新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「道・tao」について…

2020-07-25 13:46:51 | 認識論


 
「道」とは?

道 (哲学) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/道_(哲学) には

以下のよう書かれている~

道(どう・タオ・Tao・みち)とは、中国哲学上の用語の一つ。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家や儒家によって説かれた。

 老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、礼や義などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(一貫道ともいう)といい、人間世界に関わる道を人道という。

 孔子は天道を継承し、詩経、書経で人道についても語り、「子曰 朝聞道 夕死可矣」や「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」(『論語』 巻第2 里仁第4)といった名句に道義的真理があり、天地人の道を追究した孔子の姿勢が窺える。

 道教における「道」の概念は、神秘思想の上に取り入れられ、道家のそれとはかけはなれた概念となっているとされていたが、近年はフランス学派の学者たちを中心に道家と道教の連続性を認める傾向が多くなってきている。

 『中庸』では「誠者天之道也 誠之者人之道也」と「天之道」、「人之道」が「誠」であるとし、それに基づき孟子も「是故 誠者天之道也 思誠者人之道也」(『孟子』 離婁 上)と「天之道」、「人之道」と「誠」に言及している。

 『菜根譚』には、「道を守って生きれば孤立する。だがそれは一時のことだ。権力にへつらえば居心地はよかろう。だが、そののちに来るのは永遠の孤独だ。めざめた人は、現世の栄達に迷わされず、はるかな理想に生きるのだ」[1]と記し、洪自誠の主張として、一時の孤立を恐れ、永遠の孤独を招くのではなく、道を守る事が肝心と説く。


現代に存在する「道」から、
普通に考えるなら、
それは、人が「道」と認識してモノ。

「道」は、事実・実体としてはない。
あるのは、泥・砂利・土…等である。

しかも、初めにあるのは、
獣たちが通った後である「獣道」であろう…


では、人間は、何故にそれを「道」と認識したのか?
漢字としての「道」の語源・概念とは?

【道】の漢字の成り立ちを教えてください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1264020672
 
には、以下のよう書かれている。

シンニョウ(辶)は道の交差路の一部と、歩行を進める足の形。そして、首の形が合わさって、「道」。

 古代中国の周時代に作られた、らくし卣(ゆう)という酒器に鋳込まれた金文の中に、「道」の字があります。小篆よりも、もっと古い時代の形ですよ。その形は、交差路と首の形。
 
 首の形が入っているのに、首とはまるで関係ないということなどあるはずはありません。字の成り立ちをさぐるには、古代人の残した文字と、その時代の文物をしっかり知る必要があります。

 周時代の家が出土しています。もちろんつぶれた状態で土の中にあったわけですけれど、その家の四方には、髑髏(どくろ)が転がっていました。つまりその家は四方に首を下げていたのです。邪霊、悪しき霊を家に寄せ付けないために、首を下げたのです。こういった文物を知った上で大昔の漢字の成り立ちを追わねばなりません。
敵の長を殺した時には、首を切ったのです。馘首(かくしゅ)といいます。力が強かった、敵の長の首には、死んだ後にも強いエネルギーはあったと考えた。その首を下げることで圧倒できると。

「道」といっても、今の道を思ってはいけません。漢字が出来たのは今から3000年以上昔なのですから。
敵がいつ出てくるかもわからない、保護してくれる神のいないところ、邪霊のうようよする道、そんな道を歩く時は、怖くて恐ろしくて仕方なかったと思うのです。
そこで、首の登場です。以前殺した敵の長の首を、ちょうちんのように、回しながら歩いたのでしょうか。乾燥した髑髏です。
塩をまいてお祓いしながら歩くといった感覚と同じです。
古代漢字書道家 安東麟

ここから言える事は、
初めに「道」はなく、恐れながら、
歩き通る・通ったモノを「道」とした…

では、何の為にその「道」を歩き通るのか?
それは、目的地に到着する為である。

「散歩道」というモノがある。
散歩では、目的地がない。
そこにある目的は「散歩」であり、
それは「歩く事」となろう。



そう「道」を考える時、
目的地・到達点と始まり・開始点を考える必要があろう。


人生を道に例えて「人生道」とするなら、
その始まりは「生」であり、
その到達点は「死」となる。

ならば、
生まれた目的は死ぬ事と考えてよいのだろうか?
否!
生れた目的は「生きる」事であり、
かつ「生き通す」事と言える。


「散歩道」の目的が、
歩く事であり、
歩き続ける事と同様に…


ならば…、
「人生道」での「生と死」の関係は?
「生」に対しての「死」とは何か?

人間以外の動物で、死を恐れるモノはいるのだろうか?
確かに動物は、死に直面した時、必ず死の回避行動をしている。
それは、死を予想してのモノではなく、
本能によるモノであり、他の行動と何ら変わりないモノだろう。

それに対して、人間が死に直面した時、
厳密には、『このままだと死ぬだろう』と予想・確信した時、
普通の人なら、その場合に日頃と同様な行動はでき難いのだろう。


動物にとっての「死」とは、
生命体からただの物体への変化であり、
それは、単なる物体の始まりに過ぎない。


しかし、その人間にとっての「死」は、
その自分の終わりだと思えてしまう…。


確かに個体としての「死」とは、
その個体の終了であり終わりとも考えられる。

しかし、考え方を替えるなら~

「死」とは、確かに
その個体・肉体としは終了であるが、
その人の認識・精神は、
その人が関わった多くの人達の中で、
その多くの人達の自覚・無自覚に関わらず、
必ず、彼らの認識・精神の中で生き続け、
そこにあり続けるモノとも言える。


人間にとっての個体・肉体の死・終わりは。
人類精神の一部としての生・新たな始まり。


だから、人生道では、
個体としての自分自身の幸せを求める為に、
また人類精神の見事な一部となり得る為に、
今を、より幸福に、より見事に生き抜くのだろう。


ここで問題は、
「幸福」とは?を
「見事」とは?を
どのように考えたらよいか!
であろう。



コメント (8)
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正しいけど間違っている事…

2020-07-22 16:46:50 | 日記



本日、近くのスーパーのレジでの出来事。


私は買い物を終わって、レジで代金を知らされた。
それは、1648円であった。
私はポイントカードを出しながら…
『なるべく釣銭を軽くする為に財布を見た』
硬貨で120円はあるので…


私―「28ポイントありますが?」
レジ係―「あります!」



1648-28=1620で
5120-1620=3500だから

では…と
私は5120円を置いた。
そして、戻された釣銭を見ると…
なんと…一円玉が見えた。

私―「28円引いてないの?」
レジ係―「引いてと言われてないので…」

私―
「普通、28ポイントと…聞かれたら…」
「引くと言われなくても…引くでしょう…」
と呆れながら…笑いながらその場を離れた…


落ち着いて考えてみると…
確かに
客から「ポイントを引いて」と言われてないなら
ポイントを「引かない」という判断は正しい。

それは、「点」としてのやり取りだけなら正しい。
しかし、その前の流れを考え線とするなら、

ポイントを引いて欲しいから
「客は28ポイントあるか聞いた」と思い
「客は「ある」と知ったら引きたい筈」…と考え。
「客が引いてと言わないなら」
「私から聞いてみよう」と決断して、

普通レジ係なら
「ポイント御引きしますか?」と
客に一言きくだろう…


また仮に引かずに客から
「引いてないの…」と言われたら、

普通でまともなレジ係なら
「すみません!引いてと言われなかったので…」と
自分が聞かずに引かなかった落ち度を謝罪しつつ、
引いてと言わない客の落ち度もチクっと指摘するなら…兎も角、

そのレジ係の開口一番が
「引いてと言われなかったから…」であった。


彼女は自分の立場での自己判断を
間違いなく正しいモノと確信していたのだろう…


客の言動から、
その客の気持ちを想う・考える事を
彼女は出来ていない…


自分の判断や自分だけの言動が正しい…としても、
相手との絡み合いの中での言動としては間違っている事もあり得る。


これは、「間(合)」が違っている、であり、
空手の組手で考えるなら、相手と自分の手足の長短の違いを無視して、
自分の間合いたけから相手の攻撃の有効性を判断して
相手との間合い違いを考慮せずに攻撃・守備をしてしまい…
結果的に負けてしまう…
ような感じなのだろう。










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状況判断(力)について…

2020-07-15 18:04:08 | 日記
状況判断(力)について…


以下は、先日の息子MAとバイト先の社員TIとのやり取りである。

場所―バイト先の居酒屋~
時刻―午後七時頃~


息子はホール担当で、料理出しと皿等の片付け・洗い。
社員は厨房で注文された料理つくり。

社員が厨房で料理しながら、

近くで作業中の息子に、
「MA!ここに塩を入れて…」と言った。

息子は「ハイ」と言って塩を補充して、
「KIさん!これ、ここに置いときますね。」と言った。

すると…社員は、
「MA君!君は状況判断力がないね!」と言った。

息子は、「……改善します…」。

社員は、「ないモノは無理ね!」

息子は、「……ハイ…そうですね…」



これを聞いた時、私は思った。
『判断力のない者はどっちだろう?』


更に詳しい事情を息子に聞いたら以下であった。

どこに置くか分からなかった…
元々KIさんが使っていた塩・入れ物なので、
それが、元あった場所を直ぐには
思い出せない・分からなかった。

聞こうとも思ったけど…
聞くと…KIさんだから面倒になると思ったし…
中断した作業も早く終えたかったし…
だから、近くの適当な所に置いた…





私は以下のように思った。

息子も社員も共に仕事中であり、
息子には息子のやっていた作業があり、
社員は、それを中断させて、塩入れをさせた、のである。

その塩入れは直ぐ終わったのでよいとして、
その後の戻し方が直ぐに分からず、
時間がかかりそうと判断して、
近くに置いた息子。


それら対して、自分の思った所ではない、
だから息子の判断は間違っていると判断した社員。
その判断から出た言葉が「(息子に)状況判断力がない」
であった。

この社員の思っている状況判断基準とは、
「物は、必ず元あった場所に戻す」だろうか…
それとも、
「忙しい社員為に協力するのは当然」だろうか…


しかし、ここでの状況とは、
客がいて、
息子は息子の作業をしていて、
社員は社員の作業をしている、
であった。


その息子の作業を中断させたのは、社員である。
ならば、息子が頼まれた事を終えたら、
直ぐに彼の作業を再開、こそ、正しい判断であろう。


それを
やれ「状況判断力がない」とか、
それ「無いもの改善できない」とか、
作業とは全く関係のない、
自分の感情の発露的発言は、
息子の作業も。社員・己の作業も中断させ続けている…
作業の再開・続行には、全く不要な発言であろう。



息子は言っていた。


僕が「ここに置くよ」と言って置いた場所が、
違っていたら、
KIさんは、「今度、ここに置いて」と言って、
正しい場所に置けば、それで終わりだったでしょう。
そうすれば、お互いに直ぐに仕事に戻れたのに…


では、
ここでは、正しくなかった社員の状況判断が正しい場合は?

それは、「料理見習い社員またはバイト」に対しであろうか…
その場合なら、料理見習いなら、
全ては料理長の思うが通りに一から十まで、
教育するのが正しい…のであろう…





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