自分の理解を深める為に、以下のコメントを踏み台して、
踏みつけ登ってみようという想いから、
以下のような記事を書く事にした。
そのコメントは、以下である。
2018 11/17 (土) 17:17
記事「唯物論とは」に投稿されてモノである。
・コメントを書いた人
ポリティコス
・タイトル
・コメント
「タダモノロン」なんて言葉は私だって知っているわけです。
ですが「タダモノロン」だとか「逆噴射」なんて言われただけで納得できるような思考回路はしてないわけなんですよ。
自由びとさんはお気楽で良いですね、「タダモノロン」とか「逆噴射」で納得できてしまえるんですから。
昔のソ連の学者たちも「弁証法的唯物論」とか叫べば何だか解決できたような気になって、相手に「機械的唯物論」だとかレッテル貼れば済んだかに思えたわけですから気楽でしたよね(笑)
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上記のコメント、どこが良くないのか?
そもそも…
このブログは、
読者を納得させる為に、書き続けられているモノではない。
私の思った事・考えた事・痛感した事・納得した事…等を、
私自身の為に書き続けている、モノである。
それも、「悟りを求めて~」の為に…である。
私の納得した記述を、納得する・納得できる、かは、読者次第である。
このような~このブログの趣旨を読み取れずに
>言われただけで納得できるような思考回路はしてないわけなんですよ。
と公言できる、その神経の図太さ? 阿保さ!…には呆れている。
これは、お宅くん以下の叫びに、私には聞こえる。
俺は、まともな「思考回路」を持ち合わせていない!
そんな、俺のまともでない「思考回路」でも納得できるように書け!…と…
ここでは、「読者を納得させる為」でない以上、
仮に、読者が納得したいのであれば…書き手の立場で読み取る必要がある。
そんな前提を読み取れない…という事は~
このお宅くんは、自信過剰のなのだろうか?
自信過剰者は、その肉眼・心眼を曇らせてしまう、から~
この阿保心の叫びに応えよう、とは、思わないが…
でも…折角の阿保の叫びなので、この阿保心に二重化して、
阿保でも納得できるかも知れない…
記述を求めて~チャレンジである。
もっとも…
普通の私が、この阿保心の二重化する事は、非常に危険である。
それは、
>俗物と闘うものは自らも俗物になることに気をつけよ (有角)
2018-11-16 23:24:39
↑
となり得るからである。
そこで、敢えてコメント欄という同じ土俵でなく、
ここに、記事として書く事にした。
これは、「闘わずして闘う事」事でもある、のだろう。
ここでの問題は、
「ゆいぶつろん」と「タダモノロン」の区別と連関?であり、
「弁証法的唯物論」と「機械的唯物論」の区別と連関?でもある。
ここでは、「逆噴射」という言葉を、ここでは使われていない…ので通過。
「タダモノロン」とは?
対象を「ただモノ」として扱い論じる。
例えば、人間を論じる、ならば、それは目に見える人体から人間を論じる。
「ゆいぶつろん」ならば、
人間を論じる場合、
目に見える人体から論じるは当然として、
目には見えない認識・頭脳活動からも論じ、
身体と認識から同時に論じる必要がある。
更に「世界観」としての「唯物論」なら、
モノ自体から人間までの進化過程をも含めて唯物論的に論じる、
のだろう。
他人の言説を自分が「納得できる」にも、能力・実力が必要であろう。
もっとも…
詐欺師・ペテン師なら、手を変え・品を変え・言葉を変えて、
黙って、そこに座っているだけで納得させてくれるだろうが…
>昔のソ連の学者たちも「弁証法的唯物論」とか叫べば何だか解決できたような気になって、相手に「機械的唯物論」だとかレッテル貼れば済んだかに思えたわけですから気楽でしたよね(笑)
過去の時代の学者・人々を今の学者・人々が、
現代の文化・教育からボロクソに否定するのは、
どうなのだろうか?
例えば、
子供がサッカーだと信じて、ボールを転がして遊んでしている姿を、
一流のサッカー選手が、
「…ただのボール転がし!それをサッカーなんて気楽だね!」
と思う・言う・書く、だろうか?
一流選手であれば、子供達の真剣なボール転がしの中に、
将来、真のサッカーに不可欠なモノの姿を視て取れるだろう。
結局、
上記のお宅くんの最後の記述も、
現代のお宅くんが他人から借用した唯の知識から
過去の学者達をあざ笑って(笑)しているだけのモノであろう。
ここで、更に再考すべきは、「納得」とは?である。
知らされても納得できない。
分かっても、納得できない。
そこまで言わなくても納得できる。
言わなくても、見てて納得できた。
「気とは認識の技化である」という
南郷継正の言葉が納得できるのに…
私が、どれ程の時を必要としたか…
今の私的な表現なら以下であろう。
気とは認識の技化である。
それは~例えば、
普通に一気で一力を発揮できる人が、
気を体得したなら、
その気のレベルによって、
一気で、十力だったり、一気で百力だったり、
更には、一気で、指先に全身力の集中が可能だったり…
そんな感じです。
まあ~結局は、
己の感情に反するモノ・コトは、
なかなか納得し難いモノであろう。
もっとも…
ここでの納得し難いモノ・コトが、
真理で有るか否か、は
また、別次元の問題であるが…