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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「観念論・唯物論~世界観」の話

2024-07-31 11:19:40 | 「わたし事・学」
「観念論・唯物論~世界観」の話


世界観が、観念論と唯物論に分れているのは、何故?
世界は、一つなのに、世界観が二つあるのは何故?
一つの世界に二つの世界観が…しかも双方とも正しいのは何故?




二つの世界観は、双方とも、人類の認識・頭脳活動の観点である。
頭脳活動は一つ、でも、その活動の視点・観点は二つ。


一つ、未来の己に今の「頭脳活動の実力上達・向上の為」のモノか?
一つ、現在の己の為に「今の頭脳活動の実力を最大限発揮する為」のモノか?

これは、言うなれば頭脳活動が「上達論的」or「勝負論的」であろう。


以前、ある人が言っていた!
「俺も、もうこの歳、老い先短い!」「先の事は考えずに毎日を楽しく遊んで暮らす!」と~
上記の台詞を青年が発したら…それは間違いモノの「おバカ発言!」


観念論とは、過去の学説・学者の認識を駆使して思考する。
唯物論とは、過去の学説・学者の認識を参考に思惟する。

観念論は、どんなに頑張っても、その学者の、学説・言語・認識の範囲内での「勝負」。
唯物論なら、その学者の学説・言語・認識を参考に、自己の眼前の事実との思惟レベルの格闘「上達」。

「勝負論」では、その言語・認識の使い方の範囲内での変化・運動。

「上達論」なら、思惟レベルでも対象との格闘の結果…新たな・その者なりの言語表現(意味・内容)が創出される。


頭脳の思考的活動も思惟的活動も、一つの者の中の二種の活動。
思うから、思考活動へ、そして思惟活動へ
思惟活動の中で、思索活動・思弁活動


弁証法が技化したなら、それは、当人の頭脳活動が弁証法性を帯びたモノ~
言うなれば、「弁証法的な認識・頭脳活動」であろう。

頭脳活動が、弁証法的化したなら、その頭脳活動の多重化が可能。


言語は、その人の認識・観念の表現である。
他人の言語表現から、その他人の認識に正確に二重化し得たなら、
それは、他人の認識の自己化であり、その自己内の他人的な認識表現は、
ほぼ100%自分的言語表現になり得てしまう。


仮に、思考・内容・感情…が、全く同じだったとしても…
その認識の言語表現は、あくまで個性的になり得てしまうのが人類。



仮に、観念論者と唯物論者の双方言語表現が一致していても…
その内容・内実は、異なっていて当たり前!


それは、人類の頭脳活動・世界観・言語表現…の自由自在という問題であろう。

中身は同じ、でも言語表現が違う。
言語表現は同じ、でも中身が違う。

観念論者の言説と唯物論者の言説の区別と連関かな…


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続「馬鹿・馬鹿者」の話

2024-07-31 10:41:01 | 「わたし事・学」
続「馬鹿・馬鹿者」の話


今回は、以下の辞書から引用。


例解新国語辞典[第四版]

P783~
ばか「馬鹿」[名・形動]
(一) 普通の人より頭の働きが鈍い。また、そういう人。「人を馬鹿にする」
(二) 何かに打ち込んでいる度合いが甚だしくて、他の事ができない。「専門馬鹿」
(三) 普通ではちょっと考えられないようなこと。「そんな馬鹿な!」
(四) つまらないこと。くだらないこと。「出費が馬鹿にならない。」
(五) (「馬鹿になる」の形で、全体で)本来の働きが失われてる。「かぜで、鼻が馬鹿になる」
(六) 程度がなみ外れていること。「馬鹿正直」







岩波国語辞典か[第八版]

ばか[馬鹿・莫迦]
(一)  知能の働きが鈍いこと。利口でないこと。また、そういう人。
(二)  まじめに取り扱う値打ちのない、つまらないこと。またとんでもないこと。
(三)  役立たないこと。きかないこと。
(四)  「―に」の形で、また接続的に、普通からかけ離れていること。度外れ。非常に。
(五)  ばか貝の略。




学研 現代新国語辞典

[馬鹿・莫迦]
(一)(名・形動) 頭の働きが鈍い・こと。また、並外れて道理や常識から外れているいる・こと。
(二) (名・形動) くだらないこと。
(三) (「-に」の形で)程度が並外れていること。
(四) (接頭語的に用いて)程度が並外れていること。「-高い」。




広辞苑[第四版]
ばか[馬鹿・莫迦]

梵語moha(慕何)、すなわち痴の意、またはmahallka(摩訶羅)、すなわち無知の意からか古くから僧侶の隠語。馬鹿は当て字。

(一) おろかなこと。また、その人。愚。愚人。あほう。
(二) 取るに足りないつまらないこと。無益なこと。またとんでもないこと。
(三) 役に立たないこと。
(四) (接頭語的に)度はずれて、の意



以上から言える事は、「馬鹿」とは、
ある「モノ・コトの機能・状態が平均・基準以下である」事。



普通の人に比べて、「頭の働きが鈍い」・「知能の働きが鈍い」バカ者…
普通に切れるハサミが、切れなくなったら「バカになったハサミ」…
これらは、普通の状態に比べて機能が「鈍い・劣っている」…


はて…「頭の働き」と「知能の働き」の相違とは?
そもそも…「普通の状態」とは?

スポーツ選手が、その競技では素早い・鋭いプレーが可能。
なのに…勉強・学問…では鈍く、なかなか理解不能…

では、この選手は「馬鹿者」なのだろうか?
勉強・学問…も、その人の一つの頭脳の活動結果での身体活動である筈…
運動・スポーツでは鋭く、勉学・座学…では、頭脳活動は鈍くなる…
これは、可笑しい!


同じ人間の頭脳活動が、「勉強・学問」と「運動・スポーツ」とで、
そんなに、鋭いor鈍いと両極端に異なってしまうモノだろうか?


否!その人物の頭脳活動は、いつも同一である筈。
しかし、その人の頭脳活動の結果・表現を「鈍い・鋭い」と判断する基準が異なっている。

スポーツ選手は、身体的な表現では鋭い。
座学・学問…の言語を媒介として結果・表現では鈍く…

これは、頭脳活動の問題でなく、言語理解・言語の使用・表現の問題であろう。


また別の視点か~馬鹿も利口も…
その言動・行為を評価・判断する人々の相違。
その時代・社会の普通という判断基準の相違。

そんな・こんな感じの「馬鹿・馬鹿者」ならば…
他人を、ただただ「馬鹿者!」と罵るのは、馬鹿者の言動であろう。
真の利口者なら、「バカ」という言葉を使わずに、事実的or論理的な例えを用いて、相手の「バカ」な理由を相手に納得させ得るモノだろう。

過去の時代~おまじないが医療だと信じられた時代…
そんな時代の医療は、現代の我々から見たら「バカな事」なのだろうが…
その時代では、正真正銘の「医療行為」と万人が信じていたのだろう。


南郷氏はの言説の数々も然り~

過去の私は、師範の「気とは認識である!」その言葉を信じられず…
それって「本当?」レベルの不信感だった…

でも…今なら言える「気とは、自身の頭脳活動を活性化する(気)力」
ただ…どんなに「頭脳活動を活性化させても、
それは、当人の能力・実力の範囲内でのモノ」以上にはなれないだろう。




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~「馬鹿・馬鹿者」の話~

2024-07-29 11:51:17 | 「わたし事・学」
~「馬鹿・馬鹿者」の話~


馬鹿・馬鹿者の話をするには、
「馬鹿」とは?「馬鹿者とは?」…という言語表現を意味の確認が必要。

馬鹿とは、あるモノではなく、ある物事・状態を表現した言語だから…
「馬鹿」という言語は、馬鹿という認識・像を表現したモノ。
そこには二重性がありえる~
一つ、社会的・一般的辞書的な「馬鹿・馬鹿者」の意味、
一つ、その「馬鹿・馬鹿者」という言語表現を駆使している者の「馬鹿・馬鹿者」映像。

では~初めに辞書に書かれている「馬鹿・馬鹿者」から始めよう!

例解新国語辞典[第四版]

P783~
ばか「馬鹿」[名・形動]
(一) 普通の人より頭の働きが鈍い。また、そういう人。「人を馬鹿にする」
(二) 何かに打ち込んでいる度合いが甚だしくて、他の事ができない。「専門馬鹿」
(三) 普通ではちょっと考えられないようなこと。「そんな馬鹿な!」
(四) つまらないこと。くだらないこと。「出費が馬鹿にならない。」
(五) (「馬鹿になる」の形で、全体で)本来の働きが失われてる。「かぜで、鼻が馬鹿になる」
(六) 程度がなみ外れていること。「馬鹿正直」



辞書には、以上に書かれていた。


ここで、辞書を調べて初めて知った!
「馬鹿とは、普通の人より<頭の働きが鈍い>」事だと~


馬鹿な事を言うのも、馬鹿な事をやるのも、
馬鹿な言動・行為の原因は「頭の働き」!だけ?

普通に考えて人間は~
先ず、ある言動・行為を実施する以前に~
自然に出来る、自然に思いつく、目的意識的に思考する…があり~
次に、その言動・行為を「するorしない」という判断があり得る。
もっとも…習慣化・癖化しているモノは、無意識レベルで実践・実行されているだろう。

思い付き・言動・行為・思考も鈍いなら、
その結果のする・しない判断も鈍い。


以上は、我が認識内の「馬鹿・馬鹿者」の概念化の為の前提である社会的な意味調べである。


馬鹿とは、「頭脳活動が鈍い」とも書かれているが…
同時に「普通では考えられない事」ともある。

これは、普通では考えられない程に「鈍い」とも考えられるが…
しかし、時と場合によっては、それが素晴らしい閃きでもあり得る。

時に人は、動き回っていないで、「止まって考えよう!」と言う。
「頭脳活動の鈍さ」は、頭脳活動が劣っている、とは限らない。

本来は鋭い頭脳活動を、時と場合に合わせて、
意図的に鈍くする事も可能なのが人間である。



他人を「馬鹿・馬鹿者」と認識する事は容易な事であろう。
それは、自分自身の「頭脳活動の基準」に従って、
見えている相手の言動・行為から、「その頭脳活動の鈍さ」を判断すれば良し。


しかし…そこには、
相手が「自身の馬鹿さ」を、
どのように判断・認識しているか?が不明で加味できない!


例えば、漫才師が、誰が見ても「馬鹿丸出し」の言動・行為をしたとして…
それは、仕事・芸事としてのモノであり、全てが計算されているモノか?
それとも…単なる思い付きレベルの実践なのか?


相手の「馬鹿に言動・行為」は、見える・聞こえる…感覚可能である。
しかし、その相手が、その行為をする意図・認識は見えない・感覚不能。


その相手の感覚不能な認識の想像しようとするのが、
相手の認識への二重化の始まりであろう。

ここでのギルガメシュお宅は、毎回・毎回とても簡単に、
自由びとを簡単に「おバカ」「馬鹿の極み」、「馬鹿・阿保」と書けている。

私は、その度に私は思っている!
問題は、相手が「馬鹿か?否か?」ではなく~
自分は、何故に相手の言動・行為を「馬鹿」と判断するのか?
その「馬鹿な事」の中身を、自分は正しく相手レベルで認識しての「馬鹿」なのか?

現実の小1の児童達の言動・行為は、時に「何こいつ?!」と私には、理解不能な事が多々ある。
しかし…それでも、その児童のその言動・行為には、その児童の頭脳の活動の結果である。

その児童のより深い理解には、他の補助員、クラス担任、スクールカウンセラー等の意見・感想…を聞き問い入れる事が非常に重要。


確かに、相手に「馬鹿な奴」と思わせてしまう自由びと言動のも問題もあるが…
それでも、ここがネット上の仮想空間であり、架空の自由びと記述である~
そして、自由びとには、私としての現実的な日々の生活がある。


私の現実界の日々の日常生活での習慣や癖を見て、
そこから「あいつ馬鹿!という判断なら間違いないだろうが…

このネットの個人ブログで、繰り返される抽象的な思考をもって、自由びとは「おバカ!」判断は、論理的に正しくない!
この理由は、記事にも書かれているが…


「馬鹿・馬鹿者」の意味と概念相違は?

意味は、一般的・社会的・辞書的な理解。
概念は、その意味理解を元に、
日々の私生活の中で「馬鹿・馬鹿者」にどのような私的認識・感情を込めて使用しているか?であろう…



最後に、私の「馬鹿野郎!」発言の想い出を~

以前にも、旧or新「悟りを求めて~」で書いたが…
教員時代に、日々の学校生活で自分勝手・自己正当化の丸出し言動を周囲にしていた児童がいた。

ある日、その児童を、きつく注意をしたら、これまた自己中の極致の反論・異論・不快表現…
その事に呆れ・怒りを込めて「バカやろう!」と言ったら…
何とビックリ…「ぼく~バカやろう!じゃないもん…」と何食わぬ顔で反論してきた。

そこで更に呆れた私は以下のような事を説いた~
「そう今は、バカやろう…てはない!」
「でもね…このままだと、バカやろう!なってしまうよ…」

今考えると…この児童には、少々発達障害があったのだろう。
(幼稚園の頃に友達を思いっ切り噛んで、メチャ滅茶叱られたそう。)

そう~その児童こそが「真のバカ者」=自分が「バカ」だという自覚ないバカ者。
ただ…バカはバカでも、成長過程の一過性の「バカ」であり、
それ以後の学校・環境・教育次第では、そのバカは修正可能であろう。
実際その時の彼は「ぼく~バカやろうに、なりたくない!」と素直に言葉を返してきた…



































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~再び「二重化」の話~

2024-07-25 11:58:19 | 「わたし事・学」
~再び「二重化」の話~

以下のギルガメシュお宅のコメント記述を読んで…
疑問が「このお宅の二重化!とは?何!」~


>私にとっては「観念的二重化」とは三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』に説かれている二重化ですから、「弁証法の対立物の統一」における二重化ですし、それは戦後のマルクス主義者たちの間で「主体性論争」となったフォイエルバッハ・テーゼにある「客観的偏向、傍観者的な態度」を否定する「目的を持った人間の実践」という、「寝転んでいても理想の世界はやってくる」との「必然性解釈」を否定した「現在の現実と来るべき理想・目的意識を頭の中で二重化する」という相互浸透の話しですよ。< byギルガメシュお宅

>「対立物の統一」における二重化、とは?
>「現在の現実と来るべき理想・目的意識を頭の中で二重化する」という相互浸透…。


「対立物の統一」と「二重化」…?
「相互浸透」と「二重化」…?


二重化した認識を「対立物の統一」させようが、「相互浸透」させようが…
それは、当人の自由意志であり、それらと「二重化」は直結した関係とは言えない…のだろう。
それらは、二重化した後の問題であろう。


前回の記事―「同感」と「共感」でいうなら…

同感したら、どうする?
共感したら、どうする?

だが…その前に~

同感するには、どうする?
共感するには、どうする?  

が必要であろう。

そもそも…自分の感情が、相手への「同感」or「共感」か…
その正確な判断はできているのか?


この二重の「どうする」は、目的・意識の問題であろう。


そもそも…
「二重化」というモノが、明確に分からずに、
対象の二重化が完了、なんて何故に、分かるのだろうか?

「対立物の統一の為の二重化」なのだろうか?
「相互浸透の為の二重化」なのだろうか?


同感・共感とは、眼前の相手との交流の中で、自分が相手との関りの中で生じた、同感であり、共感であろう。
何故に、同感or共感なのだろうか?


それは、
初めから、自分的な立場・視点・観点から、相手と関わろうとするか・否か?
初めから、自分を棚上げして、相手の立場・視点・観点に立ってから関わろうとするか・否か?

同感も共感も二重化としては同様であっても、その結果が違っている。
その異なる訳は、相手と関わろうとする、当人の目的意識の問題であろう。

このギルガメシュお宅は、「二重化」の結果は、意識可能でも…
その「二重化」そのモノ・その過程…が意識できていない!

端的には、二重化というモノが分かっていない…
分かっていないのに…当人は「二重化」をしている気になっている。


二重化とは、一重のモノを二重にするから「二重化」。
認識論における二重化とは、認識の二重化であり、自分が認識している対象に対する「二重化」。

認識とは、対象の反映であり、対象の五感情像。
人間の認識は、対象が人間の場合、直接にその人間の感情を反映(認識)する事はできない。
人間の感情は、言動・表情・雰囲気…に自然に表現されてしまうが…
その感情表現・現象形態は、十人十色…千差万別…的である。
それでも、社会的動物である人間は、その時代の自然・社会的な環境…の結果、
その時代・その國、その家庭生活拠点・…によって、一般的な共通性があり得ている。


その一般的な共通点を見て取れる認識力によって…
対面している人間の感情に、自己の感情を正しく二重化可能になり得るモノだろう。


正しい「二重化」には、眼前の対象の変化・運動を逐一、正確に感覚する能力。
そして、その感覚し得た変化・運動情報を自己の頭脳の総合力的認識を駆使して、
見えていない内面の心・感情・気持ち…を対象に即して正確に想像できる能力。


う~ん…結局は、文字の羅列的な表現になっちゃったかな…
まあ~これは、これで…
これらは、私が認識している「二重化像」の鮮明化の過程的な表現という事で…
無理やり納得・満足させて~次回に期待しようかな……



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普通に考え書く「二重化」とは?

2024-07-22 11:20:57 | 「わたし事・学」


普通に考え書く「二重化」とは?


認識の二重化は、自己の他人化ではなく、自己の自分化から始まる…
そんな言葉が思い出せている。


日常用語には、「同感と共感」があります。

以下は、ネットから引用した解説です!


~~~転写開始~~~


同感と共感は、どちらも他人の考えや感情に共感するという意味ですが、ニュアンスが異なります。

同感は、自分の経験や考えと相手の話の内容を照らし合わせて共通点や相違点を見つけ、自分がどう感じるかというものです。主語は「自分」で、相手に伝えるのは自分の気持ちです。たとえば、友人から悲しい話を聞いたときに「(私はあなたと同じで)悲しいよ」と表現する場合は同感にあたります。

共感は、相手の気持ちを察することがメインで、主語は「相手」です。相手と同じ状況に自分が置かれたらどう感じるのかを想像し、相手の気持ちを読み取って共有し、効果的かつ適切な方法で対応する能力です。たとえば、友人から悲しい話を聞いたときに「(あなたは)悲しいよね」と表現する場合は共感にあたります。

共感力が高い人は、聞き上手で他者の考えを理解できるだけではなく、自分の意見をしっかりと持っていることが多い傾向があります。他者と信頼関係を築いたり、良好なコミュニケーションをとるうえで非常に重要な力です。


同感とは、自分の経験と相手が話す内容と照らし合わせて共通点や相違点を見つけ、「自分」がどう感じるかというものです。
それに対して共感とは、「相手」がどう感じるのかがわかることです。



~~~転写終了~~~

どうですか?! 一目瞭然・一読瞭然 でしょう~


同感とは、眼前の他人の認識への「二重化」が、自己認識の自分化。
共感とは、眼前の他人の認識への「二重化」が、自己認識の他人化。

同感とは、自己の立場・思考・感情から、「その人に同感」。
共感とは、自己の立場・思考・感情を無視・無関係に、「その人に共感」。


上記のように言葉として理解可能でも…

では~
どのように「同感」する? 
どの様に「共感」する?  その方法論は?

また、今の自己感情・感じが、
「同感か?共感か?」という、判断・根拠・基準は?


「理解が可能」になっても…「実践が可能」になれる、とは限らない!

それは~理解から理会へ、知識から技能・技術へ~
そんな~弁証法的な歩みが必要なのでしょうね~







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