新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「世界の思想史」を読み始めた。

2020-08-18 11:17:35 | 言葉・概念
「世界の思想史」を読み始めた。


昨夜、就寝寸前に本棚に並んでいた
「世界の思想史」(ハンネ・J・シュテーリヒ)を手に取った。
そして、今朝から読み始めた。


この書を何時?何故?買った!が、思い出せない…
それで~読み始める事にした。

そこには、以下の事が書かれていた。


P5~「まえがき」 ~

………

本書のおもな特色を二、三、あげるならば、
ヨーロッパ哲学のほかにインド哲学と中国哲学を
包含した文字とおりの世界哲学史を一冊の書物に
まとめているという点に、その第一の特色がある。 

………

…本書の第二の、しかももっとも重要な特色なのだが、
それはこの書物はむしろ、著者もその序文で述べているように、
哲学を専門に学んでいない一般大衆の知識人を目標として
書かれたものであるということである。


………

…第三の特色といえることだがー
できるだけ原典からの引用文を使って、
哲学者たち自身に語らせようと努力している。


………


以下は、また次回!

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腕の故障から気付いた事

2020-08-15 15:08:46 | 認識論
腕の故障から、
日頃の生活での「左右差」について思い考えた。


六月頃だろうか…
小学校の雲梯を子供達の真似をして、
同じようにぶら下がって移動した。

すると、右腕に少し痛みを感じた。
大したことないと思い、そのままにしていたら、
なかなか痛み取れず、最近は、曲げるとズキっと痛む事が多くなった。

そこで時々通っている整体院で診てもらったら
「生活の中での左右差に気を付けて…」といったような事を言われ、
最近の日常生活を思い出し、色々と考えてみた。
すると以下のような事に気付けた。



腕の痛みが、なかなか消えないのは何故?
また、今の痛い箇所が、初めと少し違っているのは何故?
それは、雲梯で痛みを覚えた後、雲梯のぶら下がり移動は止めても、
日々の鉄棒ぶら下がりを続けた、
その結果では、と考えていた…


また、雲梯でのぶら下がり移動では、
左右両手を使用していた。
なのに、右腕だけに痛み!とは何故だろう?


そう~
両手が痛むのではなく、
右腕だけという所に、日常生活での左右差、
右腕と左腕の使い方の相違があるだろう事に気付けた。


すると…日々の洗濯物干しをする時の右腕の酷使が思い出された。

今の家に引っ越してから洗濯物は二階に干している。
毎日三人分の洗濯物を一度に二階へ持っていくのに、
右手だけで抱えて左手でドアを開けての移動であった。

その都度、右手にかなり負担だったのだろう。
その日々の積み重ねが右腕筋肉を疲れさせていて、
その疲れた右腕が更に雲梯でも使われた結果の痛みなのだろう…

もしも…左腕も右腕同様に酷使されていれば…
今回のような、片腕だけの痛みとは、なり得なかったのだろう。
その時は、雲梯でのぶら下がり移動が出来なかったのだろう。






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真理=「真理は二つ」!

2020-08-08 16:37:05 | 認識論



全ては変化・運動する。
変化・運動する事は変化しない。


全ての事物は変化・運動する。
全ての事物の変化・運動する性質は変化しない。

実体は変化する。
変化するという実体の機能は変化しない。


「二」とは、モノが2ある事。
「二」とは、数字「二」一文字。



二つの真理とは、
㈠  実体についての真理。
㈡  機能についての真理。



言葉の実体は、文字・音声・触覚…の形・型。
言葉の機能は、認識の表現である意味・内容。


「真理は二つ」は言葉・文字である。
「真理は二つ」の意味・内容は書いた人物の認識である。

運動とは、
あるモノが、ある一瞬にある点にある。
そして、次の瞬間には、その点にはない事。

変化とは、
ある瞬間に100.000000…%あるモノである。
そして、次の瞬間には、100.000000…%そのモノでない事。



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「真理は二つ」は真理か?

2020-08-06 16:50:43 | 認識論


「真理は二つ」という言葉が正しい真理なら、
それは、「真理は二つ」という一つの真理となり、
初めの「真理は二つ」と矛盾してしまう。

ならば…
「真理は二つ」は真理たりえないのだろうか?



否!絶対に否!

「真理は二つ」の二つとは、

この言葉を二つの観点・視点から
「二つ」になり得る、という事であろう。


一つ、「真理は二つ」という真理の数を示す観点、
二つ、「真理は二つ」は一つの真理というと視点、


現実の一つの事物を視ていながら、
「真理は二つ」という、もう一つの観点から関わる。


現実・事物が変化・運動性を有しているなら
その真理・言葉にも変化・運動性があるべきであろう。




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行動について…

2020-08-02 13:15:26 | 認識論





㈠  不快を避ける為の行動。
㈡  快を求めての行動。
㈢  不快を避ける為に快を求める行動。

㈠ は、眼前の不快な物事を避ける為のモノ。
㈡ は、眼前に不快な物事はなくても行うモノ。
㈢ は、眼前の不快に囚われる事なく無視し快を求めてするモノ。


眼前に不快の対象がある場合の行動の二重性となると…

㈠と㈢となろう。


しかし、
不快が、眼前にある場合で、

その不快物事を回避可能か?
また快を求めての行動が可能か?


具体的に学校の勉強嫌いな場合、
授業中でも教室の外へ出る事は可能か?
でも楽しいゲーム妄想は可能!

ならば、不快な社会の勉強を避ける為に、
快を感じるゲーム妄想をして…
果たして良いだろうか?



児童の人間的の成長の為には、
不快を避ける行動も快を求める行動もでき難い場合であろう…
さてさて…では、どのように対応すべきか?

その方法は、
「不快な勉強」に頑張って「取り組む行動に快」
を感じるように育てる事。


これは、
人間にとっての「不快」とは、「不快と感じる物事」であり、
人間にとっての「不快そのモノ」がある、のではない、
という事である。


だから例え、
それが「不快な物事」であっても、
それに「関わる事を快」とする事は、
人間の場合は不可能でない。



もう一つの方法は、教育現場での教師の「精神罰と体罰」である。
勉強するという不快より、教師の精神罰・体罰の不快が重い時、
児童は、教師からの不快を避ける為に眼前の不快に取り組む事が可能である。

それは、眼前の小さな不快に取り組む事が、
より大きな不快を避ける手段になり得る、
という事である。


これこそが「体罰の効用」である。
過去の学校では、
この「大きな不快を避ける為に勉強する」
が一般的であった。


しかし…現代の先生は、
全ての児童に強烈な不快を感じさせられる行為ができ難くなっている。
当然に親も同様であろう。


ならば…如何にすれば、よいのだろうか?







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