新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

矛盾について…

2022-01-30 13:19:48 | 悟得びと「矛盾」
矛盾について…

「矛盾」とは、以下のように書かれている。

む‐じゅん【矛盾/矛×楯】
の解説
[名](スル)
1. 1 ほことたて。
1. 2 《昔、中国の楚の国で、矛 (ほこ) と盾 (たて) とを売っていた者が、「この矛はどんなかたい盾をも突き通すことができ、この盾はどんな矛でも突き通すことができない」と誇ったが、「それではお前の矛でお前の盾を突けばどうなるか」と尋ねられて答えることができなかったという「韓非子」難一の故事から》二つの物事がくいちがっていて、つじつまが合わないこと。自家撞着 (じかどうちゃく) 。「発言の―を突かれる」「二人の話が―する」
1. 3 論理学用語。
1. ㋐伝統的論理学で、二つの概念または命題が一定の事象を同一の観点から同時に、一方が肯定し他方が否定する場合の両者の関係。
2. ㋑命題論理学で、複合命題からなる論理式の各要素命題にいかなる真理値を与えても必ず偽となる式。
1. 4 ヘーゲル弁証法で、概念の発展に必要不可欠な契機


「矛と盾」の故事においては~
言うなれば、「嘘」をついているから「つじつまが合わない」。
または、現実の部分的な認識を全体でと思い込んでの発言と言えよう。


嘘とは、試した事もないのに
「この矛はどんなかたい盾をも突き通すことができ、この盾はどんな矛でも突き通すことができない」との言い切り。
または、適当に試して、そうなったからとか誇張…であろうか…

しかし、仮に事実として、「この矛はどんなかたい盾をも突き通すことができ、この盾はどんな矛でも突き通すことができない」であったら…
そして「それではお前の矛でお前の盾を突けばどうなるか」と問われたら~
その答えは以下のようになろう。

その矛を持った者と、その盾を持った者の実力次第…と言えよう。
機械ではない、人間が道具を使用する時、その使い方の良し悪しによって道具の威力・効果・発揮に、大きな違いが生じ得るモノであろうから~


ならば、機械を使って試したらどうだろうか?
それなら、その効果は時の運次第であろうか…
同じ機械であっても、当たった瞬間の圧力・角度…等に相違があろうから…


そもそも…矛盾とは、「つじつまが合わない」とか「二つの事が、同時に成り立たない」…である。


この「つじつまがあわない」とは、人間の頭脳・認識内での事。
そして「二つの事が、同時に成り立たない」とは、現実界の事。


例えば、「同一時刻に、同一空間に二つ以上のモノが存在できない」とは事実として成立不可能、である事。
ここに、この事を主張する者がいたなら、それは思い違いか、勘違いであり、当人の意識がどうであろうが…それは事実でない「嘘」発言となり得る。


人間の頭脳・認識内での矛盾はありえる、というのは論理的な事実である。
しかし、現実界において、矛盾する物事の存在は、現実的な事実としての存在はあり得ない。


A氏の言う事実とB氏の言う事実の「つじつまが合わない」―矛盾がある時~
そこには、必ずどちらか、または両氏の事実誤認がある、だろう。




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ドゥルガーお宅へ

2022-01-12 16:47:16 | 想いのままに…
ドゥルガーお宅へ


一番下に転写してあるお宅コメントへの私コメントです。
長文は、目が頭が疲労困憊して読みたくないようなので…

今回は短くいきましょう!

初めに以下の一言!

今回の宅コメントの始まりの言葉 
>今の自分に満足、というのはそれも貴兄が南郷さんから言われたことですか?
前回の私コメントの終わりの言葉 
<「今のお宅に満足していたら、将来もずっと今のお宅のままですよ。」と書いてあります。


以下のお宅コメントの全てが、独りよがりの超主観的な記述です。
そんな主観的な文面は、どうぞ御お宅の自身のブログやって!

以下の記述は、お宅は読み飛ばして結構です。
私の論理的・弁証法的…の自学・自習なので…





>▼ コメント ────

>・コメントが届いた記事
>続・続・続お宅コメントへの私コメント~

>・コメントを書いた人
>ドゥルガー

>・コメント



>今の自分に満足、というのはそれも貴兄が南郷さんから言われたことですか?

私の前回コメント
「今のお宅に満足していたら、将来もずっと今のお宅のままですよ。」
「お宅は若者だそうですから、今のお宅のまま老人!なんて大変!」





>私は既に述べたように師について武術の稽古をしていますし、自分独りで完結しない環境を持っているということが自分を成長させる秘訣だと思っていますけど?

私コメント

「自分独りよがりで…完結しない」とは弁証法的な私からすれば、笑止千万!ですよ。
人は「自分の能力の範囲内でしか対象を理解できない」というからショウガないでショウガ~

環境が全てでなく、その中での自己の認識・意識の持ち方が最重要事項です。
「自分独りよがりで完結しない環境」…と思った時点で「完結しない」と完結しています。



>確かに私は昨日のコメントを書いて「なかなか上手いこと書けたな」と満足したところがありましたね。でも、そんなことは貴兄が言ったように直ぐに忘れる私のことですからいつまでも覚えていたりはしないもんです。


私コメント

ほ~ヤッパリ>「なかなか上手いこと書けたな」と満足、でしたか…

私が思うに、弁証法への道を目指す以前の若かりし頃の南郷氏なら…
お宅書いているような思いがあったのかも知れません(私はない…と思いますが…)
それでも、最終的には「弁証法を求め」、「弁証法への道」を歩み始めたら以後は、
仮にあったとしても、お宅のように「…忘れた…」でしょうね。




>先生の所へ稽古に行けば自分の欠点ばかりが露わになりますから余り満足感に浸る余裕はないですね。
それに南郷流もそうでしょうけど長年修業を続けてきた先生や兄弟子の動きは桁違いですから、自分に満足する機会がないですよ。

私コメント~

お宅は私の言葉を誤解しています。
私の指摘している「独りよがり」は、
他人の記述・言葉に対する「お宅の独りよがり」理解・誤解・解釈の事です。

お宅を知らない私が、お宅の日頃の行動・行為が「独りよがり」であるか否を分かる筈ないでしょう。
このように、私の指摘している言葉・「独りよがり」の中身・内容を
お宅は「お宅の現実生活の事」だと、自分勝手に思っている事が、
私のしている⇒「独りよがり」のお宅の姿なのでよす。


更に書けば「自分は独りよがり」ではない…断言できる事が問題なのです。
一般的に言って、テスト終了時に「大丈夫満点取れる!と信じている学生程、
満点は取れないモノです。
真の実力者は「あの…問題は間違えかも?」と自信・確信が持てないモノですよ。
や~い!ヤッパリ、こんな言動が「独りよがりお宅」の姿です。



>それに学問は学問で、また師がいます。自分独りの独学で何かを成し遂げられるような器だと思ってませんから、ちゃんと師弟関係を結んでるんですよ。


私コメント~
私が、お宅の記述・言葉を読んで、確実に自信を持って断言できるのは、
お宅の思い考えている「学問」と南郷氏の学問は全く別物、という事です。





>それから貴兄からも指摘されましたけど、私も相当に昔読んだ『武道の理論』を想起しながら即興で武道論を語ってみましたけど、あらためて現代社のホームページで目次を確認したら、昨日説いたのは南郷さんの武道論ではなく「私の武道論」だったみたいですね。

私コメント~
ほ~それは、それは、良かったですね。
あれ程、私が「南郷氏の武道の定義」だと見飽きる程に繰り返し書いていたのに…
やっとですか…
これは、私との繰り返しやり取りの中で「武道」に対する「お宅の独りよがり」が判明した、と言う証ですね。
これ程に「独りよがり」とは、納得・分かり得ないモノなのですよ。



>私は自分が好きで武術を学んではいますけれど、貴兄もチラッと述べた通り現代の治安がいい日本では安全な場所を選んで生活している限り武道や護身術は必須のものだとは思いませんからね。
武術の嗜みがあればそれを使って何かすることのできる状況でも、武術や護身術の嗜みの無い人はまた別の方法で回避することを可能とするものですから。

私コメント~

ほらほら…またまた「独りよがり」コメント~

「治安がいい日本の安全な場所」とは、どこ事ですか?
普通の昼間の電車内は「安全な場所」ではないのですか?
そこで、大勢の一般人が死にそうな目にあった事実があるのですよ!


>前回の貴兄のコメントから貴兄は南郷さんに私淑しながらも玄和会の空手を学んではいない人、例えば学校関係の人だということですから関西の××さんあたりじゃないかと考えたんですが如何でしょう?


私コメント~

「独りよがり」の妄想を、ここでは、書かないで下さい。
それそれ…これも、またまた「独りよがり」の証・言説。




>というのも「武器さえあれば空手も柔道も必要なくなる」というニュアンスのことを書いていましたでしょう?南郷流にしろ他の空手でも柔術でも合気道でも、武器を使う場合にしろ「体術」は重要で、体術の上に武器を持っていくと思いますから「空手も柔道も必要ない」という表現にはならないのではないかと思ったんですね。
そこが「武技を用いた」という南郷さんの表現と、自由びとさんの「武器を用いた」という表現との差異ではないか、と。

私コメント~

これは、昔に本で読んだ「喧嘩の達人」の行動・行為です。
それに、日常生活で危険に瀕した場合に素手での護身は危険です。



>それに、自由びとさんの記述で気になったのは鉛筆を武器にするという所です。やった事ないので想像力が働かないんですけど、鉛筆って木製でしょう?ちょっと筆圧強くしただけで芯も折れちゃいますし、本体も折れちゃいますでしょう?
至近距離から目だとかにピンポイントで刺すなら兎も角も、護身具として成立するのかな?って。
私も懇意にしている先生から小型の携帯護身具だとか教えて貰うんですけど、やっぱり金属製が多いですよね。相手も必死で抵抗するわけですから、そこに加わる力に耐えられるような強度をもった。

私コメント~

ヤッパリ、お宅の想像力は、非弁証法的ですよ。
鋭く削って尖った鉛筆なら、骨は無理でも、掌や太ももを顔・頬…等ならかなり痛みを与えられます。
倒すのではなく、ダメージを与えて、その隙に逃げるが勝ちです(護身の場合)



>例えば、玄和の組手スタイルのように遠い距離から高速移動してくる相手の急所だけを的確に突けるんですかね?


私コメント~

お宅は、南郷氏の著作の何を読み取っているのですか?
あれは、上達論に基づいての「遠いい距離」から、自分の攻撃の間合いを創る為の稽古です。


その台詞から、昔に空手部の後輩が実践的な道場で空手を習ってしーいましたが…
その道場の師範曰く
「本番・勝負・喧嘩…では準備運動もする余裕はないだろうから練習前の準備運動も不要」ですって…
これって変だと思いませんか?
準備練習なしで、激しい稽古して怪我でもしたら、どうなの?

もつとも…この言葉が
「いつでも、どこでも、準備運動なしで全力を出せる身体状態の維持を心がけよ」とかなら…納得ですが…




>でも、南郷さんの発言を正確にトレースしようとする姿勢には感じ入る所が有りました。『自由學藝』の著者さんたちもそうした志向性で本を作っているみたいでしたしね。

私コメント~

「、南郷さんの発言を正確にトレースしようとする姿勢」…
「トレース」ですか…これも「独りよがり」コメントですね。

確かに現象・言葉としては、そのように見える・思える場合もあるでしょうが…
でも、その目的・意識が「トレース」では、ありません。

私の求めているのは、その言葉を発する認識・構造なのです。
出来るだけ言葉と同様な事実・体験を求め、
それを通して、その時の感情の確認をしたいだけです。


↑~
お宅の記述・コメント結局は~
真面目に、読めば読む程に、私の中の「独りよがり」お宅像が鮮明化してきています。





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続・続・続お宅コメントへの私コメント~

2022-01-11 13:44:34 | 滅ぼし合う対立物の統一



さて…さて…お宅の真・本領発揮ですね♪♪♪
お宅は、こうでなければ、私は楽しめませんよ!


確か!お宅は、前回のコメントで以下のように書いていますね!
「>今後はこのようなコメントをすることもないでしょう。お時間を使わせて申し訳なく思います。
>御免」

それを~これまた超長文のコメントを書いてしらっしゃった!
この言動・行為・を「大嘘つき」と言わず、何と呼べばいいやら?

この事実から言える事は、
お宅にとっての言葉・記述は、全て感情的表現である。
お宅にとっては、お宅の、その時々の感情が全てであり、お宅にとっての真実なのでしょう。
だから、前回と今回の記述を比べて、私が「お宅は大嘘つき!」だと書いたとしても、
お宅は、胸を張って高らかに「お宅の俺の記述に嘘はない!」と叫べるでしょうね…

それは、「いま泣いた子が、もう笑った」レベルであり、
これは、今この瞬間が全てで、過去は全く記憶できないレベルですよ。

さて前置きは、ここまでで~以下のコメントを読み進めてみる事にしよう。



>ドゥルガー

>・コメント
>もういいよ、自称自由びと。

私コメント~

「自称」ではなく「コテハン自由びと」です。
言葉・認識・表現は正確にお願いします…
と書いても、お宅には至難ですね…失礼しました。
お宅には不可能な事が分かっていて~
それを強要するのは、大人ルール常識違反ですよね。

>お前の言葉には嘘しか無い。

私コメント~
それは、お宅に「論理的な理解能力」が皆無だからですよ。


>南郷の本は「科学として、専門としての武道を説く」として具体的な武道・武術の技を中心として論を説いているのは読めば分かる。

私コメント~

何回も説いてしますが…
南郷氏の「武道の定義」を否定しているお宅に、南郷氏の説いている事を正しく理解するのは「至難」ですよ。
それは、お宅の「科学として、専門としての武道を説く」と言う言葉そのものが間違っています。
そもそも南郷氏は書いています。
「私・南郷氏が構築・創出した学問一般」から、個々の何かを説いている…といった事です。
でから、「武道」も科学としてではなく、学問一般から説いた「武道」ですよ

宅は、お宅の思い込みで、分かっているつもり…なだけですよ。
何度いっても分からないお宅は、本当に分からん珍ですよ、



>お前のように「武道武術でなく何かを必死で頑張ること」などではない。

私コメント~
私が、真面目に頑張って南郷氏から学ぼうとしている事は、
初めから一貫して「南郷氏の弁証法」なのです。
その弁証法を正しく修得・体得…する為に、
その時々の何かを頑張っている、のですよ。




>だから竹刀で叩き合う剣道を否定しているのだし、頭から地面に落とさずに畳みの上に背中から怪我をしないように受け身を取らせる柔道を批判している。

私コメント~
え?お宅は、ヤッパリ南郷氏の言説を分かっていません。
南郷氏が否定しているように、私は説いただけです。

それは、「剣道は、剣・刀を扱う武道」、
それを「竹刀の叩き合い」で満足・終わっている、
現代の「剣道」は、その呼称が内容に即していない。
改名して「竹刀道」にした方が、実質・内容に合っていて科学的である…と。

柔道の然り、技ではなく、剛力頼っての技は「柔道」てはなく「剛道」が…なんて…
更に、多くの人々が理解していないモノが「南郷継正」の心・精神です。
南郷氏が書いているような「掌に世界を乗せ…」的な境地だとしたら~

世界と南郷氏は一体化した境地となり得ます。
その時、他人への批判、他の武術への批判…
それらは、己に南郷氏自身への警告・訓告…となりえます。


それを分からないから…
批判されたモノは、批判した南郷氏を不快に感じ、
批判されて事・事実を直視する事を避けてしまっていようです。


お宅の、どのような認識レベルで、南郷氏に何を期待しているのでしょうか?
それってもしかして…
高級服飾店へ行って、作業着・軍手・防寒着…を求め・期待している、ようなお宅なのかも…


>それでは命がかかってないというわけだ。
>防具の上から竹刀で100回叩こうとも死にもしなければ怪我もしない。それでは命がかかった武道でなくスポーツだ、と。


私コメント~
お宅には、「武道」の「武道への道」と「武道の道」の二重性が全くできていませんね
実際に「生命を賭けて闘う」なら、それは「武道の道」です。

さらに、「賭けるのは己の生命」であり、相手が「相手の生命を賭ける」とはが限りません。
例えば、相手は「一億円を賭けて」・「貧乏人のお宅はお宅の生命」を賭けた竹刀勝負も想定可能です。
この場合の「武技」とは、「竹刀術」であり、勝負心は「死即生的武道心」ですね。
トランプに負けたら「己の死」、相手に勝っても「相手の死」ではなく、お宅の「一億円の獲得」ですよ。
どうですか?生命を賭けた勝負=他人の死…とはなり得ません。





>だから南郷が少なくても本の中に書いていることを本当にやったなら死んでしまい得ることは間違いない。

私コメント~
だから、それは、「勝負論」の話、「武道の道」での勝負です。
全くもって…全く誤解している!
これで、よくもまあ~自由びとを低脳だと罵れるモノですね、



>お前が嘘をどれだけつこうが、そこは南郷の本を単行本化した三一書房の編集者にも確認を取ってある。確かに南郷は文筆家としてそのようなことを書いているが、それは南郷の団体内で実際に行われている事実ではなくフィクションだ、と。

>


私コメント~
「武道」とは、観念的な実態・実体で、現実に武道そのモノは存在しません。
空手即武道ではなく、空手の修業を武道として、武道的に修行する事が、武道・空手の修得・体得です。
初めから身体的に現実的に「生命的な危険がある練習・稽古」をするなら
、それは、お宅のような馬鹿ですよ。

この場合の「バカ」とは、上達論的練習・稽古と勝負論的な練習・稽古の区別が出来ない「馬鹿」です。
どこのバスケットコーチ・監督が「ダンクシュート」が最高・確実なシュートだから、と言って…
小学生らダンクシュートを練習させますか?


>お前は嘘に嘘を重ねている。京都の私淑している人(××××氏)が下位の色帯で退会しながらも南郷学派に私淑しているように、お前の発言の中には武道も武術もない。

私コメント~
だって、私が求めているのは、超一流の自由です。
その為に南郷弁証法の体得・修得を目指し~
武道・空手の体得・修得に求め~
南郷氏の「悟り・悟得」に求めています。

南郷氏の悟得境地とは以下です。
「己の死の覚悟=己の生」・「(己の生を求めて)己の死の覚悟=己の生」

この境地を体得できれば、空手技も柔道技…現代では武道と呼ばれている武技は不要です。
何故なら、己の死の覚悟が出切れで、周囲の全てモノが武器化・武器として駆使可能な精神状態となり得ます。

これは、道具を己の身体の一部として駆使可能な人類の「道具武器化心・精神」なのです。

それが、弁証法的な道具の使用法の一つでもありますが…
鉛筆で相手の急所を突けば致命傷。
小学校でも一年生が、時々ふざけて、鉛筆の先を友達に向けているのを目撃しますが…
それって…私からすれば「驚異」です。小学一年生で大の大人に致命傷を負わせられる…
これって…他の動物にない(道具が使える)人間だけの能力ですね。



>おそらくは武道の稽古は大してした事が無いのだろう。

私コメント~
ほれ!ほれ!

直接に武道を稽古する事は至難ですよ。

武道とは、[武技を用いての生命を賭けた勝負の道」ですから
空手技を武技としての稽古・修業の過程での武道・観念の修行なのです。

お宅の、いい加減な適当の超長文ですね。
教科書・ネットに書かれている事や他人言葉の盗用なら、
そのまま正確に書けるのに…
書かれていない事を、お宅の言葉で書こうとすると…
それもう~私から観ると支離滅裂ですね。



>武道の稽古をするときに死を考えるのは修行している人間ならば当然のことでしかない。なぜなら武道の技というのは相手を殺傷するように作られているのだから。

私コメント~

「死を考える」事と「現実の眼前の死を受け入れる」事は、別物ですよ。
そもそも…竹刀で一発叩かれて本当に「死ぬも思えますか?」

思えていて、簡単に前に出られて、打たれるのは何故?
だって…竹刀で撃たれた瞬間に「死」ですよ!
それこそ「進撃の巨人エレン」です。
彼は、仲間達から「死に急ぎ野郎!」と呼ばれています。

お宅の言葉には、
「死への恐怖」、「現実死の覚悟」、「現実死ぬ思いの体験」が感情がないのですね。



>弱い相手なら殺すこともなく手玉に取ることも可能であるが、自分と同等かそれ以上の相手ならば殺さなければ自分の身を守れないこともあるのは授業者ならば当然に知っていることでしかない。


私コメント~

お宅は時代錯誤ですね。
現代の何処の勝負に「負けたら死ぬ」、
「勝ったら相手の死」なんてモノがあり得ますか?

「武道の定義」は、「…勝負の道」ですよ。
そり道は、過去から現代の勝負への道です。
過去なら兎も角…現代で「生命賭けの勝負」は、現代日本では殆ど不可能です。
だから!そうであるからこそ~
現代社会で「観念的に生命賭け」が可能な認識・精神の養成・体得が、
「精神の最強化への道」なのです。


そもそも…勝負心・武道心…何も武道の勝負に限りません。
己の人生の過程での大勝負に、観念的な「死即生」は有効です。
本当にもう~何度も書くけど…お宅の「弁証法論理能力」は全くなし…ですね。

過去にも書きましたが、
普通に言われているでしょうが…
「必死」でやれ!
「人間死ぬ気になれば何でもできる!」
「死を覚悟してやれ!」
~そんな覚悟して現実に死んだ人間はいますか?


>それは現代の警察の仕事でも相手を射殺しても正当な義務上の行動だと判断されるのを見ても自明でしかない。

私コメント~
だから、と言って全ての警官が「仕事で相手を射殺」できますか?


>武道・武術の技は相手を殺せるものとして作り上げ、相手を殺せるものとして使うもの、当たり前の話しでしかない。

私コメント~
ほう~「当たり前」だったら、
現代の剣道家が、実際に真剣で相手を一刀両断できますか?


>お前の頭の中には武道は無い。お前が2chで空虚な文字を綴っても、それは武技でも武道でもない。

私コメント~

お宅の頭の中にあるのは、お宅の武道的な想い、空想・妄想ですね。
南郷氏の「武道の定義」も分からず…

偉そうに「武道」を語るお宅の姿には、自己満足の優越感が滲み出ていますよ。
まあ~どうぞ!そのまま!どうぞ!そのまま!自己陶酔して生きて下さいな!

どうぞ!自己満一杯のお宅帝国・世界で帝王して君臨していて下さい!





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「ある」の多重性

2022-01-08 12:16:24 | 悟得びと語り

「ある」には、

そのモノ自体がある。
そのモノがある場所・状態にある。


例えば、犬が吠えている。
これは、ある特定の「犬」が、
「吠えている」状態にある。

「犬」という言葉・概念は「ある」。
しかし「犬」という事実は「ない」。
それでも、「犬という言葉がある」という事実が「ある」。

犬は「ある」が、犬は存在し「ない」…と言える。

これは、論理と事実の区別と連関であろう…
「ある」と「ない」はコインの裏表。

「ある」を見れば「ない」は見えない。
「ない」を見れば「ある」は見えない。

「ない」が「ない」なら…コインはないから「ある」もない。
それでも…「コインがない」状態がある。


私の存在があるから、世界がある。
私がいなくなっても、私のいない世界はある。

全ては、あると同時にない。
全ては、無限定・無条件なら「ある」モノ。
しかし、限定・条件しだいでは「ない」モノ。

ある視点なら「ある」モノでも…
別の視点なら「ない」モノになる。

俯瞰してみれば「ある」。
俯瞰してみても「ない」。
それでも、更なる「俯瞰」なら「あり得る」。


ここに、コメントを寄越す「お宅」は、たぶん「お宅の視点・観点・俯瞰」から「ない」との否定である。
それは「お宅は」には、お宅の「視点・観点・俯瞰」が全てで正しい…と信じ切っているからのだろう。

「全ては疑いうる」とは、
己の信じるモノも「疑いうるなら、
己の信じないモノも「疑いうる」であろう。

「現象論・構造論・本質論」から、

個々の「本質」はまちまち。
全ての「本質」は一つである。

個々の構造はまちまち。
全ての構造は一つである。

個々の現象はまちまち。
全ては一つの現象として現れている。


一つ一つもあれば、まとめて一つもある。



普通でない人の普通は、普通の人にとっては普通ではない。
普通の人の普通は、普通でない人にとっては普通である。

異常者の異常は、正常者の正常。
正常者の異常は、異常者の正常。


これは、条件・状況しだい…であるが…







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続々・私からお宅へのコメント

2022-01-08 11:13:12 | 滅ぼし合う対立物の統一

>・コメントが届いた記事
>2022年これが弁証法だ!


>・コメントを書いた人
>ドゥルガー

>・コメント
>新春から苦言を呈するのも好ましいことではありませんが、貴兄は南郷門下の中でも相当に変な人、というか頭の働きが普通じゃない人ですね。



私コメント
普通でない自分を普通だと信じているお宅=普通でないお宅からみた「普通じゃない人」という事ですね。
ならば、「普通でないの」が普通なら、「その普通でない普通」が普通でないなら、それは「普通の普通」ですね。

「不普通」が普通なら、普通でないは「不普通」でないから普通となります。
具体的に書くなら以下です。

「他人の物も自分モノ」と信じている人なら、
「自分のモノを他人が使ったら怒る」普通の人を普通ではないと思いますよ

異常者から見た異常は、正常人の正常ですよね。



>私は他流の先生の「活殺自在」という言い方は的を射ていると思いますし、武道というのは場合によっては殺してしまうことにもなりますから、武道の学びを通して「相手を殺さない」ということを知ることや「この場合は殺してしまったとしても致し方ない」という境界線を知るものだと思います。

>そうした意味で貴兄のような「武技を用いた生命懸けの真剣勝負」という規定は「絶対的に相手を殺さないのであり、」なんていう考えには賛同できません。

私コメント

何度も書きますが…
「生命を賭ける」事=「生命を無くす」事では、ありません。
「必死」に物事を取り組む事で「生命を無くす」
「死ぬ気」で物事に取り組む事で「生命をなくす」?
「死を覚悟」して物事に取り組む事で「生命をなくす」?

お宅南郷氏の「悟得」が「死即生」だと知ってますか?
これは、「生きる為に己の死を覚悟」して勝負する事です。
勝負に勝つ為に、相手を殺すのではなく「己の生きたい心を殺す」のです。

別言するなら、現実の勝負に勝つ為に、観念的に「己の欲望・雑念」を消すのです。
その雑念・観念を消す技を、武道・空手を通して修得するのです。

お宅には、「生命を賭ける」=「他人の生命を奪う」なのですね…
そもそも…人格者なら「己の生命を賭けて」勝てる相手なら「殺す」とは思いませすよ!
お宅は「非人格者」であり、「殺人願望者」ですね。







>それに南郷さんが「子供を一度も泣かしたことがない」なんて話しは大袈裟でしょうね。眉唾というか話半分に聞いとくのが正解でしょう。

私コメント…

お宅には、真面目に文章・文字が理解できないようですね。
先ず、南郷氏は、電車内・注射…時に、(条件付き・限定)で「子供を泣かせなかった」のです。

それに、例えば、自転車に一度乗れるようになれば、大きな身体的な変化がない限り乗れるモノです。
南郷氏からの何回かの訓練で、電車に乗る楽しさ、注射の我慢方法…を体得すれば…後は大丈夫。


>ネットで「子供が泣くこと」で検索すると何人もの専門家の方が「子供は泣くもので、泣くことで自分の気持ち・欲求を親や周囲に伝えている」と説いています。
>逆に言ったら「子供は泣かなければいけない」ということになりますよ。言葉が話せない赤ん坊のときは泣いて気持ちを伝えなければなりませんし、それが発展していって「言語で伝える」ようになるんでしょう。


私コメント…
だから、…電車内・注射…と限定なのです。
それは、親からすれば、泣きたい理由が明確に分かっている場合です。


以下のコメント省略…
真面目によんでいたら…頭がバカにかりそうなので…

コメント (8)
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