新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「先入観」について~

2021-05-29 12:40:02 | 哲学言葉シリーズ


一年生の「こくご」の授業中に、先生が黒板で、
26人の児童に初めてのノートの書き方を指導していた。

その「こくご」ノートには以下のように書かれていた。

「豊かな心を育むノート」
「こくご8マス十字リーダー入り」
「さくら」

…新品ピカピカである…

全てのページ、マス目の上には以下の印刷があった。
 
「   がつ    にち     ようび  (  )  」


ここで先生は以下のように書く指導をした。


「 5 がつ  28 にち きん ようび  (  ) 」


「   がつ     にち     ようび   (  )  」
「 5  がつ  28 にち    きん ようび   (  )  」

初めは特に違和感はなく。
納得していた私だったが…


ふと…黒板を見たら縦書きで以下のよう書かれていた。

5


28


(きん)







そこで気付いた…
曜日は、普通(  )があれば、その中に書くモノ…という事に。


そこで子供達26人の書き方を見て回ったら…
24人が、「 きん ようび (   )」と書いていて、
2人だけ、 「    ようび ( きん )」と書いていた。


この二人も黒板の「  きん ようび  (  )」を見ていた筈なのに…
そのようには書かれていない。
この事について以下のように考えた。


「こくご」ノートの使い方・書き方を全くしらない児童は
普通に考えて先生が黒板に書いた通りに書くだろう。

ならば、先生の言う通りに書かなかった2人の児童は?
彼らの過去の体験(似たようなノートを使った事がある)、
または過去の見識(カッコに曜日が書かれている事を見た)から、
「( 曜日 )」と書くと判断した…という事だろう。


これは、言うなれば「先入観」で先生の記述を見てしまった事だろうか…
この「先入観」とは、「カッコの中には曜日を書く」という認識である。

そして、その2人児童は、
「黒板の記述」と「ノートの記述」の違いを全く気付いていない。

この事を先生に伝えたら…
「本当だ!     ようび ( きん ) ですね…」
「でも、   きん ようび (   )方が、子供には分かりやすい、かな…」

私も、その通りだと思った。


でも…

「一般的な書き方を思い出し」児童に合わせる事と
「一般的な書き方を失念して」児童に合わせる事、

この違いは、時によって、
児童にとんでもない間違いを生じさせ得るだろう…


この先生の「先入観」は以下であろう。
「一年生の児童にとって分かりやすい書き方を指導する」
そして、
先生も自分の「先入観」に気付けずに指導していた。


「先入観」とは、
自分だけの純・主観的(即自的)には絶対に気付けないモノだろう。
他人との対峙・対他があって客観的な主観(対自的)になり得た気付けるモノ。


因みに…この一年担任は教職二年目で、昨年は二年の担任であった…。


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 ⇔道⇔

2021-05-26 07:43:03 | 想いのままに…


素晴らしいが恐ろしい「道」
恐ろしいが素晴らしい「道」


  ↑
これが、以下のブログを、読んだ私の感想である。
      ↓
https://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028/e/d2c9a674e091e63c3782811ce86004fa
「道という漢字の成り立ちが恐ろしい」について考える
「道という漢字の成り立ちが恐ろしい」について考える - 団塊オヤジの短編小説goo




首を手にたずさえる形から生まれ、それは道なき荒れ地のたたりや災いを成す邪霊を 祓い清めるために首を用いたことから。
くびから上の頭部に髪が生えた姿

道 = 辵 + 首
 邪気を祓うために異族の首を持って道を進んだことから

首→ 図

辵(辶) =彳 + 止 → 図

漢字原子論 : 漢字の成り立ち

古代中国殷では、異国に侵入する際にはその部族の人間の首を刎(は)ねてその首を携えました。
土地、土地にはその土地を守る霊がいて、攻めて来た異郷人はその霊に呪われると信じられていました。
そのため、その土地の者の首を刎ねて、その首の眼力の呪力で邪霊を祓い清めながら侵入したのです。
「辶」は元々、四叉路の辻から「道」を表しています。

よって、首を持って進んでいく「みち」を「道」と表現したのです。
本当は怖い漢字の由来

最後に。高村光太郎の「道程」という詩を載せておきます。この「道」という漢字の成り立ちを考えて読むと、また違った思いがあると思います。






『道程』
高村光太郎

どこかに通じている大道(だいどう)を僕は歩いているのじゃない

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立っている

何という曲がりくねり

迷い まよった道だろう
自堕落(じだらく)に消え 滅びかけたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
幼い苦悩に もみつぶされたあの道

ふり返ってみると

自分の道は 戦慄(せんりつ)に値する
支離滅裂(しりめつれつ)な
また むざんなこの光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだろう
それだのに
やっぱり これが生命(いのち)に導く道だった

そして僕は ここまで来てしまった

このさんたんたる自分の道を見て
僕は 自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から

生命(いのち)の意味を はっきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻(まわ)しては 目をはじき
もう此処(ここ)と思うところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ

子供になり切ったありがたさを 僕はしみじみと思った

どんな時にも 自然の手を離さなかった僕は
とうとう自分をつかまえたのだ

丁度そのとき 事態は一変した

にわかに眼前にあるものは 光を放射し
空も地面も 沸く(わく)様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして 僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした

そしてその気魄(きはく)が 宇宙に充ちみちた

驚いている僕の魂は
いきなり「歩け」という声につらぬかれた

僕は 武者ぶるいをした

僕は 子供の使命を全身に感じた
子供の使命!

僕の肩は重くなった

そして 僕はもう たよる手が無くなった
無意識に たよっていた手が無くなった
ただ この宇宙に充ちている父を信じて
自分の全身をなげうつのだ

僕は はじめ一歩も歩けない事を経験した

かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た

僕は 心を集めて父の胸にふれた

すると
僕の足は ひとりでに動き出した
不思議に僕は ある自憑(じひょう)の境を得た
僕は どう行こうとも思わない
どの道をとろうとも思わない

僕の前には広漠(こうばく)とした 岩疊(がんじょう)な一面の風景がひろがっている

その間に花が咲き 水が流れている
石があり 絶壁(ぜっぺき)がある
それがみないきいきとしている
僕はただ あの不思議な自憑(じひょう)の督促(とくそく)のままに歩いてゆく

しかし 四方は気味の悪いほど静かだ

恐ろしい世界の果てへ 行ってしまうのかと思うときもある
寂しさは つんぼのように苦しいものだ
僕は その時また父にいのる
父はその風景の間に わずかながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を 僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に 僕はふるえ立つ
声をあげて祝福を伝える
そして あの永遠の地平線を前にして 胸のすくほど深い呼吸をするのだ

僕の眼が開けるに従って

四方の風景は その部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に 小さい人間のうじゃうじゃ はいまわって居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類というものの一部分だ

しかし人類は 無駄なものを棄て(すて)腐(くさ)らしても惜(お)しまない

人間は 鮭の卵だ
千萬人の中で百人も残れば
人類は永遠に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類のため 人間を沢山つくるのだ

腐るものは腐れ

自然に背いたものは みな腐る
僕はいまのところ 彼等にかまっていられない
もっと この風景に養(やしな)われ 育(はぐく)まれて
自分を自分らしく 伸ばさねばならぬ
子供は 父のいつくしみに報いた気を 燃やしているのだ

ああ

人類の道程は遠い
そしてその大道はない
自然の子供等が 全身の力で拓(ひら)いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出てきても 乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に 踏み込んでゆけ

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため



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久しぶりに眠れなくなった。

2021-05-23 08:07:38 | 想いのままに…
久しぶりに眠れなくなった。

今朝の3時過ぎにトイレに起きて布団に戻って…
暫くして気付いた…久しぶりに眠れなくなっている事に…
そこで、思い出したのは、
数年前・引っ越し前なら起きて歩いて数分の中央公園に散歩に行っていた事。

そこで、愛犬マロンを連れて近くの公園へ散歩…と思ったが…
それは、外がまだ暗いので止めて、布団の中で体操・運動をしよう…であった。
そこで、「背骨ゆらし運動」を始めた。
その内、背骨だけではなく、
腕のブルブル⇒手首ブルブル⇒手の開き閉じ
太ももブルブル⇒脚⇒足⇒足指開き閉じ、
首の小刻み上下・左右・回転⇒顎の上下・左右⇒口の開け閉め⇒瞼、

それらを「1・2・3・4・5・6・7・8」を10セットずつ繰り返した。
その内、そうだ!いつもの「夢み・イメートレーニング」をやってみようと始めた。

初めは、ただただドロドロした暗い映像のみ、
その内、気付くと白い雪の中を進んでいた…
その時、「下へ下へ…」とイメージ…
気付くと真っ白の重苦しい壁が眼前に、
そこで今度は空気のように全身を薄く広げ広がって…
その内、白雪の間から「青」が見え、段々空のように…

そこで、気付いた、
(地底に沈み込むように重く)「下へ下へ」、
(全身を軽く、空気のように広がって)「上へ上へ」、
このイメージトレーニングは、「自律訓練法」の応用であり、
イメージトレーニングの自己暗示・言葉として使える事を、


その内、以下のような事に思いついた事は、


「正‐反-合」と因数分解、

a×b=ab⇒正×反=合

二重化と因数分解と「正-反-合」

Abを「aとb」へ二重化
「合」を「正と反」に二重化



言葉にすれば~

因数分解とは、
文字式を因数に分解する。

二重化とは、
物事変化・運動の結果とみて、
それを二つの動因を分ける(考える)。

素因数分解~
1=1×1
2=1×2
3=1×3

0=0×1
0=0×2…ではなく、

数字の「0」は、何もない状態、
言うなれば「絶対無」、
何も存在しない状態。


それに対して、「0個」とは、
さっきは机の上にリンゴ1個あった。
今は机の上のリンゴは0個であった。

即自・対他・対自・即自かつ対自の関係、

即自とは「1」で、混じりっけのないモノ、
対他とは、「1」が「2」に出会い、
対自とは、「+-×÷」等によって変われる自分に気付く
即自かつ対自とは、3、0、6、0.5…に変化する事。


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「正-反-合」を考えていたら…

2021-05-22 11:16:48 | 哲学言葉シリーズ
「正-反-合」を考えていたら…「即自・対自…」という言葉に行き着いて、

「正」が自分の見解なら、「反」は他人の見解、「合」は両者をまとめた見解。
そこから「即自・対自…」という言葉を思い出し、ネットで検索したら、

初めに「即自・対自・即且対自」が見つかり、
更には「即自・対他・対自」をみつけた。


この「即自・対他・対自」は初めて知った言葉である。
これらの解説は、記事の最後に添付している。


今ここで「正-反-合」を使うなら、

「正」=「即自・対自・即且対自」
「反」=「即自・対他・対自」
「合」=「即自・(対他・対自)・即且対自


言葉にすれば、
人間は自分だけでは自分を識る事はできない(即自)のまま。
他人と関わり(対他)の中で自分知り(対自)、
そこから、自分と他人・他人と自分の違いを識る(即且対自)

私が南郷師範から学んだ弁証法は、南郷学派の論文をいくら読んでも「即自」、
今回は、tadaさんの弁証法記述と大きく関わる事で「対他」となり、
南郷弁証法とtada弁証法を対峙して「即自・対他」から今は対自」の状態にある。
今後は、「即且対自」へと向かって行くのだろうが…

[ 「正」-「反「(正-反-合)」-合 ]
[ 正「即自」- 反「対自」=(即自-対他-対自)-合「即且対自 ]

これは、大本の
「正-反-合」の過程の中にも「「正-反-合」の存在が見て取れる。

これが師範の書いている「構造の過程と過程の構造」であろうか…。

大本は、<正>「正-反-合」と<反>「対自・対他・即且対自」であり⇒<合>へ
その過程で、
『正』「対自・対他・即且対自」」と
『反』「即自・対他・対自」
⇒『合』「「即自・(対他・対自)・即且対自」


大本の「正-反-合」⇒「即自・(対他・対自)・即且対自」となり得た。
これは「正-反-合」とう論理の構造の説明である。


ここから言える事は、「正-反-合」には、

「正(正-反-合-反(「正-反-合)-合(「正-反-合)」であり、
全ての大きな「正」・「反」・「合」は、より小さな「合」=「正-反-合」の結果である。

論理学としては「正-反-合」で終わりであっても、
弁証法としては、大きな「「正-反-合」の中にある小さな「正-反-合」の始まり…

これが、「正-反-合」の弁証法的な捉え方であり、弁証法運動なのだろうか……
例えるならば、対面して置いた二枚鏡の中の見える限りは無限「鏡世界」であろうか…


(おわり)だった筈が…

いやいやビックリ…記事への添付を忘れて
今初めて確認で以下の記述を最後まで読んでみたら…


なんと…「ここで私が考えているのは、<即自―対他―対自―即自かつ対自>という、対他による他の転態を媒介とした、円環的な連関の発展である。」と書かれていた。


本当にビックリ!である。
まあ~
この記事「対他」を「対自」の対比に気付いたのは事実であろうし…
そこから「正-反-合」の使い方の構造を考えだしたのも事実であろう…


「即且対自」これは、「即自かつ対自」の方がいいかも…
自分は自分でありながら他人的な自分も自分…。


以下は添付である↓

2020.11.29 Sunday
連関は、即自・対他・対自の三局面をもつ


transhistoy.jugem.jp/?eid=6259


連関は、即自・対他・対自が相互浸透して発展する。

即自 an sich は、自分が存在することじたい。連関の出発点である。まだ連関をはじめておらず、これから発展する段階であるが、同時に、発展がめざしているもの、発展の果てにあるものでもある。

対他 für Anderes は、即自にある自分が素材に向かって連関する局面。即自がなければ対他はない。

対自 für sich は対他の一種で、他=素材の位置に自分を置いて連関する側面。他は自分にとっての他であるから、対他は対自でもある。対他は対自を含むので、すぐれた対他は充実した即自につながる(即自かつ対自)。

すぐれた対他→即自かつ対自をするには、自分を小さくすることである。

自分を小さくして、あらかじめ多くの連関を受け入れているとき(やわらかい即自)、すぐれた対他=連関結合が可能になり、他=素材も、自分との連関結合を受けて、みずからすぐれた転態をおこなえる。

この対他は対自を含んでいる。他=素材がみずからすぐれた転態をおこなうのを見た自分はさらに小さくなり=即自性が増し、ますます多くの他に良い連関=対他ができるようになる。

即自を出発点とし、対他を媒介とし、対自が充実して、即自が発展する。


*ヘーゲル哲学の解説では、<即自―対自―即かつ対自>というトリオがとりあげられることが多いようだが(『ヘーゲル用語事典』平凡社、72-74頁)、ここで私が考えているのは、<即自―対他―対自―即自かつ対自>という、対他による他の転態を媒介とした、円環的な連関の発展である。






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続・「二重性」について…

2021-05-22 09:51:52 | 言葉・概念
続・「二重性」について…

物事に「二重性」があるのではなく、
人間が対象を「二重性」として認識できる・している…という事。

動物は、本能で生きているので、世界を二重には捉えられない。

人間だけが、「本能」から相対的に独立した「認識」を得た故に
その認識によって世界の二重化が可能になり、
世界・物事の性質を「二重性」として捉えられるようになり得た。


その「二重化」のメリット・デメリットは何か?

メリットは、前向きに二重化するなら「より豊か」になり得る。
デメリッドは、後ろ向きに二重化するなら「病気」になり得る。


そもそも…世界の二重性とは?
眼前の世界と眼前にない世界。

現実の世界と頭脳内の世界。
存在する世界と認識する世界。


現実世界=認識世界ではなく、
現実世界≒認識世界となる。

それでも「≒」の中身は異なっている、
世界>認識もあれば、
世界<認識もあり得る。


学問を目的は、「≒」を限りなく「=」に近づける事。
弁証法の目的は、「>」や「<」の大きなズレを小さく修正する事。

何故に「≒」であって「=」ではないのか?

世界は変化・運動に対して、
認識の変化・運動は、生れ付き対応しているモノではないから。

動物の本能は、
生まれつき世界の変化・運動に対応しているのに…


本能のメリット、いつでも間違いなく生きて行ける事。
本能のデメリッド、進歩・発展がなく、いつまでも同じ。

認識のデメリッド、努力・学びなしでは生きても行けない。
認識のメリット、進歩・発展が可能で、より豊かになり得る。





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