新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「我思う、故に我あり」

2021-03-31 15:12:26 | 哲学言葉シリーズ

「我思う、故に我あり」


「我思う、故に我あり」の意味とは?
「我思う、故に我あり」をそのまま現代の日本語に直訳すると、
「私が思う、ということは私がある」となります。
ここで重要なのが、「思う」と「ある」の意味です。
この名言の「思う」は「疑う」
「ある」は「存在する」という意味になります。


ラテン語訳のCogito, ergo sum
(コーギトー・エルゴー・スム)
(cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)


私は考えた。
そもそも「我あり=私がある」とは?
それは「私が私だという認識」だろう。

それは、別言するなら、
「己の『自我』の自覚」であろうか…
「己の中のもう一人の自分の認識」…


デカルトの場合に、
その自我が「全てを疑っている自分」であった。

ならば、「我信じる、故に我あり」もあり得るのだろう。
ならば何故に、この事が問題とならないのか?


それは、信じている事=事実であり、それは「本当の事」だから、
誰が、「本当の事を信じる」のだろうか?という事でしかない。


「信じる」とは、
この「疑い・疑う」という認識・運動が生じて、初めて生まれる認識・運動である。

疑いも疑うも認識である。
信心も信じるも認識である。

この二つの認識が一人の頭脳の中に生まれた時、
初めて「事実・本当・嘘・信じる」…といった認識運動となり得る。


当時の人々は、「神が創りたもうた、故に我あり」なのあろう。


現実は当然だ=即自、
現実への疑い=対自、
疑いから信心=即且対自


先ず「神は事実だ!」
から「神は本当か?」
そして「神を信じる。」




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何の為の「悟り」だろうか?

2021-03-29 15:16:40 | 悟りシリーズ


「悟り」は何の為?
より良き人生の為!

より良き人生とは?
納得・満足できる人生!

納得・満足とは?
幸せと思えるコト。

それは精神的?肉体的?
精神的かつ肉体的モノ。


それは自由な精神と窮屈な肉体。

自由とは?
自己の想いのままに…

窮屈とは?
自由な想いが肉体の制約を受け続けるコト。


精神的な自由の獲得、
肉体的な自由の獲得、

肉体的制約の中での
精神的な自由の獲得。


誰かが、言っていた。
自由とは、不自由である…と。

人が自由を求める時そこに不自由が発生する。

人は不自由を感じるから自由を求めるのではなく、
人は自由を求めるから不自由を感じるものである。

人が自由の求める理由は、
人の精神が自由そのモノ。

自由である人の精神が自由を求める時、
その肉体的な制約から不自由を感じる。


結局、人は制約ある不自由の中で、
自由を求め続ける存在なのかも…

人は、不自由を自覚しつつでも、
自由を求め続けていられる限り、
そこに自由を実感するのだろう。

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《3》弁証法はどのように役立つか (二)

2021-03-29 10:50:38 | 弁証法講座
《3》弁証法はどのように役立つか

2)学問用語は概念規定を厳密に

最後に学問用語の厳しさについて述べておく。何故日常用語と違って学問用語は、概念規定を厳密にしなければならないかである。
学問とは何かといえば、論理の体系であり、大系であると南郷師範は説かれている。学問と似た言葉に研究というものがあるが、研究は体系にする必要はない。体系になっていてこそ学問である。

では体系とはを簡単に言えば、人体を例にとれば、頭があり、胴体があり、手足があるというように、しかるべきものがしかるべきところにおさまっていて、しかもつながって機能しているのであり、それも中枢があって部分を全体として統括している。
これを学問でいうなら、再三説いてきたように、頭が本質論、胴体が構造論、手足が現象論というようにイメージしてもらえばよい。

学問といった場合、例えば医学とか生物学とかの個別科学においても、体系化されなければならないのであるが、「学問は体系である、研究とはちがう」という捉え方をしているのはドイツと日本だけである。ドイツ語と日本語には「学問」という言葉があるが、他の言語にはない。研究があるだけだ。つまり英語にしても、学問という概念すなわち体系化しなければならないという捉え方がないのである。
アメリカがその際たるものだが、彼らは資本主義つまりは金儲けに役立つプラグマティズムが研究だと思っている。要は自動車を作るとか、病気を治すとかなら研究レベルでいいのだというのが、英米式の捉え方だ。

だから彼ら英米人にとっては、学問とは対象の構造に即して体系化されなければならないと考えていないのだから、言語もまあ役にたっていればいいというレベルである。
しかし、事、学問の構築ならば、一分の狂いもなく体系化されなければならないのだから、巨大な積み木細工を想像してもらえばわかるように、素材が間違っていても、1ミリ狂っていても構築できずに崩壊してしまう。
どれほどの言葉の、あるいは概念の厳密さが要求されるかである。

ドイツ語の文法には例外がないと言われるが、それはドイツ民族が世界で唯一、学問の構築を目指したからであり、例外があったのでは論理規定があいまいになるからである。
弁証法は三浦さんは法則と定義しているけれども、本当は法則ではなく理論というべきである。南郷学派がそのように発展させたからだ。
法則は特殊性の一般性である。特殊な分野…というほどではなく、オウムの法則とかパスカルの法則とかのレベルを法則という。理論とは論理に体系性があることだから、弁証法は南郷先生によって体系が創られたのだから、理論になったのである。
さらに付け加えれば、学問用語、つまり論理的な言葉が厳密に使われなければならない所以は、歴史性のゆえである。

古代ギリシア以来、人類は主観的な問いかけ的反映を克服して、万人が認める事実の「像」を確定し、その像から論理の像へと転換するプロセスを辿ってきたのである。そうした歴史性をあらゆる言語は包摂しているが、とりわけ学問用語はその概念規定がシビアになされてきたという歴史性を持っている。
諸君の中には、自分は学問をやるわけではないと言う人もいるだろうが、しかし私たちがゼミで目指すものは、ひと言で言えば論理能力である。

論理能力すなわち、対象を反映して頭の中に論理の像を描くには、外界をしっかり反映して「事実の像」を創るだけではなく、「論理としての像」へと転換するプロセスを育てなければならない。「論理」も「像」として描けるように技化しなければならない。
私たちは日常生活でしゃべるときは、「論理的だね」とか「理論的に言えば」などと平気で使っている。…これは現今の学校教育を受けたものの、ほとんどがかかる宿痾というべきものである。
だが、学問ではそんなあやふやな言語ですませてはいけない。ここは論理というべきか、論理的というのか、論理性というのか、厳しく使い分けされなければならないのである。

論理としての像を創らなければならないから、学問用語に慣れ、学問用語で像が描けるようにならなければならない。それゆえに、学問用語を用いなければならないし、また日常用語と違って、概念規定を厳密にしなければならないのである。
例えば老人の下の世話をするだけなら、そんな理屈はいらない。言われた通り仕事をすればいい。しかし、どうしたら老人の立場にたって最高の援助ができるかを問われるなら、これは「介護」なのか「看護」なのか、医療なのかは、厳密に使い分けしなければならない。
だから学問用語は厳密さが要求されるのである。

……

以上、諸君に弁証法とはどういうものかのイントロダクションを説いてみた。詳しくはこれから1年間の学習をとおして理解していってほしい。今聴いていると、とてつもなく難しいと感じた人もいるだろうし、怖じ気づいてしまった人もいるかもしれないが、諺に「案ずるより生むが易し」とあるように、一歩一歩稲村先生を信じて勉強していけば、しだいに弁証法の像ができてくるものである。あきらめずに喰いさがってほしいものである。



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《3》弁証法はどのように役立つか (一)

2021-03-29 10:44:02 | 弁証法講座
《3》弁証法はどのように役立つか

1)弁証法が使えるようになるために

世界という物質の機能、すなわち運動性=運動する性質についてもう少し繰り返しになるが、説いておこう。
世界は運動していると言っただけでは何の意味もない。問題はこの過程性、歴史性をどう個別科学の構築に役立てるように捉えるか、なのである。
弁証法の対象は、個別科学とは違って世界であり、その運動性だと説いたが、この運動は物理や化学のような個別科学が提示する例えばオウムの法則のような「法則」では扱いきれない。
弁証法は対象の運動を扱うとは言うものの、個別の具体的な運動を扱う(個別科学)というより、世界そのものの運動を扱うのだ。
むろん弁証法は個別の運動を扱わないのではなく、個別の運動も世界そのものの運動から扱うのである。個別のものの運動は、世界全体の一部の運動だからである。
ここを誤解すると、具体的なものの運動とその結果だけ見てしまい、全体を貫く運動性を見損なうことにもなる。
社会というものは、人間という実体が集まっているから社会なのではない。生活体として運動しているから社会なのだと捉えることが弁証法なのである。
ここまで弁証法とはおおよそこんなものだという説明をしてきた。これは空手とはだいたいこんなものだと分かった上で入門者が稽古を始めるのと同様に、だいたいの全体像を理解してほしく説明をしてきた。
では弁証法を学ぶとどんなメリットがあるかを多少説いておく。そうすれば諸君も弁証法を学ぶ意欲が湧くであろうからである。
南郷先生は『全集』第2巻で、なぜ弁証法が必要かを次のように説かれている。
「受験勉強で培った能力は人間というものの生活や考え方や生き方をみてとれないようになっていくので、どうしても大学の初めにその受験のための能力を、人間のすべてをわかるための能力に変えていかなければならないからだ」と。
具体例として医者がいるから、病気の例で説いてみよう。

ここに心臓病の患者がいるとして、この患者は心臓だけが悪いということはあり得ない。心臓を病むときは、必ず全体が病んでいる。心臓の悪さを100とすると、他が10や20のレベルの悪さであるため、表に出てこないだけである。全体の中で、その人は心臓が一番弱いからこそそこが表面に現象しているが、表面に出てこない部分も同じく病んでいるのである。医者は全体を見ずに、現象しているおかしな部分だけを見てしまうから治せないのである。
ある症状を訴える患者には、その生活過程をみて、全身の運動形態をまともにする方向で治していけば良いのである。歪みというのは、全体のおかしさがそこに現象しているものなのだから、全体を正しくするようにしながら、その歪みを治していくことが大切なのである。そこだけがおかしくなるということは絶対にない。そこが歪みという形で量質転化するには、必ず他も量質転化している。全体の歪みという量質転化が、さらに部分の歪みに量質転化して現象する。
弁証法は大きく全体の発展過程の論理である。だから自分の研究対象の問題を考える場合も、このように全体との媒介関係において捉えなければいけない。
このように、弁証法で考えが身に付くことが、弁証法の実力である。
弁証法を自家薬籠中のものにすれば、対象の問題を何でも解くことができる訳は、弁証法が全体の運動の論理だから、全体との媒介関係で対象の構造が見てとれるようになるからである。また弁証法だけではなく、全ての学問を研鑽すること、つまり哲学という全体的学問を究めたところからそれを媒介にして部分たる個別科学の問題を解けるのである。
そうすれば病気をみるにも、人間の身体の病みとしての運動を、正常の全体運動から捉えようとする。正常の運動から量質転化、相互浸透の問題として病気を捉えるのである。
全体の運動のありかたで物事を考えることができるようになることを、弁証法が自家薬籠中のものになった、なんでも問題が掌を指すように解けるようになった、ということである。
弁証法をやらなかった人間は世に名を残せない。アリストテレスも、カントも、ヘーゲルも、歴史に名を残した人物はみんな弁証法をやっている。

くどく言うが、なぜ弁証法を勉強しなければならないかと言えば、森羅万象は弁証法性、つまり機能として運動するという性質を持っているからである。世の中のもの全てが変化・発展している。つまり運動しているからである。変化発展、そして消滅、だからその構造をわかるために弁証法をやるのだ。空手はそのためにやっている。
私たちが弁証法がわかって、使えるようになるためには、脳細胞という実体が弁証法性をおびなければならない。実体が機能を決定するからである。
ではその脳細胞が弁証法性を帯びるためにはどうしたらよいか。

第一は、脳細胞を運動させなければならないが、脳細胞としては運動はできない。なのに運動させるとはいかに? それは日々、同じ運動をしないことである。つねに違う運動、脳細胞が困ってやめてくれというほどの運動を続けることだと南郷先生は説かれている。だから空手が一番良い。空手に代わるものとして、諸君が今日の午後練習してきた健康腺の講座も、これまでやったことのない運動をやらされたと思うが、それが脳細胞を強烈に運動させることなのでる。
したがって諸君にあっては、この『弁証法はどういう科学か』でまずは知識的に学びつつ、実体たる身体を動かして、その結果脳細胞に弁証法を帯びさせることをしなければ、弁証法で何でも専門分野の問題が解けるようにはならないのである。

第二は、弁証法の学びと対象の究明を相互浸透させていく勉強をしなければならないということだ。諸君の専門とする対象、例えば医療とかビジネスとかを究明しなければ弁証法性、つまり運動性、ないしは過程性は浮かび上がってこない。
例えば南郷先生は現在「“夢”講義」を執筆されているけれども、そもそも夢とは何かを研究していくに当たって、どのように対象である夢と弁証法を相互浸透させて究明されていったか。
夢は、脳の機能としての認識のはたらきによるものである、だから、夢の問題を解くには、脳の問題として解かなければならない。脳の問題として解くには、神経の問題として解いていく必要があり、さらにそれを解いていくためには、脳の誕生から、脳と神経の発達の過程から解くことがどうしても必要である。こういったつながりとともに、いわゆる進化の過程的構造がわからなければ、夢の問題を解くことはできない。
対象のもつ過程のありかたを理解するには、過程性に着目し、どのような発展や消滅がおきるのかという運動の法則性を理解したうえでないと、究明がなされないのである。
これが弁証法と対象の究明を相互浸透させるということである。一見つながっていないものを、つなげていく努力を指す。また対象たる事物事象は運動でつながっていることを指針にそれがどう運動しているか、つながっているかを導いてくれるのが弁証法の力なのである。

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《2》弁証法の基礎的概念を俯瞰する (三)

2021-03-29 10:32:58 | 弁証法講座
《2》弁証法の基礎的概念を俯瞰する


3)弁証法の体系とは


最後に『弁証法はどういう科学か』では
6矛盾とはどういうものか
でまとめとなっているが、それは矛盾こそが弁証法の本質レベルの定義とされるからである。例えば量質転化といった場合、量と質は違う概念であるのに、それが一つのものとして扱われるのは矛盾している、というようにである。
弁証法は本質論レベルが矛盾、構造論レベルが「対立(物)の統一」で、3法則が現象論となっている。体系的になっている。

学問は、南郷学派では本質論もしくは一般論、そして構造論、現象論に体系化されると主張している。というよりも、体系化すなわち学問化したのは南郷学派なのである。弁証法も三浦さんがこの本を書いたころまでは「法」つまり「人間の頭脳活動のための一つの使い方(方法)として明治時代に訳されたということと、エンゲルスが世界を捉える法則と考えたので、「法」となっている。詳しい事は『“夢”講義』第4巻の200ページを読むように。

なぜ学問が体系化するのかは、今回は長くなるから割愛するが、端的には対象の反映であると同時に学問の発展の歴史性でもあるからである。人類が本能から離脱して認識を獲得していき、やがて古代ギリシアで哲学が誕生する過程がすなわち体系化の必然的歴史性なのである。
本質論ないし一般論とは、対象の全体像を論じたものである。
ここで「矛盾」が弁証法の本質論だと言ったのは、本質論とは構造論を踏まえてのことであり、一般論とは構造をふまえずただ一般的に論じている場合を指す。だから「矛盾」が本質だという場合は、弁証法はどういう構造かを踏まえて言っているわけである。

弁証法で言うと、運動とか変化とかと捉えることが一般論になる。
構造論とは、対象の対象たるゆえんの骨組みを論じたものである。医学で言うなら、瀬江先生が説かれているように、常態論、病態論、治療論が骨組み、すなわち構造論になる。弁証法では、「対立(物)の統一」が構造論である。
現象論は対象の現象している(形として現れているものの)ありかたを論じたものである。医学でいえば発熱とか下痢とか言う現象を単に記述しているのではなく、論じたものが現象論になる。弁証法でいえば、三つの法則が現象論であるが、『武道と弁証法の理論』では「対立物の統一の構造の具体性の一般性として弁証法としての三法則が存在する」と述べられている(212ページ)。

ここで論、論と言っているが、論理とは易しくいえば、対象の性質である。
論理とは、外界を見ていろいろあるものを、ある一つの筋(スジ)で説明することである。例えばいろいろ川はあるが、
その性質は流れることと物を流す(運ぶ)がある、それを共通するスジという。
それをさらに体系的に説明することが理論である。こういうきちんとした概念規定をされたのが南郷継正先生であった。

事実からその性質を取り出したものが論理であり、事実を研究して導き出したのが論理である。研究は事実のみを扱って、知識にするまでであって、そこに体系性はなくていい。論理の体系がなくていい。
事実とは、易しくはそこにあるもの、あること、である。間違いやすいのは、事実と解釈の違いである。解釈とはその人の主観だ。

だから例えば「ここに心臓病の患者がいる」というのは事実ではなく、解釈である。「スリッパがある」「ボールペンがある」は事実だが、「履きふるしたスリッパ」とか「新しいボールペン」は解釈である。
ところがいくら事実から論理を導きだすのだと言われても、例えば相対性原理もそうだが、光はまっすぐ等速度で進むというのが事実だと思って、そこから論理を導いたとアインシュタインが勘違いしたのだ。光がまっすぐ等速度で進むとは、解釈である。

放射能もそうで、10ミリシーベルトだと人に癌を生じさせるが1ミリシーベルトなら安全という場合もこれは事実ではなく解釈である。
これほど事実と解釈の問題は理解がむずかしい。
光をスペクトルで分析するのは、研究である。その研究を踏まえて、論理の体系のなかにスペクトル分析を使うのが、あるいは一部とするのが学問だ。

弁証法は例えば三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』を読めば、だいたいどういう考えをいうのかを理解することはできるが、それは譬えれば自動車の外観が分かったレベルでしかない。自動車が運転できるため、つまり弁証法が使えるようになるには、長年の汗と涙の修練が必須である。
学問とは世界を論理的に体系化した認識である。これを世界そのものではなく、物理学や社会学といったように専門分野に焦点をあてて体系化すれば個別科学になる。
弁証法はだから個別科学ではない。学問である。あるいは理論である。対象を全体的に論理的に捉えようとするからである。

やさしく言うなら、直接目に見えない構造を解いてこそ学問というのであり、弁証法も、対象の直接は見えない「運動」の論理を捉えるのである。

以上、三浦さんの『弁証法はどういう科学か』の目次にそって、これから諸君が学ぶ弁証法の基礎的概念の解説を簡単に展開してみた。
ただしこれはかなり南郷学派がなしてきた弁証法の体系的捉え方を下敷きにしているのであって、三浦さん自身はあまり弁証法の体系を意識して説かれてはいないのである。弁証法を体系的にととのえたのは南郷先生である。
『弁証法はどういう科学か』で用語や概念を学びながらわれわれはそれを体系的なものとして把握していく作業が必要となる。

三浦さんは「弁証法とは自然・社会・精神をつらぬく世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学である」と言っているが、これは先にも触れたが弁証法とはの定義としては不十分である。なぜなら弁証法が学問、すなわち体系(対象の本質、構造、現象をきちんと位置づける)を説いていないからである。
「世界という物質の機能を法則性レベルで扱う科学」を、体系的に、内容を説かなければ弁証法の定義を説いたことにはならない。

『弁証法はどういう科学か』は、弁証法をもっともやさしく説いた教科書とされるが、再三いうように、三浦さんは世界のあらゆるもの=森羅万象が弁証法性を有していると説くだけである。むろん、当時としては画期的な啓蒙書であったが。本来的には、物質そのものの機能(=運動性)が弁証法性だとは、三浦さんは説いていない。三浦さんは、弁証法の構造を説いたのではなく、ただ3つの法則だと言っただけなのである。

しかし南郷学派はその三浦さんの志を受け継いで、3法則すら学問的体系にととのえ直したのであった。その意味で3法則を学ぶ必要がないどころか、しっかりと学んで欲しいと思う。
運動というのは、量質転化の繰り返しである。脳細胞という物質も、弁証法性を持っているのだから、その繰り返しの量質転化によって、脳細胞自体が弁証法になる、弁証法性をおびるのである。




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