新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・重層弁証法について…

2021-11-10 09:22:41 | 弁証法
続・重層弁証法について…

前回の「重層弁証法について…」の失敗は、
全体的一般論から始めなかった事であるコトに気付いた。

そこで今回は、そこから始める事にした。
でも残念な事に自前の全体的一般論がない…ので
南郷師範のモノをお借りしての始まりである。


  弁証法とは、モノ自体の性質(弁証法性)を
「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」の重層・循環運動法則として捉えたモノ。

 「南郷学派唯物論では、世界の始まりはモノ自体である」と概念規定している。
 「ヘーゲル観念論では、絶対精神の自己運動で世界が始まった…」であるが…
 私は、南郷学派唯物論を私の世界観として採用しての始まりである。
 
 世界の始まりがモノ自体であり、
そのモノ自体の弁証法性の現象状態(実態)が人間が感覚している世界(仮定)とする。

 その世界を「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」運動で見て取れるなら、
そこからモノ自体の弁証法性が見えてくる。
 これは、実態・世界の変化・運動性≒モノ自体の弁証法であろう(仮定)。

南郷学派では、世界を自然・社会・精神に三分割して、
それぞれの弁証法性を見て取ろうとした。
何故なら、人間には世界全体を一度に認識できないが部分なら認識可能だから…

そこから、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法が誕生させた。
だから、世界の中の何かを弁証法的に考える時は、
これら三つを現実世界の歴史に合わせて駆使する必要がある。

世界は、自然界⇒人間社会⇒人間の精神…の順であるから(仮定)…
対象に合わせて、自然の弁証法⇒社会の弁証法⇒精神の弁証法…

以上は、私が理解した南郷学派の主張を前提として考え書いたモノなので、
「弁証法とは…」の出発点が違っている者には納得し難いだろうし…
また、世界の三分割に不満を持つ者にも納得不能であろう。

因みに、
弁証法「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」変化・運動・法則には、

弁証法の使い方には、受動的と能動的使用法が考えられる。
受動的―対象の変化・運動性を見て取る為の弁証法~。
能動的―対象を自己の思いの方向に変化・運動させる為~。


弁証法の対立物の統一には以下~
「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」の統一…
「生々の統一」⇒「生成の統一」⇒「発展の統一」⇒「衰退の統一」⇒「消滅の統一」の統一…

弁証法の論理は以下~
「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」の論理…
「論理生々の論理」⇒「論理生成の論理」⇒「論理発展の論理」⇒「論理衰退の論理⇒「論理消滅の論理」…の論理。




そして、弁証法の「否定の否定」とは、
「生々・生成・発展・衰退・消滅…」の否定の否定
「生々の否定の否定」⇒「生成の否定の否定」⇒「発展の否定の否定」⇒「衰退の否定の否定」⇒「消滅の否定の否定」…

更には、量質転化も然り…


「重層弁証法」とは、自分の目的達成の為には、
「自然・社会・精神の弁証法」を上記のように
意図的に駆使する過程・法則なのだろうと…(私は思う)






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重層弁証法について…

2021-11-06 09:51:56 | 弁証法
重層弁証法について…



今年の四月からの私の仕事内容は以下~。
午前中は、通常級の学習指導補助員で、
午後は、特別支援学級の学習指導補助員。

どちらも同じ「学習指導補助員」だが…
その補助する学年の範囲・対象児童が異なる。
通常級では、主に一年生から三年生まで対象はクラス全員。
特別支援学級では、一年生から六年生まで対象は支援学級児童一人か二人。

今回のテーマ「重層弁証法」を一年生の国語の学習過程を通して考えてみた。


国語授業での平仮名の形・書き方の学習について~

一、「線の書き方練習」―点線・直線・曲線・ギザ技サ線・〇線…
初めに、手本の線をなぞり書き
次に自力で書く

二、「平仮名の書き方・書き順・型」の練習
  初めに、先生と一緒の正しい筆順に沿った書き方の指練習
次に、手本の指と鉛筆なぞり書き、
次に、自力で同じ平仮名を数個書く。

三、書かれた単語・短文・言葉のなぞり書き。

四、自力で言葉・単語を考え書く。


正しい文字の形を書くには、
先ずは、鉛筆の持ち方・使い方を学ぶ。
その練習が、「正しく持った鉛筆」での「線の書き方練習」。
その為には、指の使い方・動かし方、体の制御―正しく座って書く…

次に文字の正しい書き順に沿っての動かし方、正しい形の書き方…
それには、手本のなぞり書きの書き方の学び…

ここで「平仮名の書き方学習の弁証法」を考えるなら…
現実は、読み方の学習も同時進行であるが…ここで省略…


先ず弁証法性とは、モノ自体の生々・生成・発展・衰退・消滅…性質で
それを弁証法とするなら~
モノ自体の実態・平仮名の今後の変化・運動は、国語の学習のどの過程か?

言うなれば、
この平仮名の書き方・学習の国語学習全体での位置づけを考える。
国語の学習の目的・ゴールは、自由自在な文字・言葉による認識表現であり、
理想の文字言葉は、知っている人なら絶対的に誰もが読める文字。
理想の音声言葉は、知っている人なら絶対的に誰もが聞き取れる・分かる発音。

この「平仮名学習」は、認識表現である文字・言葉習得への弁証法での「生々」過程とするなら。

ならば、目標は、理想「平仮名の形」、「理想の書き順」であろう。
その実践が「手本」のなぞり書きの書き方である。
それは、「手本」との完全一致のなぞり書きを通しての学び、
理想の鉛筆の持ち方、理想の書き順で鉛筆の動かし方での手本との完全一致(を目指す)。

これば「生々」過程の弁証法なら、次は「生成」過程の弁証法が…
それは、「言葉」・文章の学び…


弁証性は現実・事実の中に、弁証法は人間・認識の中に、
弁証法性は、自然・社会・(世界)精神の関わりで続いていくモノ。
弁証法は、自然・社会・精神(世界)と関わった人間が、その目的達成の為に駆使するモノ。


この「生々」過程以前には、

鉛筆は、使えなくても、自由自在でなくても、
最低限の、身体コントロール能力と目的意識が必要である。

文字がきれいな児童は、二年生になっても、
手本の完全一致を求めているように
…ゆっくりしっかり一致で書いていた(私の見られた事実の範囲内で)…
そういう児童は、物静かで、控えめで、大人しい…ようである(私の見られた範囲内で…)


今の小学一年生…殆どの子供が平仮名を読めて書けていた。
でも…その子供達の多くは、自分の書ける・知っている形で書き、手本の線がズレていた。




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「常識」の二重性・弁証法性

2021-10-31 16:10:57 | 弁証法
「常識」の二重性・弁証法性


一つ、「常識」が常識である事とは?
それは、「常識」の意味・概念を常識になっている事。
それは、「常識とは普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方」という知識・考え方が普通の人の認識(常識)になっている事。

二つ、その個別・具体的な知識や考え方が、普通の人なら誰でも持っている認識(常識)になっている事。

二つ目の個別・具体的の二重性。
その言葉が「常識」。
その言葉の意味が「常識」。

例えば、「情けは人の為ならず」という言葉がある。

これは普通の人なら学校・教育や日常の中で聞いて知っている「常識」。
私が習い理解した、この言葉の解釈・意味は「人に情けをかけるのは、人の為ではなく周り回って自分の為になる」。
しかし、現代人の多くは「人に情けをかけては、その人の為にならない」と理解している、そうである(テレビの情報)。

これは、「情けは人の為ならず」という言葉は「常識」。
しかし、その言葉の意味・概念には通りあるが「常識」。

これは、この言葉が知識としては「常識」であっても…
その言葉の意味・概念は変化している…という事。

同様な事が、「ヤバい」にも言える。


ある知識・言葉が常識。
その知識の考え方(意味・概念)が常識。

「ある知識・言葉」と「その言葉の捉え方・考え方」は「相対的独立」関係と言える。


近い将来に…常識である「情けは人の為ならず」という言葉の意味が、
多くの人々が「情けを人にかけたら、人の為にならない」と理解せずに
「情けは人の為ではなく周りをまわって自分の為」に変わってしまい…
「情けは人の為にならない」が常識化するのだろう…


因みに、昔から…多くの人々が「常識」について思索していた…ようである。
以下は、ネットからの、その転写である。




常識について、例解新国語辞典[第二版]には以下のように書かれている。
「常識」とは、普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方。



常識(読み)じょうしき(英語表記)common sense
翻訳|common sense
日本大百科全書(ニッポニカ)「常識」の解説
常識
じょうしき
common sense




ある社会のある時期において、一般の人々がとくに反省することなく当然のこととして共通に認めている意見や判断のことであり、その社会の歴史のなかから自然に形成される。したがって常識というとき、なんらかの立場や方法論を前提し、しかもそれを自覚して成立する判断であるところの学問的な知識と、しばしば対立させて使われる。
 ところで常識という語の原義は、通常の人間ならだれでもが共通にもっている感覚のことであり、この点、前述したある社会のある時期という限定を伴う普通の意味と多少異なっている。そしてとくにこの原義に近い考え方で常識に注目している哲学者としては、バークリーの主観的観念論やヒュームの懐疑論に反対した18世紀イギリスのトマス・リードがいる。すなわちリードは、通常の理解力のある人間ならだれでも、その人間の本性に基づいて当然自明なものとして認めるいくつかの根本原理(「常識の原理」)があると考え、諸科学の基礎としてこれらの原理をみいだそうとした。
 なお、リードを中心としたJ・ビーティ、J・O・オズワルドらの一派は常識学派とよばれ、ドイツ、フランスの啓蒙(けいもう)哲学に影響を与えた。また19世紀アメリカの哲学者パースによっても、常識をだれでもがもつ一種の本能のようなものと考える考え方が採用され、展開されている。
[清水義夫]
[参照項目] | 常識哲学
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について



百科事典マイペディア「常識」の解説





常識【じょうしき】
英語common senseなどの訳。ある社会の共同の知識と経験の総合的集積で,その社会の構成員はだれでも受け入れざるを得ないような自明性をもっている。その意味では,知識の一つであるが,直接的に与えられ,一般の人びとに受け入れられている意見の総体でもある。したがって,常識は社会体制の変化に応じて変化する。また哲学的には,デカルトやロックの認識批判の方法をしりぞけ,推論過程に先行する判断(〈常識〉)に価値をおく,T.リードに始まる〈常識哲学〉の系譜がある。日本では,common senseの訳語は,1890年,福沢諭吉の《国会の前途》で〈人生の常情〉という言葉が使われたのが最初で,ほかに〈常見〉という訳語も使われており,〈常識〉の語が主として使われるようになったのは,明治24年―明治25年ころ。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報



ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「常識」の解説
常識
じょうしき
common sense
一般に学問的知識とは異なり,普通人が社会生活を営むためにもち,またもつべき意見,行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く,時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり,多分に相対的なものである。本来は,「共通 (一般) 感覚」の意。アリストテレスは視,聴,触などの相異なる感覚を一つの対象に結びつけて意識させる「すべての感覚に共通な部分」をいった。近世初頭デカルトなどは,これをより積極的に万人が共有する真理感覚と解し,良識 (ボン・サンス) と呼んだ。 18世紀末に現れたスコットランド学派は,この真理感覚を「常識の原理」と名づけ,それを基礎に倫理説を立てたので「常識学派」と呼ばれる。 (→常識哲学 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報


精選版 日本国語大辞典「常識」の解説
じょう‐しき ジャウ‥【常識】
〘名〙
① 一般人の持つ考え。普通の見解。
※童子問(1707)中「此常識之所下以必至レ此而与二聖人一自相違上也」
② (英 common sense の訳語) 社会人として当然持っている、持っているべきだとされる知識・判断力。〔哲学字彙(1881)〕
※彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉報告「常識(ジャウシキ)のない奴だと思はれる丈だから」
③ 哲学で、人類全体に共通する能力で真理、道徳をとらえる直覚をさす。常識学派(スコットランド学派)で真理の最終根拠とした。
[補注]common sense の訳語としては、他に「常見」「常情」なども用いられていたが、明治の後半から「常識」に定着した。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報


デジタル大辞泉「常識」の解説
じょう‐しき〔ジヤウ‐〕【常識】
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
世界大百科事典 第2版「常識」の解説
じょうしき【常識 common sense】
常識(英語でコモン・センス)とは,もっとも普通には,われわれの間に共通の日常経験の上に立った知,一定の社会や文化という共通の意味のなかでの,わかりきったものを含んだ知であると考えられている。つまりこの場合,それは,あれこれの立ち入った専門的知識にくらべてありふれた知識,また,厳密な学問知にくらべてあいまいさを含んだ日常の知だということになる。ところで,このようにとらえられた常識を〈出発点〉としての常識というならば,それに対して〈到達点〉としての常識と呼ばれるべきものがある。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内の常識の言及
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
【スコットランド学派】より
…正式にはスコットランド常識哲学学派Scottish school of common senseという。〈存在とは知覚されることである〉とのバークリーによる物質否定の論証や,ヒュームによる因果観念の否定という懐疑的結論によって哲学一般の基盤,とりわけ既成の教会の教義に及ぼすこの種の帰結の脅威を感じたT.リードは,デカルトやロック以来の〈観念〉を軸とする認識批判の方法をしりぞけた。…
【知識】より
…一般に,専門家と言われる人たちはその分野の手続き的知識をうまく使って効率的に問題を解くことができる(いわゆる,頭より先に手が動く,である)のに対して,素人はその分野の宣言的知識はもっていてもそれらを効率的に使えない(いわゆる,頭でっかち,である)と理解される。
[常識]
 常識common senseももちろん知識の一部である。というより,人間のもつ知識のほとんどは常識であると考えられている。…
【知識表現】より
… 実際のシステム開発においては,単純な表現では対象問題を十分にモデル化できず,また,機能の豊富な表現には処理に膨大な計算量が必要となるというトレードオフの関係が存在する。この点については常識の扱いを含めて理論的な研究の進展が著しい。また,大規模な実用システムにおいては,複数の知識表現を統合して利用することもしばしば行われる。…
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
※「常識」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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続・「群盲象を撫でる」について…

2021-10-24 14:51:14 | 弁証法
続・「群盲象を撫でる」について…

これは、象の全体像が見えない盲人が、
体が巨大すぎて一度に全部を撫でられない為に、
生じた「部分=全体」という誤解である。


今ここで、「象」を弁証法に置き換えるなら…どうなるだろうか?
弁証法の始まりはギリシャ時代の「弁論術・弁証の方法」が始まりだと言われている。
これが「象」なら、言うなれば、赤ちゃん象、となろうか…
赤ちゃん象なら、盲人一人でも一度に全部を撫でられるだろう。
ならば、その「赤ちゃん象」の全体像は分り得る。

そんな「弁証の方法」も、
赤ちゃん象が大人へ向かうのと同様に成長していったのだろう。

仮に「象」というモノを知らない見た事もないモノ者が、
初めて「赤ちゃん象」を「象」と教えられたとする。
その人が別の所で、突然に巨大で、立派な牙も生えた大人象を見た時、それを「象」だと思えるだろうか?

例えば、「赤の他人の赤ちゃん時代」の写真を見たとして、
成人の「赤の他人」と出会って「あの写真の赤ちゃんだ」と認識可能だろうか?
確かに可能な人間もいるだろう…しかし、多くの人間には認識不能であろう。


弁証法は見えない。
弁証法性も見えない。
見えているのは、万物中の(個別)事実の変化・運動である。

弁証法性とは、
外界である現実界での事物・事象・生々・生成・発展・衰退…の
一連の変化・運動の過程の構造・構造の過程の様態である。


その現実の変化・運動の構造の過程・過程の構造を人間が
その頭脳・観念内に、それらに一筋の道・道筋・筋道を
立てられたなら、それが弁証法であろう。


弁証法の三法則と言われている
「対立物の統一」も、「量質転化」も、「否定の否定」も…
それらは、弁証法の一部分なのだろう。


盲人が象の全体像を一度に撫でられない、ように、
目明きの人でも弁証法の一部分は観られても…
弁証法の全体像を観るのは至難であろう。

弁証法の全体像とは、はるか昔の過去から現在までの物質の弁証法性…
人類誕生以前の過去から現在までの国家の弁証法性…
人間の精神の誕生以前から現在までの弁証性…

そんな弁証性の道を辿り、その道筋を見つけ、それに筋道に仕立て、
それが一本の太く広く長い道程になり得たなら、それが弁証法であろう。


もっとも…以上は言葉・記述に過ぎないモノである。
これら記述の有効性を求めるなら、
この記述を参考に現実の生活の中で、
眼前の現実・事実に対して、

そもそも…
何が原因で、
それがどのよな影響を与え、
どのような新たな問題が生成され、
それが、どのように発展して、
ついに、どのように今の現実なっていたのか?…

そんな現実・事実への問い掛けが求められる、のだろう。




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弁証法と論理学について…

2021-05-05 16:16:33 | 弁証法


「弁証法と論理学について」考えようと思い立ったのは、
以下のような記述に出会ったからである。

>南郷継正は 弁証法を自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問であるという。弁証法は論理学であることに気付かなかったのである。」<

この記述の書かれてあった全文は、記事の最後に転写してある。

ここでは「弁証法は論理学である」と断言している。
これは、「正しい」のか「間違い」なのか、?
それは、間違いではないが正しくもない。


例えば、「人間は動物である」と断言した時、
これは、間違いではないが正しいとも言えない。


何故なら、人間は動物であっても、他の動物と異なった側面を持っているから、人間と命名されている。
そもそも、人間と他の動物では、その生き方・一生が大きく異なっている。
それを「人間は動物と同じモノ」と断言して捉えたら、人間の人間たる所以がみて取れなくなってしまう。

犬も猫も動物である…
でも、犬は犬で猫ではなくし、猫は猫で犬でもない。
それでも、その生き方・一生には同じようなモノであろう。


だから、初めから「弁証法は論理学である」と断言して捉えたなら、
論理学と弁証法の共通点ばかりをみて取れてしまい。
結果的に、弁証法と論理学の相違点がみて取れにくくなってしまう。


しかし…この記述の著者は「tada」氏である。
ならば、この「弁証法は論理学である」という断言は、
「初め」ではなく、「結論」なのだろう。

では、何故にtada氏は、このような結論に至ったのか?


私の基本的な立場・考え方は以下である。
弁証法と論理学とは、名称が異なっている以上は別物として扱う。


ならば、どのように異なっているかが問題であろう。
素朴な弁証法レベルで捉えるなら、

弁証法は、事実・現実の連続・非連続を変化・運動としてみて取るモノ。
論理学は、事実・現実の連続を筋道としてみて取るモノ。

弁証法は、連続と非連続も変化・運動として捉えられる。
でも、論理学なら事実の連続が問題とする筋から外れた非連続の道なら、それは、その筋道・論理の対象外となろう…

言うなれば、道があるから、道筋が生まれ、それを筋道として捉えられるから「論理学」となり得る・
そこに「道がない」なら、「道筋もなく」、当然に「筋道もなく」、そこに論理学は成立しない。


しかし、弁証法的に捉えるなら、「人間が歩ける道がない」ないなら、
「獣が走っている道」を発見すればいい…である。
更に獣道も人間道もないなら、運動を起こして前に進めばよい。
進んだ結果の変化をみて取り、道を生成すればよい。



以上は、あくまで例えあるが…


別言するなら、
論理学が学として成立するには「論理がある」=「論理が分かる」必要がある。

この「論理を分かる」為のモノが「弁証法」であろう。


初めに筋道・論理があるから、事実の連続を論理的にみて取れるのである。
論理のない者が、事実の連続を論理的に捉える事は至難である。

至難であっても、経験的・感情的な行動が論理的である事もあり得る。
それでも、その者がその行動を論理的に捉えられはしないだろう…

ここでの問題は「論理的」・「正しい論理」とは、どこから生まれるのか?


でも、弁証法なら、弁証法がない・知らなくても、
事実の連続を事実的な変化・運動としてみて取る事は、
そんなに難しくないのだろう…



弁証法とは?

弁証法と論理学の区別と連関…

弁証法とは、変化・運動に関する科学、である。

弁証法には。「点の弁証法」と「線の弁証法」が考えられる。
より正確には、弁証法を「点と線」に分けて整理してみた。

点の弁証法とは、部分的な変化・運動を「三法則」的に見て取るモノ。
線の弁証法とは、全体的な変化・運動を「生々・生成・発展・衰退・消滅」的にみて取るモノ。

そう弁証法は、事実の連続を変化・運動として捉える一つの認識手段・道具である。

では、論理学とは何か?

論理とは、「考え方の正しい筋道」、
論理的とは、「考え方や話の筋道が理屈にあっている」、
論理学とは、「物事の考え方の形式や法則を研究する学問」。





また、tada氏は以下のようにも書いている。
「すべては 弁証法に対する認識が間違いの始まりだったのである。」

この言葉を論理的同一的な事実で書くなら、

私が初体験の「電話」は、ダイヤル電話、
その後は、プッシュホン電話、自動車電話、携帯電話、
そして、今は、スマート・フォン…
全ては言葉にすれば「電話」であるが、実物は大きく異なっている。

仮に過去から来た者が、
今の時代のスマートフォンを見せられて、
「これ電話だよ!」と言われたら、
「そんな馬鹿な!」と信じないだろう。


これは「弁証法」もまた然り、言葉にすれば「弁証法」。
また、「三法則」的な捉え方の弁証法なら、
「生々・生成・発展・衰退・消滅」も、また弁証法である。

更に「三法則」は、言葉にすれば、量質転化・質量転化、相互浸透・否定の否定。
でもでも、その実体・中身は、その者の個性的な弁証法認識であり、
同じ認識弁証法ではなかろう…







私は、南郷氏から「弁証法」を学んでいる。
そんな私の思いは、
tada氏が、思っている弁証法と南郷氏の弁証法とでは、
言葉では同じ「弁証法」であっても、
その中身が異なっている、のだろう。


tada氏の「弁証法は論理学」であっても…
南郷氏の「弁証法は論理学」ではない。


そもそも…
tada氏の思っている論理学と南郷氏の論理学さえも同一ではないかもしれない…


私の勝手な想いであるが…
南郷氏の「滝村隆一批判」は、
素朴な弁証法が使えた滝村氏が、
自己の変化・成長に即してその弁証法をも変化・成長させられなかった…
そんな…悲しみの表現なのかも…である。

















Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 哲学・論理学原論 【新世紀編】: ヘーゲル哲学 学形成の認識論的論理学


哲学・論理学原論 【新世紀編】: ヘーゲル哲学 学形成の認識論的論理学
南鄕 継正

tada

5つ星のうち1.0 南郷学の墓標 壮大な失敗の体系
2018年4月23日に日本でレビュー済み
 哲学・論理学原論新世紀編は 416ページ 4800円の大著であり 1932年生まれの86歳 南郷継正による哲学・論理学・弁証法・認識論の集大成である。そうであれば どのような批判をしても もはや言い逃れはできない。これはまたとない機会なので 長年にわたる 見当外れな滝村隆一批判に対してのお礼も含め 書評する。

 残念ながら 南郷継正は 弁証法がわからなかったというスキャンダラスなことを言わなくてはならない。南郷継正は 弁証法を自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問であるという。弁証法は論理学であることに気付かなかったのである。論理学・認識論・哲学・科学の順に「弁証法の抽象度」が変わっていくことに気付くことがなかった。ヘーゲルの大論理学の概念レベルから具体性レベルの個別科学、個別対象に対応するそれぞれの方法論においてまで 抽象化することで弁証法の論理的骨格で表わすことができることがわからなかったのである。例えば 科学的方法論、トヨタをはじめとする会社でのカイゼンやPACDといった手法をその論理構造でみると 問題の発生を端緒に 仮定ー実証実験ー解決・一般化のサイクルがある。そのサイクルの論理性を高度に抽象化すると普遍性ー特殊性ー個別性の概念弁証法を持っていることになる。弁証法という言葉を使わなくても 弁証法的思考つまり科学的思考をしている人は普通にいる。学的世界は自分たち南郷学派にしか構築できないと 彼らが弁証法を独占しているワケではないのだ。抽象化すれば 立派な弁証法があらわれるのである。お得意の森羅万象・世界認識についての弁証法とはどうか?普遍性ー特殊性ー個別性の抽象度を下げていくだけで 世界を過去ー現在ー未来の時間の流れでみることができる。もっと抽象度を下げると 自然ー社会ー精神の変化としてもみれる。これは一般的な歴史書レベルである。宇宙論・進化論・ホモサピエンス論など一般向けの教養書や一冊本の大項目式百科事典で良い本が何冊も出版されている。ここから歴史社会に対して具体化していけば 唯物史観が現れる。経済ー政治ー文化の三項の規定。ただ 注意したいのは 具体的レベルで世界認識をすることは 特殊性が増加することで 認識がむずかしくなっていくことである。滝村隆一社会構成理論・世界史の方法は ヘーゲル・マルクスの発想・方法論を実践的に 歴史社会に対して検証した末に手にいれたものであり 弁証法を打ち出の小槌のようにして 簡単に手にいれたものではない。南郷継正は滝村隆一が弁証法を捨てたと批判したが この社会構成理論・唯物史観に弁証法の論理的骨格があることがわからなかったのだ。対象世界に対してどのようなアプローチをとるか どのような方法論をとるかで 学的認識の抽象レベルが変わるのである。弁証法という特別な方法論があるのではなく 対象に対するそれぞれの方法論が論理性=弁証法性をもつだけのことである。これが弁証法の正体である。
 
 南郷弁証法は自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問つまり生命史観と対象を構造レベルで捉え返すための三法則の弁証法である。これは滝村国家論で言えば 社会構成理論と世界史の方法に対応している。南郷継正は世界史の方法に対して 世界史を古典古代・アジア・中世・近代と対象を区分することを批判している。区分することは南郷弁証法の運動性の連関を断ち切るからだ。しかし南郷「武道論」の方法論には「世界史の方法」と同じ構造がある。南郷自身はそれがなんであるか、わかっているのだろうか?区分したあと その特殊性を一般原理レベル(普遍性)、この場合は国家論一般論によって体系的に把握する概念弁証法について理解できないのだろうか?そうであれば 南郷理論は機能主義に陥っている。社会構成理論に対しての 生命史観はどうか?社会構成理論が歴史社会を統一的に説明することで 政治・経済・思想イデオロギーにおいて対象の規定性を与える。生命史観の「社会」の部分では 歴史社会を自然・国家(社会)・文化で統一的に説明すると述べている。社会構成理論での「社会」は自然を反映した社会。わかりやすく言えば経済として自然を取り込んでいるので ほとんど同じことを言っているとしてもよいだろう。しかし 先ほど指摘したように世界史の方法において 対象の構造を分析することにおいて 大きな違いが生まれる。特に指摘したいのはその思想性とイデオロギーの強さである。それは生命史観の自然―社会―精神がモノー生物―ヒトー人間―学問と認識の変化を本質にするからである。その認識重視の本質が強い思想性とイデオロギー性の規定性として 曲がりなりにも発展してきた歴史学を軽視し独善的に陥るものを持っている。(武道哲学講義第二巻P87、P88参照。一般論に刈り込まれた凡庸な南郷歴史観が読める。武技の体系化が武技の平均化と質的低下まねいた植芝合気道のようである。)
 
 それでは南郷認識論はどうなっているのか?認識を原基形態から説くと 認識は像であるという。しかし そこから先の論理的発展がない。それは認識の弁証法性、三浦つとむの「矛盾」、「観念の分裂性」を批判したことからくるのではないのか。本来ならば 像・観念が分裂・分身することを認識の本質としなければならない。像を創り使い、像に創られ使われる認識像を本質にしなければいけない。認識がこのような弁証法性を把持しているからこそ 認識は哲学、科学に技化することができるのである。認識も「方法論」で考えなくてはいけない。南郷認識論は対象の具体像を描くことに主眼がある。これは論ではないだろう。マンガ的絵解きの手法であり 表現技である。文学や映画などの芸術表現と同じである。認識と真の弁証法は現象と概念という形で共存している。こういう本質的構造を論じるのが認識論である。本来 原基形態とは特殊性にあたるものである。その特殊性を一般論(普遍性)として論じる南郷認識論が 学的認識の本質的構造(普遍性)を把握できないのは当然である。結局できたのは認識の発展過程(p381参照)だけである。予想通り現実羅列主義、即物実体論的把握である。
 
 概念についてはこう述べている。「論理的実質・実態を称するものであり 対象の把握の仕方によって その論理が異なるだけではなく段階・レベルが異なるのである。葉っぱを葉として捉える概念と、それを樹木レベルで捉える概念と、それ以上に植物として捉える概念と大きく異なる。具象レベル、現象レベル捉えた性質を概念化した場合の論理と、それを構造レベルで捉え返した場合の論理は、レベルが異なるだけに、同じ概念の実質・実態とはならないのである。具体の概念と現象の概念は異なり、というふうに、概念には論理としての階段・段階があることを忘れてはならない。」(p409参照 ちなみに中央公論版精神現象学序論翻訳者山本信の「ヘーゲルの概念」理解のほうが正しい)やはり ここでも同じである。概念の機能主義的把握しかなく 対象概念の把握の仕方に弁証法的把握をする意図が見えない。繰り返すがヘーゲル概念弁証法とは概念を普遍性ー特殊性ー個別性と媒介させながら統一するものである。普遍性・特殊性・個別性それぞれがお互いを内包していること。それが概念弁証法の真骨頂である。南郷には抽象を無限定にいじることはできても 活用する規定がないのではないか。

 そして 哲学論。哲学が積み上げてきた論理学(概念弁証法)・そこからの全体を把握する発想と方法は非常に大事である。これは滝村隆一も言っていたことであり 南郷継正も同じである。しかし 南郷が語る唯物論・科学では哲学を生かせないのだ。特殊性に踏み込むことをやめ 独自の一般性の世界で生きている。哲学は科学の前段階であり 科学の一部として認識することでその歴史的につちかわれてきた論理性(概念弁証法)・直観性・先行学説・仮説として取り込まれる。科学の礎・下支えがなければ 哲学を現在に生かすことはできない。

 すべては 弁証法に対する認識が間違いの始まりだったのである。科学で一世風靡した英傑が 最後にたどり着いたのが哲学者だったとは、嗚呼 無情なり。南郷ジャンバルジャン悠季コゼットの 夢やぶれ カーテンコールはもうないといいたいところだが 南郷継正はいまさら何も感じないだろうし 論研も微動だにしないだろう。なぜなら こんなことは70年代後半から滝村隆一が語ってきたことだから。彼らは百も承知なのである。彼らの考えは信仰なのだ。「すべてを疑え」否定の否定をする弁証法家ではないのだ。 

 滝村先生は浪曲 森の石松がお気に入りで 繰り返し聞いていたという わかるなぁ その気持ち 「バカは死ななきゃ治らない。」(笑)
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コメント (6)
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