新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

マトのど真ん中を射抜く」について~

2017-12-31 09:10:36 | 想い思い考える

「いや~お恥ずかしい…

月研ぎさんから、「マトのど真ん中を射抜く 」
についてコメント頂いて、以下の想い・像が生じた。

私としては、「マトのど真ん中を射抜く」
努力をしていたつもり、だったのに…

でも…私が「マト」だと思っていたモノは、
月研ぎさんの「マト」と異なっていたようなんだな。





ここでの、このコメント欄での「マト」とは、
この記事のテーマである「像と言葉」なのです。

だから、今ここでの「マト」は、「像と言葉」なのです。
私が、ここで「マトのど真ん中を射抜く」行為とは、
先ず、月研ぎ氏の言葉から、彼(彼女)の、その像を描く努力をする。

私の像が、月研ぎ氏のと大きく離れてしまったのは
記事「始まり?ひとつ?」2017-12-17 20:03:33 | 想いのままに…
の以下のコメントを読んでからです。


>自由びとさんは、「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。たぶん自由びとさんは優秀な方ですから、言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。

ここでの私の想いは、
「俺は、俺の中の像を素直に言葉で表現している!」
「像を言葉で書くのだから、像で書く事はない!」的
このコメントへの反感でした。。

確かに、これは、私の描いている像で間違いありません。
しかし、それは、月研ぎ氏がコメントにした像ではなかったのです。
本来的に、そこで私が、像化すべきモノとは、
月研ぎ氏の以下のコメントなのです。

>自由びとさんが「認識の始まりの像と、生命の始まりの像は一致する」ということを他人に理解してもらうには、媒介項というか、南郷先生の「先生と弟子の像の不一致」に対する反論を、間に挟んでみることが必要です。

これは、認識と生命の始まりの一致には、その一致に至るの過程像を描いて言葉にする必要がある。
そうでなければ、、他人にも納得して分かってもらえる事は至難であろう…

このコメントを読んだ時の私は、
『それは南郷継正の御著書に書かれている』的な感情像で通過してしまいました。

そして、浮かんだ像は、月研ぎ氏は、何故に
>…言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。<
と感じたのだろうか?

今ハッキリ思うのは、私のブログの記事は、私の像の展開を文字化しよう・書こう!であり、
それは、他人に分かってもらおう、他人と分かりあおう…的な思いは少ない、ようです。

それでも…月研ぎ氏のように分かり合える事は、とても嬉しい事なのですが…

結論的には、私は私が「マト」だと思ったモノ・像の「ど真ん中」を狙って「射抜こう」としていたのです。

そんな私への月研ぎ氏の度重なるコメントには、彼(彼女)の同志としての暖かく厳しい想いを感じ取っていると書いたら…

月研ぎ氏に、また、
>「たぶん自由びとさんは優秀な方ですから、言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。」
と思われるのだろうか?


それとも、
ト氏ちゃんソクラテスの以下のコメントように思われるだろうか?
>「これって人間関係が対等ではないと端からみたら感じるわけ。対等に相手が大事にしているものを尊重することが、相手を大事にすることだと考えているのではなく、一方的に自由びと氏のほうがお願いして婆さんたちと付き合ってもらっている。」


月研ぎさ~ん~
「マトの真ん中を射抜く」の私的な像の展開は如何てしたか?


以下の所まで、到達できていますか?

>マトが遠くに見える具体物というのではなく、自分の立ち位置と姿勢からマトの角度と方向が割り出せて、マトを具体性と抽象性の二重化としてとらえることができるのです。
いわゆるマトまでの距離が、物理的な距離ではなく、遠く見えたり近く見えたりするという思い込みの現象が起きます。これがマトが二重化したことの意味です。<










コメント (11)
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像と言葉…そして考える~

2017-12-27 12:15:41 | 想い思い考える

このブログの記事
<始まり?ひとつ?>
2017-12-17 20:03:33 | 想いのままに…で
以下のコメントを月研ぎ氏のコメントに対して書いた。


月研ぎ氏コメント

>自由びとさんは、「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。たぶん自由びとさんは優秀な方ですから、言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。<



自由びとコメント

>言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。

「言葉で書く」のは当然です。
言葉で考えている、言葉を並べて書いている、
が正しい表現なのでは?

「像で書く」の無理です。
像を言葉にする。像を言葉で(表現)書く…が正しいのでは?です。


コメント欄の記述はここまで…


↑~上記の書き込みは昨晩であった。


以下は「言葉で書く」、「像で書く」についての再考である。

南郷継正は、「人間は像て考える」と主張している。
それでも、彼の著書には「言葉で考える」と書かれている事もある。

「像で考える」はずの人間が、「言葉で考える」とは如何なる事か?
「像で考える」といった時、それは五感覚を駆使して形成像で考える。
「言葉で考える」といった時、それは、視覚(orプラス聴覚)の使った形成像で考える。

それは、五感情像か知識像か、といった事なのだろう。

さて、「像で書く」とは、描いている像を言語化する事。
その描かれている「像」が問題である。


自由びとの
「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。」
についてであるが…

言葉で書いている場合は論外として…

像で考え、像を文字・言語化している場合を考えるなら…
問題は、その表現・言語化しようとしている「像」である。

「像」または「五感情像」と書いても、
その「像」には、
静止像、運動像、全体像、部分像、全過程を含めての過程的像…
と様々な「像」があり得る。

更に、書き手が自らの像を正確に捉えられて視えているか?
または、正確に捉えて視えていても、それを正確に言語表現できているか?

相手の言葉が分からない場合、相手側の問題なのか?
自分側の問題なのか?
それとも両方の問題なのか?


例えば、「群盲象を評す」ではないが…
仮に、「象」の事を知らない人が、象の姿形を言葉で書かれても理解不能である。
絵にした所で、この絵が「象」と覚える事はできても、五感情像としての像はない。

それは、知る・覚える事は出来ても、分からない・実感できない、モノだろう。

更に、象の全体的姿形ではなく、象の足の像を言葉で書いたら、
どうなのだろうか?


私が思ったのは、月研ぎ氏は
自分の事を、どれ程に理解できているのだうか?、である。

自身は常に必ず相手の言葉を像化して像で分かっていると確信しているのか?
現代の学校教育をまともに受けて育った者なら、言葉の全ての五感情像化は至難であろうに…

自信たっぷりの者は、自分は出来ていると確信がある。
しかし、全てができる者、ミスのない者はいないと私は確信している。

だから、先ずは、自分のミスの可能性、そして相手のミスの可能性…
更には、私と相手の双方が、ミスをミスと思っていない可能性…
を考える必要があろう~

そんな可能性とそんな事実が、あるか、ないかを
検討する努力をしようと努力している私であるが…

如何せん…こんな私なので…
己の思い込み・勘違いの多さに呆れている毎日である。

果たして、今日の記事には、
どれほどの思い込み・勘違いがあるだろうか?

月研ぎ氏に指摘されるのが恐怖であるが…




















コメント (29)
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観念論と観念論的なものの見方について…

2017-12-26 21:30:38 | 想い思い考える



「弁証法の命は」は
私の以下の~コメント~で終わっている。


観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜 (自由びと)
2017-12-24 07:18:58

青龍さん

早速の返事コメントをありがとうございます♪


>つまり、「観念論」と「観念論的なものの見方」とは区別しなければならない、と思います。

この区別と連関で,再考してみます。



 



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~









ここからは、その続きである。


「観念論」を世界観とするなら(異論もあるだろうが…)、

「観念論的なモノの見方」とは、
その世界観を元にした自らの「観念」を駆使した「モノの見方」となろう。


ここで、「観念論」を自らの観念を元に論じるモノ、とすると…
「観念論的なものの見方」とは、自らの観念を元に、その観念を駆使した「モノの見方」となる。
ここでは、その自ら観念の創出過程は、問題外である。

唯物論的なモノの見方では、人間の観念は初めからあるモノではなく、
その人の成長過程で「創り創られる」モノ、とされている。

それに対して、観念論的モノの見方では、
人間の観念は「初めからある」モノ、と考えられている。

世界観としての観念論を置いておいて、
「観念論的な見方」を考える時、
先ず観念は「あるモノ」として出発する。

もし…ここで観念を「創り創られるモノ」として出発するなら、
自らの観念を駆使していても、それは「唯物論的な見方」となり得る。

元々ある観念の駆使とは、自らを疑う事なく、自信たっぷりの出発であろう。
何故なら「自信がない」とは、自らを疑うモノ、それは自らの観念を疑うモノ、である。
ならば、それは「観念がある」という観念論の否定となり得る。

もっとも…
「自信がない」という「観念がある」とするならば、
それはそれで観念論たり得るが…。
それでも~自信がない者が、超え高々に自らの観念論を主張可能であろうか?

さて、では~世界観を棚上げしての自らの観念を駆使しての
「観念論的なモノの見方」を考えてみよう。

先ず初めに問うのは、何の為の「モノの見方」だろう?
それは、そのモノと上手く上手に関わる為であろう。
そのモノ自体をしって、そのモノを使ったり、変えたり…する為であろう。

さてさて…ここまで考えて行き詰ってしまった…
そこで、以下の青龍さんのコメント元に進めてみよう。

>自身の理解としては、観念論と唯物論は自由びとさんの言われる通りに世界観のことであり、観念論が世界の創造をあるとする立場、唯物論が世界の創造は無いとする立場で、そのことに何の異存もありません。

>それに対して、観念論的なものの見方と唯物論的なものの見方といった場合は、前者は自身の観念を主体としてそこから世界のあり方を解釈していくものの見方であり、後者は世界のあり方をあくまで世界そのものの持つ性質として究明していくものの見方である、と理解しています。

上記の記述から~

観念論的なモノの見方は、
>自身の観念を主体としてそこから世界のあり方を解釈していくものの見方であり、…
唯物論的なモノの見方は、
>世界のあり方をあくまで世界そのものの持つ性質として究明していくものの見方である、



以上のように捉えるから、

念論的な見方も唯物論的な見方も、「世界のあり方」を問題としている。

ならば、その「解釈する」or「究明する」世界とは?の確定が必要となり得る。
さすれば、必然的に世界観=どのようなモノが世界であるか観が必要となる。

その世界の特定なしに、世界を解釈・究明する時、
その結果が世界の解釈・究明であると言いえる根拠はあるのだろうか?

世界観のない、観念論的な見方とは、自己の体験・経験だけから対象の見方。
世界観のない、唯物論的な見方とは、自分と他人の経験・体験からの対象の見方。

観念論的な見方とは、自己体験・経験からのカン・コツ的な対象の見方。
唯物論的な見方とは、多くの知見・科学的な根拠を元にした対象の見方。

まだまだ…考える必要・余地はあるが…
今日までの所は、ここまでにしよう。





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「己をむなしゅうする」時…

2017-12-24 11:44:00 | 想い思い考える

いつの事だろうか?
玄和会の講習会だろうか?
それとも、大会時の師範講義であろうか?

その時~
「己をむなしゅうする時、何が生まれるか?」
「それは認識論的問題である…」
そんな記憶に残っていた師範の御言葉が、
先ほど心に頭に頭脳に甦ってきた。


己は、頭脳で、感じ・想い・思い・考える…等の認識の変化・運動をしている。
その変化・運動には、大きく二種類考えられる。

一つ、己の観念の変化・運動を中心に、外界の変化・運動に対応する。
二つ、対象の変化・運動を中心として、自らの観念を変化・運動させる。

言い換えるなら、
己の観念の変化・運動性でもって、対象の変化・運動性を見て取る。
対象に即して、己の観念を変化・運動させ、対象の変化・運動性を見て取る。

または、
自らの観念的変化・運動に従って、五体を駆使して対象に働き掛ける。
対象の変化・運動性に即して、五体を駆使して対象に働き掛ける。


端的には、
自己の弁証法性中心か?
対象の弁証法性中心か?
である。


さて…
ここで「己をむなしゅうする」と、どうなるのだろう?
この時、自己の弁証法性は、否定or無視されてしまう。

という事は~その時、
自己感情は否定・無視され。
自分の想い・思いは否定・無視され。
自己の欲求さえも無視・否定される、モノである。

ならば、
その「己がない者」の態度・言動は、どうなるのだろうか?

その者は、
生まれたての赤子のようなモノであり
でも、泣かない・叫ばないモノであり、
話せるけど、自分の言葉は出ないモノであろう。

そんな「己をむなしゅうした己のない者」の態度・言動は如何に?
それは、対象に同調した態度・言動であり、
それは、対象を映し取ったモノであろうか…







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弁証法の命は?

2017-12-24 08:02:33 | 想い思い考える


弁証法の命は?

弁証法の命は、その変化・運動の過程性…かな~

以下はブログ
<鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~>
<鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。>

の記事と、そのコメント欄でのやり取りである。



~ブログ記事~

観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜
2017-12-21 16:51:36 | 唯物論と観念論


観念論的なものの見方の原点について考えると、自身の原点という像のスケールの小さいことが痛感される。

今朝、ブログ「新・悟りを求めて」(時々本ブログにコメントをいただく自由びとさんのブログ)へのコメントとして、観念論的な立場の形成のあらまほしき過程的構造について、抽象画の上達の過程的構造の二重性として説いていた時に、またその後に、観念論的な、とはそもそも如何なるアタマの働かせ方なのか?その原点とは(またその最高の形態とは)如何なるものなのか?と考えることとなった。(残念ながらこのコメントは上手く投稿出来ず消えてしまった様であるが)

その時まで自身では、観念論的な見方というもののそもそもの原点は古代ギリシアの時代に対象の必死の究明の中で事実の不足や事実を究明する実力の不足から、対象に即して対象の構造として考えることが出来難かったがゆえに、こうであろうという自身の思いや他の分かることが出来たと思える対象の構造を横滑りさせて?の、例えば東洋医学が人間の解剖生理を自然界の四季の循環(五行)に擬えて、そうであろうから、そうに違いない、果てはそうであると考えていった様に、その様にしか考えることが出来なかったからの、観念論的な対象の究明、説明である。と思っていた。

しかしながら、観念論的な見方が可能である実力を抽象画を描く実力と考えて見ると、そのことが可能であるということはそのことを可能とするものが人間の実力としてあったからであり、観念論的な見方の原点というからには観念論的な見方を可能とした大元のもの、その認識の実力とは何なのか?ということを考えて見なければならないのではないか、と思える様になっていった。

そう思って、考えて見た時に想起されたのが、南郷先生が説いてくださった、サルからヒトへの認識の発展における「もどき像」というものである。

その自身の理解を簡単には、サルまでの生命体は外界の反映としての像(素朴な唯物論的なものの見方?)しか描けなかったものが、サルに至って樹上生活を送る中で、次第次第に外界の反映でありながらも反映そのままでない像(=もどき像=観念論的な見方の芽生え?)を描けるようになっていって、そこからついには外界の反映の像を自分勝手に加工したり、それ以上の外界の反映とは独立に像を描くこと(観念論的な見方?)が可能となっていった、ということである。

これ以上は、スマホでの、では思いが深まっていかないので、改めて説きたい。









~コメント~

観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜 (自由びと)
2017-12-23 15:52:51


青龍さん

>観念論的な見方の原点というからには観念論的な見方を可能とした大元のもの、その認識の実力とは何なのか?

この問いを一読した時、私の瞬間的な想いは
観念論は、世界は神によって創られたモノ的世界観で…
それが原点でしょ!でした。

でも、再読して、「大本の認識の実力」となると…「?」になるかな…
そんなこんなあんな事を想いから、私の「観念論」が蠢く事に相成りました。
一読が一昨日、再読が昨晩…それから夢の国への出発でした。

そして…なのかどうか不明ですが…
一晩寝た今朝六時過ぎの事。
外は真っ暗、剣道の練成会へ行く息子を送り出してもうひと眠りしようと…
玄関から廊下を歩いて部屋に戻ろうとして、眼前の電灯を消しました。
内心『暗くなった、電気は全て消した。』と納得・安心して部屋へ入りました。
その少し後、忘れ物に気付き部屋から出たら、なんと玄関の方が明るかったのです。
内心…『しまった!消し忘れだ!』と気づきました。

これは、一般的表現なら「消し忘れ」ですが…
この場合は、私の認識では「全て消した」なのでした。

そう~この時の私の「全て」とは、眼前の明るい場所の電気であり、
その私の「全て」には、後ろの見えない・感覚しない玄関の明かりは、含まれていません。

この「全て」を「世界」と置き換えれてみれば…と気づいて考えました。

観念論とは、認識内の己が認識する世界から、対象を論じるモノ。
唯物論とは、外界を世界と認識して、対象を論じるモノ。

この二つの原動力は、同じ論じる能力であり、
それはサルからヒトへの過程での「もどき」像…なのでしょう。
でも、観念論の原点は、外界を己の認識している認識内世界とする時なのでは…?

今回の私の場合では、
目の前(認識・感覚可能な範囲の世界)の明かりは消した=すべて消した、観念論的でした。
しかし、唯物論なら感覚でき難い後ろ(より広い世界)を確認した上での電気消しが、「全て消した」なのでしょう。



世界観としての観念論では、世界は神の創造物ならば、
世界は変化・運動していても、神は全知全能で不変・不動となります。
このような世界観では、己の信じる神の範囲内での論説となり、
それは、己の限界=神の限界、なのでしょう。

しかし、世界観としての唯物論なら、
外界の変化・運動に即して、強制的に変化・運動させられるので、
その論説・言説は、ある意味、限界のないモノになり得る…のでしょう…


>サルまでの生命体は外界の反映としての像(素朴な唯物論的なものの見方?)しか描けなかったものが

本能的実在であるサル・動物は、本能の範囲内での反映でなのでしょう。
これは、この場合・本能=外界の変化・運動なら問題はない、のでしょう。
しかし、人間の手で、外界が大きく変えられた時など、本能と外界がの不一致から、浜に打ち上げられたクジラ、とかいう例もあるらしい、です。

これは、観念論(的行動)でも唯物論(的行動)でもなく、いうなれば本能的行動なのでしょう。








~コメント~

観念論と観念論的なものの見方 (kagakuteki-sinkyuron)
2017-12-23 19:07:11

コメントありがとうございます。

時間の余裕があまり無いので、自身の思いだけを書きます。

自身の理解としては、観念論と唯物論は自由びとさんの言われる通りに世界観のことであり、観念論が世界の創造をあるとする立場、唯物論が世界の創造は無いとする立場で、そのことに何の異存もありません。

それに対して、観念論的なものの見方と唯物論的なものの見方といった場合は、前者は自身の観念を主体としてそこから世界のあり方を解釈していくものの見方であり、後者は世界のあり方をあくまで世界そのものの持つ性質として究明していくものの見方である、と理解しています。

つまり、「観念論」と「観念論的なものの見方」とは区別しなければならない、と思います。

またそれゆえに、「観念論」哲学者であるヘーゲルが「唯物論的なものの見方」をすることは可能であるし、そのことでヘーゲルの立場は矛盾したものとはならない、とも思えます。







~コメント~

ここは、まだ実力不足の部分であるので……。
観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜 (自由びと)
2017-12-24 07:18:58

青龍さん

早速の返事コメントをありがとうございます♪


>つまり、「観念論」と「観念論的なものの見方」とは区別しなければならない、と思います。

この区別と連関で,再考してみます。





以上・ここまでが、
12月24日・今日クリスマスイブ、8時・現在までの展開である。








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