それは、コーヒーカップに残った水滴をなくそうとして動いた時であった。
その時、前へカップを突き出した手が伸びきった瞬間にカップから水滴が飛び出て行った。
『これって~慣性の法則だよね!』
『すると…私は慣性の法則を駆使した事になる!?』
『………?………』
『否!慣性の法則の駆使ではなく、ただ…カップを突きだして水滴を捨てただけ…』
そもそも…慣性の法則は中学の理科で知った後付けの知識であり、
カップを振って水を飛ばす事は、その慣性の法則を知る以前からやっていた行動。
この考えると、三浦つとむの「弁証法はどういう科学か」の中の言葉、
「人は弁証法を知らずに弁証法を使っている…」は、少々違っている、ようである。
正しくは以下であろうか…
弁証法を知らずとも、人々は対象の性質に合わせて、個々の問題を解決している。
人は弁証法を知らずも、体験・経験的・感覚的に対象の性質を把握して、
その問題を解決して来たのだろう。
対象の性質の把握と対象の弁証法性の把握の区別と連関とは?
対象の性質と言った場合、対象を狭い範囲で捉えている。
対象の弁証法性と言った場合、広い範囲で捉えた対象であろう。
対象が人間なら、
対象の性質=人間の性質。
人間の弁証法性とは、生命史観で、物質⇒生命現象⇒生命体……⇒人間。
以上が、性質と弁証法性の区別と連関ですかね…
弁証法を知り・識って弁証法の駆使とは、
経験・体験を離れて、未知の対象・未知の性質…に合わせて問題解決をする、
のだろうか?!