新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

コメントへの切込み!!!

2022-04-29 12:04:08 | 悟得びと認識論


>一村隆滝

>・コメント
>自由びとさんの記述には全く事実性が無いんですよね。指導教官たる馬場さんが「論理は事実で、事実は論理で」とあれほど強調して説いていたにも関わらず。




無限に捉える事が可能な事実を書く込む事は至難です。
だから、事実は私の頭脳の中、それを元に書き進めています。



>「科学とは当該対象を前面に置いて…」でしたっけ?正確な表現は忘れましたけど、『空手道綱要』の科学論も馬の耳に念仏、宝の持ち腐れだったみたいですね(溜息)。



私の記述から事実を読み取れない、この者の実力不足。
換言するなら、私の言葉を己の事実として認識出来ない者の能力の限界。




>その「事実をシッカリと見る」という基本がないところが、自由びとさんの認識が十年一日で一向に発展していかない理由なんでしょうね。




その記述が「自己の認識内事実を確り見つめながら書かれている」事を認識できない者に発展なし!



>空手の(武道の)技の変形、崩れを考えるためには、まずもって実際の自由組手、試合の動きを観察する必要があるでしょう。



技の基本とは、当初の「基本技」、次に技の「使い方の基本技」。
多くの試合から、闘いでの「使い方の基本技」を想定して、使い方の技の基本を作る。

観察した上での「基本技の使い方の基本」


>その現実の動きを観察して見えてくるものを考察していくところに「個別科学、専門科学としての空手論、武道論」が姿を現してくると思います。



早とちりだね♪  妄想だね♪
「考察」だけではなく、「論理化と検証・実験」…とそんな簡単に「……」は姿を現しません。





>私もインターネット上に公開されている玄◯会の試合をいくつか見てみましたけど、実際の試合を見てみれば何も無い所で想像しただけだと考えつかなかったことが分かってきます。



現在の玄和会には、「理想的な基本技」と「理想的な使い方の基本」があります。
言うなれば、闘い方の公式と技の使い方の公式、があります。





>試合での体の変形は先ずもって「1人で闘っているのではない、相手がいる」というところから生じてきます。その相手には肉体があって、「質量×速度」の運動量を自分に加えてくるということですよ。
ですから、相手も自分も実力が高くなり、スピードが速くなればなるほど接触したときに加わる力が大きくなるんです。高速道路で自動車が正面衝突して両方とも車体が大きく破損し変形するが如くですよ。



物理学的に考えるのが限界ですか。



>それが大前提となりながら、相手の前蹴りを体捌きで交わしながら順突きを打ったりして体が変形・崩れている場面もあれば、「威力を出す」ために基本とは違う動きをしている場面もあります。



まあ~思う存分に考えて下さい。


>指導者らしき黒道着を着た人物が間合いに入るときに両手を振っているのは運足や蹴りを加速させるためでしょうね。両手を振らずに走るより、両手を振って走るほうが速いですから。


その振り方が、
相手の気を散らす為?
認識を乱す為か?
速く走る為か?


>自由びとさんの「思い通りに」という相手の存在を考慮しない考え方は相互浸透も考えなければ刀の刃こぼれも考えない空想でしょうね。


試合には、「上達の為の試合」と「強さを知る為の試合」が考えられます。
決闘なら、絶対に勝つ・負けられない闘いです。
なので、その試合の目的によって考え方が違っています。

刃と刃がぶつからない勝負なら「刃こぼれ」はあり得ません。
そもそも現代社会に真剣勝負はあり得ません。
それに、私は空手の試合を想定しているので…



>南郷先生のいう「無心の闘い」にも辿り着きませんし、自由組手をしたことが無い人が空手の技で考えようとするのが無理なんですよね。


この者は、死んでも「無心の闘い」の境地に到達不能ですね。
何故なら、
(無我夢中・目的)有心⇒(意識・自覚的目的)有心⇒(無意識・無自覚的目的)無心への道での、
「有心」の二重性の捉え方に致命的な欠陥があります。

「大きなアバウトな自覚・意識と」と「細かい個別の自覚・意識」。
「大きなアバウトな目的・意識と」と「細かい個別の目的・意識」。

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「崩れる」と「崩す」~

2022-04-28 17:09:49 | 悟得びと技術論
「崩れる」と「崩す」~

崩れる(動詞)⇒崩れ(名詞)
崩す(動詞) ⇒崩し(名詞)

崩れて欲しくないのに、「崩れてしまう・崩れる」。
形を変えたいから「崩す」。


空手の試合で、
技を対手に当てる為に、基本技の型を当てられる形へ崩して(変化させて)使う(変化技・崩し技)。

(ア)上記の結果、必ずその技が決まる―基本技が技化した状態。
(イ)上記の結果、当たる時も当たらない時もある―技化の未完・未熟・過程。

基本技を当てられる形へと崩そう(変化させよう)としても、
相手の揺さぶりで、意図する形へと崩せず、当てられない形に崩れてしまう。


技の変化(変化技)とは、基本技の型を自分の思い・意図通りに崩せて使える。
技の崩れ(崩れ技)とは、基本技を思い通りに崩せない・使えない・当てられない(技の使い方の質の崩れ)。
また、思い通り崩せて(変化できて)いる・当てられているのに、相手を倒す威力が発揮できない(技型の威力・質の低下)。


「技の崩れ」も「技の崩し」も現象としては、技の変化である。
違いは、その使用している者の認識であり、意図・思い通りに変化させられているか・否か?


思い通りに、技を崩せる・変化させられているのに、
相手に当たらない、または当たっても相手を倒せない時、

(ア)初めから、そのようであるなら、技の未完・未熟。
(イ)過去に当てられていた・倒せてしいたのに、今はダメなら、それは技の質の崩れ・劣化・変化。




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「技の崩れ」の二重性~

2022-04-26 16:37:26 | 悟得びと技術論
「技の崩れ」の二重性~

一つ、技の型が崩れる。
一つ、技の質が崩れる。


試合で、基本技の型のまま、相手に当てようとすると、
その型が勝手に変化してしまうなら、これは崩れ技。

試合で、相手に当てる為に、
基本技の型を意識的に変えられたなら、それは変化技。

ここで、「崩れ技」・「変化技」のどちらを使っても、
相手に当てられないなら、それは「基本技の質」の問題。

この場合に、
当てられるか否かを問題とするなら、基本技の「使い方の質」の問題。
当てたのに相手を倒せない場合は、基本技の「創り方・破壊力」の問題。


相手の「揺さぶり」で技が使えないのは、「使い方の質」の問題。

過去に同じレベルの相手に揺さぶられても技が使えたのに、使えなくなったなら、「技の質の劣化・崩れ」。
初めから何度のも、そのレベルの相手の「揺さぶり」で技が使えないなら、「技の使い方の質」がそのレベル。


相手の「揺さぶり」で使えないのは、当てられるタイミング・形で(変化)技が出せない。(技の未熟・未完)
当てられると思って出しても当たらないのは、技の質のレベルの問題。

過去に強かった者が、弱くなった(実力低下)なら、技の崩れ。
基本技の威力・型ではなく、加齢による実力の低下なら、
それは、身体・実体の変化・劣化による「技の使い方の崩れ」と言えよう。

技が使えないのには、

自己の認識が崩されて、相手の動きに対応して技を使える形へと変化できない(未熟・未完)。
認識は確りしているのに、相手の動きに対応できない(未熟・未完)。

以前は、認識が確りしているなら決まった技が、
今は決まらない(技の質の劣化・崩れ)




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「思考の方法」と「思考の技」について~

2022-04-24 13:40:37 | 悟得びと認識論

「思考の方法」と「思考の技」について~


昨夜の23:23に、
息子からラインに「今日の朝帰るかも」と言うコメントが入った。

一読して思った事は『この文章は少々変かな?』であった。
何故なら、今日の(夜)23時に今日の朝は、もう終わっている、からである。


この文章を正しく書くなら、
「今日の帰りは明日の朝かな」であろう。
または、「明日の朝帰るかも」であろう。
更に短く書くなら「朝帰るかも」であろう。


初めの「朝帰るかも」は、
現実の夜の23時にラインに入った言葉だから、
現実の中では言いたい事は通じるだろうし内容の理解可能である。

これは、文法として「今日の朝」と「帰るかも」と間違いなくても、
現実の事実との対比において、
過ぎてしまった「今日の夜」に「今日の朝帰るかも」はあり得ない。


文法として「文章構造の正確さ」と現実的な「文章内容の正確さ」の区別と連関である。

言葉の正しさの二重性~
一つ、言葉の表現方法として正しさ―文法と使用語彙の正しさ。
一つ、表現の現実性としての正しさ―現実的であるか・否か。


一つ一つの語彙には、語彙の意味がある。
それには、辞書に書かれた意味と社会で使われている意味があり得る。


例えば、「ヤバい」という」語彙であるが…
私の年代では「ヤバい―危ない・危険だ(良くない感情)」で「警官に見られたらヤバい…」。
息子の年代では「ヤバい―凄い・非常に(好感)」で「これ!ヤバい!(すごくおいしい)。


語彙の意味は辞書に書かれている。
では、「その語彙の概念は?」というと…
その書かれた意味の現実的な共通性であろう。

例えば「崩れる」なら、

高く盛り上がっていたものがこわれる。 崖が崩れる
整っていたものがこわれる。 姿勢が崩れる。
金が細かくなる。 一万円札がやっと崩れた。

と辞書に書かれている。


これは、
(険しい)崖が崩れて「険しくなくなった」―質が変化した。
(正しく良い)姿勢が崩れて「見た目が悪くなった」―質が変化した。
(一枚の)一万札が崩れて「多くの小銭になった」―質が変化した。


このように捉えるなら、「崩れる」の概念を以下のように捉ことが可能である。

崩れるとは変化である。
変化には、「モノの形の変化」と「モノの質の変化」が考えられる。

色々な形のモノを作れる紙粘土でも、
ある形のままに放置しておくなら固まって(質が崩れて・変化して)形を変える事ができなくなる。

この場合、
形を変えられる状態の紙粘土の形の変化―例えば作った作品が崩れても、また簡単に作り直せる。
しかし、固まってしまい質が変化してしまった紙粘土の完成品が崩れたら接着剤が必要となろう。


技の崩れと変化とは、

「技の崩れ」とは、その技の質の「意図しない」劣化的な変化であり、
「技の変化」とは、その技の形の「意図する」変化・変形である、と考えられる。


この「技の崩れ」と「技の変化」の概念を用いて以下の文面を捉え考えるなら~




>・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント


(前略)

例えば次のようなことです。その流派で技に威力を出すために「土台技」というものを訓練したとします。それで突きにしろ蹴りにしろ地面からの反力を活用して威力を出す術を身につけていたところ、闘う相手が「揺さぶり」と称して運足を縦横に使って心理的・肉体的にタイミングなど乱していって、その「土台技」を使わせなかったとしたなら、心身ともに崩されてヘッドアップして体が泳いで突きや蹴りを出したなら、それは「技が崩れた」と言えるのではないかと私は考えます。

「土台技」を働かせるために軸足にしっかり重心を乗せられなかった、という「技の機能が失われた」という意味での「崩れ」であり、その後に基本稽古や型稽古をしたなら再び元に戻ったなら、戻ったからあれは崩れじゃないのだ、なぜなら崩れるとは元に戻らなくなることだから、という理屈にはならないように思います。(後略)<


↑~


その「土台技」の質が、その対手の実力に対して試合で使用可能なレベルではなかった。
言うなれば「質が未熟で技として未完」。それでも異なった相手に使用可能なのかも知れない。


「その後に基本稽古や型稽古をしたなら再び元に戻った…」としても、
それは、単に「形が戻った」のか、それとも「質的な向上があった」のかは、再び、その対手との試合で試してみない事には…


技の「元に戻にも」二通り考えられる。

一つ、元の形を取る事が可能になる。
一つ、劣化した質を元のレベルへ戻した。


以上のように考えるから、
上記のコメントを寄越した「一村隆滝」お宅の
「思考の技」の構造・中身が想像可能であろう。


そもそも…一括りで「技」と言っても技にはレベルがあり得る。
この上記のコメントでは、技のレベルを全く考慮していない。

そもそも試合での闘いは、基本技の形・基本の変化技の使い方…の質が優劣が勝敗を決定するのだろう…


もっとも…「勝負は時の運」とも言われているが…
それでも、幸運の勝利はあり得ても不運の敗北はあり得ない…そうである。

敗れるには、必ず敗れるだけの理由・原因がありえる。
例え、そこに相手の幸運があった…としても、である。



追伸~
この記事のテーマ<「思考の方法」と「思考の技」について~>最後に一言。

「思考の方法」とは言うなれば「思考の型」である。
それを基本として色々な物事について繰り返し思惟・思考する事で、
最終的に基本の型の質を落とす事無く、基本型を自由自在に変形可能になり得たなら、
それが「思考の技」となろうか…






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ひとの言葉…

2022-04-24 09:12:11 | 悟得びと認識論

言葉とは不思議なモノである。
他人の言葉が聞こえない・聞こえてこないなら、何の変化もなく自分の道をそのまま進める。
聞こえてきても無視する事が可能なら、多少の変化(無視する努力)はあり得ても道は外れない。

しかし、それらを真面目に捉えるなら、そこに変化が起こり得るだろう。
そこに三通り道があり得る。

一つ、より確信を持って、今の道を進める。
二つ、今の道に迷いが生まれ、立ち止まってしまう。
三つ、今の道から大きく外れる事になる。


これら三つの道の内、どれを選択するかは、その言葉の捉え方次第であろう。





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