新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・「1000g=1.000㎏」の話

2024-06-23 16:35:07 | 教育


続・「1000g=1.000㎏」の話


「g」・「㎏」単位の関係・概念の習得の一般的な方法は~

「1000g=1㎏の場合」は以下です。

1000g=1㎏
100g=0.1㎏
10g=0.01㎏
1g=0.001㎏

このような数・文字(単位)式の羅列から、区別と連関を分かる児童には、「「1000g=1.000㎏」は不要。

この式が有効なのは、上記の数・文字(単位)式では、分かり難い児童に向けての~モノ。

これを


「1000g」

「1.000㎏」


上下に対比的に書けるなら~
後は、機械的に代入すれば~

0100g⇒0.100㎏=0.1㎏。
0010g⇒0.010㎏=0.01㎏
0001g=0.001㎏=0.001㎏

というように~機械的代入が可能!

算数苦手意識の強烈な児童達には、意味不明で機械的であっても…「正解!」できた感が必要・有効。


そもそも…初めの「1000g=1.000㎏」を見て~
「何となく同じ…」でも「何か違う?」といった感想で…
間違い探しの図・絵パズル的に、違いの発見!がいいかな…

違いは、小数点「.」のある・ない。
「g」に「k」のある・ないor「gと㎏」の相違(gと㎏の意識がある児童なら…)
そんな問い掛けの意識が、算数的な好奇心の始まり~なのかも…


そうそう~「これ(「1000g=1.000㎏」)だと…子供が混乱するかも…」
の理由・意味に気付きました。

それは、
算数・数学での小数点「.」のある「1.000=1」表記と、
一般常識的なコンマ「,」のある「1,000=1000」表記の誤解の事でしょうかね…

ただ言える事は~
算数Cクラスの児童達には、「1,000=1000」という常識はないいでしょうね…」


昨日の今日!
昨夜に、お宅コメントへの返事コメント、そして、学城23号の読み進め…
その結果の就寝前の私の意識の影響でしょうか…
睡眠中の意志ない自由な認識・頭脳活動の結果が、今朝の新たな「気付き」なのでしょうね…
それは、言うなれば~
弁証法的な認識・頭脳活動の技化・無意識化、
それは、自覚・意志なき状態での本能レベルの目的・意識的な頭脳活動なのかも…



そうそう最後に書きたい!
読者からので意見が欲しい!
~昨夜就寝直前に読んで感動・実感した「神庭 純子氏の論文」の以下のような内容について~


看護者・師は、被看護者の行為・しぐさ・顔色・感情・言動・行為…の微細な変化を感覚して、
それを過去の自己体験に二重化して、その微細の変化に、どのような意味・感情・気持ちが含まれるかを想像して…
その者の悲しさ・苦しみ・悲しみ・辛さ…を実感・痛感できる事が(プロ看護師には)非常に重要かつ必要だが…

しかし…プロの看護師は、その被看護者の感情・思い・辛さに同感・痛感して、「同病相憐れむ」や「傷のなめ合い」ではダメ。
確かに…動物の自力ではなめられない箇所の「傷のなめ合い」なら、ゴミ・汚れの撤去・自然治癒力の補強的効果は期待できるし…
また、友達・同僚同士で「こんな悲しみは私独りではなかった!」的な共感・仲間意識は有効だろうか…

それでも、人間のプロ看護師なら、自己の中で自分でも耐えられない程の相手の苦しみ…に痛感・激観…しても~
その状態を「下から押し上げる」or「上から引っ張り上げる」ような能力のある自己の創像・実力が求められている。
これは、自己の中に、「被看護者的な自己像」と「プロの看護師的な自己像」の二重化が必要・不可欠という事だと理解した。


それは、今の私の中に、
授業中に突然、廊下・外へ走って出て行っしまう児童の認識像を想像して、
その児童を叱らず(日本語理解不能なので叱ってから諭す事は不能)、
また、幼稚園・保育園の集団生活の体験皆無なので叱っても「何故に叱られるか理解不能」、
そんな児童の認識像を創り上げて、それでも…彼を教室にいられるようにする実力ある私が求められている…
しかし…現実の私は「彼の補助はギブアップ」していて、
彼の対応は、他の優しいお母さん・女性補助員にお任せなのです…

過去の経験⇒私の「叱ってから、そして諭す」は、
言葉の通じない相手、正しい言動・行為が分からない・未修得の児童には、
効果は、ほとんど期待不能ですね…



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「1000g=1.000㎏」の話

2024-06-22 11:36:36 | 教育
「1000g=1.000㎏」の話



今回の「1000g=1.000㎏」を見て、何を思いますか?

昨日、上記の式を三人の教員に見てもらったら、三者三様の感想を頂けた。

今年新規採用、20代前半の四年生担任、女性教諭A、
今年から高学年の算数担当(昨年までは低学年、その前は高学年クラス担任)の30代~40代の経験豊富な女性教諭B、
低学年算数担当のベテラン(60代だろう)男性講師C、



そもそも…何故に私が、「1000g=1.000㎏」の表記を思いついたのか?
それは、今週の水曜日に四年生の少人数算数のCクラスの補助に入ったから~
そこで、整数の「g」表記を、小数の「㎏」表記に変換する方法の説明・教えるのに苦戦したから~
私の説明では、Cクラスの児童達には、なかなか納得・分かって貰えなかったから…

そして…その後に突然に「「1000g=1.000㎏」表記が思い浮かんだ…
普通は、「1000g=1㎏」表記であるが…

「1000=1」という表記より、「1000=1.000」表記の方が~
「1」「0」「0」「0」=「1」.「0」「0」「0」小数点はあるが、同じ数字化三つで、対応させやすい。


この~

「1000g」⇔「1.000㎏」から
「1001g」⇔「1.001㎏」となり、
「0001g」⇔「0.001㎏」となる。

言うなれば、「グラム⇔キログラム」表記の為の変換公式とも言えよう。
数字を代入すれば、ほぼ自動的に変換可能。

「1」「0」「0」「0」(g)=「1」.「0」「0」「0」(㎏)
左右の「」の中に、同じ数字を代入すれば、小数点「.」が、自動的に変換してくれる。
ただ…数学・算数の計算・表記では、左側一番端の整数の前の「0」は書かない!
また、小数点の位の最後の整数の右の「0」は斜線で消す・省略!…が原則。
「0001」は、必ず「1」表記で、「1.000」も、必ず「1」表記である。

それでも…この原則を確りと自覚・忘れないでの~
「1000g=1.000㎏」の表記・変換は、非常に役立つという確信があった…



そこで、昨日まず初めに「経験豊かな・教諭B」に話してみたら~

開口一番「1.000」とは書きません…この表記だと「これだと…子供が混乱するかも…」
その後、私が上記のようなメリットを説いたら~
「う~分かるかも…」とか「どのような説明・解説でも最終的に分かればいい・同じ…」とか~
そんな感想・反応…でした。
そう~「あまり乗り気・使う気は、なかった」ようだ…


次に「若く経験が浅い・教諭A」に伝えたら、、パっと明るい表情で「今度、授業で使ってみます!」。
私が入った水曜日の授業の補助が彼女の担当したCクラスで、そこでの彼女の苦戦姿を観て知っていた…

最後に、算数教科専任のベテラン講師Cに見せたら~ 「この、小数点の後ろの『.000』は(斜線で)消します」~
それでも…私が上記のようなメリットを説いたら…なんとなく分かってくれた、ようです。


この式・表記は、言うなれば、過去の私の体験・経験から、思いついた式・表記であり…
これは自前のモノ、と言えよう…

確かに私的には、有用・簡単・楽…であろうが…その理由は「私が自力で創出したモノ」だから
果たして…児童達は、どのように、感じ取るだろうか…

本当は、自分で実際に、児童達に教えてみたい!のだが…



それは、上記の「教員」三人の感想・言葉から…想像するなら…
全く、児童達が、初めての「g・㎏」を用いた「小数変換」の学習なら~
「若手教諭A」的なこの式は有効・分かり易い…「使える」


でも、過去に既に「学習した結果」、その児童なりの変換方法を体得している児童には、
「経験豊から教諭B」の分かり難い・「混乱するかも…」

そして、算数・数学的な思考に優れている児童なら~
「ベテラン講師C」のような「納得しても使う必要なし…」



教師も人間である。
教員として、初心レベルで、算数・数学が不得手な教師の気持ち・感想。
経験豊富で、その指導法・教え方に自信ある教師なら、そのレベル気持ち・感想。
数学専任・ベテラン教師なら、その有効性・有用性・メリット・デメリットが分かる。


ここでの問題は?or今後の課題は?
上記のような、認識・観念的な考察でなく、
現実に実際の授業・学習の中で~
この「1000g=1.000㎏」表記が役立つか?否か?

試してみて~初めて分かる唯物的効果・有効性!
ここまでは、観念的・私の観念内でも「有効性・有用性」にしか過ぎない…
仮に、以下の~
>「ここでの問題は?or今後の課題は?
上記のような、認識・観念的な考察でなく、
現実に実際の授業・学習の中で~
この「1000g=1.000㎏」表記が役立つか?否か?」<

という上記の私的な思考・言説…が、思いつかない私なら~
~それは観念的であり、観念論的でもある~


自己の認識・観念内中で、自己の否定認識・非観念を想起不能なら、それは観念論的世界観なのだろう。
自己の否定認識・非認識とは、他人の認識・他人の事実でもって…自己否定をする事なのだろう。


言うなれば、自己の観念論的世界観を常に自覚して、それを唯物論的世界観での唯物的に否定する事。
究極の「観念論的世界観」とは、自分は正しい!自分の思考・言動・行動は、絶対的に正しい。
その否定は、自分が信じられない他人の「観念論」で、徹底的に自己否定し続ける事。

真の正しいとは、自分を含めた全てである。
自分の「絶対的に正しい!が、絶対的に正しくない!」という事実を発見・自覚しつつ…
それでも…自分が正しい…へ変化・運動できる、ような認識・思考活動なのだろう…


今の「絶対的に正しい!」は、この先の今では「絶対的に正しくない!」へ
過去の今「絶対に正しくない!」が、今は「絶対的に正しい!」だったり…


そのなのです!
「今・絶対的に正しいと思える事は」、今すぐ実践して確認すべき!なのだろう。
空手の勝負で、相手の「隙発見!」即「攻撃」…正しければ「アタリ」。
相手に、逃げられ・避けられれば「ハズレ?」…

隙は分かっても、攻撃が間に合わない!
「時と場合・タイミング」and「勝負は時の運」






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具体的な「教育過程での距離」

2021-03-21 13:33:28 | 教育

具体的な「教育過程での距離」


教育には「教育目的」と「教育目標」が考えられている。

教育とは「教え・育てる」事。
ここでの教育とは「人間教育」。
人間とは「創り創られる存在」・「認識的実在」。
子供は「育てたように育ち、育てられたように育つ」

両親・教師は、将来的に一
一人前の社会人になれるよう子供・学生を教育する。

ここで以下の具体例で考える事にする。

親・教師が子供に「ありがとう」を教育しよう、とする。

「ありがとう」の教育目的は「社会的な人間の育成」
「ありがとう」の教育目標は、「正しくありがとう言える事」


「ありがとう」の教育の目的の二重性
 
(一) より円滑な社会生活の為。
(二) 個人内の感謝の感情育成。

「ありがとう」教育目標の二重性
上記(一)の目標は、相手の適切な行為に対して言える。
上記(二)の目標は、感謝の感情を抱いて言える。

社会的に「正しくありがとう」(社交辞令的な)
個人的に「正しくありがとう」(感謝の感情から)

さて、親は、子供に
「何かしてもらったら『ありがとう』を言おうね」とか…
「ここは『ありがとう』でしょう」とか…
色々な場面で「ありがとう言うタイミング」を教えようとする。

でも、果たしてその時、そのタイミングで、
その子供が「感謝の感情」を抱いているかは不明であろう。
このような言葉での「ありがとう教育」は、
言うなれば「ありがとう型」を教える事であろう。

ならば、その「ありがとうの使い方」教育とは?
それは、親が、常に子供の行為・言動に対して
「ありがとう言葉を意識する」事であろう。

親にとって特に「有難い」とか「感謝の気持ち」が湧かなくても、
子供が「親を意識して好意でした事に対して言う」事。
これは、「ありがとうの使い方」の型と言える。

ここで、いくら幼児が親を意識・好意でも、
それが、「叩く」なら「ありがとう」は不適切であろう。

さて、教師の学生に対する「ありがとう教育」でも、
学生が何かしてくれたら、教師は「ありかとう」であろう。

しかし、教師の人数は少ないので、その機会も少ない。
その点、学生から学生への「ありがとう教育」は
同学年・先輩…と無数にあり得る。

同級生同士の「ありがとう教育」は機会が多くても、
そこでの適切さに難点がある。
先輩による教育は同級生同より機会が少なくても、
その適切さの精度がよい、だろう。


このような「ありがとう」の教育過程での距離とは、
教師の「ありがとう像」と、
その学生が描いている「ありがとう像」の差異と言える。

その像とは、
相手の適切な行為に対して言える。
感謝の感情を抱いて言える。
このような行為実現可能な「認識・像」である。





この「差異」から「一致」へ目指すと決めた時、
その「差異」を「距離」と捉え、
そこへ至る「道程」を考え始める。

この「距離」を縮める為には、
その「道程」を歩み続ける事。


その歩みの「道程」が以下である。
理想的・適切な「ありがとうの基本型」の教育。
理想的・適切な「ありがとう使用型・法」の教育。

教師と学生では理想的な「ありがとうの基本型」の距離は、
一人一人異なるが、それでも比較的近いモノであろう(知識として)。
だも、その理想的・適切な駆使型は、かなり離れていると考えられる。


教師は全体・学生全員に、「理想・適切」を共通の言葉で教え、
一人一人が、理想的とは言えずとも、
適切な「ありがとう」を言える為に
日々の教育過程でのチェックを怠らない必要があろう。

たかが「ありがとう」、
されど「ありがとう」。


誰かが書いていた。
人は、「ありがとう」と「すみません」が言えれば、
人生なんとか生きて行けるモノである。

これは、社会生活・人間関係では、
嬉しい・感謝の気持ちと
悪かった・謝罪の気持ちが、
とても重要だという事なのだろう。


ここでも「ありがとう教育」を例にとったが…
論理的に、教育全てに通じるモノがあると確信している。

それは、「人は創り創られて人間となる」
教育は、「個別的個人を社会的個人として教え育てる」事。





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再び「月研ぎさんの『距離』について…

2021-03-13 18:26:34 | 教育


前回の『月研ぎさんの「距離」について…』は
月研ぎさんの「距離」について… - 新・悟りを求めて~ (goo.ne.jp)

2020-03-11 11:32:08 | の事である。
それから一年が過ぎた。
今日、再度読み返したら…
なんかとても恥ずかしい気持ちになった。
よくもまあ~こんな中身のない事を長文で書けたモノである、と!
もっとも…今回の内容に中身が認められるとは限らないが…


教育過程での「距離」の問題を集団登山で考えてみよう。
初めに教師は、頂上への道を示し、登り方も教えてくれる。

そこで学生が教えられて直ぐに「頂上」が見えたとしても、
また忘れるかもしれない…

登り方や歩き方の形は記憶できても、
その体得・習得は、人によって難しいかもしれない、
平地なら普通に歩けても、山道歩きでは転ぶかもしれない、
途中で疲れて歩けなくなるかも知れない…

そこで「頂上」まで登り続けられる為に、
同輩、先輩、教師の存在が役立つ。

同輩同士は、互いに励ましたり、競い合ったりして、登り続けられる。
先行く先輩の姿は、後輩にとっては頂上へ道しるべ。
また、その登る姿から登り方も学べるだろう。

教師は教師同士、学生の登山の様子を互いに確認し合いながら、
水のみ・休憩の時間や登山路の難易度の選択を相談し合える。





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快・不快と行為・行動…

2020-08-02 12:33:05 | 教育
快・不快と行為・行動…


人間の動物的な行動は、
不快を避け、快を求める、が基本だろう。

児童にとっての学校の勉強の場合~
成績が悪いと、親に叱られるから、勉強する。
成績が良いと、親に褒められるから、勉強する。


授業中であれば…
先生に注意・叱られるから静かにする。
先生に褒められるから、静かにする。

これは、児童の場合なので、
そこには主体性がない。

「この主体性がない」とは、
親・先生がどうのこうのではなく、
児童自身がどうしたい、がない事。


そもそも…
多くの児童達は、勉強が嫌い、勉強はしたくない…ようである。

なので、主体的には、「学校の勉強はやりたくない」
その理由は、
「勉強よりゲーム方が楽しい」とか、
「その勉強は塾でやった・知っている」とか、
「この勉強して何になるの?意味ない!」とか、


児童が、静かにしない理由は、
「今、自分が話したいから、」てか、
「今、気持ちが落ち着かない」とか、
「何で話したいのに我慢するの?」とか、
「話して何が悪いの?」とか、
「僕は静かにできない、我慢できない!」とか。

その殆どが、その児童の個人的な欲求・思いから。である。

それでも、親・先生の叱る・褒める…から
勉強しようと頑張ろうと思う児童達であるが…


家で親の言葉で、『叱られる勉強しよう!』と思っても、
いざ授業中になれば、面白くない・わからない…等の理由で、
ヤッパリ勉強に集中できない児童もいるだろう…


動物であれば好まないモノと関わるのは「不快」である。
だから「不快を避ける」のは必然であり当然である。
しかし、動物であっても人間の場合は、
「不快だから避ける」訳には、行かない場合も必然・当然にある。


ならば、どうすべきか?
それは、「不快を避ける」為の行動自体を
「快」と感じるように習慣化・技化する教育である。


勉強が嫌いな児童に対して教師は、
「先生の話は楽しい」とか、
「先生の話は面白い」とか、
「先生の笑顔が好き♪」とか、


その行為の目的が「先生の話を聞く」であり、
その為の行動が「静かする」である。

この過程で児童の思いには「不快な勉強」がない。
ここでのポイントは、
教師の一言一言に「勉強の中身」が求められている事であり、
教師は勉強内容を面白く・楽しく、話せる力量が求められている。

特に、低学年の内に、このような繰り返しの結果、
「先生の話を聞きたい」⇒「先生と勉強したい」
「先生の話を聞きたい」⇒「いつも静かにしたい」
となり得たら…である。


そうなれば、高学年になっても、
「先生」抜きでの主体的な行為で、
勉強は楽しい♪「快感だから」やる。
静かにする♪「快感」だから」やる。


そう~結果的に、
「不快」だった「勉強する事」が
「快感に変わっている事になる。






https://hinative.com/ja/questions/279165
行為 と 行動 と 動作 はどう違いますか?説明が難しい場合は、例文を教えて下さい。


行為:意思や意図をもとにした行動。時として他者へ与える影響の観点から述べられる。act.
行動:無意識的な動作と意識的な動作までを含む人の動作。action.
動作:身体的な運動やその作用。movement.
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