先日、通常級の児童が、
近くをたまたま通りかかった私に、
「先生、誰々が泣いているよ」と
私に言って来た。
そこで、その泣いている子傍に行って理由を尋ねたが…
ただただ…泣いているだけで何も言えない・言わない…
そこで、隣のクラス・一組の担任に。その事を報告したら、
「あ~それは、(二組の)担任から叱らたから…でしょう」と教えてくれた。
理由が分かった私は、また彼の傍に行って、
「子供は叱られるのが仕事で当たり前…」と
色々と言って慰めてみた。
少し落ち着いたようなので、傍を離れて、
本来の特別支援学級児童の補助の仕事へ戻った。
夕方、また泣いている彼を見つけたので理由を尋ねたら、
「キャンプファイヤーに出られない!」と言った。
私は、『気持ちの整理が出来ずにいるのだろう…』と思い、
「大丈夫だよ!出てみてダメだったら先生に言えばいいよ!」と
参加を促すよう試みた。
後日、担任に事の真相(少し大袈裟?)を聞いたら…ビックリである。
担任が、彼を含めて三人の男子の非集団的な言動を叱り、
「このままだと、キャンプファイヤーへの参加は無理…」
「もっと確りと、先生の指示に従って集団的に行動して下さい!」
いったような事を言った。
上記の言葉を、泣いていた彼は、
「キャンプファヤーに参加してはいけない!」と理解してしまっていた」。
他の三人は、普通にちゃんと理解していた(ようで…)。
だから、彼が泣いていた理由は、
「叱られた事」でなく、
「キャンプファイヤーへの参加をダメだと言われた」
という思い込み・聞き間違え…であった。
~という事実を私は知り得た。
という事は、
大泣きしていた彼への私の理解・認識は少し的外れであり、
その言葉掛けも、正解ではなかった。
今回の「泣いていた彼」についての私の認識運動を振り返るなら、
初めは、全くの無知=何故泣いていたか知らない。知ろうと関わった。
次に、知り得た=理由を聞いて知り、慰めようと関わった。
そして、夕方~
理由を知っている(つもりで)関わった。
最後に、後の祭りだったが…真相・真実を知った。
これを一般化するなら、
無知→有知→行動…⇒無知の知
ここでの「無知の知」とは、
「知っているつもりの自分を知った」という事である。
知らない事より、知っているつもりがまずい。
知らない事は、知る必要を感じたり、知ろうとする。
知っているつもりは、知る必要を感じない・当然に知ろうとしない。
言葉にすれば以上であるが…
実際、現実的な困難は、
自分は、「本当に知っている」のか、
それとも、「知っているつもり」なのか、
その事実を知る事である。
今回の一件は、
たまたま後日担任から、
その事実を聞かされたから知り得たが…
実際は、知ったつもり、知り得たいるつもり~
そんな多くの事が、私にはあるのだろう…