新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

初めは事実から~

2020-04-20 12:10:57 | 想いのままに…
初めは事実から~

前回、「障害」について書いた。
今回は、「障害」についての身近な事実について書く事にした。
身近も身近も身近、それは生誕直後の息子の話である。

今から、18年前、息子は無事に東北・福島の病院で誕生した。
その時、彼の足には「内反足」という障害があった。

「内反足」-
赤ちゃんの先天性内反足とは?原因・症状・治療・ケア …
https://childsapuri.com/posts/479/

まだ、歩けない彼の場合、その内反足状態での足は、
歩く為の障害とは、ならない
それでも、足首の無自覚的な自由運動の障害となり得るのだろう。

病院で誕生したのだから、
担当医師には、その内反足を障害だと認識でき、
直ぐに治療方針の提示があった。

これが、もし仮に、
現代でなく、遠い過去に、
医者ではなく、信心深い助産師の手で、
息子が生まれていたなら…

もしかして、その助産師は、
「まあ~素敵!なんと個性的な内向きの足なの♪」
なんて思い…

家内も私も、『この個性を大切にしないと!』なんて共感して、
結局、息子の内反の足を、「あるがままに」受け入れていたら…、
今の息子の姿には出会えなかったのだろう。


治療法は、ギブスで固定、週一で病院に行って、
ギブスの巻きなおし…で、
それが一年間続いた。

風呂は、ギブスの上からビニール袋を被せて入り、
七月・八月の真夏でも、ギブスのままで過ごした。

それは、一年間右足裏の神経刺激が殆どない状態の継続であった。
それが理由か、どうかは、不明だか…
息子は、偏平足気味の足をしている。

それでも、そのギブスの成果は絶大であった。
なんと、誕生時内反足であったにも関わらず、
小学生高学年から。息子はリレーの選手に選ばれ、
中学では、1年生と2年生の運動会では、
他のリレー選手と三人で大会新記録を出し、
運動会のプログラム表に、他の二人と一緒に名前が載った、のである。


以上が。今回の身近な「障害」の事実的記述である。
もっとも、正確には、「障害と克服」の事実であろうが…

「克服」といっても、零歳の息子に「克服」という
大変な意志・認識は皆無であっただろうが…


あるとするなら、それは親である私達が、
私達自身の「不安」という認識の「克服」であった、だろう…

「不安」は、あっても、医師の言葉を信じて、
「息子の足は良くなる」と信じて、
一年間、清瀬の小児病院へ毎週、通っていた。

とても…可哀そう・気の毒に思ったのは、
(もつとも…息子には、このような感情はなかっただろうが)
夏休みに家内が実家に帰った時、
息子を入れて年齢の近い従兄弟3人が集まった時である。

他の二人は、素足で、涼しそうに、自由に足をバタバタ動かしている…
しかし、息子は、暑苦しいギブスの装着で、左足だけバタバタ自由であった…



さて、ここからは事実から見て取った「論理」である。
それも、「障害・克服」の論理である。



「障害」の二重性、
①  当人に障害・邪魔、認識のないモノ。
②  当人に障害・邪魔、認識のあるモノ。

更なる二重性、
㈠  当人になく、周囲にもない。
㈡  当人になく、周囲にはある。


息子の場合は、
「当人になく、周囲にはある」障害だったが…
幸いに、零歳児の息子は、問題なく、ギブスに耐えた。
(零歳児ではないなら当人の意志の問題が…)

今回の息子のような、
実体・身体の目に見えるような障害の場合、
過去から現代までの医療の進歩・発達・発展の結果、
医者が確信をもった治療法の存在がある。

しかし、「発達障害」は、
過去には、殆ど問題視されない障害。
更には、目に見えない認識の障害。

なので、
医師が自信を持って進められる、
確実な治療法が、まだないようである。


しかし、
論理的には、実体・身体と同様に「ギブス」(ような認識)で、
強制的に変える(型に嵌める)方法であろう。

例えば、
自閉症スペクトラムでは、
当人は「自自閉」という殻に籠り、
嫌な現実から避難・逃げている、と考えられる。


こう考える理由は、
私の関わった自閉症スペクトラム児達は、
自分が、楽しい時は、普通に遊んでいる。
しかし、何か起こると、自閉的に変化する。


もっと具体的な例なら、
私が関わった、「場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)の児童は、
友達と楽しく遊んでいる時や自分の好きなアニメ・ゲームの会話には、
積極瀧に話の輪に入ってくる。

しかし、
国語の音読や学習発表会…では、
緘黙して、先生が何を言っても・しても、絶対に口を開かない。


私の関わって来た、殆ど全ての発達障害児達は、
「自己の意志が強い」、「自己主張が強い」…

この事は、特に問題はないが…
問題は、彼らの、その意志・主張が通らなかった時の
その表現方法・手段にある、と言える。


飛び飛びの結論であるが…

「発達障害」の子供達自身は、その事を「障害」とは感じていない。
でも、学校・教員は、彼らは、スムーズな一斉授業の「障害」と感じる。
親は、親が子供が嫌がるような事をやらせようとする時、「障害」と感じる。


私は、どう感じているか?
彼らに合わせている時は、普通で特に問題ない。
普通とは、同学年の児童と同様な抵抗は多少ある事。
でも、彼らに教育・指導しようする時、「障害」を感じる。


さてさて、ここでの「問題の捉え方」であるが…
「発達障害」を問題と捉えたなら、
「『発達障害『はある!』と、捉えるのではなく、
先ずは、
「『発達障害』とは?』を求める・解く事から始める。


発達とは?
障害とは?

発達も障害も、人間の発達・障害である、から
人間とは?

人間の発達とは?
発達の障害とは?

と考えて進めるなら、
人間は認識的実在、
人間は社会的実在、

人間には感情・理性的存在、
人間は創り創られる存在、

人間は生活していく存在、
人間は゜生命の歴史を背負っている存在、


人間にとっての最重要課題は、
生き続ける事。
自分活かし生き続ける事。
自分の満足・納得を求めて生き自分を活かしていく事。
自分の幸福を求めて生活し続ける事。



上記のような、基礎的問題を説きつつ解き続けていく中で、
「人間の子供の「発達障害」を解決する方法を求めてゆく、のだろう。


ここで、
「説く」とは、このブログに「書く」「箏。
「解く」とは、その実態・実体を求め考える事。


その実体・実体とは?、
私という、「悟りを求めて」いる実体。
ブログを書いている私という実態。











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続・問題の捉え方と解き方」

2020-04-19 16:36:40 | 認識論
これは、「問題の捉え方と解き方」の続編である。
続編とは言っても、今回も数学。幾何…の問題に関わる訳ではない。

事実的な続編であれば、当然に数学・幾何…の問題であろうが…
ここでは、論理的な関り・関係性を問題としたいので…


「今回は、先ずは『障害について』から始める事とする」と
書いて、記事を書き終えたら、以下のような結論を得た。


問題の捉え方で、その解き方が変わる。
解き方が変われば、その問題に対する認識が変わる。

問題に対する認識を浅いままで終わるか、
深くするか、は問題の捉え方次第である。





以下が、続編で考えた事である。

「発達障害」とは、
どのような「障害…」なのか?
そもそも、「障害」とは何か?

それは、私は、ずっと「発達障害とは何か?」を分かりたくて、
ネット・書物を視たり・読んだりして~
また、現実的に彼らと関わり続けてもきた~

にも拘わらず、今一つ、分かり得ない、からである。



当初からの疑問とは、以下のようなモノである。

発達障害とは、
正常・普通な発達の邪魔をする何か?
それとも、
発達の結果であり日常生活での障害として現象している何か?

そもそも…「障害」とは?
辞書を調べるなら、
「障害」とは、何かをする時に、それを妨げて、邪魔をするモノゴト。
と書かれていた。



そこで、「身体障害」を思い描いた。

例えば、交通事故で右腕を失っていたなら、

右手で何かを持とうとする時、その右手がない事が「障害」となる。

でも、初めから「右手」を使おうという意識がないなら、右手がない事は障害とはなり得ない。
それでも、両手のある健常者同様な生活を欲するなら、右手なしは障害となり得る。

この時、右手を失って無くても、事故で神経が切断されて、使用不能なら
「右手なし」、と同様な障害が生じるだろう。

また、右手あり、神経の切断なし
それでも、何らかの理由で、右手が使えない場合…


これを足指の例で説くなら、私の知り合いに、
足指を手の指と同様に広げられて物を掴めたり、
足指を握って拳を作り、物を足指拳で殴れる者がいる。

このような事が、出来る事は、普通ではないが…
もし仮に、彼のような者が大勢であれば、
彼のように足指を駆使できない人は、障害者と言えよう。


現実的に、五体満足に誕生した人間には、
両足を両手と同様に駆使できる可能性を持っている。

でも…現代の社会生活では、その両足の発育・発達を阻害している。
もし…現代人が猿の同じように樹々でも生活を強いられていたなら、
両足を、両手同様にに駆使出来ない者達は「発達障害者」となり得る。

ここで、障害には、
①  身体・実体障害、
②  認識・機能障害、二つに分けられる。

大人なら、上記の二通りであろうが…
小人とくに、成長期の子供なら、
ここに「発育・発達障害」が加味される、から…

改めて書き直すなら、

五体満足の人の障害なら、

①  身体・実体の発育障害。
②  認識・機能の発達障害。


または、一般的な障害なら

①  身体的欠損による障害。
②  機能不作動による障害。




ここで、「認識の障害」が、
結果的に「実体の障害」(変形になり得る)


私の父親は、子供の頃から、洋裁店に小僧として見習いにいっていたそうである。
子供の頃から、洋裁ばさみを使用したからだろう…
父親の右手の小指は、変形していた。

(この説き方は、事実とは逆である事に気付いた。)

私が、子供の頃に、父の右手の小指の形が変な事に気付き
その理由を聞いたら、上記のようなに教えてくれた、でした。





ここで、今までに私が関わってきた「発達障害」児達を見るなら、
みんな五体満足・身体欠損はなかった。

初めの四年間は、知的障害がある「自閉症児」の「特別支援学級」勤務で、
その後二年間は、知的障害がない「情緒障害児」の「特別支援学級」である。


「知的障害」とは、
知能指数検査の結果が、70か60以下の児童で、
通常級での一斉授業について行けない児童達。

「情緒障害」とは、
知的障害はないが、集団・学級では
トラブル続きで一斉授業の妨げになり得る児童達。


「発達障害に」ついては、
自閉症スペクトラム・情緒障害以外にも、
様々な分類があるが、

現在、問題化している、子供達の「発達障害「の「障害」とは、

①  学校の一斉授業・集団活動の障害になり得るモノ、
②  その個人・児童の学習の障害になり得るモノ、

の二つが考えられる。


彼らの家庭生活を視るなら、
今の学級には、対照的な二人がいる。

一人低学年、賢く運動神経の抜群、母親は手に負えず、
よく担任に相談や話を聞いてもらっている。
学校では、彼がキレると、二十代の男性教員が二人係で抱きかかえ、
職員室へ連れていく程である。

本来は、説教・叱る…等の指導であるべきモノだが、
彼の場合、一度、キレると相手の学年にも関わらず、
我武者羅に向かって行き、蹴る・殴るの応酬…で
他の児童の怪我防止の為にである。

相手が逃げたり、その場にいない時は、周囲の机・椅子の蹴りまくり…
それは、もう大変なモノである。


もう一人は、高学年の児童で、
家では全く問題なく、良い子である。
ただ、その中身は、家ではいつも自分の好きな・やりたい事をやっていて、
両親は特に、その事に問題を抱いていない。

学校でも好きな教科は、積極瀧にり組むが、
嫌いだと、全くやろうとしない。

教師に対しても、好き。嫌いをハッキリ言うし、
いちいち彼の言い分目彼の理屈を主張し続ける。
知識は豊富だが、頭が固くね他人の理屈・言い分を売れ入れ難い、
運動神経もよくなく、走るのも遅く、真面目に走らない。

………さて~さて~………

長々と書き綴ってきたが、
ボチボチ結論的事を書かねばなるまい!

過去の今までの私は、仕事の対象であり、
自分が、知り分かる必要がある「発達障害」について、
ネット・書物に書かれた「発達障害」そのモノから分かろうとしていた。

しかし、それでは、日々私の目の当たりで展開している事実とは関連つけられず、
結局、書かれた言葉・記述は、役立たずに忘れ去られていく日々であった。


そこで、「発達障害」を「障害」から、
人間の障害から、考える事にした。

人間の障害を問題にするなら、
障害とは、

①  人間の目的達成の障害・邪魔のなるモノ、
②  自己の目的を達成できない人間・状態にするモノ、

ここの、
①  人間外部の環境・状況の問題
②  人間内部の発育・発達の問題

更には、
社会と、その目的との関係性?
そこから正当性・不当性…


で…取り敢えずは、

現代の日本社会で問題化している「発達障害」とは、
何の障害かと言えば、「集団活動・学校・学習」における「障害」だと分かった。
その理由は、単なる身体的障害なら、過去から現在までずっと問題視され続けているから…。


ここで、
新たな問題が、「発達障害」は、
薬を使用して、治せるモノだろうか?
薬の使用で、治してよいモノだろうか?


そもそも…
今、問退視している「発達障害」は、本当に「障害」足り得るのか?
その目的(学校での学習・集団生活)が変われば、
それらは、何ら「障害」として現象しないモノなのて゜は…


自閉症的ある児童、四六時中「自閉状態」ではない。
情緒障害であっても、いつもいつも暴れている訳でない。

彼らが、自閉的・暴れる…には、彼らなりの理由がある。
問題は、子供自身が、その理由・訳を自覚する事である。

仮に、どんなに、その理由・訳が正当・妥当であっても、「
だから、そこで「自閉する・暴れる」…では、

真の(自己の未来・将来に続くだろう)問題解決に至らない事を
自得・自覚する事であろうに…








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問題の捉え方と解き方

2020-04-16 18:52:17 | 認識論


今朝、寝起きに、布団の中で、フっと思った。
『多角形の対角線の本数は?』…と。


三角形⇒0本。
四角形⇒2本。
五角形⇒5本。
六角形⇒9本。

上記の数字から、

N角形の対角線の数は、

「N×(N-3)÷2」という公式を思い出した。

ここで、(N-3)の「3」は、三角形の「3」だと納得していた、事を思い出した…
三角形では、対角線は「0」だから、「ひく3」だと納得していた。

しかし、フっと思った、
『全ては疑いうる』と…

そして思った、
『今の私は、この問題を多角形の問題として捉えている』と…

そこで思った、
『ならば、これを点と点しで作る直線の問題と捉えるなら』と…

点と直線では、
「ひとつの点では、直線が引けない」

直線は
「ふたつの点」以上で初めて引ける」
二点で一本、
三点では、一点と他の二点で、直線は六本引ける。


具体的には、点A、点B、点Cで書くなら、
AからBとC⇒ABとAC、
BからCとA⇒BCとBA、
CからAとB⇒CAとCB、

ここでは、
AB=BA、BC=CB、CA=AC


なので、三点で引ける直線は

3(点)×<3(点)-1(点)>(他の二点)÷2=3(本)


ならば、A、B、C、Dの四角形・四点では、

AからB、C、D⇒AB、AC、AD、
BからC、D、A⇒BC、BD、BA、
CからD、A、B⇒CD、CA、CB、
DからA、B、C⇒DA、DB、DC、

4(頂点)×<4(頂点)-1(頂点>)(他の三点)÷2、

4×3÷2=6(本)


五角形ABCDEならば、
同様に、
AからB、C、D、E
BからC、D、E、A
CからD、E、A、B
DからE、A、B、C
EからA、B、C、D


5×4÷2=10(本)


ここで、3本,6本,10本とは、
以下のような各辺数と対角線の本数
の合計であるから、

三角形では、三本+0(対角線)=3
四角形では、四本+2(対角線)=6
五角形では、五本+5(対角線)=10
六角形では、六本+9(対角線)=15


三角形の対角線数⇒三本-三辺=0本、
四角形の対角線数⇒六本-四辺=2本、
五角形の対角線数⇒十本-五辺=5本、


これが、N角形なら、
N×(N-1)÷2-N となる。

今、これを通分して一つの式にするなら、

N×(N-1)÷2-N となる。
=N×(N-1)÷2-2N÷2
=<N×(N-1)-2×N>÷2
=(N×N-1×N-2×N)÷2
=(N×N-3×N)÷2
=N×( N-3 )÷2


ここで、問題の「3」が浮上してきた。

因みに、ネットで検索した、公式は以下である。




(頂点の数)×(頂点の数 – 3)÷ 2


上記の式は以下のように考え導かれた。


三角形では対角線は引けない。
三点では対角線は0本となる。

これは、左右隣に引かれた直線は多角形の辺となり、
対角線とはなり得ない、という事である。


四角形ABCDならば、

AからB、C、D⇒AB、AC、AD、
BからC、D、A⇒BC、BD、BA、
CからD、A、B⇒CD、CA、CB、
DからA、B、C⇒DA、DB、DC、

AならAB、AD
BならBC、BA
CならCD、CB
DならDA、DC

全て多角形の辺となる。
四点全て。二点少なくなっている。

なので、
N角形の対角線の本数は、

N×(N-1-2)÷2
=N×(N-3)÷2




ここで結論を書くなら以下である。


この問題は二通りの思考法で解ける。
① 多角形の対角線の問題を、対角線の問題として解く。
② 対角線の問題を点と点を繋ぐ、直線の問題から解く。


さて~
だから何なの?
それはまた次回!

・つづく・














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三つの弁証法

2020-04-14 16:03:39 | 弁証法


何でも、安倍総理が自宅でくつろいでいる動画をアップしている、そうだ。

それについて、三つの弁証法で考えるなら以下のようになろう。

安倍総理の意図は、
新型コロナ感染拡大防止の為に、
国民に自宅でゆっくり過ごして下さいの想いを込めて、
総理自身が手本を示したのであろう。

先ず、コロナウイルスに関する個人的な「自然の弁証法」、
次に、社会的な拡散防止の為の「社会の弁証法」、
そして、自宅待機でストレスを軽減すべく「精神の弁証法」…

安倍総理でなく、安倍さんであれば、その動画も特に問題はない。
それは、国民にストレス軽減を求めてのモノだから、である。

しかし、安倍さんではなく、安倍総理という社会的立場なら…
その動画は少々問題化する。
ここに「社会の弁証法」が顔を出す。


その理由は何か?
それは、国民が自宅待機をゆっくりくつろげない社会的な理由にある。
その理由とは、社会において「働かざる者、食うぼからず」である。

自宅待機とは、収入減少につながり、生活困難へと向かう。
国家の指導的立場として国民にくつろげる自宅待機を欲するなら、
国民が、働かずに、自宅待機でも、食うに困らないようになり得る、
総理としての頑張っている姿を見せてこそ、
国民が自宅が自宅で安心して待機可能になる、というモノであろう。


総理大臣が頑張って、全国民の生活を保障しようとしている、
そんな姿こそが、的確な動画のアップとなろう。
もっとも…そこに結果が見えない場合は別であろうが…


弁証法の駆使とは、
自己の身体的な条件・状況、
社会的な立場・状況、
精神レベル・状況、

に即して用いてられてこそ、有効である。


すみません総理…
一国民が、こんな事を書いて…

頑張っている姿を、見せないよう、が和風、、
頑張っている姿を、分かってもらおう、が洋風、
周囲を無視して、自己中で頑張る、が中華風、


ここにも、三つの弁証法が…







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「弁証法」について…

2020-04-14 13:18:08 | 認識論


例えば、今、目の前で、A君とB君が取っ組み合いの喧嘩を始めた、とする。

ここには、三つの弁証法性が見て取れる(だろう)。

一つ、互いが喧嘩に至った、その気質・性格・精神の弁証法性。
二つ、それらを創り上げた家庭・学校・社会の弁証法性。
三つ、取っ組み合いで発生する物理的打撃による傷・怪我…の自然の弁証法性。




それら三つの弁証法性は混然一体的に働いているモノ。
それを一つ一つ分離して自覚・認識するのは至難であろう。

眼前の事実だけから弁証法性を見て取る事は不可能。
弁証法性は過去・現在・将来へと続いている・いく「性質」だから、
眼前の現在の事実から弁証法性を見て取るには、
その事実に関連する過去の事実想起が不可欠。

しかし、
現在の、その三位一体的事実に関連する
過去の事実があり得るだろうか?



上記の例なら、

違った二人同士の取っ組み合いの喧嘩ならあり得る。
同じ二人同士の口論ならあり得る。

しかし、
その二人が、過去に同じような取っ組み合いの喧嘩をしただろうか?
したとして、その時も、現代と同じように目撃出来ているだろうか?

また、いつもいつも取っ組み合いの喧嘩をしている者同士なら、
それは、それで、
初めての取っ組み合いの三位一体的な弁証法性と
取っ組み合いが日常化した後の三位一体的な弁証法性とでは、
それら三つのバランスに相違があるのだろう…

本当に、「三つのバランス」の問題だろうか?


AとBが、親しくない当時の取っ組み合いと
親しくなった現在の取っ組み合い、とでは、
個々の弁証法性は同じであっても、
二人の相手への思い・感情に相違があり、
現象する事実は同じであっても、
その心理・感情・認識…に大きな相違があり得る。

その時、
そこに精神と社会の弁証法性の相互浸透が見て取れる…かも?
喧嘩を通して、親しくなった者同士か…
減加ょ通して、憎しみを強くした者同士か…


そう~同じような状況で、同じような喧嘩をしているのなら、
そこに、精神・認識の弁証法性による量質転化化が起こり得ている。

「弁証法」とは、
見て取った過去の事実と現在の事実から、
それら事実同士の区別と連関から法則性を導き出し、
弁証法性を法則化いたモノであろう。





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