新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

弁証法性から弁証法へ~

2024-06-29 13:18:20 | 日記
弁証法性から弁証法へ~

事件の弁証法性…

ある特定の事件に関する弁証法~

弁証法とは、事物・事件・事象・「森羅万象・万物の弁証法性」の法則化~

では、ある特定の事件の弁証法性とは、その事件の「生々・生成・発展・衰退・消滅」であろう。
でも、実際の「ある事件」とは、その事件が発生して初めて「事件として現象するモノ」

さて~では、昨日の私の日々・日常で普通に、よく発生している事件について書こう。

昨日、いつもの夕方の愛柴犬マロンの散歩中に、
信号のある交差点で、勤務している学校の顔見知り四年女子児童に遭遇した。
その児童とは、同じ場所で、もう何度も遭遇している。

なので、昨日も普通に
私の「今帰り…?」から「児童「そう!」~チョットした会話をしていた。

すると突然その児童が「AO!」と言った。
私は―「何?」
児童(少し大きな声で)「『AO!』になった!」
私―「…??…!」
児童―「信号「あお」になった!」と更に声を大きくして言った。

その時、初めて私は、「信号」という言葉から、児童の「AO」が信号の色の「あお」だと気付いく事ができた。
そして、後ろを向いて、私は、その信号が「あお」に変わっていた事に気付いた。
また、その児童の家のある方角―私の右側の信号は、「あか」である事も確認できた。

この事件とは、児童の発している「あお!」という単語を、
私は「AO」とは聞こえていて、その「AO」の意味が理解不能であった。
そして、児童の三回目の「…信号…」という単語で初めて、それが信号の色だと認識できた。


この単語の音声である「AO」が明確に聞こえていた私、
でも、その「AO」の意味が不明だった私。

この私の状態が、この一件を生々・生成・発展~させた!のだろうか…
その「AO」が不明だった理由は、私には、直ぐ分かった。


最近の私のマロン散歩は、愛柴犬マロンの行きたい方に合わせて歩き続けるモノ。
その児童との会話の時、マロンは私の横で大人しく座って動こうとしていなかった。

なので、私には『行く方向が未定、信号待ちの意識なし…』
そんな会話の中で、その児童は、『私が後ろの信号待ち』しているだろう意識で、
その児童が目に入った、私の後ろの「信号の色「あお!」と叫んだ。

私が、児童が「あお」と言った時に、その目線を捉えていたら、
たぶん後ろを振り返った「信号の色あお」と認識可能だっただろう。

さてさて…上記の事実・事件・一件を、弁証法的に思考するなら…

まず、今の私には、この一件の具体的な、生々生成・発展・衰退・消滅の過程り想像は可能である。
しかし、この一件発生当時の私には、最後の「信号」という単語を聞くまでは、全て不明であった。

生々・生成~過程は、
その児童の想像・認識・『私の後ろの信号待ちかをしている』が間違っていた事。
実際に、私には『信号待ち・信号の色変化注意』という目的意識はなく…
私は、児童の信号待ちに付き合っていた…というより~
「ただ児童との会話を楽しでいた」。
「児童が会話を中断するのを待っていた」。
「マロンが動き出すのを待っていた。」

そんな・あるような・ないような・希薄な目的意識だったのだろう。
そんな私の意識状態での突然の児童の言葉「AO!」に、

私は、たぶん、児童との会話の中での「AO!」の関係性から、
その意味を探そうと必死だったのだろう。


軽い気持ちの私・その会話の前後関係を無視可能な私なら~
きっと~「『AO!』って何?」とオウム返して聞き返しただろう?
さすれば…「児童も信号の色『あお』!」と一発回答であろうが…


最近の私…過去の若い頃私は、変質してしまったようだ!
以前なら、オウム返しの平然とできたが…
今は、
聞いていなてと思われたくない?!
人の話が分からない奴・失礼と思われたくない?!
耳が遠いいと思われたくない?!
理解力不足と思われたくない!?


そんなマイナス感情・思いから…素直な「オウム返し」ができない!と思ったら…
もう一つ、考えられる事があった!

それは、以前に右耳が痛くて、医者へ行った時に(その痛みの原因は耳ではなかった)が…
ついでの聴力検査をしてもらった~
なんと!
普通の会話の範囲の音声はギリギリ聞こえていても、
高音域が聞こえなくなっている…という検査結果を聞かされた。

そんな感じなので…
たぶん児童が高音で発声した時、その音が聞こえていないだろう事。
そして、もっと重大な要因が思い当たった。

それは、もう何年経つだろう…
以前から、他人との会話で注意深く相手の話を聞く習慣があまりなかった私…
そんな私だから、テレビドラマでよく会話の音を聞き逃ししまう事が多かった。
そんな時、テレビの新たな機能で「字幕表示可能」になった。
そこで、私は、その時点からテレビに字幕表示をして、聞く事よりも読む事を重視していた。

そんなだから、更に目的・意識的・意図的な「聴覚認識努力」が薄くなり、
更に、家族以外・他人との会話をあわり好まない…社交範囲が狭い私だから…
他人との会話も少なくてん

そんなこんな自覚・想像から、私は、自己の聴覚能力に自信がなく、
聞こえている音声が、本当に正しいのかを疑ってしまい…
友達・親しい間柄なら平気で「オウム返し」的に聞き返す事は出来ても…
そんな間柄ではない相手には、出来なくなっている…

いや~本当は、事件の発生から、過去を振り返って、
事件の生々・生成・発展・衰退・消滅…過程を書きたかったのに…

事件の発生の~原因・理由・責任~解決法~
そんな事が書きたかったが…
上記の記述から、
そんな私の認識を~
理解して頂ける人々は、存在しているだろう?
or
存在していても読んで頂ける人々はいるだろうか?


仮に、もし「存在していない」という事なら、
それは、私の言語表現力の問題であろう…
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「常識」について…

2021-10-17 16:23:45 | 日記
「常識」について…

先日(と書いても2、3週間前の事であるが…)、

家内とテレビの問題「普請の元々の由来は?」ついて
以下のような事で朝から言い合い(口論レベル)…となった。

私―「(普請)これって…何て読むの?」
妻―「ふしん!」

私―「『ふせい』じゃないの!?」
妻―「…違う!」

私―「『ふ(しん)』なの…これって請求の(せい)じゃない!?」
妻―「違う!知らないの…これって常識よ!」

私―「常識って言われても…習ってないし…初めて見たし…」
妻―「習わなくても常識!」

私―「(学校で習う事以外の)常識って地域によって違うでしょうが…」
妻―「日本に育っているなら常識は同じ!」

私―「そりゃ~絶対に違う!」
妻―「同じに決まっている!」
私―「分かった…」(不満はあったが…出勤時刻…)


その後…通勤途中も…
妻の「日本に住んでいるなら常識は同じ」に納得できず…
~~~考え続けた結果…以下の事を実行した。

学校で10人の教師に聞きました。
「普請」と書いた紙を見せながら「この文字読めますか?」と

その結果は~
正しく読めて意味も知っていた教員―2人
知らないけど「ふしん」と読めた教員―2人
知らない・分からない読めない教員―6人

知っていた教員2人は、「二人とも読書家で物知り」と他の教員が言っていた。
そこで私は思った…
『家内も読書家で新聞・週刊誌…もよく読むし…歴史に詳しい博識…』

この結果を家内に告げると…
家内―「私にとっては常識なのに…」

そこで私は以下のように事を考えた。
同じ日本に住んでいれば、学校教育での「常識」は同じ。
それでも、その地域の「常識」、必ずしも他の地域の常識とは限らない。

そもそも…「日本の常識…世界の非常識」という言葉もあるように…
国によって常識は異なっている事は、世界の常識。
ならば、育った環境が違えば、互いに異なった常識を持っていても不思議ではない。

日本の一般常識は同じ。
地域の個別常識は違う。

因みに…辞書で調べたら、「普請」は古い言葉、と書かれていた。
過去の日本の常識、現代の非常識…ですね。


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数日前の事…

2021-06-05 11:30:52 | 日記
数日前の事である。

具合の悪そうな児童を見つけたので…

「どうしたの?」と聞いたら、
「先生!眠い…」と返ってきた。
そこで「昨日、寝たの遅かった?」と聞き返したら、
「うん!お父さんとユーチューブ視ていたの…」と言っていた。

その言葉で私、
『父親なら、子供に確りと睡眠をとらせるべきなのに…』と
批判的に思った。


その児童に同じ話を担任の前でもしてもらったら…
担任は「よかったね♪ お父さんと一緒で…」と返していた。

私はビックリした。
同じ事実・話なのに、こうも違った捉え方をするとは…

私は父親の立場に立ち、その児童の父親に批判的に…
なのに、担任は児童の立場で一緒に喜んでいた。

その後、その児童を保健室へ連れて行った時、
養護の先生から「…母親がいない…と聞かされた。」

私は『母親は亡くなったのかな?』と思いつつ…
『後で、もう一度養護の先生に聞いてみよう!』と決めた。


そんな中、その児童と話していると…
「嬉しいんだ♪…今度お母さんと遊園地行くんだ♪」と言っていた。

養護の先生にその話をすると
「離婚したか…別居中か…ですかね」と言っていた。

う~ん…
祖父母が一緒かもしれないが…
子供にとって父・母の存在は大きい。

母親なしで父親だけの家庭なら、
「仕事に疲れて帰宅して子供と一緒にユーチューブ…」を
批判するのは、どうなのだろうか?

それよりも担任のように、
児童の立場で一緒に喜ぶ方が、よい・有効なのだろう…





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沢庵お宅コメントへの自由びと記述

2021-04-04 10:59:39 | 日記

以下はコメント欄への沢庵お宅の記述だが…
己の妄想を現実の如く思い込んでのモノなので、
今回は敢えてこのような形式でアップする事にした。





>・コメントを書いた人
>沢庵



>・コメント
たしかに調べてみたなら小学校で補助員だとか支援員として働いている人間は公立学校から直接に採用されて給料を貰っているわけではなく、民間の株式会社に雇われて派遣されたりしているようですね。

↑~
私の市の場合は、一年契約の市職員扱いです。




>学校教員=聖職者という見解もある中でお宅の下層民そのものの言葉づかいや見識が不思議ではあったのですが納得がいきました。


「他人は自分を映す鏡」というの諺があるが…
「他人の言動は自分の心を映す鏡」とも理解している。


でも↑は「朱に交われば赤くなる」ですね。

私は、お宅に合わせての「お宅の下層民そのものの言葉づかい」なのかも…
だって、自分で鏡なく己の姿を見るのは不可能ですから…

「赤」を欲する者が「朱」と交わるなら問題はないが…
「青」を求める者が「朱」と交わるのは問題である。

それでも人は「青」を欲しても眼前に「藍」ない時、
「赤」の中に「青」を求めて「朱」と関わるのかも…




>ですが、出来ちゃった婚でやむおえず作った息子を育てるために仕方なくやってる小学校の補助員とはいえ、その仕事の社会的意味を考えたなら己れの言葉づかいや言動には注意したほうが宜しいでしょう。

↑~
妄想お宅でなければ、嘘つきお宅ですね、

私達夫婦は、結婚して数年後、
一人目は稽留流産で未生誕、その後、
二人目が切迫流産で入院後誕生、そして、
三人目は流産で未生誕……お・し・ま・い。  



>お宅が所属している学校や玄和会が馬鹿にされる元ですからな。


これは、見た事もない私、知りもしない私、全く赤の他人の私
そんな、私の事を熟知しているつもりお宅の妄想ですよ。

妄想を妄想だと自覚なく現実の如く強く思い込めるお宅…
誇大妄想お宅!精神病お宅!でなければ…ストカーお宅?
それは曇って、歪んで、割れてしまっている鏡お宅では?


そんな鏡だと自覚を持って関わっているならよいが…
それを素晴らしい鏡なんて思ったら大変な事だろう。







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言葉に対する想いの相違

2020-09-27 12:28:00 | 日記

言葉に対する想いの相違


今朝、家内と以下のような会話をした。

私は新聞のテレビ番組表を見ながら
「『半沢直樹』、今日最終回だね…」
と言った。

この時の私は漠然と前回のストリー展開を漠然と思い、
そして、今日の展開をイメージしようとしていた。

そんな私の言葉に家内は、
「……とれるかな?」
と言った。


私は必死に色々と考えた
『とれるって?責任?求める結果?』
そして結論が出ず家内に尋ねた。

私―「『とれる』って何?どういう事?」

家内は何も答えず…
テレビ画面をビデオの番組表にしようとしていた。


それでも…
私は何度も「とれるって何?」
と尋ねたが…
結局、返事はなかった。


少したって口を開いた家内は~
「『撮れる』って録画に決まっているでしょう!」
「今はテレビ番組の話だから、普通、『撮れる』と言われたら…」
「録画に決まっているでしょう!」

私―
「そうだね!どうせ…私は普通じゃないから…」
「今後は、私には異常者に対する態度で会話して!」

その後、色々と家内と言い合った結果、
以下のような事に気付いた。



私が思っていた「半沢直樹」は、
この番組の内容についてであり、
それをテーマにして会話を始めた。


私の言葉に対しての家内の思いは、
番組内容ではなく、前回の「半沢直樹」録画予約失敗であり、
最後まで録画できなかった事だった。
そんな家内の言葉が「撮れるかな?」であった。


それに気づいた私は家内に―
「ならば、『録画』という修飾語を入れて?」と言った。

家内―
「なんて考えが狭いの?」
「そんなの言わなくても分かるでしょう?」

私―
「分からなかったから聞いたんでしょう!」

家内―
「もっと想像力を付けなさい!」
「その為のヒントを出したでしょう!」

私―
「想像力…ではなく、私は会話を進めたい~!」

この私の「半沢直樹」という言葉で始めた会話は、
初めから私の家内の思いは異なっていた。
その相違に気付かずに…私は家内の言葉を考え続けていた。


そもそもこの「不一致」の根本的な理由は、
前回の録画失敗は私の中では終わっていた。

それは、
一つ、息子がネットで番組を見つけ出し最後まで視る事ができた。
二つ、失敗の録画予約は、私が三日前に訂正していた。


そんな私だから『撮れるかな?』という家内の言葉に、
録画失敗を想い出す事ができ難かった、のだろう。



言い合いの過程で、家内は
「…そうやって、あなたは直ぐ自己正当化する!」
「だから、私も正当化するんです。」と言っていた。


家内は、
この「正当化」という言葉の他に、
よく「あなたは正しい」とか「私が悪い」という言葉を使う。

不当な事だから、それを「正当化」する、のだろう。
初めから「正当」な事なら、「正当化」は不要。


そもそも人は、
誰でも、己の立場では、「正当」だと思うから実行する、のだろう。
心底から自分にとって『不当』だと思うなら実行しない、だろう。


言うなれば、誰もが主観的正当性を抱いて行動・実行しているモノ。
そんな己の行為に客観的正当性を求めるのは、利害関係の対立の解決の為。
夫婦の会話を「正当・不当」で終わらせるのは残念である。


また、「悪い・よい」も然りであろう。





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