新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

運動と弁証法

2021-08-25 12:24:19 | 弁証法講座
運動と弁証法

運動とは、変化・移動である。
変化とは、そのモノが、そのモノである、と、同時に別のモノである、という事。
移動とは、そのモノが、そこにある、と、同時にない、という事。

では…弁証法とは、
運動の科学であり、変化・運動を法則化、というモノ。

変化・運動は、あるモノ・起こっているモノ。
弁証法は、あるモノ起こっているモノではなく
、人間が運動・変化と関わって創り上げ、創り上げたモノ。


例えば、ここに眼前に「注射を怖がる」子供がいる事。
これは、今この瞬間である。
このままなら、「注射が怖い」子供は変化しない。

でも、
親が「注射を怖がる」ではなく「注射を怖がらない子供」を望み、
意図的に働き掛けの事で、その子供が「注射平気になった♪」なら、
それは弁証法を適用して子供を変化させた、と言える。

この場合は、
その具体的な働き掛けの方法が弁証法ではなく、
その働き掛けた親の認識・像の中身が弁証法である。

従って、別の親が「注射を怖がる」子供に全く異なった方法で働き掛け、
そして、子供が「注射平気」になり得たなら、それも弁証法である。

ここから言える事は、
弁証法の具体的な法則・方法…は無限にあり得る。
また、弁証法の具体的な表現も無限にあり得る。

それでも、弁証法そのモノは一つである、という事。
そして、その一つの弁証法とは人間の認識であり、
それは眼前の事実を己の目的意識に合わせて自由に変化させ得るモノ。

その弁証法認識の体得には、無限の弁証法記述との関わり、
無限の変化・運動と思えるモノ達との関わりが必要であろう。

しかし、有限の肉体・有限の感覚…有限の実体である人間が無限を求めるのは…無謀であろう。
でも、人間の実体・肉体は有限でも、その認識・機能には無限の可能性があり得る。

この有限な肉体と無限な認識の運動・矛盾が、
人間が弁証法を求める理由なのでは?

では…弁証法体得・習得・修得・技化する方法は?
それは、理想的な弁証法の記述をひたすら信じ込み、
その弁証法の記述を有限な肉体に適用・実践する事で、
その肉体に固有の変化・運動を目的意識的に別のモノへと変換する過程を通して、
今の無限的な認識が肉体の運動・変化の変換という異質な変化・運動認識を通して、
より更に無限な認識へと弁証法的な変化・運動を体得していく…のだろう。




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弁証法をパソコンで例えて考える

2021-08-21 10:12:38 | 弁証法講座


人が対象に「弁証法の法則」を適用する事、
人間が頭脳を「三法則」的に使っている事。

頭脳を「三法則」的に働かしている事。
頭脳が働く・動くのは頭脳の機能が発揮されている事。

パソコン本体を頭脳、パソコン機能を弁証法、として考えてみた。

パソコン本体は電源を入れても、プログラムソフトを入力しない限り動かない・働かない。

人間の頭脳も誕生直後の赤子は泣く(電源ランプの点灯)だけであり他に何もできない。
それでもその後、周囲の人々の赤子への働き・関わり(ソフトの入力)で、
赤子の頭脳は徐々に人間的に(機能)働くようになっていく。


さて…
パソコンなら最新ソフトを読み込めれば、
機能はバージョンアップして、より複雑なモノとなり得る。
人間の頭脳も、色々な学びで言うなればバージョンアップされていく。

ただし、私のパソコンの場合であるが…
以前、長くWindows8のパソコンを使っていた…
ある日の夜中に、突然のWindows10への自動アップデートがあり、
翌日、パソコンを立ち上げたら上手く作動しなかった。

そこで近所のパソコンショップへ持って行ってみてもらったら、
パソコン本体が古くて、Windows 10ソフトが使えない…と言われ、
結局Windows10ソフトを取り除いてもらって初めて正常に働くようになった。


さて、ここで、
人間の実体である頭脳が弁証法的に働く為の弁証法ソフトとは何か?
<一>自動に入力された「弁証法ソフト」。
<二>意識的に入力された「弁証法ソフト」。


<一>は、現実の体験・経験を通して弁証法のソフトとは思わず体得した。
<二>は、書物や他人から「弁証法とは」を教えられ学び入力した。

<一>の場合は、弁証法とは知らずの体得であるから、無意識的弁証法と言えよう。
<二>の場合は、文字の入力だけであるからそれを使えるようにする必要がある



これが、パソコンの場合は、
弁証法へのアップデートの為には、
先ずは弁証法ソフトのダウンロード。
そして弁証法ソフトが使える為のインストール、となろう…


パソコンの場合、
ソフトであってもプログラムの相違から
それぞれのソフトにはグレードレベルがある。


ならば弁証法の場合も、
同じ言葉・説明なら同じレベルの弁証法だろうが…
異なった言葉・説明の弁証法なら違いがあって当然である。

問題は、その言葉・説明にレベルの相違があるのだろうか?

パソコンソフトがグレードアップした理由は、
パソコンの処理能力の向上を求めてである。
それは、パソコンを使用している人間が求めたモノ。
求めた理由は人間社会に変化・発展があったからだろう。


弁証法ソフト記述も人間が書いたモノ。
その弁証法は、その人の必要性から生まれ、それを文字化したモノ。
人間社会が進化・発展しているなら、その時代の頭脳の機能にも進化・発展が求められる。
そこで、その社会で生活している人間なら無自覚的無意識的に弁証法を体得していく。
しかし…弁証法を体得した者が、それをプログラムソフト化出来るとは限らない。


仮にグレードアップした弁証法プログラムソフトが完成しても、
古い本体・実体である頭脳が使えるようインストールできるとは限らない…


最新型のパソコンなら初めから「最上級のソフト」入力は可能である。
でも誕生時の人間の頭脳は、あらゆるソフトが使用可能なパソコンではない。
それは、最新のパソコンになり得る素材・材料…といったモノなのだろう。

更に体験・経験…から無意識に弁証法を体得し得た者は、
経験・体験的な弁証法のグレードアップは可能でも、
他人の弁証法ソフトを読み込み使えるようになるのは至難である。
そもそも…
自分の体得したモノがそのアップグレードモノと
同じ弁証法と認識するのも至難であろう。





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弁証法性と弁証法

2021-08-19 15:35:11 | 弁証法講座


「弁証法性が豊か」という言葉がある。
また、「弁証法の達人」という言葉もある。
これらの区別と連関について思惟してみた。

子供は「弁証法性が豊か」である、と言える。
それは、物事の変化に対して非常に柔軟な対応ができる、
からである。

しかし、その子供の「物事に対する非常に柔軟な対応」
は意識的ではなく反射的と言える。

そして、子供がそのような柔軟な対応が可能なのは、
脳細胞を中心とした身体的柔軟性・若さがあるからであり、
また、若さ故の無知でもある。

若さ故の無知とは、
あまり多くの事を知らない無知、
型を知らない・形に嵌っていない無知。


そんな若さ故の無知な柔軟性は、
経験・体験を得て年と共に失われていってしまう。

そこで、そんな無意識的な柔軟性を
意識的な柔軟性へと変換するモノが弁証法と言えよう。

弁証法の達人とは、
子供が無意識・自然に対象に即して対応する認識を
自己の目的意識を持って意識的に創出するモノである、といえる。


弁証法の達人とは目的意識的に
子供的な(対象に即して柔軟な対応を可能にする)認識になり、
その認識のままに行動可能な者をいうのだろう。

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「気付き」とは何か?を気付いた。

2021-08-16 12:07:19 | 認識論
「気付き」とは何か?を気付いた。


「気付き」とは何か?
「気付き」とは以下のようなモノであろう…
今までの経験・体験・知った事・学んだ事…自分の中の諸々なモノが、
それなりに筋を通して繋がった瞬間と言える。


では、私は何について気付いたのか?
今日、ふと思った!「武道の勝負」って何?と…

真剣を使って決闘したら「武道の勝負」?
時代劇の中で百姓が刀を振り回して闘っていた。
武技・真剣を駆使しての命を守る勝負だから「武道の勝負」!

南郷氏は、一般的・本質的には、
武道とは<武技を用いて命(いのち)を賭けた勝負の道>と書いている。

ならば、百姓には、武技=真剣を使える技術がない。
だから、これは、武道の勝負ではない。
真剣という武器は使っていても、武器を操る技術・武技はない、のだから…

日本刀・真剣を用いて命を賭けて勝負しても、
武技のない素人では武道の勝負とは言えない。


ならば、剣術家同士の闘いは、全て武道の闘いと言ってよいのだろうか?
例えば、一刀両断を目指すのではなく、先に相手の小手先をチョコっと切って、
後は、出血して相手が弱るのを待って切り込むような勝負の勝ち方は?

武道とは、<武技を用いて命(いのち)を賭けた勝負の道>であるなら…
それは、「道」である。「道」とは一本とは限らない。

正々堂々と<武技を用いて命を賭けて>「勝」のも武道勝負なら、
卑怯・姑息な手段で<武技を用いて命を賭けて>「勝」のも武道勝負。
または、<武技を用いて命を賭けて>逃げるのも武道勝負。


今回の私の「気付き」とは以下のようなモノである。

一つ~
武技=真剣・日本刀ではない事。
武技とは、武器を用いたから武技になるのではなく、
その武器を有効に使える技術を持って武器を用いた時、である事。

これは、武器(実体)と武技(機能)の区別と連関が
分かっていなかった事に「気付いた」という事である。

剣道なら上記のように分かり易いが…

空手や柔道の場合は、より分かり難いモノであろう。

相手に空手の形で突きを当てたら「武技」の駆使?
相手に空手の形で突きを当てたら「武器」の使用?

相手を背負い投げで投げたら「武技」の駆使?
相手を背負い投げで投げたら「武器」の使用?


真剣・日本刀は、誰もが使用した時点で「武器」の使用である。
しかし、素人が空手を突きの形で相手をついても
「武器」の使用にも「武技」の駆使しもなり得ない。

当然に柔道の背負い投げも然りであろう。


二つ~

武道とは、勝負の「道」である事の意味である。
「道」とは、一本ではない事。色々諸々の「道」がある。

勝負に勝つ事の選択も「道」、
勝負に負ける事の選択も「道」、
勝負を中途でやめる事も「道」、
負けを認めて相手の隙に乗じて倒すのも「道」、
敢えて勝負を選択しないのも「道」…

闘い方の選択も「道」なら
その結果の選択も「道」である。


三つ~
以上二つのような事を分かっていなかた自分に「気付いた」


では…何でこのタイミングで私は上記のような事に「気付けた」のか?

これには、実体と認識の双方の関係からであろう。

つづきは…またにしよう!




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真・「真理は二つ」は真理か?

2021-08-07 12:34:25 | 認識論
真・「真理は二つ」は真理か?

以下は前回の

「真理は二つ」は真理か?
2020/08/06

「真理は二つ」という言葉が正しい真理なら、
それは、「真理は二つ」という一つの真理となり、
初めの「真理は二つ」と矛盾してしまう。

ならば…
「真理は二つ」は真理たりえないのだろうか?
否!絶対に否!

「真理は二つ」の二つとは、
この言葉を二つの観点・視点から
「二つ」になり得る、という事であろう。
一つ、「真理は二つ」という真理の数を示す観点、
二つ、「真理は二つ」は一つの真理というと視点、

現実の一つの事物を視ていながら、
「真理は二つ」という、もう一つの観点から関わる。
現実・事物が変化・運動性を有しているなら
その真理・言葉にも変化・運動性があるべきであろう。

↑である。

そして、以下は上記の続編である。

七月から「”夢”講義(4)」を再読している。

P182  
第一章 第五編 第三節  
世界観から論じる二つの正しい「筋道(すじみち)」とは、

…では、以下のような事が書かれていた。

「論理とは、考え方の正しいすじみち」とするなら…
世界観から、「論理」には「観念論的な論理」と「唯物論的な論理」がある。
世界観は違っているが、この二つは、ともに正しい筋道であり、間違いなく「論理」である。

「真理」とは「真の論理」or「真の理論」とするなら、
「真理」には、「観念論的」な真理と「唯物論的」な真理の二つが考えられる。

これは、言い換えるなら~

「自分的な真理」と「みんな的な真理」、
「個人的な真理」と「社会的な真理」、
「哲学的な真理」と「科学的な真理」、
「学問的な真理」と「専門的な真理」、
「一般科学的真理」と「個別科学的な真理」、

「真実は一つ」でも「真実は一人に一つ」、
「真理は一つ」でも「真理は一人に一つ」。

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