新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

春・新たな始まり

2018-03-30 11:07:04 | 日記


なかなかブログの更新が出来ていない。
書けない訳ではないのに…

書けているのに更新でき難い理由…
それは~例えるなら、
馬と鹿の区別が出来ない「馬鹿」な奴の事を書き終えて満足していた私だったのに…
今は、書き終えた瞬間に『馬と鹿の区別は出来ないが…人の区別は出来る』事に
気付き書いた内容に虚しさ感じて…
結局出来上がったモノが、アップ出来ずに終わってしまっていた。

それでも、もうすぐ春である。
桜も満開を迎えての春である。
暖かい春・スプリングである。
身も心も一新しての再開を~。

「場所の移動で頭脳の変革を~」である。
私も勤務校の移動をする事になった…
望んでいなかったのに…

その理由は、
一つ、去年後半から父親の介護で欠勤が多かった事。
二つ、四月からの特別支援学級児童数の減少で補助員の削減。
四名いる補助員の内で辞めてもらう一名は欠勤の多かった私だった。

この「辞めさせられる」とは適切な表現でない。
一年契約の補助員なので、正確には「契約の更新なし」となる。

なので、その事に文句は言い難いが…
それでも告げらた日時に不満を禁じ得ない。

告げられたのが、三月の12日である。
どうせ決まっている事なら、もっと早く告げて欲しかった。

でも…
「世の中、捨てる神あれば拾う神あり」で、
告げられた、その日に同僚の補助員に愚痴った所。
翌日に、その同僚から市内の別の小学校で補助員が必要と電話を頂いた。

今までの特別支援学級の児童の殆どは、知的遅れありの自閉症スペクトラム。
今度の学校の特別支援学級は、知能障害なしの情緒障害児童達である。

前回の児童数は、25名。
今回の児童数は、6名。

前回の補助員は常時三名。
今回の補助員は常時二名。

呼ばれ方は「同じ発達障害」児達でも、
その中身は「違う発達障害」児達と、
果たして私は上手に関わっていけるだろうか?

馬鹿な「奴」を事実として、
「馬と鹿の区別不能」なので馬鹿とする事のむなしさ…

それは、「発達障害」を発達障害児の事実から、
分かったと思い込む事のむなしさと同様であろう。









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滅茶苦茶な愚案亭主を論ずる。

2018-03-14 12:48:54 | 弁証法


久々の記事アップである。

色々と書こうと試みてはいるモノの…
書き上がったモノが今ひとつ気に入らなかった…



さて、今回の掲示板「談話サロン天寿堂」の記事
[2781] 南郷先生の弁証法の現象論的な修得法の無茶苦茶さを論ずる、

であるが…。


「…論ずる」前に一言、
何故に「無茶苦茶」なのか?である。
それは、絶対的観念者の立場で、唯物論者を正しく論ず事が可能だと信じ込んでいる事。

観念論者は、自らが創出した観念的立場で自らの観念を用いて論ずる。
唯物論者は、対象の立場で懸命に自らが創出した観念を用いて論ずる。

思ってみよう。
言葉を知らないモノに、言葉で「海」を教えられるだろうか?
言葉を知らないから、「海」へ連れて行って、海を体験させる。
そして、それが「海(うみ)」と教えるから、眼前のモノが「海」と覚えられる。

言葉を知っているモノの立場で、言葉を用いて教えるのは観念論的。
言葉は知っていても、知らないモノの立場で言葉を使わず教えるのが唯物論的。

これは、
言葉を使って対象を教えるか、対象を通して対象を教え言葉も教えるか、
の相違である。

それでも…千葉の海・伊豆の海・沖縄の海では、同じ海は海でも違ってくる。
当然に、日本海・大西洋・太平洋も、違っている。

一般的な海は、多くの海を体験する事で、分かってくるモノ。
それを言葉だけで、「海とは」を読み聞かせたら、
知識としての海を知り得ても、感情としての海は分からない。

弁証法にしても然りである。
弁証法を表現しているヘーゲルの言葉を
弁証法を知らないモノが、その言葉だけから感情として分かり得るだろうか?

そもそも…ヘーゲルの言葉そのモノも特別である。
ドイツ語の日本語訳である。
そのドイツ語は現代と違った時代のドイツ語である。
また、弟子達が書いたヘーゲルのドイツ語である。

そんな特別なヘーゲルの弁証法を、
文字で書かれた言葉だけから習得可能だという思い込み。
それが、ヘーゲル絶対的観念論者たる愚案亭主である。

そんな絶対的観念論的な言葉を唯物論的立場から論じてみよう。

仮に、ヘーゲルの観念が絶対的に正しかったとしても、
我々は、その観念を残された言葉だけでしか読み・知り得ない。
それも、上記三つの特殊性を帯びた事である。

例えば、「海」を全く知らない・見た事のない人物が、
言葉だけから「海」を教えられたら…とうだろうか?
しかも、その言葉を信じ切って、
「俺は海の全てを知っている」と思い込んだら…どうだろうか?

現在の愚案亭主がやっている事は~
彼が玄和会時代に体得した「弁証法」をヘーゲル言葉に重ねて実感しているだけであろう。
「真実は一つ」であるように「弁証法も一つ」である。
人間にとっての真実とは、多くの事実を通して見えてくるモノである。
真実は、そこにあっても、人間には初めから見えないモノである。

弁証法も然りである。
初めから弁証法は一つであっても、それは多くの変化・運動性を通して見えてくるモノである。
しかも、多くの変化・運動性を見るには、多くの変化・運動を多く見る事が必要である。
多くの変化・運動とは、存在しているモノ・コトの変化であり、運動であるから、
そこでは、多くのモノコトと実際に関わるコトが不可欠である。

聖書の言葉は、「初めに言葉ありき」らしい…
愚案亭主は、「初めに観念(弁証法の基本)ありき」のようである。


さてさて…具体的に論じてみよう!


>ゼノンの弁証法を単に知識として知ることではなく、この内実はアリストテレスの文言によってこそ、学びうるだけに、ここを実地に実践しえた後に、プラトンの弁証法たる合宿生活レベルの闘論を飽くことなく修練し、そしてそこからアリストテレスの弁証法の実際を原典の事例の一つ一つを理解すべく説き続ける実力を把持した後に、中世のトマス・アクィナスなどの、いわゆる弁証法の学習たる『哲学的証明法(討論法)』の長所・短所をふまえる学習をなすという、以上の学的弁証法の成立過程を論理的に学びとっていくことが必須だからである。

> …南郷先生がここで書かれている内容は、いささかも論理的ではなく、事実論・現象論的に学べと言っているにすぎません。

>ここに書かれているのは、空手にたとえて言えば、昔の個性的達人の技を全部できるようにせよ、といっているようなものです。たしかに基本技は、それらの達人の技に貫かれている一般性をもっと最高の技の形として限定的に一つ設定して、それを基本技として修練するというものです。これは南郷先生ご自身が創り上げた論理だったはずです。

> ところが、その南郷先生が、過程的に存在した多彩で個性豊かな達人の技群を、一々全部事実的・経験的に体得してしてできるようにしなければ、本物の達人にはなれないと宣っているのです。だからそれには長い期間を要することになると、たしかにこれでは時間がかかるはずです。ところが、これではいくら時間をかけても、はたして本物の技ができ上るのかどうか疑問です。


愚案亭主は全く誤解している。

南郷継正は
「いわゆる弁証法の学習たる『哲学的証明法(討論法)』の長所・短所をふまえる学習をなすという」
と書いている。

これは、初期弁証法の姿=『哲学的証明法(討論法)』の技化を目的としたモノではなく、
ゼノン・アリストテレス的な観念を「討論法」で実感・構築・再措定する事である。

「矛盾」の実感には、自らの観念・認識の痛烈な否定・破壊を受け入れられて初めて可能である。
その破壊され自己の認識観念の構築にゼノン・アリストテレス的観念が必要であろう。

それを愚案亭主は
>…昔の個性的達人の技を全部できるようにせよ…
と理解している。

それは、「昔の個性的達人の技」を上達の道筋を体験して、
弁証法的変化・運動の筋道を実感させるのが狙いであろう。

空手の基本技と弁証法の基本技は異なっている!のに…
空手の基本技の習得は
「それらの達人の技に貫かれている一般性をもっと最高の技の形として限定的に一つ設定して、それを基本技として修練するというものです。」

でも、弁証法の基本技は、闘いでの空手の発生から空手の達人への変化・運動性にあります。
弁証法がなかった時代のゼノンから弁証法を完成させたアリストテレスへの変化・運動性。

愚案亭主は分かり得てない!
なのに分かった!と思い込んで弁証法の基本を論じている。


彼の分かり得ていない事!
それは、「空手の基本」と「弁証法の基本」区別と連関であり、
それぞれの個別・特殊性である。

もっともっと~論じたいが…今回は以下の言葉を最後に~

どこに、あるの弁証法は?
それは、現実にあるの!

現実はどこに?
それは眼前に!

現実と関わる事なしに、弁証法を修得しよう!なんて…
絵に描いた餅で、腹いっぱいにしよう!と一緒だね!








以下は引用した記事である。



[2781]南郷先生の弁証法の現象論的な修得法の無茶苦茶さを論ずる


愚按亭主 - 2018年03月13日 (火) 22時57分

 南郷先生は、弁証法をモノにする方法を、「学城16号」の中で以下のように具体的に論じて、ヘーゲルはこれを真面目にやらなかったからダメだったのだ!と自信たっぷりに断言しています。

「ゼノンの弁証法を単に知識として知ることではなく、この内実はアリストテレスの文言によってこそ、学びうるだけに、ここを実地に実践しえた後に、プラトンの弁証法たる合宿生活レベルの闘論を飽くことなく修練し、そしてそこからアリストテレスの弁証法の実際を原典の事例の一つ一つを理解すべく説き続ける実力を把持した後に、中世のトマス・アクィナスなどの、いわゆる弁証法の学習たる『哲学的証明法(討論法)』の長所・短所をふまえる学習をなすという、以上の学的弁証法の成立過程を論理的に学びとっていくことが必須だからである。
 だが、である。この大切なことを大ヘーゲルはどういうわけか、簡単に通過するだけで、論文として表現することがなかったのである。」(「学城16号」まえがきより)

 まずはじめにはっきりと断言しておきます。この南郷先生の学習法では、何年たっても本物の弁証法はものにならず、骨折り損のくたびれ儲けに終わることは目に見えております。南郷先生は「以上の学的弁証法の成立過程を論理的に学びとっていく」とありますが、南郷先生がここで書かれている内容は、いささかも論理的ではなく、事実論・現象論的に学べと言っているにすぎません。

 ここに書かれているのは、空手にたとえて言えば、昔の個性的達人の技を全部できるようにせよ、といっているようなものです。たしかに基本技は、それらの達人の技に貫かれている一般性をもっと最高の技の形として限定的に一つ設定して、それを基本技として修練するというものです。これは南郷先生ご自身が創り上げた論理だったはずです。

 ところが、その南郷先生が、過程的に存在した多彩で個性豊かな達人の技群を、一々全部事実的・経験的に体得してしてできるようにしなければ、本物の達人にはなれないと宣っているのです。だからそれには長い期間を要することになると、たしかにこれでは時間がかかるはずです。ところが、これではいくら時間をかけても、はたして本物の技ができ上るのかどうか疑問です。

 その南郷先生も、「学城5号」の瀬江先生による「南郷継正〔武道哲学講義〕のヘーゲル論は何を説くのかー主題は学問構築のための過程的構造論である」の中で紹介されているように、はじめは至極まともで正当な学問の体系化論・上達論を述べていらっしゃいました。

「だからこそ、まずは一般性的論理能力としての実力、すなわち弁証法的実力なのでありさらにそこから具体性たる対象の構造に分け入るための、弁証法的実力の養成が必要なのである。ここで二つの弁証法がでてくるのを、不思議に思う諸君もいるかもしれないが、多数の諸君にとってはこれは常識のはずである。一般静的論理能力としての弁証法の実力と、構造性的論理能力としての弁証法のことだと、誰にでもわかって良いはずだからである。つまり、二つの弁証法の実力が、学問とか理論とかには不可欠なのである。」(「全集第一巻」南郷継正著)

 そして、瀬江先生はこれに対する注釈として次のように述べております。
「ここで『一般性的論理能力としての弁証法の実力』と、『構造性的論理能力としての弁証法の実力』が、学問構築に必須であると説かれているのであるが、これは、『学問としての弁証法の学びの過程では、細かな事実にとらわれては駄目になる』との見出しd展開された内容をふまえてのものである。・・・(中略)・・・
 つまり、古代ギリシャの哲学者達が対象とした事実とは、、現代の中学校の教科書が扱っている事実にはるかに及ばないものであったのであり、しかもその構造形態に分け入る実力はなく、現象形態を見てとる実力しかなかったのであり、その一般性レベルを上限とした弁証法の実力であったのである。逆からいえば、古代ギリシャにおいては、そのように現象している確かな事実のみを対象としたからこそ、その一般性レベルを、正しく把握することができたのである。・・・(中略)・・・
 それなのに我々は、対象の事実の一般性をみてとる実力のないうちから、実力にあまる細かな事実をかかえこんでしまうので、一般性を把握する実力、すなわち弁証法の実力がいつまでたってもつかないということになってしまうのである。
 そこで本講義には、次のような文句が記されている。

『だからこそ、学問レベルでの弁証法を学びとろうとする諸君のばあい、弁証法とは、アバウトなもの、おおよそのもの、すなわち一般性のものであり、ほとんど具体性のないものとして学びはじめることが大切なのだと、十分に納得してかからなければならないのである。したがって、弁証法を学ぶときには、細かいものをやってはならないのであり、その学びに適当なもの〔具体的な事実レベル〕を勉強しなければならないことになる。』」(「学城5号」瀬江論文)

 これはおおむね正しいといえます。しかし、南郷先生はここで止まってはならなかったのです。ここから、なぜ細かな事実でなく大まかに事実でなければならなかったのか?お得意の認識論で、その意味をよく考えてみるべきでした。そうしたならば、古代ギリシャの哲学の学びと近代における哲学の学びの違いの意味が良く分かったはずであり、『その学びに適当なもの〔具体的な事実レベル〕を勉強しなければならないことになる。』とはならなかったはずだからです。

 南郷先生は、ヘーゲルの「精神現象学序論」の中の弁証法的思惟の修得過程に関する文章を二つ取り上げて、論評しておりますので、どういっているのか見てみましょう。

「古代のおける学習の仕方と近代におけるそれとは、次の点で異なっている。前者は、自然物的意識を本来の意味で形成してゆき、教養をまっとうすることであった。自然的意識は、自分のあらゆる部分にかんして、ことさらに自分を試み出会うものすべてについて哲学することによって、徹頭徹尾、実地にきたえられた一般性へと自分を作り上げていった。」
「教養とは、精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されてゆくことである。それが何にはじまるかといえば、一般的な原理や観点についての知識を獲得し、まず、ことがら一般の思想という場面へ自分を引き上げることである。そして、それらのものを支持するにも、反対するのにも理由をあげ、具体的で豊かな内容の充実に対し、それを明確に規定してとらえ、それにかんする整った報告とまじめな判断を与えうるようにならなければならない。教養のはじめは、いつもこれらのことに置かれるべきであろう。しかし、この最初の段階は、次にはやがて、充実した生の厳しさに席をゆずり、ことがらのそのものの経験へ引き入れられることになる。そして、そこへさらに、ことがらの深みに徹する概念的把握のきびしさが加わってきたとき、さきのような知識や評価は、議論のなかで、それぞれ適当な位置をもつことになるであろう。」

 このヘーゲルの二つの文章に対する南郷先生の論評は次の通りです。
「ヘーゲルは『教養とは、精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されてゆくことである』というが、これはどういうことかというと、日常生活のなかで普通の人間が獲得していく人格であり、実力であり、教養のありかたである。
 それにたいして、その次の『一般的な原理や観点についての知識を獲得し、まず、ことがら一般の思想という場面へ自分を引き上げることである』というのはレベルが違うということがわかるであろう。だからヘーゲルは、古代ギリシャ時代の学問形成過程が前者であり、そこを起点として、現代ドイツでは一般性レベルではなく、こういう思想性の高みまでもっていかなければならない、といっているのである。
 その勉強の中身とは、現代における学的発展のすべてを自分の実力にしなければならない、と説くのである。」

 この南郷先生の誤りは二点あります。一つは、南郷先生は近代の学び方として後者の引用を挙げていますが、比較として挙げられている近代の学び方は、古代の学び方の直後に続いて説かれているのですが全く無視されています。じつは、ここに挙げられているものは、全く別物の、学び方から使用過程そして最終的に概念の労苦にまで至る全過程を説いたものです。

 次に二つ目の誤りは、「教養とは、精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されてゆくことである。それが何にはじまるかといえば、一般的な原理や観点についての知識を獲得し、まず、ことがら一般の思想という場面へ自分を引き上げることである。」をレベルの違う二つの過程に分けて、前者をギリシャ哲学の過程、後者をドイツ哲学の過程としたことです。しかし、それは南郷先生の思い込みで、ヘーゲルはそんなことは言っておりません。

 この南郷先生の説明に、弟子たちは本当に納得したのであろうか?瀬江先生の論調を見ると全く疑問を感じていないどころか、もの画期的な説明だと思い込んでいるフシが見受けられます。この南郷先生の説明だとヘーゲルの説く「教養」とは「日常生活のなかで普通の人間が獲得していく人格」だそうです。この教養論は一般の常識的な教養論にも及ばないほどの駄論です。そんな教養論を学問の最高峰のヘーゲルが言うはずがない、とどうして思わないのか?不思議です。

 なぜ駄論になってしまったかと云いますと、ヘーゲルの言う「直接性から脱し」の意味が全く分かっていないために素通りして、肝心なその部分を無視して解釈してしまったからに他なりません。この「直接性」とは、実体的な生活の直接性と云うことですから即自ということです。その即自から脱して・離れて媒介的な対自へと移行して形成するものとは、対自的理性であり、具体的にはギリシャ哲学のパルメニデスの「世界は一にして不動」を起点とする絶対的真理を追究する哲学の思惟の発展過程の歴史を論理的に追体験すると直接に、その思惟能力を自分のものとすることが、すなわち教養の中身なのです。

 ヘーゲルはそのように一般的に説いておいて、その構造を次に説明しているだけなのです。だから「それが何にはじまるかといえば」と構造論の説明となる導入の句を続けているのです。つまり、前者も後者も同じものだということです。ヘーゲルが近代の学び方として前の引用に続けて説いているものは以下の通りです。

「これとちがって近代になると個人は、抽象的形式がすでにできあがっていることを目の前に見ている。この形式をつかんで自己のものとしようとする努力は、内的なものをそのまま駆り立てることであり、普遍的なものをそのまま切りとってとり出すことであって、具体的なものから、多様な定在から一般的なものが出現することではない。
 そこで今われわれがすべき仕事は、個人を直接的な感覚的な在り方から純化し、思惟された実体、思惟する実体にするという点に在るのではなく、むしろそれとは反対の点に、つまり、固定し規定された思想を止揚して一般的なものを実現し、一般的なものに精気を与える点に在るのである。」

 と、このように、古代ギリシャの哲学者のやったのと同じことをやれという南郷先生の云う事を、きっぱりと否定しているのです。つまり、基本技が確定した後は、基本技の生成過程から繰り返す必要はなく、出来上がった基本技に魂を吹き込むことに専念せよ、というのです。どちらが、南郷式技の上達法の理にかなっているのでしょうか?私はヘーゲルの方に軍配を上げたいと思います。


 余談ですが、日本の歴史において教養熱が沸騰したのは、西洋の学問・文化の吸収期であった大正時代です。その時代にはやった言葉が「デカンショー」だったそうです。これは、デカルト・カント・ショーペンハウエルの略語だそうです。また、その時代にマルクス主義も大流行します。では、ヘーゲルはどうしたと思われるかもしれませんが、しっかりと研究されておりました。その成果が、西田幾多郎の西田哲学です。これはヘーゲルの哲学を自分の言葉で叙述したものですが、なかなかのレベルにあると思います。自分の言葉になっているところが凄いと思います。たとえば、

「いずれの国家民族も、それぞれの歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、そこに各国家民族が各自の歴史的生命を有するのである。

 各国家民族が自己に即しながら自己を越えて一つの世界的世界を構成すると云うことは、各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、先ず一つの特殊的世界を構成することでなければならない。『グローバルな世界』への扉を開く鍵は『ローカルな世界』の中に隠されている 」(「西田幾多郎哲学論集Ⅲ」論文『絶対矛盾的自己同一』より)

 これはまさに現代の問題を喝破したような凄い内容です。なんでこれがもっと注目されないのか、と思います。

 


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