「対立物の統一」と「直接的同一性」について…
空海お宅が、コメント欄へ「動くと止まるは対立物の統一」ただと書いて寄越した。
でも…違和感を生じた私は、「違う!直接的同一性」だと書き込んだ。
しかし…考えていくうちに、「動く」と「止まる」とは何か?という疑問が生じ…
「動く」とは、何かが「動く」。または、何かが「動く状態にある」。
動くモノがある。動く状態のモノがある。
「動くと止まる」を「対立物の統一」的に捉えるなら、
「あるモノの動く・動いている」状態と「そのモノの止まる・止まっている」状態の統一であろう。
「子供が走っている」と「大人が止まっている」との統一ならば、「人間の走る・止まるの統一」。
子供と大人が異質でも、人間一般としては同質となるのだから…
でも、走っている人が止まった時なら、どうなる?
これは、「走るから止まる」の状態変化という事になろう。
これは、全身が「走れる状態から止まれる」状態へ変化した結果、止まれた。
この場合の対立物とは「走ると止まる」ではなく、
その時々の全身状態になり、その統一、となろう
走るも止まるも同じ個体での事なら、現象的には対立している、ようでが…
現実には、同じ個体が、ある瞬間に「走ると止まる」を同時にする事は不可能。
このどちらも一つの個体の変化・運動状態という事で「直接的同一性」となろう…
現象的には、別物でも、身体的な状態としては、同じモノ。
師範が、「空手と弁証法を、対立物の統一ではなく、相互浸透的に学んだ」と書いている。
この意味を私なりに考えてみた。
空手と弁証法は、自分の外にある。
これが、「空手というモノ」と「弁証法というモノ」なら、二つの統一も可能だろう。
でも、空手も弁証法も実体のないモノ…
それでも、双方を知っている者なら、その者の認識の中で、空手と弁証法の統一が可能だろう。
南郷師範は、己が「空手を識る」とも「弁証法を識る」とも思えなかった。
そこで、空手を空手として学び、弁証法を弁証法として学びつつ、
空手を弁証法的に考え、弁証法を空手的に考え続けた…
これが、可能だった理由は、空手は個別的であり、弁証法は一般的…だから?…
う~ん…?
空手は実体的な技・弁証法は認識・観念的な技…このままでは無理があろう…
そこで、空手を武道空手と位置づけたなら、武道は認識・観念的技…
空手を武道空手として、武道(観念技)を弁証法(観念技)として相互浸透。
ここで問題が…個々の技は、身体的技であり、観念技でもある。
武道技として観念技の創出は可能でも、
突き・蹴り…の身体的実技技は如何にすれば?
そこで、登場したのが「弁証法の三法則」となろう。
武道空手の突き技ではない・初心者の人間的な突きを如何に上達させるか?
師範が、空手と弁証法を相互浸透的に学習可能だった理由は以下であろう。
師範は、空手も弁証法も素人・零レベルで始められたから…
「零空手vs零弁証法」では、対立物統一…なんて不可能であろうから…
「零と零の統一⇒零」にしか過ぎない…
未体験事・無知事と弁証法の学びの両立・並行学習が大切なのだろうか…
さてさて…ここで「直接的同一性」で考えるなら、
空手の学びは、弁証法の学び。
弁証法の学びは、空手の学び。
言葉で書けても、認識としては如何に?
弁証法とは、変化・運動の一般法則。
空手の変化・運動とは?
零空手から武道空手への上達・運動の一般法則化。
白帯⇒紫帯⇒緑帯⇒茶帯⇒黒帯⇒武道達人技への上達・運動の一般法則化。
空海お宅が、コメント欄へ「動くと止まるは対立物の統一」ただと書いて寄越した。
でも…違和感を生じた私は、「違う!直接的同一性」だと書き込んだ。
しかし…考えていくうちに、「動く」と「止まる」とは何か?という疑問が生じ…
「動く」とは、何かが「動く」。または、何かが「動く状態にある」。
動くモノがある。動く状態のモノがある。
「動くと止まる」を「対立物の統一」的に捉えるなら、
「あるモノの動く・動いている」状態と「そのモノの止まる・止まっている」状態の統一であろう。
「子供が走っている」と「大人が止まっている」との統一ならば、「人間の走る・止まるの統一」。
子供と大人が異質でも、人間一般としては同質となるのだから…
でも、走っている人が止まった時なら、どうなる?
これは、「走るから止まる」の状態変化という事になろう。
これは、全身が「走れる状態から止まれる」状態へ変化した結果、止まれた。
この場合の対立物とは「走ると止まる」ではなく、
その時々の全身状態になり、その統一、となろう
走るも止まるも同じ個体での事なら、現象的には対立している、ようでが…
現実には、同じ個体が、ある瞬間に「走ると止まる」を同時にする事は不可能。
このどちらも一つの個体の変化・運動状態という事で「直接的同一性」となろう…
現象的には、別物でも、身体的な状態としては、同じモノ。
師範が、「空手と弁証法を、対立物の統一ではなく、相互浸透的に学んだ」と書いている。
この意味を私なりに考えてみた。
空手と弁証法は、自分の外にある。
これが、「空手というモノ」と「弁証法というモノ」なら、二つの統一も可能だろう。
でも、空手も弁証法も実体のないモノ…
それでも、双方を知っている者なら、その者の認識の中で、空手と弁証法の統一が可能だろう。
南郷師範は、己が「空手を識る」とも「弁証法を識る」とも思えなかった。
そこで、空手を空手として学び、弁証法を弁証法として学びつつ、
空手を弁証法的に考え、弁証法を空手的に考え続けた…
これが、可能だった理由は、空手は個別的であり、弁証法は一般的…だから?…
う~ん…?
空手は実体的な技・弁証法は認識・観念的な技…このままでは無理があろう…
そこで、空手を武道空手と位置づけたなら、武道は認識・観念的技…
空手を武道空手として、武道(観念技)を弁証法(観念技)として相互浸透。
ここで問題が…個々の技は、身体的技であり、観念技でもある。
武道技として観念技の創出は可能でも、
突き・蹴り…の身体的実技技は如何にすれば?
そこで、登場したのが「弁証法の三法則」となろう。
武道空手の突き技ではない・初心者の人間的な突きを如何に上達させるか?
師範が、空手と弁証法を相互浸透的に学習可能だった理由は以下であろう。
師範は、空手も弁証法も素人・零レベルで始められたから…
「零空手vs零弁証法」では、対立物統一…なんて不可能であろうから…
「零と零の統一⇒零」にしか過ぎない…
未体験事・無知事と弁証法の学びの両立・並行学習が大切なのだろうか…
さてさて…ここで「直接的同一性」で考えるなら、
空手の学びは、弁証法の学び。
弁証法の学びは、空手の学び。
言葉で書けても、認識としては如何に?
弁証法とは、変化・運動の一般法則。
空手の変化・運動とは?
零空手から武道空手への上達・運動の一般法則化。
白帯⇒紫帯⇒緑帯⇒茶帯⇒黒帯⇒武道達人技への上達・運動の一般法則化。