新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

弁証法の基本

2018-02-25 10:49:58 | 弁証法


以下の記述は


談論サロン天寿道
bbs6.sekkaku.net/bbs/tenjumichi.html

02/24(土) 09:09
タイトル
「弁証法の基本とはーなぜエンゲルスの弁証法では駄目なのか?」
を読んでの感想である。


その中で「弁証法の基本」について、愚案氏は以下のよう断言している。


>…このように有と無との統一としての成にも二重構造があって、その循環によって生起から消滅へ、また消滅から生起への無限的循環の論理が存在することを、ヘーゲルの学問的思惟がつきとめてくれているのです。したがって、われわれはこの見事な思惟の働かせ方を、真の弁証法の基本として学び、これを観念的な技として徹底的に技化して、自らの思惟力としなければなりません。現実との格闘は、その基本技が自分のものとなってから取り組むべきです。


ここで、以下の記述が真理か否かについて検証しようと思います。
>真の弁証法の基本として学び、これを観念的な技として徹底的に技化して、自らの思惟力としなければなりません。<

確かに、「弁証法性は外界」にあるモノ。
そして、「弁証法は認識内」のモノです。

でも唯物論的に考えるなら、認識は頭脳の機能です。
その機能は、その実体があってのモノです。

ならば、「これを観念的な技として徹底的に技化」する為の方法は?
それは、その実体を使って、その実体を通しての観念的技化である筈です。
この技化の過程が「現実との格闘」だとを南郷継正は説いているのです。

現実と格闘レベルで関る事で、対象の弁証法性を…
そして、その弁証法性を弁証法に…
そんな格闘の連続的過程が弁証法の技化への道でしょう。

その技化への基本が「弁証法の三法則」なのでしょう。
「量質転化」を意識して、事物の繰り返しを行う事で、
「相互浸透」に気付け実感可能になり、
そこから、「否定の否定」の発見への道が開けます。

そして、このような現実との格闘の繰り返しで、
「矛盾」の実感が可能になり得るのです。

知る事、識る事、分かる事、実感する事…が出来ても、
それを正しく・正確に駆使できる事とは別なのです。




言い換えるなら、
三法則は弁証法創出の為の基本。

そして、愚案氏の言う
「見事な思惟の働かせ方」は、弁証法の的確な駆使の為の基本。

例えば、「死の恐怖感」についてですが…
「死ぬことは怖くない」と観念的に思い続ける事で、
「死の恐怖感」が消えるモノではないでしょう。

そもそも、現実的な死に直面しないモノに「死の恐怖は生じ難い」モノです。
『死は怖い』、『怖い』と思い続けるだけで、「死の恐怖」を感じるモノでしょうか?
思うだけで「死の恐怖」を実感可能なのは、過去に現実的な死に直面したモノだけです。

想像力が豊かであっても、死の場面の映像・視覚像化は可能でも、
その体験・経験ないモノには、その恐怖感情の実感は至難です。

同様な事が、愚案氏の言説にも、言えるのです。
彼が、ここで説いている「真の弁証法の基本」も、
それを読んで『ほう~そういうモノなんだ♪』と思えても、
いざ、基本のマスターの段階になると
『え?観念技の観念的な技化って何?』なのでしょう。

それに対して、南郷継正は説いています。
観念技の実体を通しての技化・方法論を~
そして、その数々の具体的な方法を~

南郷継正は、現実・事実から論理・真理への道を、
愚案亭主は、ヘーゲルの説く真理から真理への道を
説いているだけなのでしょう。

ここでの問題は、人間の認識です。
それは有限かつ無限という問題です。
個体として有限であり、人類として無限です。

ヘーゲルの真理は、
彼の時代環境から創出された認識から創像されたモノです。
そこには、彼の生きた時代性の制限があり、あの時代の真理です。
そんなヘーゲルの真理が、現代でも直接真理となり得るのでしょうか?
愚案氏なら「なり得る!」と自信タップリで即答する事でしょう。
何故なら、彼には、ヘーゲルの言葉が真理として認識されているからです。
しかし、それは、「ヘーゲルの言葉が愚案氏にとっては真理」であるだけです。
これは、ヘーゲルの言葉を愚案氏が彼の能力で、
真理として解釈しているからでなのしょう。

例えば、武道の達人が子供の突きを真似しても、
その突きは、達人技となり得る事と同様です。

子供に、「ほら~見てごらん君の突きは達人レベルだよ!」
だから、「君は、そのままでも十分に立派だよ!」なんて…
言ったら、その子供は、どうなってゆく事でしょうか?








以下は参考にした記述です。



愚按亭主 - 2018年02月24日 (土) 09時09分

 ヘーゲルは、それまでのあれかこれかの静止体の弁証法の論理学の判断破壊を通じて、あれもこれもの運動体の弁証法を創り上げましたた。そして私は、これまで、そのあれもこれもの矛盾の論理こそが弁証法の基本だ、との主張してきました。これに対しては、当然次のような反論が予想されます。

 「弁証法はどういう科学か」にも、あれもこれもの直接性の説明があるではないか!それが無いというのならともかくも、あるのにどうして無いかのように批判するのか?それは、誤解に基づく見当違いの批判ではないのか!

 この批判は、たしかにもっともな批判であり、その気持ちもよく分かります。ただ、云わせてもらいますと、まさにこの批判こそが、ヘーゲルの弁証法が全く分かっていないことを示す証だと云えます。と云いますのは、ヘーゲルは「真理が手につかみ得るものであるかのように考える考え方を斥ける必要がある。」と述べているからです。ですから真理としての弁証法の基本は、事実から相対的に独立した思惟の運動として、技化しなければならないのです。このことは、南郷先生ご自身が、かつて空手の基本技の修得上の秘訣として、空手の基本技は、真剣勝負から相対的に独立した形で、最高の技を創りうる環境にて行わなければならない、と力説されていたのとまったく同一の論理に他なりません。だからゼノンの詭弁と称されている論理を事実レベルで考えてはならないのです。

 ところが「弁証法はどういう科学か」の中で説かれている、あれもこれもの直接性の説明は、事実レベルの論理でしかありません。ですから、当然、南郷先生はその論理を事実で考えて自分のものにせよと指導しています。たとえば、その中で例として挙げられている、歯車と回転とが、あれもこれもの直接性だとする論理で、どうして運動が生じるでしょうか?ありえないことです。これは、運動しているという現象の単なる説明でしかないからです。これが、南郷学派が説くあれもこれもの実態なのです。

 これに対して、ヘーゲルの説くあれもこれもの直接性は、事実レベルでは決してなく、全体性・普遍性の論理レベル、すなわち思惟レベルで有と無の矛盾、動と止の直接性、つまり、、有即無や動即止が運動の、矛盾の論理構造だとして説いてあるのです。実際、そこのところをヘーゲルは、どのように説いているのかを見てみましょう。

「(1)まだ何もない〔無がある〕が、何かが生ずべきである始元は純粋な無ではなくて、何かがそこから発生するはずの無である。それ故に有もすでに始元の中に含まれている。それ故に始元は有と無との両者を含んでおり、有と無との統一である。――云いかえると始元は同時に有であるところの非有である。また同時に非有であるところの有である。

(2)次にまた、有と無とは始元においては区別されたもの〔ちがったもの〕として存在する。というのは、始元は〔それ自身すでに〕何か他のものを暗示しているものだからである。――始元は或る他のものである有に関係しているところの非有である。始まりつつあるものは、まだない。それは、まず、有を目がけて進む。それ故に始元は非有に別れを告げ、非有を止揚するものであるような有を、非有に対立するような有を含んでいる。

(3)しかし更にまた、始まるところのものはすでに存在するとともに、それはまた存在しない。それ故に有と非有という対立するものは、この始まりの中でそのまま合一している。云いかえると、始元は両者の区別のない統一である。

 こういうわけで、始元の分析から得られるものは、有と非有との統一の概念〔即ち一種の有〕――もっと反省的な形式で云えば、区別のあるものと区別のないものとの統一、或いは同一性と非同一性との同一性の概念だと云ってよい。この概念は絶対者に関する最初の最も純粋な、即ち最も抽象的な定義と見てよいもので――一般に絶対者の定義の形式とか、名称とかが問題になるとすれば、実際この概念こそそれだといってよかろう。この意味で、この抽象的な概念が絶対者の最初の定義であるように、すべての更に進んだ規定や展開は、ただこの絶対者の一層規定的な、また一層内実的な定義に過ぎないものと見られよう。」(大論理学上巻の一より)

 このように物質の運動の始元の矛盾・論理を説くことこそが、弁証法の基本でなければならないのに、「弁証法はどういう科学」では、この始元の問題を、有のみの物質の永遠性を主張する唯物論と、絶対無から観念の力によって有が生み出されたとする観念論とに、始元における運動の基本的矛盾構造を解体・破壊し、あれかこれかの対立構造に分断した上で、唯物論のみが真理だとえこひいきしているのです。このような非弁証法的な死んだ論理学を、どうして弁証法の基本とできるのでしょうか?

 ヘーゲルは、その運動の基本的な矛盾である、有即無から生成と消滅の論理構造までをも引き出し、発展させてくれているのです。曰く。

「2、成の二契機〔生起と消滅〕
 成、即ち生起と消滅とは有と無との非分離である。それは有と無とを捨象する統一ではない。むしろ、それは有と無との統一として、こういう規定的な統一であり、云いかえると、その中には有も無も共にあるような統一である。しかし、有と無との各々がその他者と非分離のものである以上、そこには有も無もない。つまり、両者がこの統一の中に有るにしても、消失するものとしてあるのであり、止揚されたものとしてあるにすぎない。両者は、はじめに両者がもっと考えられた独立性から契機に、即ちいまもまた互に区別されてはいるが、しかし同時に止揚〔否定〕されているような二契機に落とされる。

 この両契機の区別という点から見ると、各々の契機はこの区別の中にありながら他方のものとの統一という形である。それ故に成は、有と無との各々がそれぞれ有と無との統一であるような二つの統一として、有と無とをその中に含んでいる。一方の統一は直接的なものとしての有であり、他方の統一も直接的なものとしての無であるとともに、また有に対する関係としての統一である。その意味で、二つの規定は共にこういう統一でありながら、不等な価値をもっている。

 成はこうして二重の規定をもつ。一方の規定においては無が直接的なものとしてあり、
即ちこの規定は無から始まり、この無が有に関係する。即ち無から有に推移する。これに反して他方の規定においては有が直接的なものとしてあり、即ち規定は有から始まり、その有が無に推移する。――即ちそれは生起と消滅である。

 この両者は同じもの、即ち成であるが、またこのような互にちがった方向を取るものとして互に浸透しあい、相殺しあう。一方の方向は消滅であって、有が無に推移するが、しかしまた無は自分自身の反対であり、有への推移であって、即ち生起である。それで、この生起は反対の方向を取るものであって、ここでは無が有に推移するが、しかし有はまた自分自身を止揚するのであって、むしろ無への推移、即ち消滅である。――両者は単に相互的に相手側を、即ち一方が外面的に他方を止揚するのではない。むしろ各々はそれ自身の中で〔即自的に〕自分を止揚するのであり、しかもそれ自身において〔対他的には〕自分の反対となるのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論より)

 このように有と無との統一としての成にも二重構造があって、その循環によって生起から消滅へ、また消滅から生起への無限的循環の論理が存在することを、ヘーゲルの学問的思惟がつきとめてくれているのです。したがって、われわれはこの見事な思惟の働かせ方を、真の弁証法の基本として学び、これを観念的な技として徹底的に技化して、自らの思惟力としなければなりません。現実との格闘は、その基本技が自分のものとなってから取り組むべきです。
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悟りとは何か

2018-02-24 12:10:49 | 悟りシリーズ



以下は、旧「悟りを求めて…」ブログの記事である。


月刊「空手道」誌に連載された、『武道講義』
ー武道と認識の理論ー 序章Ⅰの中の
「悟りとは何か」を書き写してみた。



「悟りとは何か」 1979年 9月

 禅とは何か、悟得とは何かと問われて、はっきり解答をだせる禅師・禅学者はほとんど
いないようである。それだけに周囲の人たちには一層霧に包まれた感があり「世間では、
わけのわからないチンプンカンプンな問答を、よく禅問答のようだという」(佐橋法龍『禅入
門 』 三一新書)ことになる。これは禅の罪なのであろうか、それとも禅師・禅学者の罪
なのであろうか。
 
端的にはそれは両者の罪である。本来的に、禅は生きるという原点から生じるすべての問
題を自らを主体と化して一気呵成に一刀両断する一大流派である。これが、問題の問題点
を一つずつ解決していかんとする学的立場とは異なる分水嶺である。すなわち問題を対象
から解かず、問題を問題とする己れを問題にし、問題を問題視する己れこそが問題が起き
る問題点だと把握することにより、いかなる問題も問題にすることなしには主観的には問
題になりえないという問題の構造を問題にして生きる問題を解決せんと欲したのである。
少し詳しく述べよう。

 人間はこの大自然に人類としての歩をしめてから、自然に向う術を、そして己れとは何
かを問う方法を自らの能力によって解決せんとして二つの大きな流れを創出したことであ
る。

 そもそも人生は単純には生きることそのものであるが、人間が精神的実在である以上そ
れをより複雑化して把えかつ大問題化することになる。すなわち人間は対象との間に常に
矛盾を創出せねばやまぬ存在であるから、日常のすべてにわたって矛盾を創りだすのであ
る。ここを認識論的に問えば、それら諸矛盾を一般的に覆うところの一大矛盾が形成され
る。これがいわゆる不安心である。ヘーゲル流にいえば対象に安らわざる心であろう。こ
の不安心をいかに解決するかで二大流派が生じることになる。

学問と宗教
 これは両者ともに問題を解決することは同じだが、その方法論を異にする。一は問題を
個別的に分類し、その個別の問題の構造に従って、その性質を知り、お互いを連関づける、
つまり対象の構造に応じて解き方を究明して成長していくのである。二は問題を個として
ではなく一般的に受け止めそれを己れの問題として一気に解く方法論に立つのである。
 
 別言すれば、前者は自己に不安を生じさせた個別的な対象との矛盾を一つ、また一つと
解決することによって己れを安堵せしむるものであるのに対し、後者は対象を一般的に自
己対他として把えて、すべてを自己に同一化するものとして安堵したのである。ヘーゲル
流にいえば前者は対象を充分に知ることにより対象に安らい、後者は対象に関わる己れを
知ることによって己れを安らわんとするものである。







何故に、このようなモノを再び転写してのか、と言うと…
それは、このブログのテーマが「悟りを求めて」であるからである。

私は、何故に悟りを求めているのか?
その始まりは、私の教員時代である。
その契機は、月刊空手道の「武道講義」。

当時の私は、小学生の担任から中学生の担任に移動になり、
その生徒達と二年間関り続けていた。

その間に私が悩み続けた事は以下である。
それまでの五年間の小学生・児童達との関わり中で学び取った方法が、
何故に役に立たない!のか?
上手くいっていた方法のどこがマズイのか? である。

私の言動に対する生徒達の反応が、私の期待通りではない事。
その期待通りでない彼らの言動に対応できない私への不満。

それは、私には生徒達を
『このような流れで、こう持って行きたい』想いがあるのに、
結果は「こうしたのに、何故にそうなっていくの?」であった。

本来なら、ここは、辛抱して、再び一から中学生との関り、
その関わり方を学び取っていればいいのである。

でも…私は、そのような学び方をしなかった!
それは何故?
当時、意識していた訳ではないが、
今は、以下のようなに思ったからだ、と考えている。

例え、中学生と関り、その方法を体得しても…
その方法が高校生に役立つ保証はない。
また当然、大学生に対しての保証もない。
更に、元々人間付き合いが不得手だった私が教師を続けて、
子供達との教師的な関わり合い方を大人同士へも使用してしまう
だろう不安が…
そのようなモノがあったのだろう。
そこで求めたのが「悟り」であり、「悟得」であった。

でも…今考えると、
これは教師・教員への道としては正しくない。

当時の中学生担任としての私のすべき事は、
先ず求める「悟り」ではなく、
「教育とは?」「人間とは?「組織とは?」
「小学生と中学生の区別と連関」

なのに…私は不安一つ一つの解決ではなく、不安から回避策をとった。
その正当化の為の「悟りを求めて」だったのだろう。

「悟り」が「不安克服の方法」であるなら、
眼前の不安からの回避も「悟り」と言い得る。
ただ…問題は、眼前の不安から回避できても、
次に別の不安が生じるだろう事。

それは、「悟り」を求めても求めても得られず…
このままで、いいのか?

本当に悟りは得られるのだろうか?
それなら、この私の努力は何なのだろう?
そんな不安であろう。

これは、到達点が見えない・分からない不安。
自分の行為が、適切で正しいのか?分からないという不安。
言うなれば、確信が持てない不安、であろう。


そもそも「不安とは?」、「安心とは?」
安心とは「安定した心」ならば、
不安とは、「不安定な心」であろう。

でも、コロコロ転がるのが心だろうから、
この「安定した心」とは何なのだろう?

これは、「運動体の安定とは?」であろう。

それには二重性が考えられる。
一つ、心の運動自体の安定性。
二つ、周囲・外界の運動に対しての心の運動の安定性。

一つ目が、宗教的な悟り、であろうし、
二つ目が、学問的な悟り、であろうか…

ならば…武道の悟得り位置付けは?








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結節点の問題について

2018-02-22 11:25:04 | 想い思い考える

>…量質転化の結節点と捉えるならば、物事が大きく不安定になって行くのは当然とも思える。
>例えば、冬から春に変わっていく変わり目である現在、早春の時期に気温の大きな変化や大雪等と天候が大きく不安定になっていくが如くに。

これは、ブログ

「鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~」の記事、

『職場の、個人的の雑事〜物事の変わり目の普遍性、あるいは量質転化の結節点の問題〜』

http://blog.goo.ne.jp/kagakuteki-sinkyuron/c/a0b7c0d549b8dc1b62925fed6dd2812e
2018-02-21 07:58:24 | 日記

の記述から「結節点」について考えた。
量質転化の結節点とは、量の積み重ねが質に変化する境界状態・部分であろう。


例えば、「冬から夏への変化の結節点は?」と言うと、
それは春である。

「春」の暖かさとは、寒さから暑さへ向かう過程であり、
寒さに暑さを含んでの変化である。
だから「暖かい春」と体感される。

それに対して「秋」は、と言うと、
それは、暑さに寒さを含んでの変化である。
だから、「涼しい秋」と体感される。

ならば、「冬から春への結節点は?」と言うと、
これは「三寒四温」的な状態であり、そこには季節の命名はない。
それは、寒い冬であり、暖かい春でも、ある状態。

正確に言語表現するなら、
それは、「量質転化化の結節点」と言い得る。
これは、量質転化の過程・ある状態から別の状態への変化の過程である。

それは、ある状態の衰退と同時に別の状態の生々・生成である。

そこで強く自覚・意識されるのは、「暖かさ」か「寒さ」であろう。
ある人は、『もうすぐ春なのに、まだ寒い』。
別の人は、『昨日より暖かい、もうすぐ春だ』。

結節点は、
どちらとも、自由に捉えられる便利点であり、
どちらかハッキリしない不安点でもある。

これが季節なら、それ程に問題はないが…
人生における自分の認識・頭脳・感情の問題となると~
それは、大問題として現象してくる。

この結節点の大問題化が、
私の大学卒業から就職後一か月間の状態であろう。

それは、安定していた学生状態の私から、
未体験の社会人状態の私への変化の結節点であった。

当時の私の犯したミスは、
学生状態的な私のままに、社会人的な私を生きようとした事。

それは、
ある事実に対して社会人的対応が求め期待されていたのに、
それを、
学生状態的な私で対応してしまっていた間違いである。

その結果は、
学生としてなら正しかったのに、
社会人としては正しくなかった。

しかし、学生状態的な私には、
何故に、「それが正しくない」かが分からなかった、のだろう。

これは、「正しくない理由」が分からない、というモノであり、
そこに欠如していたのは、私の「社会人的な状態」の認識であろう。
社会人とは?
社会に出るとは?
組織とは?
教員とは?
教師とは?


そう~当時の私は、「結節点」での私であり、
この問題解決が、私の「人生の課題」でもあった。

それは、学生状態であった私に、教師的な私を強要されていた状態で。
その状態の中、無自覚・無意識的に学生状態の維持を務めていた私。

そこには、頑張って正しいと思える事をやり続けても失敗してしまう消耗感・挫折感…
そして何をやってもダメ!ならば、『一体全体どうすればいいの?』
そんな不安感の連続であった、のだろう。

ならば!当時の私はどうすれば良かったのか?
それは、社会人、教員、教師…としての「型」を設定して、
それに、自分を当て嵌めて日々頑張れば良かった、
という事なのだろう。


それこそが、結節点の問題であり、
武道空手を、それまでの自分的な人間的認識・自分的な人間体のまま、
学ぼうとする時の問題でもあろう。

結節点とは、どっち付かずの状態でもある。
そんな状態なら、
自分の生きたい道に即した方を選択して、
即さない方は切り捨て、
前へ進むのが正しい道なのだろう。


もっとも…
八方美人的な天秤座の私、優柔不断の私には、
結節点の真っ当な通過は至難であった、のだろう。

この至難が至難のままに、
量質転化化すると、
精神疾患となり得る、のだろうか?






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何故? 何の為?

2018-02-21 10:46:59 | 想いのままに…


何故に?私はブログを書いている。
何の為に?ブログを書いている。

「何故」は、

どうして?~そうするの。
どのようにして?~そうなったの。

という、理由と原因の二通りをたずねる言葉である。

ブログを書こうと思った原因は、「書く事は考える事」という言葉を信じた事。
ブログを書き続ける理由は、「書く事を通して考える為」である。

この原因と理由の根底には、私の想いがある。
それは、『頭が良くなりたい!』・『賢くなりたい!』とった想いである。

頭が良いとは、
「実体の質が良い事」と「機能の使いの使い方が適切である事」
の二重性がある。


実体を頭脳、機能を認識とするなら
実体の質が良いとは、
頭脳が身体を自由自在に制御可能である事。
認識の使い方が良いとは、
対象に即して適切に考える事が可能である事。

では何の為に、私は「頭の良さ」・「賢さ」を求めているのだろう。
初めは、生まれた子供を頭良く・賢く育てたいから、であった。

しかし、子供が生まれる前に、
その想いは無かったのだろうか?と考えると…

確かにブログは書こうとは思わなかった、
でも、空手をやり、勉強もそれなりにこなしていた。
何よりも~
『南郷継正になりたい!』・『悟りたい!』
といった想い強烈であった。
ただただ…自覚がなかったのだろうか…


息子が高校生となった現在、
彼の頭を、私が良く・賢くする事は可能なのでろうか?

たぶん…可能であろう。
それは、私自身が頭よく、賢く生きていく事であろう。

還暦を過ぎた私にとっての、
身体的な自由自在とは?
認識的な適切な考え方とは?

それは、
身体的機能が衰退していく過程での自由自在、
強い思い込みで硬直していく認識での適切、であろう。

成長期なら、進歩・発達・発展が、その成果であろう。
衰退期では、発達も発展もない現状維持が、その成果なのだろうか?

衰退していく中で、
昨日までの自分として存在し続けられる事なのだろうか?

実体・頭脳・身体が衰退してく中で、
機能・認識の発達・発展を持ち得て、
初めて、身体的機能の現状維持が可能なのだろう。

しかし、実体的・身体的な刺激なしに、
認識の発達・発展は望めないのだろう。

だからこそ…
若い時と同じような生活を続ける事が求められる、のだろう。

歳は取っても、気持ちも心も若者時代のまま~
認識は、その想い、気持ち・心のままに、
身体は、怪我のない、ような工夫をしつつ、
日々の生活を、若き時と同じようにする事。















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想いままにト伝死へ~

2018-02-10 12:41:23 | 想いのままに…



コモンセンス~常識・良識である。

それは、人間にとっての常識であり良識である。
もしも、人間以外の動物にコモンセンスがあるとするなら、
それは、本能であり、本能の判断であろう。

ならば、人間の常識・良識は何が決めるモノだろうか?
それは、人間の頭脳であり、心と頭であろう。

ならば、人間の頭脳は、常識・良識をどのように決めるのだろうか?
それは、周囲の状況・条件からであろう。

私の知っている言葉に、
「日本の常識⇒世界の非常識」というモノがある。

日本では室内では靴を履かないのが常識。
でも、アメリカの常識は室内でも靴を履く。

そう~コモンセンスとは相対的なモノである。
それは、状況が条件から決める・決められるモノである。
そして、その状況も条件も、その人間の立場から変わるモノである。

確かに、日本にいるなら、常識・良識も日本的であろう。
それでも、日本の中のアメリカ大使館内であれば、
それらは、全てがアメリカ的であろう。

また、社会の中では、社会的な個人行動を強制されている。
それに、反するモノは、時によって仲間外れ・村八分・イジメ…に遭遇する。

でも、
言動・行為・態度…には、社会的な強制があり得ても、
思考・感情・認識…は、個人的に自由勝手であろう。

さてさて…ここはネット社会である。
そして、このブログは自由びとの個人ブログである。
これは、言うなれば自由びとの観念の世界である。
だから、実名でなく、H・D(ハンドルネーム)で書かれている。

確かに、HDで他人の誹謗中傷する者もいる。
しかし、自由びとは、
ここに書き込みのない全く関りのない他人の誹謗中傷は書かない、
ようにしている。

ここが観念世界なら、
ここでの創造主は自由びとである。
言うなれば、ここでは自由びとが法律である。
そして、ここでの存在は自由びとの判断で決まる。

自由びとは、「一所懸命・一生懸命」に頑張る姿が大好きである。
ここでの、その者の「一所懸命」が好きである。
だから、ここにへばり付いて離れないソクラテスの一所懸命な頑張りには好感を抱いている。
しかし、それでも、私は負けず嫌いで、負けん気が強いモノである。

自由びとは、そんな私の「意地」からの自由を求めている。
しかし、今回は自由びとの負けである。

抹消された今回のト伝ちゃんのコメントは、
私に意地を張らせてしまった。

だから、
そこまで、断言して書くから、
やってやろうジャン!
となる。

ト伝ちゃは、このように私に意地を張らせ過ぎてしまった、
のだろう。



さようならト伝ちゃん~
君の一所懸命な頑張りは悪くない。
でも、君の言葉は下品過ぎである。

君の常識も良識も…
ここでは全て無効である。




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