どこ事ですか?
普通の昼間の電車内は「安全な場所」ではないのですか?
そこで、大勢の一般人が死にそうな目にあった事実があるのですよ!
>前回の貴兄のコメントから貴兄は南郷さんに私淑しながらも玄和会の空手を学んではいない人、例えば学校関係の人だということですから関西の××さんあたりじゃないかと考えたんですが如何でしょう?
私コメント~
「独りよがり」の妄想を、ここでは、書かないで下さい。
それそれ…これも、またまた「独りよがり」の証・言説。
>というのも「武器さえあれば空手も柔道も必要なくなる」というニュアンスのことを書いていましたでしょう?南郷流にしろ他の空手でも柔術でも合気道でも、武器を使う場合にしろ「体術」は重要で、体術の上に武器を持っていくと思いますから「空手も柔道も必要ない」という表現にはならないのではないかと思ったんですね。
そこが「武技を用いた」という南郷さんの表現と、自由びとさんの「武器を用いた」という表現との差異ではないか、と。
私コメント~
これは、昔に本で読んだ「喧嘩の達人」の行動・行為です。
それに、日常生活で危険に瀕した場合に素手での護身は危険です。
>それに、自由びとさんの記述で気になったのは鉛筆を武器にするという所です。やった事ないので想像力が働かないんですけど、鉛筆って木製でしょう?ちょっと筆圧強くしただけで芯も折れちゃいますし、本体も折れちゃいますでしょう?
至近距離から目だとかにピンポイントで刺すなら兎も角も、護身具として成立するのかな?って。
私も懇意にしている先生から小型の携帯護身具だとか教えて貰うんですけど、やっぱり金属製が多いですよね。相手も必死で抵抗するわけですから、そこに加わる力に耐えられるような強度をもった。
私コメント~
ヤッパリ、お宅の想像力は、非弁証法的ですよ。
鋭く削って尖った鉛筆なら、骨は無理でも、掌や太ももを顔・頬…等ならかなり痛みを与えられます。
倒すのではなく、ダメージを与えて、その隙に逃げるが勝ちです(護身の場合)
>例えば、玄和の組手スタイルのように遠い距離から高速移動してくる相手の急所だけを的確に突けるんですかね?
私コメント~
お宅は、南郷氏の著作の何を読み取っているのですか?
あれは、上達論に基づいての「遠いい距離」から、自分の攻撃の間合いを創る為の稽古です。
その台詞から、昔に空手部の後輩が実践的な道場で空手を習ってしーいましたが…
その道場の師範曰く
「本番・勝負・喧嘩…では準備運動もする余裕はないだろうから練習前の準備運動も不要」ですって…
これって変だと思いませんか?
準備練習なしで、激しい稽古して怪我でもしたら、どうなの?
もつとも…この言葉が
「いつでも、どこでも、準備運動なしで全力を出せる身体状態の維持を心がけよ」とかなら…納得ですが…
>でも、南郷さんの発言を正確にトレースしようとする姿勢には感じ入る所が有りました。『自由學藝』の著者さんたちもそうした志向性で本を作っているみたいでしたしね。
私コメント~
「、南郷さんの発言を正確にトレースしようとする姿勢」…
「トレース」ですか…これも「独りよがり」コメントですね。
確かに現象・言葉としては、そのように見える・思える場合もあるでしょうが…
でも、その目的・意識が「トレース」では、ありません。
私の求めているのは、その言葉を発する認識・構造なのです。
出来るだけ言葉と同様な事実・体験を求め、
それを通して、その時の感情の確認をしたいだけです。
↑~
お宅の記述・コメント結局は~
真面目に、読めば読む程に、私の中の「独りよがり」お宅像が鮮明化してきています。
一番下に転写してあるお宅コメントへの私コメントです。
長文は、目が頭が疲労困憊して読みたくないようなので…
今回は短くいきましょう!
初めに以下の一言!
今回の宅コメントの始まりの言葉
>今の自分に満足、というのはそれも貴兄が南郷さんから言われたことですか?
前回の私コメントの終わりの言葉
<「今のお宅に満足していたら、将来もずっと今のお宅のままですよ。」と書いてあります。
以下のお宅コメントの全てが、独りよがりの超主観的な記述です。
そんな主観的な文面は、どうぞ御お宅の自身のブログやって!
以下の記述は、お宅は読み飛ばして結構です。
私の論理的・弁証法的…の自学・自習なので…
>▼ コメント ────
>・コメントが届いた記事
>続・続・続お宅コメントへの私コメント~
>・コメントを書いた人
>ドゥルガー
>・コメント
>今の自分に満足、というのはそれも貴兄が南郷さんから言われたことですか?
私の前回コメント
「今のお宅に満足していたら、将来もずっと今のお宅のままですよ。」
「お宅は若者だそうですから、今のお宅のまま老人!なんて大変!」
>私は既に述べたように師について武術の稽古をしていますし、自分独りで完結しない環境を持っているということが自分を成長させる秘訣だと思っていますけど?
私コメント
「自分独りよがりで…完結しない」とは弁証法的な私からすれば、笑止千万!ですよ。
人は「自分の能力の範囲内でしか対象を理解できない」というからショウガないでショウガ~
環境が全てでなく、その中での自己の認識・意識の持ち方が最重要事項です。
「自分独りよがりで完結しない環境」…と思った時点で「完結しない」と完結しています。
>確かに私は昨日のコメントを書いて「なかなか上手いこと書けたな」と満足したところがありましたね。でも、そんなことは貴兄が言ったように直ぐに忘れる私のことですからいつまでも覚えていたりはしないもんです。
私コメント
ほ~ヤッパリ>「なかなか上手いこと書けたな」と満足、でしたか…
私が思うに、弁証法への道を目指す以前の若かりし頃の南郷氏なら…
お宅書いているような思いがあったのかも知れません(私はない…と思いますが…)
それでも、最終的には「弁証法を求め」、「弁証法への道」を歩み始めたら以後は、
仮にあったとしても、お宅のように「…忘れた…」でしょうね。
>先生の所へ稽古に行けば自分の欠点ばかりが露わになりますから余り満足感に浸る余裕はないですね。
それに南郷流もそうでしょうけど長年修業を続けてきた先生や兄弟子の動きは桁違いですから、自分に満足する機会がないですよ。
私コメント~
お宅は私の言葉を誤解しています。
私の指摘している「独りよがり」は、
他人の記述・言葉に対する「お宅の独りよがり」理解・誤解・解釈の事です。
お宅を知らない私が、お宅の日頃の行動・行為が「独りよがり」であるか否を分かる筈ないでしょう。
このように、私の指摘している言葉・「独りよがり」の中身・内容を
お宅は「お宅の現実生活の事」だと、自分勝手に思っている事が、
私のしている⇒「独りよがり」のお宅の姿なのでよす。
更に書けば「自分は独りよがり」ではない…断言できる事が問題なのです。
一般的に言って、テスト終了時に「大丈夫満点取れる!と信じている学生程、
満点は取れないモノです。
真の実力者は「あの…問題は間違えかも?」と自信・確信が持てないモノですよ。
や~い!ヤッパリ、こんな言動が「独りよがりお宅」の姿です。
>それに学問は学問で、また師がいます。自分独りの独学で何かを成し遂げられるような器だと思ってませんから、ちゃんと師弟関係を結んでるんですよ。
私コメント~
私が、お宅の記述・言葉を読んで、確実に自信を持って断言できるのは、
お宅の思い考えている「学問」と南郷氏の学問は全く別物、という事です。
>それから貴兄からも指摘されましたけど、私も相当に昔読んだ『武道の理論』を想起しながら即興で武道論を語ってみましたけど、あらためて現代社のホームページで目次を確認したら、昨日説いたのは南郷さんの武道論ではなく「私の武道論」だったみたいですね。
私コメント~
ほ~それは、それは、良かったですね。
あれ程、私が「南郷氏の武道の定義」だと見飽きる程に繰り返し書いていたのに…
やっとですか…
これは、私との繰り返しやり取りの中で「武道」に対する「お宅の独りよがり」が判明した、と言う証ですね。
これ程に「独りよがり」とは、納得・分かり得ないモノなのですよ。
>私は自分が好きで武術を学んではいますけれど、貴兄もチラッと述べた通り現代の治安がいい日本では安全な場所を選んで生活している限り武道や護身術は必須のものだとは思いませんからね。
武術の嗜みがあればそれを使って何かすることのできる状況でも、武術や護身術の嗜みの無い人はまた別の方法で回避することを可能とするものですから。
私コメント~
ほらほら…またまた「独りよがり」コメント~
「治安がいい日本の安全な場所」とは、どこ事ですか?
普通の昼間の電車内は「安全な場所」ではないのですか?
そこで、大勢の一般人が死にそうな目にあった事実があるのですよ!
>前回の貴兄のコメントから貴兄は南郷さんに私淑しながらも玄和会の空手を学んではいない人、例えば学校関係の人だということですから関西の××さんあたりじゃないかと考えたんですが如何でしょう?
私コメント~
「独りよがり」の妄想を、ここでは、書かないで下さい。
それそれ…これも、またまた「独りよがり」の証・言説。
>というのも「武器さえあれば空手も柔道も必要なくなる」というニュアンスのことを書いていましたでしょう?南郷流にしろ他の空手でも柔術でも合気道でも、武器を使う場合にしろ「体術」は重要で、体術の上に武器を持っていくと思いますから「空手も柔道も必要ない」という表現にはならないのではないかと思ったんですね。
そこが「武技を用いた」という南郷さんの表現と、自由びとさんの「武器を用いた」という表現との差異ではないか、と。
私コメント~
これは、昔に本で読んだ「喧嘩の達人」の行動・行為です。
それに、日常生活で危険に瀕した場合に素手での護身は危険です。
>それに、自由びとさんの記述で気になったのは鉛筆を武器にするという所です。やった事ないので想像力が働かないんですけど、鉛筆って木製でしょう?ちょっと筆圧強くしただけで芯も折れちゃいますし、本体も折れちゃいますでしょう?
至近距離から目だとかにピンポイントで刺すなら兎も角も、護身具として成立するのかな?って。
私も懇意にしている先生から小型の携帯護身具だとか教えて貰うんですけど、やっぱり金属製が多いですよね。相手も必死で抵抗するわけですから、そこに加わる力に耐えられるような強度をもった。
私コメント~
ヤッパリ、お宅の想像力は、非弁証法的ですよ。
鋭く削って尖った鉛筆なら、骨は無理でも、掌や太ももを顔・頬…等ならかなり痛みを与えられます。
倒すのではなく、ダメージを与えて、その隙に逃げるが勝ちです(護身の場合)
>例えば、玄和の組手スタイルのように遠い距離から高速移動してくる相手の急所だけを的確に突けるんですかね?
私コメント~
お宅は、南郷氏の著作の何を読み取っているのですか?
あれは、上達論に基づいての「遠いい距離」から、自分の攻撃の間合いを創る為の稽古です。
その台詞から、昔に空手部の後輩が実践的な道場で空手を習ってしーいましたが…
その道場の師範曰く
「本番・勝負・喧嘩…では準備運動もする余裕はないだろうから練習前の準備運動も不要」ですって…
これって変だと思いませんか?
準備練習なしで、激しい稽古して怪我でもしたら、どうなの?
もつとも…この言葉が
「いつでも、どこでも、準備運動なしで全力を出せる身体状態の維持を心がけよ」とかなら…納得ですが…
>でも、南郷さんの発言を正確にトレースしようとする姿勢には感じ入る所が有りました。『自由學藝』の著者さんたちもそうした志向性で本を作っているみたいでしたしね。
私コメント~
「、南郷さんの発言を正確にトレースしようとする姿勢」…
「トレース」ですか…これも「独りよがり」コメントですね。
確かに現象・言葉としては、そのように見える・思える場合もあるでしょうが…
でも、その目的・意識が「トレース」では、ありません。
私の求めているのは、その言葉を発する認識・構造なのです。
出来るだけ言葉と同様な事実・体験を求め、
それを通して、その時の感情の確認をしたいだけです。
↑~
お宅の記述・コメント結局は~
真面目に、読めば読む程に、私の中の「独りよがり」お宅像が鮮明化してきています。