天寿堂掲示板でのタイトル
「現在の世界の対立混乱の激化の大本は、じつはマルクスにあるとは? 」
[2713] 「tadaさんとの討論のおかげ」からの引用。
~~~~~~~~引用開始~~~~~~~~
………………………前略………………………
そこで話を蒸し返すようですが、唯物論と観念論との問題に立ち返って、少し考えてみたいと思います。というのも、マルクスや滝村先生や南郷先生がヘーゲルを正しく理解できない理由が、唯物論の立場から理解しようとして、皆失敗しているからです。南郷先生に至っては、学問的な哲学の歴史には中身が何もない、と完全否定までしてしまっているからです。あれほど人間の歴史性を強調されていた、同じ南郷先生のお言葉とはとても信じられない思いですが、唯物論を徹底して貫こうとすると、そこまで行ってしまうものなのだと、また、唯物論の色眼鏡は、そこまで偏光眼鏡となって、みるべきものを遮ってしまうのだ、ということを肝に銘ずる必要があるように思います。
………………………後略………………………
~~~~~~~~引用終了~~~~~~~~
ここで、氏は~
「ヘーゲルを正しく理解できない理由が、唯物論の立場から理解しようとして、皆失敗している…」と断言している。
しかし…本当に、そうなのだろうか?
訂正~本当に、それだけなのだろう?
そもそも…「ヘーゲルを正しく理解」と言っても、
ヘーゲルに直接教えを請うた訳ではない。
ヘーゲルを理解する媒介は、
数百年前に書かれたヘーゲル言葉、
それも他人が書いただろうヘーゲルの言葉、
途中で書きかえられているかも知れないヘーゲルの言葉、
その言葉は、数百年前自然・社会環境で創られた認識で書かれた言葉…である。
「ヘーゲルを正しく理解する」とは?
ここでは、
「ヘーゲルの絶対的観念論を正しく理解する」事だろう。
その為には、
「人間ヘーゲルの理解」。
その為には、
「ヘーゲルの時代と彼の生い立ちの理解」
そこから、
「ヘーゲルの言葉の理解」が必要。
ヘーゲルの言葉の理解とは?
ヘーゲルという人間が、
ヘーゲル的な認識の元に、
数百年前のドイツで発した言葉の数々理解である。
例え「ヘーゲルを正しく理解」したとして、
あの時代・あの環境・あの状態・あの生育結果で書かれた言葉が、
現在も、そのまま正しいモノとして通用するのだろうか?
そうそう…忘れる所だった~
ここでは、
「学問的な哲学の歴史には中身が何もない」という南郷氏の言葉から、
哲学を「完全否定までしてしまっているからです。」と書かれている。
しかし、この言葉から南郷氏の認識内の
「学問的な哲学の歴史」とは?
その「中身」とは? が不明…
この「学問的な哲学の歴史」とは、
現在の一般的なモノをなのか?
それとも、南郷氏が措定したモノなのか?も不明である。
しかも…そもそも…
南郷氏は本当に、
そのような事を言ったのだろうか?
その全てが不確か・不明瞭であろう。
天寿堂氏は、
最近の「学城」の内容を理解して書いているのだろうか?
そもそも…「学城」の最新刊を読んで書いているのだろうか?
私の疑問は~果てしなく~・つ・づ・く・~のだろう…