新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

終わる事の無い疑問の数々~

2017-10-29 11:22:15 | 想いのままに…


天寿堂掲示板でのタイトル
「現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあるとは? 」
[2713] 「tadaさんとの討論のおかげ」からの引用。


~~~~~~~~引用開始~~~~~~~~

………………………前略………………………


 そこで話を蒸し返すようですが、唯物論と観念論との問題に立ち返って、少し考えてみたいと思います。というのも、マルクスや滝村先生や南郷先生がヘーゲルを正しく理解できない理由が、唯物論の立場から理解しようとして、皆失敗しているからです。南郷先生に至っては、学問的な哲学の歴史には中身が何もない、と完全否定までしてしまっているからです。あれほど人間の歴史性を強調されていた、同じ南郷先生のお言葉とはとても信じられない思いですが、唯物論を徹底して貫こうとすると、そこまで行ってしまうものなのだと、また、唯物論の色眼鏡は、そこまで偏光眼鏡となって、みるべきものを遮ってしまうのだ、ということを肝に銘ずる必要があるように思います。



………………………後略………………………


~~~~~~~~引用終了~~~~~~~~

ここで、氏は~
「ヘーゲルを正しく理解できない理由が、唯物論の立場から理解しようとして、皆失敗している…」と断言している。

しかし…本当に、そうなのだろうか?
訂正~本当に、それだけなのだろう?


そもそも…「ヘーゲルを正しく理解」と言っても、
ヘーゲルに直接教えを請うた訳ではない。

ヘーゲルを理解する媒介は、
数百年前に書かれたヘーゲル言葉、
それも他人が書いただろうヘーゲルの言葉、
途中で書きかえられているかも知れないヘーゲルの言葉、
その言葉は、数百年前自然・社会環境で創られた認識で書かれた言葉…である。


「ヘーゲルを正しく理解する」とは?
ここでは、
「ヘーゲルの絶対的観念論を正しく理解する」事だろう。

その為には、
「人間ヘーゲルの理解」。
その為には、
「ヘーゲルの時代と彼の生い立ちの理解」
そこから、
「ヘーゲルの言葉の理解」が必要。

ヘーゲルの言葉の理解とは?

ヘーゲルという人間が、
ヘーゲル的な認識の元に、
数百年前のドイツで発した言葉の数々理解である。

例え「ヘーゲルを正しく理解」したとして、
あの時代・あの環境・あの状態・あの生育結果で書かれた言葉が、
現在も、そのまま正しいモノとして通用するのだろうか?


そうそう…忘れる所だった~

ここでは、
「学問的な哲学の歴史には中身が何もない」という南郷氏の言葉から、
哲学を「完全否定までしてしまっているからです。」と書かれている。


しかし、この言葉から南郷氏の認識内の

「学問的な哲学の歴史」とは?
その「中身」とは?   が不明…

この「学問的な哲学の歴史」とは、
現在の一般的なモノをなのか?
それとも、南郷氏が措定したモノなのか?も不明である。

しかも…そもそも…
南郷氏は本当に、
そのような事を言ったのだろうか?

その全てが不確か・不明瞭であろう。

天寿堂氏は、
最近の「学城」の内容を理解して書いているのだろうか?
そもそも…「学城」の最新刊を読んで書いているのだろうか?


私の疑問は~果てしなく~・つ・づ・く・~のだろう…








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「絶対観念論」について…

2017-10-29 10:43:59 | 想いのままに…

天寿堂氏は、天寿堂掲示板のタイトル
「現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあるとは? 」
の中の [2712] 「ヘーゲルの国家第一主義の構造」
の中で、以下のような事を書いている。



~~~~~~~~引用開始~~~~~~~~

………………………前略………………………


 このヘーゲルの国家第一主義は、ヘーゲル哲学の「絶対観念論」や論理学の「有論・本質論・概念論」とまったく同じ構造を持っております。それは具体的にどう云う構造かと言いますと、たとえば、絶対観念論は、唯物論と観念論とを統一して、それを内的構造化した絶対的本質を主体とするという意味での絶対観念論なのです。

 また、論理学の基本構造についていえば、唯物論的な現象論である有論と、観念論的な思惟の運動によってその本質的な規定を明らかにする本質論と、その両者の統一体としてダイナミックな運動性を持った概念の運動を明らかにする概念論という構造になっています。



………………………後略………………………


~~~~~~~~引用終了~~~~~~~~


以上の記述から分かる観念論の長所とは?

他人の言葉を無条件に正しいモノとして採用可能。
細かい部分は無視して、アバウトな全体像の把握が可能。
その他人のアバウトな全体像を元に対象に関わる事が可能。


ならば、その短所とは?

その観念論を観念論創出者レベルで使用する事の困難さ。
その観念論を観念論創出者レベルで理解する事の困難さ。

では、具体的にみてみよう!

>絶対観念論は、唯物論と観念論とを統一して、それを内的構造化した絶対的本質を主体とするという意味での絶対観念論なのです。

↑~
「唯物論と観念論の統一」から生じるモノが「絶対観念論」とは如何に?

そもそも…「絶対的本質」とは何か?
それが、「唯物論と観念論の統一」から生成されるのだろうか?

「唯物論」・「観念論」と言葉で書いても、その中身は色々であろうに…
南郷学派の唯物論、一般的な唯物論、私の唯物論に彼の唯物論…

ヘーゲルの絶対的観念論、カントの物自体論・二律背反、
更には、アリストテレスの観念論、あの人の観念論…

また、論理学については~

> また、論理学の基本構造についていえば、唯物論的な現象論である有論と、観念論的な思惟の運動によってその本質的な規定を明らかにする本質論と、その両者の統一体としてダイナミックな運動性を持った概念の運動を明らかにする概念論という構造になっています。

↑~

>「論理学とは」
>「唯物論的な現象論である有論」と
>「観念論的な思惟の運動によってその本質的な規定を明らかにする本質論」
>「その両者の統一体としてダイナミックな運動性を持った概念の運動を明らかにする概念論という構造」

端的には、論理学とは「有論」と「本質論」を統一した「概念論」という構造。

ここで以下の疑問が~

「有論」とは?
「観念的な思惟の運動」とは?
「観念的な思惟」というモノをどのように見て取るの?
「有論」と「本質論」を、どのように統一するのか?

理解しようと、すればするほどに疑問噴出なのだが……。









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大いなる気付き~

2017-10-28 13:16:00 | 想いのままに…


なんと!コペルニクス的転回の発見である。
もっとも…以前から分かっていた事でもあるが…

事実とは、
実際にある事。
実際にあった事。
である。

ならば、例えば「ご飯を食べる」事とすると…。
これは、事実であり、事実ではない。

どういう事かと言うと…
これは、ある事実を「ご飯を食べる」という言葉で
表現している、モノに過ぎない。
これは、事実の表現であり、事実そのモノではない。

従って、同じ事実に遭遇していても、
人によって、その事実の表現は異なってくる。

このような、ある事実の表現方法として、
観念論的表現と唯物論的表現がある、
という事でもある。

だから、表現方法が違えば、同じ言葉でも、
その中身は異なってくるだろうし、
逆に言葉は違っていても中身は同じだったり、
である。

そこで、互いの言葉表現の理解に必要なのは、
観念論者なら、正しく相手の唯物論表現を理解し、
唯物論者なら、正しく相手の観念論を表現を理解する事。

しかし、ここで更なる問題が…
それは、相手の言葉・文字からだけでは、
観念論形式なのか、
唯物論形式なのか、
の見分けが困難である事。


この問題の解決方法は、
同じ釜の飯を食っての合宿生活であろう。

共の生活するとは、同じ生活・事実を共にしている事。
その事実・生活の中での互いに交わす言葉の数々と、
生活・事実との一致・不一致から、
互いの観念論・唯物論が判明するだろう、から…












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観念論と唯物論の弁証法的統一…

2017-10-28 12:33:51 | 想いのままに…

今ここで、観念論と唯物論をプラトン弁証法で統一する…
プラトンの弁証法、それは「滅ぼし合う対立物」である。

観念論と唯物論を闘わせて互いに互いを否定し続けると、
生成されるモノそれは、
その対立と捉えている観念論と唯物論から生まれた、
その時代の真理であろう。

観念論とは、「観念論」という形式で表現された真理であり、
唯物論とは、「唯物論」という形式で表現された真理である。

真理と観念論・真理と唯物論は、相対的独立関係にある。

そもそも、観念論も唯物論も、
その時代のその学者が発見した真理であり、
それは、真理の時代的表現であろう。


過去の観念論と、今の唯物論を闘わせて生まれるのが、
現代的な表現の真理であろう。

彼の観念論と私の唯物論から生まれるのも私彼的な真理。

ヘーゲルの絶対的観念論と統一させるべき唯物論、
それは絶対的弁証法唯物論であろう。

生半可な唯物論なら、それら全て
ヘーゲルの絶対的観念論に吸収されてしまうだろう。

そんなヘーゲルに吸収されてしまった唯物論の姿を
天寿堂氏に重ねてしまうのは…私だけであろうか?








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一番大切なモノは?

2017-10-28 08:34:58 | 想いのままに…

人間にとって一番大切なモノは何だろう?

それは~

金銭?
愛情?
仕事?
趣味?
運動?
睡眠?
食事?
生活?
健康?
信心?
誇り?
………


??????


健康な身体?
健全な精神?


??????

私が想うには、
それは「信念」であろう…である。


信念とは、
一度大切だと信じた事を、
どんな事があっても実行して、
また、それを守ろうとする心。
(例解新国語辞典ー第二版ー)

その出発点は?
先ず、「信念」!こそが人間に一番大切である、
という~『信念』を抱く事。

人間は認識的実在である。

それを、ヘーゲル的に表現するなら~~~
それは、「人間は絶対精神の実在である」。

信念は、「一度信じた事を信じ続ける事」。
そして、「その事を実行・保守し続ける事」。

これが、観念論ならば、これで問題解決であろう…
しかし、唯物論ならば、次の問題の発生である。
それは、その「信念」の具体的内容・内実であろう。

大切な事~
一番は、信念!
二番は、その「信念」の中身!

個人的な個体レベルの信念。
家庭的な家族レベルの信念。
社会的な会社レベルの信念。
世界歴史的なレベルの信念。
宇宙歴史的なレベルの信念。

個人・家庭・社会・世界・宇宙の現在・過去・未来を包含した
宇宙的・世界的・歴史的・全人類的・人間的・個体的である、
その「信念」の内容構築が、
人類としての個人的な到達目標なのだろう…




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