新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

己の理解・深化の為に…

2018-11-18 10:32:21 | 想い思い考える


自分の理解を深める為に、以下のコメントを踏み台して、
踏みつけ登ってみようという想いから、
以下のような記事を書く事にした。




そのコメントは、以下である。

2018 11/17 (土) 17:17
記事「唯物論とは」に投稿されてモノである。
  
・コメントを書いた人

ポリティコス

・タイトル


・コメント

「タダモノロン」なんて言葉は私だって知っているわけです。

ですが「タダモノロン」だとか「逆噴射」なんて言われただけで納得できるような思考回路はしてないわけなんですよ。

自由びとさんはお気楽で良いですね、「タダモノロン」とか「逆噴射」で納得できてしまえるんですから。

昔のソ連の学者たちも「弁証法的唯物論」とか叫べば何だか解決できたような気になって、相手に「機械的唯物論」だとかレッテル貼れば済んだかに思えたわけですから気楽でしたよね(笑)


↑↑↑↑

上記のコメント、どこが良くないのか?

そもそも…
このブログは、
読者を納得させる為に、書き続けられているモノではない。
私の思った事・考えた事・痛感した事・納得した事…等を、
私自身の為に書き続けている、モノである。
それも、「悟りを求めて~」の為に…である。

私の納得した記述を、納得する・納得できる、かは、読者次第である。
このような~このブログの趣旨を読み取れずに

>言われただけで納得できるような思考回路はしてないわけなんですよ。

と公言できる、その神経の図太さ? 阿保さ!…には呆れている。

これは、お宅くん以下の叫びに、私には聞こえる。

俺は、まともな「思考回路」を持ち合わせていない!
そんな、俺のまともでない「思考回路」でも納得できるように書け!…と…






ここでは、「読者を納得させる為」でない以上、
仮に、読者が納得したいのであれば…書き手の立場で読み取る必要がある。



そんな前提を読み取れない…という事は~
このお宅くんは、自信過剰のなのだろうか?

自信過剰者は、その肉眼・心眼を曇らせてしまう、から~

この阿保心の叫びに応えよう、とは、思わないが…
でも…折角の阿保の叫びなので、この阿保心に二重化して、

阿保でも納得できるかも知れない…
記述を求めて~チャレンジである。

もっとも…
普通の私が、この阿保心の二重化する事は、非常に危険である。

それは、
>俗物と闘うものは自らも俗物になることに気をつけよ (有角)
2018-11-16 23:24:39

となり得るからである。

そこで、敢えてコメント欄という同じ土俵でなく、
ここに、記事として書く事にした。

これは、「闘わずして闘う事」事でもある、のだろう。



ここでの問題は、
「ゆいぶつろん」と「タダモノロン」の区別と連関?であり、
「弁証法的唯物論」と「機械的唯物論」の区別と連関?でもある。

ここでは、「逆噴射」という言葉を、ここでは使われていない…ので通過。


「タダモノロン」とは?
対象を「ただモノ」として扱い論じる。
例えば、人間を論じる、ならば、それは目に見える人体から人間を論じる。

「ゆいぶつろん」ならば、
人間を論じる場合、
目に見える人体から論じるは当然として、
目には見えない認識・頭脳活動からも論じ、
身体と認識から同時に論じる必要がある。

更に「世界観」としての「唯物論」なら、
モノ自体から人間までの進化過程をも含めて唯物論的に論じる、
のだろう。


他人の言説を自分が「納得できる」にも、能力・実力が必要であろう。
もっとも…
詐欺師・ペテン師なら、手を変え・品を変え・言葉を変えて、
黙って、そこに座っているだけで納得させてくれるだろうが…


>昔のソ連の学者たちも「弁証法的唯物論」とか叫べば何だか解決できたような気になって、相手に「機械的唯物論」だとかレッテル貼れば済んだかに思えたわけですから気楽でしたよね(笑)

過去の時代の学者・人々を今の学者・人々が、
現代の文化・教育からボロクソに否定するのは、
どうなのだろうか?

例えば、
子供がサッカーだと信じて、ボールを転がして遊んでしている姿を、
一流のサッカー選手が、
「…ただのボール転がし!それをサッカーなんて気楽だね!」
と思う・言う・書く、だろうか?

一流選手であれば、子供達の真剣なボール転がしの中に、
将来、真のサッカーに不可欠なモノの姿を視て取れるだろう。

結局、
上記のお宅くんの最後の記述も、
現代のお宅くんが他人から借用した唯の知識から
過去の学者達をあざ笑って(笑)しているだけのモノであろう。




ここで、更に再考すべきは、「納得」とは?である。

知らされても納得できない。
分かっても、納得できない。

そこまで言わなくても納得できる。
言わなくても、見てて納得できた。


「気とは認識の技化である」という
南郷継正の言葉が納得できるのに…
私が、どれ程の時を必要としたか…

今の私的な表現なら以下であろう。

気とは認識の技化である。

それは~例えば、
普通に一気で一力を発揮できる人が、
気を体得したなら、
その気のレベルによって、
一気で、十力だったり、一気で百力だったり、
更には、一気で、指先に全身力の集中が可能だったり…
そんな感じです。

まあ~結局は、
己の感情に反するモノ・コトは、
なかなか納得し難いモノであろう。

もっとも…
ここでの納得し難いモノ・コトが、
真理で有るか否か、は
また、別次元の問題であるが…








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唯物論とは…

2018-11-17 16:52:32 | 言葉・概念


唯物論について以下のような見解があるが…


唯物論は、事実を起点とする。
(観念論は、本質を起点とする。)


でも…本当に、これでよいのだろうか?
唯物論には、
「ユイブツロン」というモノ、と
「タダモノロン」というモノ、とがある。

「タダモノロン」とは、
ただただ…事実や物から論じる唯物論の事を言う。

例えば、先日学校で以下ようなトラブルを目の当たりにした。

その発端は、月曜日の朝に、
A君が、B君を突然叩いた事である。

先生、「A君!何でB君を叩いたの?」
A君、「だって…Bが、先に叩いた!」
先生、「先って、いつの事?」
A君、「金曜日!」

さて、普通に考えるなら、
ここまでの事実なら、
(当日は)何もないのに突然にB君を叩いたA君が悪い、
で解決である。

しかし、この場合、
金曜日に何もしていないのに、B君に叩かれたA君が納得しない、
のである。

そこで以下の会話が続けられた。
先生、「B君!何で金曜日に、A君を叩いたの?」
B君、「だって…Aが突然ぶつかって来たから…」
B君、「何も言わず、謝らなかったから叩いた!」
先生、「A君!何でB君に何も言わなかったの?」
A君、「だって…C君が僕の事を押したから…」

ここまでなら、A君を押したC君が悪い事になる。

そこで先生はC君を呼んで以下の会話。
先生、「C君!金曜日に何でA君を押してB君にぶつけたの?」
C君、「先生、わざとじゃないよ!僕とAは遊んでいたんだよ!」

ここまで遡ると、
前の週の金曜日に、A君とC君が遊んでいて、
A君がB君にぶつかって、でもA君が謝らなかったのでB君が叩いた。
その日は遊びに夢中のA君は叩かれても…その日は、それで終わった。

しかし、翌週の月曜日に、
その事が思い出したA君が、突然にB君を叩いた。
という事である。


ここまで、
遡って考えれば、A君もB君も納得できる解決が可能であろう。

その一つが例えば~
金曜日に遊んでいて、ぶつかってしまった事を
先ずは、A君がB君に、説明して謝る。
つぎに、B君がA君に、金曜日にを叩いた事を謝る。
最後に、A君がB君に、月曜日に突然叩いて事を謝る。

何の為の唯物論なのか?
それは、問題解決の為である。
上記の場合の問題解決とは、双方の感情であり、納得である。
感情も納得も認識であり、観念の問題でもある。

認識・観念の解決を観念論での解決も可能である。
それは、二人の間に立った教師の力量であり、教師の観念的な説得力であろう。
金曜日と月曜日で、A君とB君は、お互いに一発ずつ叩いたから、あいこで終わり!…

まあ~解決方法色々であるが…
要は、双方の納得が得られればいいのである。

例え、唯物論が「初めに事実ありき」であっても、
その必要な事実をどこに設定するかが…
世界観としての唯物論の威力であろう。

世界観としての唯物論は、「世界の起源はモノ自体」であり、
その時々の、「世界はモノ自体の変化・運動」の過程的事実である。
言ったモノだろうと…私は思っている。

世界の起源がモノ自体ならば、
どんな今の事実からも、それ以前の事実へ遡れるのが唯物論であろう。
今回のように、子供同士のトラブルなら、双方の記憶も確りしているだろうし…
また、小学生の場合、先生の質問に嘘を言う事は殆どないだろうし…

これが、事実として、過去の事実へ遡れなかった場合は、
論理的な推測(観念的な推測)で、論理的な事実を提示して、
双方の了解・納得を求めるモノなのだろう。



最後に以下の記述は、そのタダモノロンの典型です。

>物質・物体の構成要素をどこまで小さく辿れるか?という方向で原子や元素の探究に向かっても唯物論ではありません。唯物論とは世界のありとあらゆるモノゴトを物質として説明しなければいけないはずのものですから、例えば貴乃花が相撲協会から引退した理由を水素だとかの92種類の原子で説明しなければいけないはずですよ。

>「憎しみのあまり殺害した」なんてのは事実として確認できるものですが「憎かった」なんて感情を理由にするのは唯物論ではないはずです。「事実」というのは「唯物論」的ではありませんし、そのため現代の学術世界は物質面での探究は必至であっても「唯物論」ではないのだと考えています。



>唯物論とは世界のありとあらゆるモノゴトを物質として説明しなければいけないはずのものですから、
>例えば貴乃花が相撲協会から引退した理由を水素だとかの92種類の原子で説明しなければいけないはずですよ。

「モノゴトを物質として説明」ではなく、
モノ自体であり、そのモノ自体からの考え説明です。

貴乃花は人間です。
だから人間自体からの考え説明。、

人間は認識的実在です。
だから、貴乃花の認識から考え説明。

認識は社会的な産物です。
だから、貴乃花の社会環境から考え説明。



>「憎かった」なんて感情を理由にするのは唯物論ではないはずです。

「憎かった」とは、「憎い」という感情的な事実です。
でも、説明は、その感情の形成過程です。
どうして、「憎い」感情の形成があったか?
どうして、その「憎い」が「殺したい」へ、そして、
どうして、「殺害したい」が「殺害」へ至ったかを、
その時々の事実関係から、その時々の感情変化を推理・推測していくのが唯物論です。

例えば、日常でも「心というモノは…」と言って、心もモノ扱いです。
モノにも、実体的なモノと観念的なモノの二重性が考えられます。

当初・過去の唯物論は、存在する物から論じていても、
現代は、モノから発展して人間の認識・精神・心…等も
モノとして扱える・扱うモノへは発展している、のでしょう。


だから、唯物論も観念論も「世界観」として捉えられているのです。
そして、唯物論だから、とことん追求が可能なのです。

観念論なら~だって…
「ヘーゲル哲学が…」とか、
「私が思う…」とか、
始まりを自分勝手に決定可能です。

しかし、
唯物論が必要に応じて出発点を決めていても、
その唯物論が世界観とするなら、
いつでもどこでも、その出発点から、
更に遡る事が可能であるべきモノなのです。
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「意地」から考える~

2018-11-16 11:14:28 | 言葉・概念

「意地」とは、

① 人の行いの根本にある考え方や心がまえ。
② 自分の考えを無理に通そうとする心。

ネットで以下の言葉を見つけた。
「意地と通す・意地を張る・意地を見せる」

昨日、補助員の同僚との会話

私、「…○○ちゃんって、本当に意地っ張りだね!」、
同僚、「本当に親に似て…、でも私もそうだから…」、

この○○ちゃんは、
その同僚の次女の子供で、同僚の孫にあたる。

その時、私はふっと思った。
その同僚は、非常に面倒見もよく、
特別支援学級補助員、通常級の補助員、登校支援の仕事、音楽サークル…と
地域の仕事を色々やっており、とても貢献している(ように私には思えている)。

確かに少々癖のある顔はしているが…
また、時に相手の言動に対して辛辣な指摘をする。
でも、その言い方・言い回しが、とても冗談ぽく…不快感は殆どない。

自分の生き方を貫き通す、
自分の考えを相手に伝える、
自分の生き様を見せる。

意地を張るとは、
自分の考えや心がまえをバリヤーのように張り巡らし、
相手の指摘や考えを弾き飛ばす事…。

意地を通すとは、
周囲の反対・意見…を無視して、
自分の考えや心がまえを優先し続ける事…。

意地を見せるとは、
自分の中の目に見えない考えや心がまえに従って、
周囲が納得・認めざるを得ない結果出す事…。そんな感じ~

また、昨日の通常級の◇◇君との会話~

授業中に、◇◇君がB4のプリントを半分に折っている所に遭遇して…

私、「この角と角はちゃんと合わせると綺麗に折れるよ!」
◇◇君、「僕にはできない!」

私、「やれば出来るよ!」
◇◇君、「ダメ!僕って不器用だから…」

私、「今は不器用でも、やっていれば器用になれるよ!」
◇◇君、「生れ付きだから器用にはならない!」

私、「じゃ~勉強が出来なければ、やってもできない…という事?」
◇◇君「うん!そうだよ!」

私、「それじゃ~いつまでも出来ないね!」
◇◇君、「うん~それでいいよ!」
私、「……???………!!!………」


この会話から考えるなら~
「意地を張る」とは、
ここでは、「できない」、「不器用」、「生まれつき」、「このままでいい」…
というように、言葉で「自分の考えや心がまえ」を主張し続ける。

「意地を通す」とは、
最後まで、自分のやり方―ここでは、
紙の折り方である「角と角を合わせようとしない」事。
をやり通す

そして、
「意地を見せる」とは、
私の助言を無視して、意地を貫き通して、
結果的に、角と角の合っていない、
正確にB4の半分になっていないB5サイズのモノの完成である。


また、○○ちゃんの場合は、
授業中、教師から注意や指導を受けた時、
それが気に入らない時に、無視したり、教室の外へ出て行ったり…

また、授業中でも突然に離れた席の友達の所へ行ってしまったり、
それを注意されたら、時に教室の外へと飛び出して、
そのまま廊下にいたり、校庭へ行ったり…
とてもとても担任に面倒をかけている。


○○ちゃん、◇◇君…の意地というモノ「根本的な考えや心がまえ」と
学校で求める意地の大きな相違があるから、このような事が起こるのだろう。

これは、個人生活での意地と社会生活に必要な意地との違いであろう。
友達との遊び…対等な人間関係での個人対個人の時の意地とその表現。
学校生活・授業中…上下関係での先生対個人の時の意地とその表現。


人間であるからには誰もが「根本的考え方や心がまえ」・意地がある。
その自分の意地を、どのように表現するかは、その人間にとって重要な課題でもある。

もっとも…それは、周囲とのトラブルを最小限にして、
自己の人生を生きたい!のであればの問題化…であるが…


さてさて、
ここでは「意地」というモノを言葉から考えようとしたが…

それでも、「言葉の意地」の確認をする前に、
日々の学校での私の生活の思い起こしがある。

それは、私の観念である。
従って、これは言説は観念から始められ、
言葉を参考に観念内で考えられ、言葉・表現として書かれたモノ。

思い起こした観念とは、現実生活の観念化である。
色々な多くの現実の生活過程を「意地」という意味から、
その概念―現実での言動・態度…から生じている(私にとっての)意味、
を、考え・思考・思惟…し…


このような観念論的な展開には、現実からの観念の形成がある。
しかし、その観念の形成には、別の観念が不可欠である。
ある観念で現実・事実を一括りにて観念化する、からである。

この場合の一括りの為の観念とは、
認識内で量質転化化した考え方・心がまえ・対象に対する感情…

それらは、生まれてから今までの人生の現実の中で、
時に知らず知らず無自覚・無意識に、時に強制的意識的に形成されたモノ。

どんな観念論でも始まりは事実・現実・世界である。
それで、世界・現実・事実の認識には観念(論)が必要である。

こんな観念論と唯物論だから、この両者の統一が必要、
と誰かが言ている。

唯物論と観念論を絶対的観念論で統一したモノが、
普通に言われている世界観としての「観念論」であり、

唯物論と観念論を(絶対的)唯物論としたら、
それは世界観としての「唯物論」でになろうか…。

絶対的唯物論なら、どうな(他人の)観念・記述も「存在するモノ」として、
モノの変化・運動として、世界の一部として己の中に受け入れ発展可能であろう。


でも…絶対的観念論だと、己の信じる観念が優先であり、
他の観念は、己の信じる観念内に同化させるモノ…なのだろう。


初めに観念化すべき観念は、
世界との関わり方であり、ミニ世界であろう。

己の家庭は社会の一部…
その社会環境は国家の一部…
その国家は世界の一部…

人間は、どんなに頑張っても、世界の一部の中で生き、生活している。
しかし、その己一部を世界の一部だと、自覚・認識・実感し得たなら…
多くの他人の一部と自己の一部を総合・総括…そして統括でき得たなら…

己の認識している今の世界像は、
確実に真の世界像に一歩も二歩の近づけるのだろう。

己を知り、敵を知り、味方を知り、
そして傍観者を知り得れば、世界に勝てる!





















コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

激しい思い込みの損!?

2018-11-11 12:01:31 | 想いのままに…




以下が、その「激しい思い込み」コメントである。


…………引用開始…………

(前略)


それより何より天寿堂さんの言っている「唯物論は事実を起点に論理を展開、観念論は本質を起点に論理を展開」って、「帰納と演繹」のことですよ。

論理学の本の帰納と演繹のところを唯物論と観念論にすり替えただけのモザイクと言ってよいのか何と言ってよいのか、とにかくデタラメで、これでは観念論だとか唯物論だとかいった概念が出てきた所以も失われてしまいますしね。


…………引用終了…………



上記のような言い切りは、とてもスッキリして気持ちいいのだろう。

でも、言葉は認識の表現であるから、天寿堂氏が「帰納(法)・演繹(法)」知っていて、
敢えて、上記のような書き方をしたのなら、それはそれで「帰納法・演繹法」とは違うのだろう。
とは考えないのだろうか?

例えば、
私を「今は青年だ!」と書くなら、間違いである。
でも、「過去の私は青年だった」なら正しい。

ここを心中で『過去は』と思いつつ「青年だ!」と言ったら、
聞いた人には間違い、
でも、当人には本当である。

だから、ここは決めつけではなく、
「帰納法・演繹法」の事実を彼に突き付けて、
彼の認識を問うのが筋であろう。

私には、それが不可能である。
それは、過去から現在も天寿堂ではアク禁だから…

それに、絶対的観念論者の彼は、
多くの人が分かるように、誤解がないように、
誤読がないように…

表現しようとする意志がないのだろう。
と言うか、その必要性を認識していない。


それは、
「俺は正しい!」
「正しいモノを正しいと書いて何が悪い!」
「正しいモノを分からない者達が悪いのだ!」

「絶対的真理はある!」
「それをない!とする者達には、俺の言説は理解不能だ!」
てな感じかな…


まあ~私が思うには、言葉・表現には、そのレベルがある。

例えば、「今の時間は?」は、日常生活なら間違いではない。
しかし、「今の時刻は?」が、正しい言葉の使い方である。

「時間」とは、連続している時と時の間の長さであり、
「時刻」とは、連続している時を刻んだ瞬間である

天寿堂氏の唯物論・観念論は、帰納法・演繹法とはレベルが違うのかも?
と思うなら、それはそれで気持ちが落ち着けられる。
そして、そのレベルの違いは?と先へも進めるだろうに…

結局、奴はいつも奴のまま、最後は自己正当化の「決めつけ」で終わっている。
と言うか…そのまま去って行っている…

もっともっと!突っ込みを入れて、
天寿堂氏の認識を解明して頂けると、
もっともっと私も安らげるのに…

あ~あ~
他力本願はマザコンだね!
自力本願が自力コンだよ!





以下は参考です。



えん‐えき【演繹】推論の一種、一定の前提から論理規則に基づいて必然的に結論を導き出すこと。通常は普遍的命題(公理)から個別的命題(定理)を導く形をとる。数学の証明はその典型。演繹法。


き‐のう【帰納】推理及び思考の手続の一つ。個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと。導かれた結論は必然的ではなく、蓋然的にとどまる。


帰納の例
「昨日、彼女と会った。今日も彼女と会った。→帰納的推論→ならば、明日も彼女に会うだろう」
つまり帰納とは、手持ちの「情報」から、ある「理論」をつくって、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。

演繹の例
「人間は死ぬ。ところでソクラテスは人間だ。→演繹的推論→ならば、ソクラテスは死ぬだろう」
つまり演繹とは、手持ちの「理論」から、ある「情報」を加味して、新たな「予想」をたてる形の推論方法です。

ついでに書き加えると、帰納と推論を完全にわけることはできないと思われます。
簡単に言うと、理論と情報は、にわとりと卵のように、どちらが先かを断言できないからです。

以上、ちらほらと固い言葉を使いました。




コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本質って?

2018-11-11 11:28:19 | 言葉・概念

「本質」と書いたら、本質が分かった気になった。
でも…
本質は何なのだろう?
この本質という言葉は、何を表現したモノなのだろう?

例解新国語辞典[第二版]には、
「本質―もののもつほんとうの性質」
「本質的―いちばん根本的で、重要である」と書かれている。
これで分かった気になる。

でも…
「本当の性質」って?
「もの」って?

私の本質、
一人っ子の本質、
父親の本質、
男性の本質、
老人の本質、
人間の本質、
哺乳類の本質、
生物の本質、
生命体の本質、
物質の本質、、
地球の本質、
宇宙の本質、
「もの自体」の本質、
……
全てのモノ・コトに本質が考えられる。
ならば、本質の本質である。
本質的な本質とは何なのだろう?

それが、ヘーゲルの云わんとする「絶対精神の自己発展」なのだろう。
しかし、「絶対精神の自己発展」と一言で表現した所で、その具体的内容は?

上記の場合の「私の本質」と、
一番下の宇宙の性質から一番上へ登れた時、
それが私の本質。

個々の本質に到達できずとも、個々の性質を重ね合わせれば、
私の本質へと近づけるのだろう。

以上から私が思うは~
人間が、対象の本質を識る事・到達する事は不可能である。
それでも、上記のように、個々の性質を求め、
重ね合わせる事で、そのモノの本質へ近づけられる。

だから科学である。
科学の使命、個々の事実から、ある纏まりを構成し、その纏まりの性質を識る事。
または、ある事実を一枚また一枚と順番に剥がして、その個々の性質を追求する事。

私の事なら、
一人っ子、男性、父親…と一つ一つ剥がして、その個々の性質を調べ、
最終的には、宇宙の性質へ…

性質を求めるには、本質の追及が必要なのだろう。
本質の追及がない限り、正確な性質は分かり得ない、だろう。
これが、本質を求める筋道なのだろう。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする