新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

私・人間の認識運動…

2019-09-29 12:39:49 | 論理



先日、通常級の児童が、
近くをたまたま通りかかった私に、
「先生、誰々が泣いているよ」と
私に言って来た。

そこで、その泣いている子傍に行って理由を尋ねたが…
ただただ…泣いているだけで何も言えない・言わない…

そこで、隣のクラス・一組の担任に。その事を報告したら、
「あ~それは、(二組の)担任から叱らたから…でしょう」と教えてくれた。

理由が分かった私は、また彼の傍に行って、
「子供は叱られるのが仕事で当たり前…」と
色々と言って慰めてみた。

少し落ち着いたようなので、傍を離れて、
本来の特別支援学級児童の補助の仕事へ戻った。

夕方、また泣いている彼を見つけたので理由を尋ねたら、
「キャンプファイヤーに出られない!」と言った。

私は、『気持ちの整理が出来ずにいるのだろう…』と思い、
「大丈夫だよ!出てみてダメだったら先生に言えばいいよ!」と
参加を促すよう試みた。

後日、担任に事の真相(少し大袈裟?)を聞いたら…ビックリである。

担任が、彼を含めて三人の男子の非集団的な言動を叱り、
「このままだと、キャンプファイヤーへの参加は無理…」
「もっと確りと、先生の指示に従って集団的に行動して下さい!」
いったような事を言った。

上記の言葉を、泣いていた彼は、
「キャンプファヤーに参加してはいけない!」と理解してしまっていた」。
他の三人は、普通にちゃんと理解していた(ようで…)。

だから、彼が泣いていた理由は、
「叱られた事」でなく、
「キャンプファイヤーへの参加をダメだと言われた」
という思い込み・聞き間違え…であった。
~という事実を私は知り得た。


という事は、
大泣きしていた彼への私の理解・認識は少し的外れであり、
その言葉掛けも、正解ではなかった。


今回の「泣いていた彼」についての私の認識運動を振り返るなら、

初めは、全くの無知=何故泣いていたか知らない。知ろうと関わった。
次に、知り得た=理由を聞いて知り、慰めようと関わった。

そして、夕方~
理由を知っている(つもりで)関わった。
最後に、後の祭りだったが…真相・真実を知った。

これを一般化するなら、
無知→有知→行動…⇒無知の知


ここでの「無知の知」とは、
「知っているつもりの自分を知った」という事である。

知らない事より、知っているつもりがまずい。

知らない事は、知る必要を感じたり、知ろうとする。
知っているつもりは、知る必要を感じない・当然に知ろうとしない。


言葉にすれば以上であるが…
実際、現実的な困難は、
自分は、「本当に知っている」のか、
それとも、「知っているつもり」なのか、
その事実を知る事である。



今回の一件は、
たまたま後日担任から、
その事実を聞かされたから知り得たが…


実際は、知ったつもり、知り得たいるつもり~
そんな多くの事が、私にはあるのだろう…








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補助員…

2019-09-26 11:13:31 | 教育



先日、副校長から補助員の生徒への指導についての再確認を受けた。


色々とあったが…
その中で気になったの以下の事である。

「生徒を叱るのは教師に任せ、
補助員は、注意だけに留めるように……」

以前勤務していた小学校では、
教師・担任が容認するなら、
児童を叱る事、諭す事、
時には強制的な指導も黙認されていた。
実際に、何度も担任・教師の前で、そのように児童と関わっていた。

しかし、今回の小学校では、
文章として、上記の文面の入ったモノを渡された。


優しく言葉だけで注意して聞く児童ばかりなら問題はない…のだが…
実際の現実は、そうは、いっていない。


子供は相手・大人・教師を観る。
優しいだけ、
厳しいだけ、
煩いだけ、
怖いだけ…

それだけでは、ダメであるようだ…


必要なのは、
子供達が喜んで従う、
自分から進んで従う、

そんな気持ちにさせる指導・言葉なのだろう。



学級崩壊が普通に起こっているのが、
現代の学校の実情なのだろうか?


それは、
特別支援学級だけではなく、通常級でも…なのだろう?


そもそも~
「学級崩壊」とは?


児童が教師の
言葉を聞かない、
指導に従わない、

それは、多くの児童が、
自分の感性が一番、
自分の考えが一番、

そんな
一番の自分に従って行動するのが一番正しい!
といった…認識なのだろう~










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小三のエム君

2019-09-26 10:48:54 | 教育

先日、エム君について、算数の交流授業に行った。

その日の「めあて」は、
文章題で「式を考える・立てる」といった内容であった。

言葉で考える。。
図で考える。
数式を書く。

問題
16メート213円のリボンがあります。
3メートル買ったらいくらになりますか。

言葉で考える~
1メートル値段×3メートル=代金

図で考える~
数直線を書いて、下にメートル、上に値段を記入


数式
213×3=


早速、エム君は、
数式書いて、計算して答えを求めて終了である。

私が、
「エム君!言葉の式も考えようよ!」と言った所。

エム君の言葉は、
「そんなの無駄だよ!」
「もう~答えは出たでしょう!」、であった。


そう~
塾・公文に通っているエム君は、学校の先生の指導・言葉よりも、
公文・塾の指導・教えに従う方が楽なのだろう…









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続・普通について…

2019-09-26 10:27:51 | 教育




通常級の五年生の担任が、児童達に以下のような事を言っていた。

「質問されて、『普通です!』では、答えになっていない!」
「例えば、『おなか減っている?』と聞かれ…」
「『普通です!』では、この質問の答えになっていない…」


この言葉を聞いてた時、私は思った。
私は、いつも「普通です!」と言われ、
「そう~普通なの…」と納得してしまっていた。

でも、今回改めて思い直してみると…
この「普通です」は、答えた当人の普通(の状態)という事であり、
それは、
「普通に腹減っている」とか、
「普通におなか一杯」とか、
「減ってないし、一杯でもなく、丁度よい普通」だったり…であろう。

この、「普通です」という言葉は、
答えは、「普通」で終わり、
それ以上は何も考える必要なし…

といったような
アバウトで適当・いい加減といった誠意を感じさせない言葉てある。


もっとも…
日常の挨拶としての言葉である「おなか減った?」と
子供の健康管理の一環としての「おなか減った?」とでは、
その答え方・心の込め方もも当然に異なってしまうが…


それでも、
日常的な質問としての言葉であっても、
先生の言葉に対しての児童の返事ならば、
「普通です!」は如何なモノだろうか?




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普通について~

2019-09-01 12:00:52 | 想いのままに…


私の子供の頃、窓口で行き先を言って切符を買い、
改札口で駅員にバチンと切ってもらうのが普通の事。
今はICカードをピッとやって入るのが普通。

私の子供時代は、
宿題を忘れ、授業中の私語…
叱られるのは普通、

時には廊下に立たされるのも、
居残り勉強させられるのも、
みんな普通の事だった。

ましたや授業中の自分勝手な離席等、
絶対に許される事ではなかった。
なのに…今はそれも普通に行われている。

また、授業中に
「トイレ!に行かせて下さい!」なんて、
先生に普通に軽く言える事ではなかった。


日常生活・授業中の行為・行動…
全てが私の子供・若者時代とは大きく変化してきている。

私と息子の普通が、
普通に同じ事ではなくなった事に、
今朝の息子との何気ない日常会話から実感させられた。





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