新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「対立物の統一」と「直接的同一性」について…

2023-07-29 11:52:47 | …弁証法…
「対立物の統一」と「直接的同一性」について…

空海お宅が、コメント欄へ「動くと止まるは対立物の統一」ただと書いて寄越した。
でも…違和感を生じた私は、「違う!直接的同一性」だと書き込んだ。

しかし…考えていくうちに、「動く」と「止まる」とは何か?という疑問が生じ…

「動く」とは、何かが「動く」。または、何かが「動く状態にある」。
動くモノがある。動く状態のモノがある。



「動くと止まる」を「対立物の統一」的に捉えるなら、
「あるモノの動く・動いている」状態と「そのモノの止まる・止まっている」状態の統一であろう。
「子供が走っている」と「大人が止まっている」との統一ならば、「人間の走る・止まるの統一」。
子供と大人が異質でも、人間一般としては同質となるのだから…

でも、走っている人が止まった時なら、どうなる?
これは、「走るから止まる」の状態変化という事になろう。

これは、全身が「走れる状態から止まれる」状態へ変化した結果、止まれた。
この場合の対立物とは「走ると止まる」ではなく、
その時々の全身状態になり、その統一、となろう

走るも止まるも同じ個体での事なら、現象的には対立している、ようでが…
現実には、同じ個体が、ある瞬間に「走ると止まる」を同時にする事は不可能。
このどちらも一つの個体の変化・運動状態という事で「直接的同一性」となろう…
現象的には、別物でも、身体的な状態としては、同じモノ。

師範が、「空手と弁証法を、対立物の統一ではなく、相互浸透的に学んだ」と書いている。
この意味を私なりに考えてみた。


空手と弁証法は、自分の外にある。
これが、「空手というモノ」と「弁証法というモノ」なら、二つの統一も可能だろう。
でも、空手も弁証法も実体のないモノ…
それでも、双方を知っている者なら、その者の認識の中で、空手と弁証法の統一が可能だろう。

南郷師範は、己が「空手を識る」とも「弁証法を識る」とも思えなかった。
そこで、空手を空手として学び、弁証法を弁証法として学びつつ、
空手を弁証法的に考え、弁証法を空手的に考え続けた…

これが、可能だった理由は、空手は個別的であり、弁証法は一般的…だから?…
う~ん…?

空手は実体的な技・弁証法は認識・観念的な技…このままでは無理があろう…
そこで、空手を武道空手と位置づけたなら、武道は認識・観念的技…

空手を武道空手として、武道(観念技)を弁証法(観念技)として相互浸透。
ここで問題が…個々の技は、身体的技であり、観念技でもある。
武道技として観念技の創出は可能でも、
突き・蹴り…の身体的実技技は如何にすれば?

そこで、登場したのが「弁証法の三法則」となろう。
武道空手の突き技ではない・初心者の人間的な突きを如何に上達させるか?

師範が、空手と弁証法を相互浸透的に学習可能だった理由は以下であろう。

師範は、空手も弁証法も素人・零レベルで始められたから…
「零空手vs零弁証法」では、対立物統一…なんて不可能であろうから…
「零と零の統一⇒零」にしか過ぎない…

未体験事・無知事と弁証法の学びの両立・並行学習が大切なのだろうか…


さてさて…ここで「直接的同一性」で考えるなら、
空手の学びは、弁証法の学び。
弁証法の学びは、空手の学び。

言葉で書けても、認識としては如何に?
弁証法とは、変化・運動の一般法則。

空手の変化・運動とは?
零空手から武道空手への上達・運動の一般法則化。
白帯⇒紫帯⇒緑帯⇒茶帯⇒黒帯⇒武道達人技への上達・運動の一般法則化。







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一気呵成の弁証法化

2023-07-23 12:57:36 | ~ものは考えよう~
一気呵成の弁証法化

三日ぶりにパソコンを開いたら、
相変わらずの空海お宅コメントが三本、
そして何と超・嬉しい事にtada氏からもコメントが届いていた。

早く読みたいtadaさんコメント!
ジックリゆっくり反論を書きたい空海コメント!

でも…忘れないうちに・今の私の認識が変化して、
今書いておきたい事が、書けなくなる前に、今日の記事を書く事にした。


ここ暫く「旧・悟りを求めて…」ブログを再アップしていた。
旧ブログの2013年・10年前の記事を読んでいて私は痛感した!

あの頃は、「書きたい!」、「書くのが楽しい♪」、「書けない事さえ理由に書けていた!」
そんな10年前の私認識と浸透させる中で…私に急激な変化が起こり得た。
もっとも…今の私の変化・状態は「家内を亡くした孤独の中で私認識の変化・運動」状態も大きく関係するが…

私は勝手に確信している。
「これは、弁証法の急激な量質転化であろう」(と信じたい・信じている・確信した・確信している)


そんな中一つ気付いた事は、「野球ボールが止まって見える」事の論理構造である。

それは、同じスピードで横並びに入っている自動車では、乗車者は互いに止まって見えている原理。

野球ボールが、視界に入った瞬間から、
バッターは、視ているボール像の一瞬・一瞬の視覚像を脳内で認識可能に像化している。
これを南郷氏の例えから考えるなら、
「認識が超薄いパンに一切れ」とするなら、
「普通の人は一切れが薄すぎて味わえない(数枚、人によっては数十枚で初めて味を感じ得る)
しかし、訓練・修業・修行の結果、超薄い一切れ、一切れを味わえる実力を養成したなら、普通と違ってくる。

認識像の場合、超スピードで変化している「ボール位置」の一つ一つが薄いパン片。
ボールが止まっている認識像とは、脳内でそのパン片が味わえる・一つ一つの位置を見て取れている事。
それは、昔の八ミリ映画なら、その動画を映画ではなく、一枚一枚のフィルムとして認識可能レベル、だろう。

師範曰く、
止めた像なら、当然また動かせる。
認識内の像を停める事が「思う」なら、像を動かす事が「考える」。
問題は、停めた思う像を、如何に目的意識的に動かすか…である。


仮にバッターが「ボールを止めて」見えたとても、
問題はバッティングが、その変化スビートに付いていけるか…であろう。

大谷翔平の凄い理由は、空手に例えるなら、一流の攻撃技・防御技を両備しているから、
一流・最高のスピードボールと一流・ホームラン可能なバッティングを持ち得ている二刀流だから。
もっとも…「二刀流」は分りやすい例えであるが…

確かにピッチャーにとって、スピード・変化ボールは、相手を倒す武器。
また、バッターにとって、バッティングは、投手を倒す武器。
なので、二刀流は、攻撃・武器が二つ。

それでも…
空手の突きが、相手に当てる・当てればよい(当てるだけの一重)。
空手の受けは、攻撃技に当てて、その技を無効にする(当てて無効化の二重)。

投手は、ボールを投げたら終わり(投げるだけの一重)の攻撃技。
打者は、ボールに当てて飛ばしヒット・ホームラン(当てて飛ばす二重)の防御技。


他に…今日の朝の柴犬マロン散歩で、道端で2023年の手帳とGATSBYを拾った。
「交番に届けようか?」、「でもたかが手帳やめようか?」そんな迷いの中で、
過去の私の拾得物対応の数々を想い出した。
その中で、道で幼稚園・保育園・小学生がする名札?(名前・住所もあった)を拾った事を思い出した。
その時、相手が子供だと分かったので、わざわざ封筒に入れて送った。
そこに敢えて、私の住所氏名も書き込んで。
すると数日後、丁寧な感謝の手紙を頂いた。


そんな想いの中で、今回の手帳は、文字からして大人だろう事は確か…
失礼な事を承知で中身を見たら、「Personal Data」を発見したので…
今回も郵送つるつもりで…
帰宅して封筒を見たら「長形3号/定型内最大」には、「GATSBY」は入らない事が判明した。
そこで…手帳だけを送る事にした…


この他、今回の取得物体験から、過去の私の拾得物体験の数々が想起された…
初めての拾得物は、一、二年生の頃、自宅近くの道端で拾った「使い古した櫛」だった。
見つけて拾った事?が嬉しくて母に見せたら「汚いから捨てなさい!」だった。
嬉しい私は、一瞬で不愉快…だったのだろうか…

また二、三年生頃、学生寮近くの道端で財布を拾ったら20円入っていたので、寮長先生に届けた事…

まだまだ想い出が湧いてきた。
それは、正に「私の拾得物の弁証法性」

師範が「風」という文字を見たら、無風・微風…強風・台風…」と
無限に想起するのが弁証法性、といった事を書いている。


私には現実界の自然・風体験が少ない事からか…「風」での想起はでき難い。
しかし、今回の「拾得物体験」からは、まだまだ、

今の自宅近くの公園前の道路で6万円入りの財布、
パチンコ屋で千円札二枚、一枚を一緒だった後輩に上げた、
一万円チャージ済のスイカー裏にディズニーシールが貼ってあった、
道路の真ん中に落ちていた車の修理器具一式入ったバック、
スーパーで拾ったクレジットカード、
電車の棚に忘れた通勤バック、
電車の中の雨傘…
横浜元町のチーミングセールの福引補助券、
福引の外れの10円金券、

当然に私の落とし物体験もある。

過去最大の落し物は、クレジット数枚と現金の入った財布、
最大に困った落し物は、自宅の二階マンションの鍵である。

40代の頃~
「鍵」で困った理由は、塾のバイト前に、公園トレーニングへ、その時に紛失。
必死に探しても見つけられず、息子は学校、家内は仕事。
仕方ないので、マンションの裏から、壁伝いで二階のベランダへ登った。
窓を開けようとしたら…なんと鍵がかかっていたダメ!
絶体絶命…塾バイトに遅刻!と焦ったが…
よく見ると…鍵のかけ方が浅い~
そこで、窓枠をグラグラしたら…何とラッキーな事に鍵が外れた。


その日の夜、家内に話したら「警察へ行ってみたら!」
正直、私は、鍵を交番に届けた事はなかった。
で…なんと警察に届けられていた。

そうそう財布の翌日、交番で尋ねたら、届けられていた。
内心、「クレジットカードの停止しなければ…」と悔しい想いが…゜

確かに、私は、鍵もよく拾った、でも、その時は、落ちていた傍に目立つように置いていた。

カギの紛失~
そう数年前、コロナ全盛の頃、柴犬マロン散歩でカギを落とした。
帰宅して気付いて、慌てて自転車で探しに行ったら、
なんとグッドタイミング、道で、どこかのおばさんが、落ちている私の鍵をみていた。
慌てて拾った私に、おばさん曰く、「触るのが怖くて、拾おうか・どうしようか…考えていた」。

そう当時はコロナで、モノを触る事はNG。
そんなこんな…まだまだ…あるが、今日はここまでにしよう



そうそう思い出しました!
急速な量質転化化=「一気呵成」の弁証法化、でしたね。
今やっと思い出しました。
「一気呵成」を想い出せなかった。表題は、今書きました。










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弁証法レベルの運動とは~

2023-07-20 11:13:01 | ~ものは考えよう~
弁証法レベルの運動とは、

前回の記事で弁証法レベルの「対立物の統一」について考えた。

その「対立物の統一」の結果、
人間は眼前の現実を変化・運動だと認識している…と。


さて今、私の周囲の視野・視界の中で、変化してするモノは、パソコンとテレビ画面。
パソコン画面の変化は確りと見えているが、テレビ画面は、横から入っている光の変化しか分からない。
また、テレビの音声の変化、パソコンキーボードと私の指…指先の感触、口の中の唾液の量…今動かした私の手足…

以上のように~
弁証法レベルの対立物とは、
自分の五感で感覚全ての可能な範囲内にある全てのモノの、今少し前と今、そして次の瞬間の統一である。
そして、それらの結果を「対立物として「統一」したのが「弁証法レベル」の「変化・運動」である。

人間以外の動物なら、それら全を、その動物特有の本能で瞬間的に統一してしまっている。
でも、同じ動物の仲間でも人間は、本能ではなく、生後につくりつくられて来た個性的な「認識で統一」している。
一人一人の感覚・認識には、好き・嫌い、得意・不得意、見える・見えていない、感じる・感じていない、匂う・匂っていない…があり得る。


人間は周囲の世界を変化・運動だと認識できるが…
個々の変化・運動の捉え方・認識像は一人一人異なっていて個性的である。

社会生活が必然である人間には、
その特定の社会で、今その瞬間に感覚・認識すべきモノ・コトを、そこにいる他人から学ぶ必要がある。
社会的に必要なのに、今の自分には認識不能な事を、他人を介して認識しようとする努力・取り組み…これが学習。

社会生活には、社会的な共通理解が必要である。
学校では、一年生に学校で必要な認識を教育する。
その認識の基本は、
他人を介して自己の感覚・認識不能・至難なモノを感覚し、認識しえる能力の養成である。







感覚と感情の区別と連関…


感覚とは、この瞬間に感じ得たモノ。
感情とは、その感覚の連続の結果、量質転化化し得たその感覚に対する心情。



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誤解していた「対立物の統一」…

2023-07-15 16:16:39 | ~ものは考えよう~
誤解していた「対立物の統一」…

「誤解していた」というより、「分かっている」と確信していた。
しかし、その確信の内容に誤解があった事に気付いた。



<旧・悟りを求めて…>と<新・悟りを求めて~>
を読んで内容を「対立物の統一」と捉えた時~

そこに認識される「像化」されるのは何か?
それは、一般的に表現するなら「私は変化した!」という事実である。
別言するなら、私の認識の変化を実感した!…となる。

そのような変化が起こった理由は、「家内の死」が契機に、
過去の家内の出会いから…最後までの経緯・生活を
深くかつ幾度も想い出し…考え思い続けたからである。


何と過去の日記を調べたら、
交際の契機は、家内が私の誕生祝をしてくれた事…
そして、また、家内は私の誕生日に逝ってしまった。

交際して「31年目」、結婚して「24年目」、
皆で「来年は銀婚式ほしようね♪」と言っていた矢先だった…


家内と出会った場所は、日本語学校の日本語教師養成学科だった。
当時の私は、30代・今の半分の年齢で…とても若々しく、希望に燃えていた頃…
ニコニコ笑顔が多く、他人ともフレンドリーに話せていた時期でもあった…事を思い出した。

そんな30代に比べ、ここう数年の私は、非常に笑顔が減っていた…
事に気付かされたのである…

そんな事が、強烈な「家内の死」で、多くの過去の記憶が想起され、
それとここ数年の私の状況が「対立物の統一」的に、重なり合い…
区別と連関で、認識・像化され続けている・いた…


以前に書いた「児童達が植えたヒマワリ」の事であるが…

昨日のひまわりの様子と今日のひまわり様子を「対立物の統一」的に認識するなら、
そこに、あるのは「変化」の像である。


例えば、目の前に、今・自動車が見えた。次の瞬間も同じ自動車が見えた。
その今と次の瞬間の自動車から描かれる像・認識が、「位置が変化した」「動く・動いている・動いた」・「運動している」。


何が書きたいか?
それは、人間が現実を「変化・運動」と認識可能なのは、
人間が常に時々の現実の五感情像・認識像を「対立物の統一」と無意識に把握・重層化している、という事である。


現実界に「変化・運動」があるのではなく、
人間の認識が、眼前の現実を同一物・事として、連続的に統一・重層化して、それを変化・運動として捉えている、という事。



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…感情と行為…

2023-07-13 11:15:55 | ~ものは考えよう~
感情と行為…

先日、「幸せ」を辞書で調べた。

例解新国語辞典[第四版]―しあわせ[幸せ]…
これ以上望むものがなく、十分に満足している状態。

岩波国語辞典[第八版]―しあわせ…
①[仕合せ・幸せ]…運がよい事。幸運。幸福。
②[仕合せ]…まわり合わせ。運。なりゆき。



上記の二通りの「意味」の違いをどのように考えるか?

人が「運がよい」と思った・考えた事柄に対しての、
その時の感情・像が「これ以上望むものがなく、十分に満足している状態」なのだろう。

または、「これ以上望むものがなく、十分に満足している状態」になり得たのは、
たまたま「運がよかった」から、と思い・考え・認識するからだろうか。


まあ~どっちにしても、「運がよい」=「…十分に満足…」とう事であろう。

「しあわせ」とは、人間の感情であり、
そこに「しあわせながある」のではなく、
ある時、ある人が、あるモノに対して、発生した感情が「しあわせ」なのである。


だから…ドラマの台詞ではないが…
「しあわせ過ぎて怖い!」、「こんなに、しあわせなんていらない!」…

言い変えるなら、多くの人達の「しあわせ」を、
ある特定の人達は、「しあわせ」とは感じ得ない…という事でもある。


感情と言えば、以下のような話もある。


6月25日(日)、フジテレビ7時からの番組「ボクらの時代」での
吉澤嘉代子×吉岡里帆×又吉直樹の対話から考えた。


又吉直樹のエッセイ集「月と散文」の中に
「…何をしていても恥ずかしい…」
といった事が書かれていた。


それを受けて、吉澤嘉代子が以下のような事を言った。

私は、「恥ずかしい」という曲を書いた事がある。
「…子供の頃からずっと恥ずかしい何をしても…」
「…恥ずかしがっているのも恥ずかしくて…」
「今ここにいる(テレビ出演)のも恥ずかしい…」
「そう思っているのも恥ずかしい…」
「だから開き直って生きている感じ…」


又吉直樹が言った。

「たまに、よく いや恥ずかしがり屋のくせに人前でする仕事なんてするわけない…言う人がいるじゃないですか…」
「でも、恥ずかし屋のそれってすごい入口で、なにしても恥ずかしいから無理なんですよね。」
「だから開き直ってやりたいようにやる、というのが一番健康的…と思っていても、できたり・できなかったり…」



「寿司屋での注文が、恥ずかしくてできない…」
そんな二人の話に、吉岡里帆は、「恥知らずで…寿司屋でも何でも平気で注文できる…」


「恥ずかしい」とは、感情である。
「恥ずかしい言動がある」のではなく、
「ある人が自分のある行為・言動に恥ずかしい」と感じる、のである。

なので、同じような言動で、それを恥ずかしいと感じる人と感じない人があり得る。


普通、「ある行為・言動が恥ずかしいなら、決して人前ではやらない」のが、普通の人達である。

しかし…上記のような~
「何もかも全てが恥ずかしい!」。
「生きていることさえも恥ずかしい」と感じてしまう人達なら~
普通の話ではなくなってしまう。


よく「食べ物の好き嫌い」は、しないで食べよう…とか、
また「食べ物の好き嫌い」は、個性だからしょうがない、とも言われている。

人間なら、物事について「好き嫌い」はあって当たり前(個性)。
当然に「食べ物の好き嫌い」もありえる事。


問題は、「好き嫌いのある・なし」ではなく、
「好きだから食べる・嫌いだから食べない」という行為にある。


食事とは、生きる為の栄養摂取である。
だから、食べる・食べない判断・基準は、
生きる上で「必要or不要」、「有益or害毒」であるべきモノ。


「恥ずかしい」も然り、
その行為・言動にたいしての自己感情である「恥ずかしい」が問題ではなく、
その行為・言動が、その集団・社会の中での妥当性が問題である。
究極的には、その社会の中での合規則性・合法性であろう。


「何をしても恥ずかしい・生きている事も恥ずかしい」と思ってしまう人達なら、
その行為・言動の基準は「恥ずかしいから、やらない」ではなく、
「迷惑・違法…だからやらない」にするしかない…

ただ私の個人的見解は、
他人に迷惑はかけても、自分がどうしてもやりたい事なら、違法でない限りやるべきであろう。


因みに、「全てが恥ずかしい」と感じる人達の「認識の原風景」(南郷認識論)が…
三歳までの体験・経験の中に「自分の存在・行為…が恥ずかしい」と思わされてしまった事件があったのだろう。



私の原風景は、母親の「乳房からし塗られ」事件であろう…
母から聞かされた以下のような事件である。


母曰く~
「お前が、なかなか乳離れをしないので、乳房にからしを塗ったら、一発で飲まなくなったよ」。


この体験からの私の「原風景」とは以下のようなモノであろうか~
今まで、「快適・快感」を感じ得るモノが、ある時・ある瞬間から、
「不快・苦痛」を感じ得るモノへ変化する。


この私の「原風景」を母は、
お前は、「石橋を叩いて渡る」と表現していたが…
私は、「石橋を叩いても渡らずに、他人が渡るのを見て初めて渡る」と思っている。


そう~物事・他人・自分への、私の不信感は、超一級品であろう。















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