「我思う、故に我あり」
「我思う、故に我あり」の意味とは?
「我思う、故に我あり」をそのまま現代の日本語に直訳すると、
「私が思う、ということは私がある」となります。
ここで重要なのが、「思う」と「ある」の意味です。
この名言の「思う」は「疑う」
「ある」は「存在する」という意味になります。
ラテン語訳のCogito, ergo sum
(コーギトー・エルゴー・スム)
(cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)
私は考えた。
そもそも「我あり=私がある」とは?
それは「私が私だという認識」だろう。
それは、別言するなら、
「己の『自我』の自覚」であろうか…
「己の中のもう一人の自分の認識」…
デカルトの場合に、
その自我が「全てを疑っている自分」であった。
ならば、「我信じる、故に我あり」もあり得るのだろう。
ならば何故に、この事が問題とならないのか?
それは、信じている事=事実であり、それは「本当の事」だから、
誰が、「本当の事を信じる」のだろうか?という事でしかない。
「信じる」とは、
この「疑い・疑う」という認識・運動が生じて、初めて生まれる認識・運動である。
疑いも疑うも認識である。
信心も信じるも認識である。
この二つの認識が一人の頭脳の中に生まれた時、
初めて「事実・本当・嘘・信じる」…といった認識運動となり得る。
当時の人々は、「神が創りたもうた、故に我あり」なのあろう。
現実は当然だ=即自、
現実への疑い=対自、
疑いから信心=即且対自
先ず「神は事実だ!」
から「神は本当か?」
そして「神を信じる。」