「いや~お恥ずかしい…
月研ぎさんから、「マトのど真ん中を射抜く 」
についてコメント頂いて、以下の想い・像が生じた。
私としては、「マトのど真ん中を射抜く」
努力をしていたつもり、だったのに…
でも…私が「マト」だと思っていたモノは、
月研ぎさんの「マト」と異なっていたようなんだな。
ここでの、このコメント欄での「マト」とは、
この記事のテーマである「像と言葉」なのです。
だから、今ここでの「マト」は、「像と言葉」なのです。
私が、ここで「マトのど真ん中を射抜く」行為とは、
先ず、月研ぎ氏の言葉から、彼(彼女)の、その像を描く努力をする。
私の像が、月研ぎ氏のと大きく離れてしまったのは
記事「始まり?ひとつ?」2017-12-17 20:03:33 | 想いのままに…
の以下のコメントを読んでからです。
>自由びとさんは、「なんか…説明が今一つですね。」と気づいているんですね。たぶん自由びとさんは優秀な方ですから、言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。
ここでの私の想いは、
「俺は、俺の中の像を素直に言葉で表現している!」
「像を言葉で書くのだから、像で書く事はない!」的
このコメントへの反感でした。。
確かに、これは、私の描いている像で間違いありません。
しかし、それは、月研ぎ氏がコメントにした像ではなかったのです。
本来的に、そこで私が、像化すべきモノとは、
月研ぎ氏の以下のコメントなのです。
>自由びとさんが「認識の始まりの像と、生命の始まりの像は一致する」ということを他人に理解してもらうには、媒介項というか、南郷先生の「先生と弟子の像の不一致」に対する反論を、間に挟んでみることが必要です。
これは、認識と生命の始まりの一致には、その一致に至るの過程像を描いて言葉にする必要がある。
そうでなければ、、他人にも納得して分かってもらえる事は至難であろう…
このコメントを読んだ時の私は、
『それは南郷継正の御著書に書かれている』的な感情像で通過してしまいました。
そして、浮かんだ像は、月研ぎ氏は、何故に
>…言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。<
と感じたのだろうか?
今ハッキリ思うのは、私のブログの記事は、私の像の展開を文字化しよう・書こう!であり、
それは、他人に分かってもらおう、他人と分かりあおう…的な思いは少ない、ようです。
それでも…月研ぎ氏のように分かり合える事は、とても嬉しい事なのですが…
結論的には、私は私が「マト」だと思ったモノ・像の「ど真ん中」を狙って「射抜こう」としていたのです。
そんな私への月研ぎ氏の度重なるコメントには、彼(彼女)の同志としての暖かく厳しい想いを感じ取っていると書いたら…
月研ぎ氏に、また、
>「たぶん自由びとさんは優秀な方ですから、言葉で書いている度合いが高くて、像で書いている度合いが少ないようにお見受けします。」
と思われるのだろうか?
それとも、
ト氏ちゃんソクラテスの以下のコメントように思われるだろうか?
>「これって人間関係が対等ではないと端からみたら感じるわけ。対等に相手が大事にしているものを尊重することが、相手を大事にすることだと考えているのではなく、一方的に自由びと氏のほうがお願いして婆さんたちと付き合ってもらっている。」
月研ぎさ~ん~
「マトの真ん中を射抜く」の私的な像の展開は如何てしたか?
以下の所まで、到達できていますか?
>マトが遠くに見える具体物というのではなく、自分の立ち位置と姿勢からマトの角度と方向が割り出せて、マトを具体性と抽象性の二重化としてとらえることができるのです。
いわゆるマトまでの距離が、物理的な距離ではなく、遠く見えたり近く見えたりするという思い込みの現象が起きます。これがマトが二重化したことの意味です。<