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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

自己矛盾の空氏コメント…

2019-03-25 11:35:58 | 言葉・概念

本当の所…
こんなコメントを記事で
取り上げるのはどうかと思った…

タマゴさんなら、
「あんな奴の相手をするなんて…」
「自由びとさんって、本当に御人好しだね…」
なんて言われそうだし…

それでも…
人に相手にされない寂しさを痛感している私だから、
『ここはひとつ取り上げてみよう!』と決めた、のであろうか…

ならば~
どんなに否定的なコメントでも、
『その通りなのかも?』と
一旦は肯定的に受け止めて、そこから始めるの事にした。


以下は、そのコメントである。




コメントが届いた記事
児童との会話

・コメントを書いた人
         空

・コメント


>gt;相変わらずの貶める造言
確かに上品な物言いではありませんでしたね。ですが、あれぐらい書かないと私の考えは伝わらないと感じましたのでね。<





自由びとコメント

<貶める>という言葉は、
空氏の「あれくらい」という程度の事ではなく、
書かれ、その内容・中身のなのです。

空氏は、記事「児童との会話」の中で、

>…自由びと氏の言動のほうが「普通じゃないな」
>…人間の頭をクルクルパーにする

と書いています。

普通の人なら、他人のブログの記事に対して、
このような言葉で自己の思い・考えを伝えようとはしません。
それは、他人のブログだから、です。

その人のブログは、その人の精神世界です。
その他人の精神世界に、
穢れた汚い自我・心を、そのまま言葉にしたが空氏なのです。

これを。空氏の言葉で表現するなら、
「空氏のコメントを方が普通ではない」
となります。





>>認識の変化を求めて
誰しもが他者に対して某かを求めるものなのでしょう。それが船戸結愛ちゃんを虐待死させた父親の船戸雄大の場合は言うことを聞くように娘の認識の変化を求めての暴行だったのでしょうし、栗原心愛ちゃんを虐待死させた父親の栗原勇一郎の場合も娘の認識の変化を求めてだったのでしょう。



自由びとコメント

空氏は、全く誤解しています。
というより、全く分かっていませんね。

空氏の言葉で表現するなら、
「あれぐらい」厳しくやらないと「考えは伝わらない」と
栗原勇一郎は感じたのでしょう。
これって、ここでの空氏そのまま、なのです。





>別に私が自由びと氏に批判的なコメントしたところで児童教育の経験の皆無な私に児童の教育が出来るはずもなく批評の域を超えるものではありませんが、何となく、まったくもって何となくなのですが自由びと氏の教育に関する思考は教育現場の一般的というか大勢を占める考えではないのではないか?という気がしたものですからね。<



自由びとコメント

あの記事で、自由びとが伝えたい想い・主旨が、分かり得ていないのに…
ここでも、分かったつもり・理解したつもり…のコメント…
まあ~私の説明不足も否めないでしょうね…
これについては、続編でも書きますか~








>私がそれを読んだのも三十年も昔の話ですが、正に「個性的すぎる思春期での成長」に該当するのが自由びと氏なのではなかろうか?とも感じるものです。

ですので実際に自由びと氏が担当しているクラスの児童を私は見ていないわけですから
>従順とは言い難い
>素直に反抗的
だと言われれば、「そうなんだ~」と思うしかなく、反抗的な子供の心を入れ替えさせる自信など私はまったくもって無いですので、ね。ただ、



自由びと

うん~「反抗的な心」というより、「反抗的な言動」ですかね…
小四の児童の心は、まだまだ柔軟です。
その心が反抗的ではなく、
その言動が他人からすれば、
「反抗的に見える・思える言動」という事です。

それは、態度・言葉の表現の問題であり、その心の問題ではありません。
彼らからすれば、反抗ではなく、自己主張なのです、から…





>>何でもカンでも、「玄和会否定」へと導いて<



自由びとコメント

成る程~「何でもカンでも…」は大袈裟ですね。
それでも、空氏の言葉で書けば、
「あれぐらい書かないと私(自由びと)の考え(思い)は伝わらないと感じましたのでね」
となります。


更に、書けば~
東大の優等生の違法行為は、その東大の責任?
東大が犯罪者の養成大学だったから?

数十年勤務した警官の違法行為は警察署の責任?
警察学校や警察署で、犯罪者を養成したから?

普通の人なら、そうは考えないでしょう。

それを出来の悪い?自由びとだから、
それは南郷継正のせいにしています。

武道なら、ある柔道家が相手を殺したら、
それは柔道を指導した師範の責任だと、
普通の人々が思い・考えますか?

普通の人々ならありえませんね。
もっとも…
その師範が自己責任に苦しむ事はあり得ますが…




<私は何でもカンでも導いているつもりはありませんけれど、玄和さんで三十年以上も学んだと公言したのは自由びと氏自身でしょうし、一般的に三十年も学んだと言われたら深く影響されていると受け止めるのが当然ではないでしょうか?
その上で、私が「現在の現場の多くの教員はそうではないのではないだろうか?」と感じる自由びと氏の特性というか個性的なところは三十年以上も学んだ南郷さんや海保さんの本に露になってるように思われたのですね。

それが「現代教育に欠けたるもの」に説かれた「歴史性のない者は豚である」というヘーゲル由来の思想や「武道の理論シリーズ」や「子供の認識の論理を求めて」で説かれた人間性を否定された悔しさを原動力として頑張らせるという方法論のように思われます。

私も教育学は門外漢の素人なのですが、確かに教育学には「狼に育てられた少女」を問うような部分があるのだと思うのですが、それが「教育学」という体系?の何処に如何に位置づけられるのか?個々の事例の一つ一つの教育場面での指導スキルに顔を出すものなのか?ということが、自由びと氏の「学習課題をやらせようとの指導現場で人間か動物園の鑑賞動物かを問う」なんて方法への違和感から考えられたことなのですよ。

そもそもが学校教育というのは現代社会に出て生活していくための準備期間として知識を蓄え体を鍛え知能を発達させていくのだと考えます。社会に出ていくというのは社会的な義務を担うわけですから憲法にもあるように労働の義務を果たして経済的な活動をし納税の義務を果たし参政権として国を動かしていく役割をも担うという、だからそれらを果たし得ない未成年は「社会人」とは扱われないのですし、二十歳という年齢が「成人」なのだと思います。

そうした社会へ向けての準備期間に社会的に許されない方法、例えば「宿題やらなかったらブッ殺す!」とかの「脅迫」を手段としたならば「目の前の課題をやらせる」ということしか考えていないことになり、場合によっては「目的のためなら手段を選ばない」という思想を子供に教育指導することにもなりはしないか?と考えますね。

ですから「学校の課題をやらなかったらキミは動物と一緒だから裸を見られても仕方ないよね?」なんてことを、船戸勇一郎が「躾のためだった、相手が言うこと聞いてれば問題にはならなかった」と言ったのと同様に、口にする教職員がいたとしたならば、時代錯誤というか教育学の体系を履き違えているとか感じたとしても無理ないのではありませんか?

昔のヨーロッパと異なり、今は動物と共生して行こうとしている時代ですから、動物というのは人間未満の軽蔑すべき存在なんて思想の持ち主は多くないでしょうから、動物扱いされることが悔しくて頑張る動機となるなんて考え自体がナンセンスではないでしょうか?<




自由びとコメント

上記のように、ここまで長々と書いた結論が以下とは…




>自由びと氏に再確認していただきたいのは、自由びと氏は自分が考えているような「考えることが好きな人間」では全くなく、考えない人間なのだということです。<






自由びとコメント

自由びとが、
自由びとの事を、
如何に考えようと、
自由びとの自由です。

それを
いちいち自己矛盾している言葉で書くとは、
空氏には羞恥心というものが皆無ですね、



その自己矛盾とは以下です。

(自由びとを)「考えない」と書くなら、
「自由びと氏は自分が考えている…」は、矛盾しています。

また、
(自由びとが)「考えない人間」と書くなら、
「自由びと氏は自分が考えている」も矛盾しています。

これらの自己矛盾が、
この空氏の結論なら、
それが彼の言説の全。

そして、それは、
彼の人物性・人間性を
如実に物語っています。


こんな矛盾を結論と書けてしまうような人物を養成したのが、
彼の信じる処の、哲学、学問、武道…なのでしょうね…


そういえば、
以前に哲学者を名乗り、
京都弁証法認識論研究会のブログへ
哲学の長文を転写して、
自己の哲学を披露した、
某氏を想起しました。



彼は、最後の最後は、
書き込んだ自己のコメントの全てを
「消去してくれ!」でしたね。


あれって~
自己矛盾の為でしょうかね…

結局~あのブログ内でも、
自己矛盾から自己崩壊
したのでしょうかね。


あれって~もしかした…
いやいや!きっときっと!
空氏なのでしょうね!
















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児童との会話

2019-03-22 12:00:02 | 言葉・概念



算数の授業中、小学四年生のYさんのノートを覗いた時の会話。

Y~「これ(練習問題)ね」
Y~「ここ(初め)とここ(最後)やって、ここ(途中)やらなった!」

私~「それじゃ~ナマケモノになっちゃうよ!」
Y~「ナマケモノになりたい!」

私~「ナマケモノなら動物園いきだよ!」
Y~「動物園いいよ!行きたい!」

私~「動物園だと…着替えも見られてしまうよ!」
Y~「いやらしい!」

私~「………」と、終わってしまったが…


その後に、私は以下のような事を考えた。


この会話では、私が、「…………(無言)」と終わってしまったが…
そこで、言葉を続けるなら何と言えば、よかったのだろう?

私のYさんの会話の流れは以下。


私~ナマケモノになる。
Y~なる!(いいよ)

私~動物園にいく。
Y~いく!(いいよ)

私~着替えを見られる
Y~いやらしい!(嫌だ)

初めの二つは同意。
最後の一つは反対。

しかし、
その反対を彼女が嫌ではなく、
見る人が「しやらしい」と表現した。


これは
見せる側である、自分の問題を、
見る側である、他人の問題にすり替えている。

ここは、素直に、着替えを見られるなら、
動物園へは行かない。
ナマケモノにならない。
頑張って問題を解く。 とは…ならない。


ならば、
私の続けるべき言葉を以下のように考えた。

Y~「いやらしい」

私~「そうだね、本当にいやらしいね」
私~「でも…動物園のナマケモノなら…」
私~「いやらしい…なんて有り得ないでしょ!」

私~「私なら本物のナマケモノは見たいけど…」
私~「ナマケモノのYさんは見たくないなら!」


最近の児童は、理屈が達者である。
もっとも…全ての児童が…ではない。

もともと~
子供は弁証法性に富んでいるモノである。

先生・相手に
素直に心を開いた二重化しての結果・言葉。
反抗的に閉じた心の二重化の結果・言葉。
この二つなら事は、そう面倒な事ではない。

しかし、児童は、時々に、
素直と反抗的の入り乱れだから、
厄介である。


上記の会話でも、
「ナマケモノになりたい」、
「動物園に行きたい」
までは、同意だったが…

最後では、
「見られてもいいよ」ではなく、
「いやらしい」となっていた。

この、「いやらしい」とは、
自分事、(ナマケモノ・動物園を同意)を
他人事、(着替えを見るのはいやらしい奴」と
すり替えてしまっている。

これでは、認識の発展は起こり難い、のだろう。


ここでの、
「なまけもの」も「動物園いく」も、
彼女にとっては、
言葉の遊び的な実感ないモノだった、のだろう。

しかし、最後の
「着替えが見られる」は実感した、のだろう。


児童への言葉掛けの問題点は、
如何にその言葉を実感させるか?であろう!

しかし、言葉だけでの実感は至難である。
その言葉の内容を未体験な児童・生徒にとっては…











コメント (3)
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日常会話の弁証法性

2019-03-22 10:44:04 | 弁証法


日常会話の中での弁証法性



日頃~私は家内から、よくクドイと言われている。
でも…私には何回も同じ事を言っているようには思えていない。

そんな中、
私は今朝の私と家内の以下のような会話から気付いた。

私~「テレビを視ながら消さずに眠るのは止めて…」
私~「電気代も先月は今までで一番高かったんだよ!」

家内~「テレビの電気代なんて安いよ!」

私~「塵も積もれば高くなる、と言うでしょう~」
私~「テレビの電気代の高い・安いのが問題ではない!」
私~「それは論点が違うでしよう!」


私の言葉は、これで終わらず…
まだ、まだ…続いたが…
具体的に何を言ったかは記憶していない。


それでも…
私が最終的に思い気付けたのは以下のよう事である。


家内は、数々の私の言葉を、
頭の中で家内的にまとめながら聞いている。

それに対して私は、
感じたままに事実的に話している。
私は、事実的に話しながら、
相手の私への反論・言葉と重ねて、
相手と私言葉の裏の想いを思い考え、
それを言まとめて言葉にし、
それに対する相手の言葉と私の言葉について…

だから、
私は自分の言葉を発した後、
更に言いたい言葉が生じる。

しかし、
家内にとっての私の言葉、
その更なる私の言葉は、
初めの言葉と同じ内容に思えてしまう。

上記の場合、
初めから以下のように言えば、
私の思いを正確に表現できていた、のだろう。


先月の電気代は過去最高記録を更新した。
何と一万六千円である。
そこで、節電を心がけて欲しい。

必要な電気代・費用等は仕方ないが…
消費しなくて済む無駄なモノは止めて欲しい。

そもそも…テレビを視ながら、
ここ(居間)の床の上で眠るのは、
体には良くない、
二階の畳部屋に敷いた布団で寝て欲しい。

更に良くないのは、
テレビを眠った後も一晩中付けっぱなしの事。
その視ていない間の電気代は無駄そのモノ。
そんな無駄な電気の消費は止めて欲しい。




ここでの私の問題は、
事実を整理する事無く、
事実的に話した事。

でも、
初めから整理して話したなら、
それは日常会話にはなり得ない、
だろう。

日常会話の中で、
整理された長い言葉を、
相手は最後まで辛抱強く、
真面目に聞き続けるとは思えない、
から…










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花粉症の克服法

2019-03-19 12:43:37 | 花粉症

花粉症の克服は簡単である。
それは、痒くても搔かない。

搔かずに我慢し続ける。
ただ…それだけの事である。
これは私の実体験による解決談である。

三月の七日辺りから、非常に目が痒くなった。
我慢できなくなる程に…。

そこで搔いて搔いて搔くまくった。
その掻きまくった理由は、
搔くと下腹部・腹の底から快感が湧いてくるから。

その結果、なんと目が腫れて痛みを感じるようになった。
その痛みの為か…気付くと痒みが消えていた。

しかし、数日経つと、腫れがひき、また痒くなった。
そこで、快感を求めて、再び搔き始め搔きまくった。

でも、その時は、タオルを使って肌に優しく搔いた。
結果的に腫れも少ない。
でも…痒みは続くようになった。

その痒みは、断続的であり、搔いて痒みが取れても、
少し経つと、再び、痒みが襲ってくる。

その時、身近にタオルがあれば良いが…
ない時は、搔くと目の周りの皮膚が痛くなる。

そんなこんなの繰り返しの中で、
目の痒みが消えている僅かな時間の継続を求めたくなった。

そこで、十七日の日曜の朝、
起床してテーブルに座っている時の、
突然の猛烈な痒みに対して心を決めて、
我慢する事を始めた。

猛烈に痒い(これを搔くと超快感)…でも我慢する!
そんな我慢の時が続いた。

すると…突然その痒みが消えた。
そう~我慢を続けると痒みが消える体験をした。

でも、今まで我慢しよう!と思っても、搔いてしまっていた。
それなのに、何故に今回は我慢できたのだろうか?


それは、我慢の仕方が違う。
正確に書くなら、我慢している時の『思い』が違う。

我慢できなかった時の私は、
痒くなると脳裏に浮かぶのは、搔いた時の快感である。
その快感を想いながら、我慢しようとしていた。
結果は、我慢できずに搔き始めた。

でも、十七日の朝は違っていた。
痒みに襲われた時、視ていた録画を停止して、
それこそ歯をぐっと食いしばって痒みに耐えた、のである。
その結果、我慢すれば痒みが去る事を体験・実感した。

少し経って、また痒みに襲われた時は、
今度は、歯を食いしばる事なく、
ただ…我慢して、痒みが去った時の事を思い出し、
その想いがブレないよう努力した。

その次は、肩の力抜いて、楽に痒みを感じつつ、
これは消える、待てば消える…そんな想いを描いた。


そんな繰り返しの中で言える事は、
以前の私が、痒みを我慢できなかったのは、
搔いた時の快感を求めていたからである。



以前の私は、花粉症などない!
それは、「俺自身の認識の問題」と思い込もうとしていただけで、
具体的に、どこが、なにが、どう問題であるかが、分からなかった。

でも…今年の私、今回の私は、昨年までとは、一味違っていた。


師範の「夢講義」に書かれている。
花粉症は認識の問題である…と。


花粉による痒みは事実なのかもしれない。
でも、痒みを感じる要因は人体側にある。
また、例え痒くても気にせず、搔かなければ、花粉症ではない。

痒くて我慢できず、搔くから、搔く事で
日常生活に支障が起こるから、「花粉症」なのである。

以前に「心に青雲」ブログで、
「花粉症止めなさい!」と内容の記事があった。


それは、師範が搔いていた弟子を叱り飛ばし、搔く事を止めさせた…
そんな内容だったと思う。


この方法が成功するか、失敗するかは、
その弟子の師範への信頼感の強さ次第であろう。


師範の叱りを全身で受け止め、絶対に「搔くのを止めよう!」と思えるか…
搔きたくて搔いているのではない、花粉症だから無理無理…と思ってしまうか…

動物も人間も快感を求める
しかし、求める快感の内実・中身に相違がある。

動物の快感は、本能的なモノで一重であるが…
人間のは、、本能的と認識的の二重性が考えられる。

上記の私の場合は、

一重の快感、
花粉症の痒みに遭遇、
(痒いのを搔くと快感)、
だから搔く搔きまくる。

二重の快感、
痒い
(搔くと快感)を思い、
(搔いた後の不快感)を思う。

そして、搔いた時の快感ではなく、
搔いた結果の不快感を避けられた時の

快感を求めて搔かない


ここでの快感の二重性とは、
一つ、その行為の過程で得られた(快感・不快感)と、
もう一つ、その行為の結果生じた状態に対する(快感・不快感)を思う事の二重性である。


「痒い」⇒「搔くとき感じる」快感、「搔かないと痒みを我慢する」不快感。
「搔いて腫れた」⇒「痛い」不快感と「痛くて痒みを感じない」快感。

体験で得た結果とは、

花粉症の

痒みは、搔いても搔いても、また痒くなる。
搔き続けると肌が腫れる・痛い。

搔かずに我慢できれば、痒みは止まる。
それでも、また痒みに襲われる。
それを我慢すれば、また消える。
我慢を続ければ、肌は腫れない・痛くない。


上記のような花粉症の克服に至るまでに…
私は、何十年の歳月を費やした事か…

もっとも…毎年・毎年、この事ばかりを考えていた訳ではない。
弁証法・認識論・哲学・学問を師範の著書に学び続けたからの結果である。


まあ~これはこれで私的私だけの自己満足ではあるが…
それでも、昨日も今日も…数週間前の私同様に、
痒くて困っている家内を見ていると優越感を少々感じているのも事実である。







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忙しい・「距離」…について

2019-03-17 15:10:49 | 弁証法

月研ぎさんから、コメントを頂いた時、本当に忙しかったのか?
確かに、忙しかったのは事実である。

しかし、それでも…
忙しいからと言ってブログを書けない程の忙しさだった…
と言えば、そうとは言えない。

その理由は、
テレビを視る時間はあった。
寝る時間もあった。
買い物へ行く時間もあった。
からである。

人間にとっての「忙しい」には、
二重性がある。

一つ、身体が忙しい。
二つ、認識が忙しい。

24時間休みなく、働き通しなら、それは身体的な忙しい…
しかし、普通に考えて、それはあり得ないだろう。

仕事せずに身体的に余裕・時間があっても…
仕事の事を思い続けているなら、それは忙しい、となり得る。

月研ぎさんからコメントを頂いた時の私は、
勤務中の学校では子供達の事を想い・考える事に忙しかった。

帰宅したなら、確定申告の事、不動産登記の移転手続きの事、
そして、相続税の申告書の書き方の事…等を想い・考える事に
心も頭も使われていて忙しかった。

そんな私には、教育について、
まともに思い考える頭脳の余裕は皆無であった。

そんな私だったが…
今は、
私と家内の確定申告も
亡き父の準確定申告も終わり、
不動産登記の移転手続きも終了して、
残るは最後の相続税の申告書を書くだけとなった。

そんな状態の私だから、
やっと、まともに月研ぎさんのコメントに応えられるのだろう。

それは、
「距離」についてである。

ここでの「距離」とは、
私の認識と月研ぎさんコメントとの「距離」である。

月研ぎコメントを読んだ時、
それまで思いも考えもし得なかった
(先生と児童の)「距離」というモノが身近に認識し得た。

しかし、そのコメントを読み終わった瞬間、
その「距離」は遥か彼方へと去って行った。

その大きな理由は、
初めて知り得た「距離」というモノは、
私にとって身近なモノではなかった。

それでも、心に頭に余裕があれば、
未知のモノでも、離さずにいられただろう。


ある子供にとっては、身近なモノでなかった先生の教え、でも、
別の子供にとっては、身近なモノ足り得たなら、その別の子は忘れない。
そして、忘れない子供の言動は、先生の傍でなら先生的足り得るだろう。

そんなミニ先生的な同級生・先輩が、傍にいれば、
先生の教えが身近ではなかった子供の身近に、
「先生の教え」が存在し続け事になり、
その結果、身近に先生がいないにも関わらず、
先生の教えが身近にあり続ける事になる。


先生の教え・言葉・認識は、高度で多彩、多義である。
それを子供は、自分の分かる範囲で習得していく。

他の子供が、習得できた範囲の事なら、
例え先生の言動から、その教えが分からずとも、
他の子供の言動から習得可能であろう。

先生の教え・目標・悟り…等は、
今の自分の位置からでは、
遥か彼方で見え難いモノであったとしても…

自分よりずっと先にいる者には、
その教えの微かな影が見えるのかもしれない…

そんな、
先に立っている先輩の言動・様子・態度から、
遥か彼方にあるだろう…先生の教えの位置を想定して、
歩み続ける事が肝心なのだろう。

今の目の前の先生は、別の先生の教え子かもしれない。
更に、その別の先生は、他の先生の教え子なのかもしれない。
そして、その先には、もっともっと先生がいるのだろう。

何しろ「先生」とは、先に生まれた人、なのだから…
最終的・究極的な先生とは、宇宙・世界・自然…であろう。



だから…
動物的な本能が消失した人間は、
宇宙から、世界から、自然から…
学問を学び習得し続ける必要があるのだろう…

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