新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・禅問答の正解

2021-06-30 12:43:05 | 禅問答・公案
続・禅問答の正解


今回は、以下に添付した
公案―無門関「趯倒淨瓶」について考えてみた。


そこでは、

>百丈和尚は大潙山に僧堂を開くにあたって、
>その住持となるものの選抜試験をおこなうことにした。
>彼は浄瓶(手を清めるための水を入れておく瓶)を地べたに置いて、みなに言った。
>百丈『これを浄瓶と呼んではいかん。さあ、なんとか呼んでみよ!』

「浄瓶という名称なのに浄瓶と呼んではいかん」と条件を付けて、
「さあ、なんとか呼んでみよ!」という問題である。

名称があるが名称で呼んではダメ!
なのに「呼んでみよ!」という問題。

正解は「呼ぶことが無意味」であるが…
ここで問題は、それを如何に体現するか、である。

それを霊裕は以下のように体現した。

>百丈は霊祐に、オマエさんはどうだ、と問いかけた。
>霊祐は浄瓶に歩み寄って蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。


今の私なら、
それに水を入れて百丈に「ハイ!と差し出す」。

さて…この霊裕の解答は見方によっては、浄瓶を浄瓶と呼ばないなら…

それは「手を清めるための水を入れておく瓶」ではない。
だから、「蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。」という事だろう。

しかし、名称が何であろうとなかろうと…
「手を清めるための水を入れておく」事が可能なら、
それを使う事に何の問題があろうか?
目の前のモノが使える・使いたいなら、
名前など呼ばずに水を入れて使えばよい!

それは公案においての「何と呼んでみよ!」という問題の否定である。
問題そのモノを否定して答えることも禅の回答であろう。

解答―問題を解いて答えを出すことや、その答え。
回答―質問や要望・要求に答えることや、その答え。

禅は問題・言葉そのモノに答えるのではなく、
その問題・言葉の禅的意味を把握して禅的に答える、
というものなのだろう。


この「問題」は、問い自体が問題を否定している。


問題文は「名前を呼んではいけない!」
「問い」は「さあ~呼んでみよ!」

名称を知らないなら何と呼んでも正解であろう…が、
名称を知っている者が、言葉したなら全て不正解。
ならば、正解は言葉での表現ではなく行為での体現。









   四十 趯倒淨瓶

潙山和尚、始在百丈會中充典座。百丈、將選大潙主人。乃請同 首座對衆下語、出格者可往。百丈遂拈淨瓶、置地上設問云、不得喚作淨瓶、汝喚作甚麼。首座乃云、不可喚作木𣔻也。百丈却問於山。山乃趯倒淨瓶而去。百丈笑云、第一座 輸却山子也。因命之爲開山。
無門曰、潙山一期之勇、爭奈跳百丈圈圚不出、撿點將來、便重不便輕。何故。壍。脱得盤頭、擔起鐵枷。

    頌曰
  𩗺下笊籬并木杓 當陽一突絶周遮 
  百丈重關欄不住 脚尖趯出佛如麻


 四十 趯倒浄瓶(てきとうじんびん)

潙山(いさん)和尚、始め百丈の会中に在って典座(てんぞ)に充(あ)たる。百丈、将に大潙の主人を選ばんとす。乃ち請じて首座(しゅそ)と同じく衆に対して下語(あぎょ)せしめ、出格の者往くべしと。
百丈、遂に浄瓶(じんびん)を拈じ、地上に置いて問を設けて云く、「喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んで甚麼(なん)とか作さん」。
首座乃ち云く、「喚んで木𣔻(ぼくとつ)と作すべからず」。
百丈、却って山に問う。山乃ち浄瓶をテキ倒して去る。
百丈笑って云く、「第一座(ぞ)、山子(さんす)に輸却せらる」と。
因って、之れに命じて開山と為す。

無門曰く、「潙山一期の勇、争奈(いかん)せん百丈の圏圚(けんき)を跳り出でざることを。撿(けん)点し将ち来れば、重きに便りして軽きに便りせず。何が故ぞ。聻(にい)。盤頭(ばんず)を脱得して、鉄枷を担起(たんき)す」。

    頌に曰く
笊籬(そうり)并びに木杓(もくしゃく)を𩗺(よう)下して、当陽の一突周遮(しゅうしゃ)を絶す。百丈の重関も欄(さえぎ)り住(とど)めず、脚尖趯出(きゃくせんてきしゅつ)して仏麻の如し。

百丈和尚は大潙山に僧堂を開くにあたって、その住持となるものの選抜試験をおこなうことにした。彼は浄瓶(手を清めるための水を入れておく瓶)を地べたに置いて、みなに言った。


百丈『これを浄瓶と呼んではいかん。さあ、なんとか呼んでみよ!』


すると、首座の善覚が進み出て、


善覚『さあて、木のかけらともいえません』


と言った。百丈は霊祐に、オマエさんはどうだ、と問いかけた。霊祐は浄瓶に歩み寄って蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。


百丈『善覚よ、霊祐の野郎にやられちまったな』


百丈は霊祐を大潙山の住持とした。


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公案ー「南泉の猫」について…

2021-06-30 10:10:02 | 禅問答・公案

以下は、公案「南泉の猫」についてネットから二つ引用した。





例文6:南泉の猫 (2ページ目)禅問答の例文7つ・
<禅問答について書かれたおすすめの本4選-雑学王になるならuranaru (b-engineer.co.jp)>


仏教ではものに執着することは禁止です。そして殺生も禁止されています。ここではみんながみんな訳のわからないことを行っています。優秀な弟子はそれを指摘する意味を込めて頭の上に草履を乗っけたのでした。

このように禅問答では言葉ではなく、具体的な行為で相手をたしなめるということが散見されます。言葉の力を疑っているからです。この態度は、情報の溢れる現代では多くの示唆を含んでいます。


弟子たちが、
「これはわれわれの猫だ」と言い争っていた。
 そこへ現れた和尚は、
「いまこのときに、仏の道にかなう言葉を発すれば猫は斬らない。さもなければ、この猫は斬って捨てる。さあ、どうだ!」
 だが、だれも答えられる者はなかったので、猫を切り捨ててしまった。
 優秀な弟子が帰ってくると、お前ならどう答えたかと迫った。
 すると弟子は、履いていた草履を頭に乗せ、部屋を出ていった。
「ああ、お前がいたならば、ワシも猫を斬らずにすんだのに・・・」






私説・南泉斬猫(なんせんざんみょう) |
<閑居の窓から見えるもの (darshana-marga.net)>


むかしむかしの事じゃった。中国大陸のとある僧堂で、子猫に仏性が有るか無いかで論争が起きたそうな。この話は、とある高名な僧侶が、その現場に現れた所から始まる・・・。


師匠「さっきから騒々しいな。何を言い争っているのだ?」
有派「あ、師匠! こ奴らが子猫に仏性は無いと頑固に言い張るので、悉有仏性(しつうぶっしょう)の真理を説いてやっているのです。師匠からも言ってやってください!」
無派「師匠、良い所に! もし猫に仏性があるなら、何故に猫は猫のままなのでしょうか?修行をしなければ仏にはなれませんし、そもそも猫に修行は出来ません。私どもは、そのような生き物に仏の性質があるとは、到底思えないのです!」


師匠「ふむ、双方の言い分に理があるな。」
有派「当然です、経典に書いてある事ですから。」
無派「疑問を感じない方がおかしいです。と言うか、貴様らは本当に悉有仏性の意味が分かっているのか?思考停止してるだけなんじゃないのか?」


師匠「これ、よさんか。」
有派「仏僧は経典から学ぶものだ。なのに経典を疑ってどうする!」
無派「それを原理主義と言う!教義を形だけ憶えても仕方あるまい!」


師匠「やめろ、双方とも黙れ!」
有派「師匠! こ奴らには信心が無く、経典を軽んじております!」
無派「師匠! こ奴らには理が無く、道を軽んじております!」


師匠「やかましい! 双方そこまで言うなら、わしをも納得させ得る持論を展開してみよ!出来なければ、この猫は殺す!!」
有派「え!? ちょ・・・師匠?!」
無派「殺すって、僧侶のセリフじゃないですよ、それ(汗)」


師匠「貴様らが、わしを納得させれば済む話だろうが! ただそれだけの話ではないか! 早く言え! 言わんか!!」
有派「そんな、師匠を納得させるほどの話など、我々には・・・。」
無派「師匠、無理言わないでくださいよ・・・。」


師匠「泣き言をぬかすな! 貴様らの言う仏法とは、小猫一匹救えんような下らんものなのか?! そのザマで、人間社会の理不尽さに喘ぎ苦しむ人々を、どのようにして救ってゆくつもりだ!」
有派「うっ・・・。」
無派「ぐぅ・・・。」


師匠「・・・この猫は、生かすも殺すも叶わぬ、貴様らのなまくら仏法の犠牲になった。残念だ。」ザックリ
有派「あっ、ああああああ!!」
無派「ひ、酷い! 何の罪もない猫を、本当に殺す必要など!!」


師匠「貴様らが救えなかったのは、この猫だけではない。尊い教えを何の役にも立てる事が出来ず、今も苦しむ大勢の人々を見殺しにしている事にも気づかず、下らん論争に明け暮れている己の愚かさと罪深さを噛み締めるがいい!!」
有派「そ、そんなァ・・・。」
無派「猫を殺して言う事ですか、それ・・・。」


師匠「チャンスは与えたのだから、それを活かせなかった貴様らの責任だ。世の中には何のチャンスも与えられないままの人も居るのだぞ?! 挙句、貴様らはわしを利用し、猫を殺させ、罪を背負わせた。まず、その2つを理解せい。」
有派「つ、罪ですか・・・?!」
無派「私たちは師匠に正しい判断を求めただけで、利用する気など・・・。」


師匠「いいか、仏性が有るだの無いだのの話ならまだ良いが、世の中には勝てば栄え、負ければ滅ぶ命懸けの戦いもある。そのような闘争を止められもせず、偉そうに御高説をのたまうだけの僧侶など存在する価値が無い。そう気付く事が、猫を救う唯一の道だったのだ。」
有派「え?」
無派「救うって、もう殺した後じゃないですか・・・。」


師匠「救わねばならない猫は、他にも沢山居る。そして人間もな。生きとし生ける者、全ての幸福の為に働くのが僧侶の役目だ。しかし、今の貴様らに・・・その役目を果たせるとは、到底思えん!!」
有派「・・・。」
無派「・・・。」



師匠「それとも貴様らは、なまくら仏法を振り回すだけの無駄な一生を送るつもりか?」
有派「いえ、そんな事は・・・。」
無派「無駄な一生って・・・。」


師匠「では、猛省せよ。」
有派「あ・・・。」
無派「・・・行ってしまわれた。」


(その日の夕暮れ、師匠の部屋にて。)


師匠「・・・と言う事があってな。」
高弟「そんな事があったのですか。」

師匠「いくら仏性の有無を論じても、答えなど出ない。何故なら、それは見方によってどうとでも言えるものだからだ。」
高弟「はい。」

師匠「どうとでも言える事について言い争っても仕方が無いし、下手をすると、それは終わりのない闘争に発展する事もある。ましてや信仰が絡む問題となると、お互いにエキサイトして収拾がつかなくなるものだ。」
高弟「確かに。」

師匠「キチンとした正解を出せるものなら、出した方が良いに決まっている。しかし、簡単に答えが出ない事柄については、問いそのものを打ち消したり、成り立たなくさせねばならない。それこそが智慧というものだ。」
高弟「ですね。」

師匠「一切は無であり、無であるが故に、唯一絶対の答えも無い。だからこそ何とでも言えてしまうし、捉え方次第でどうとでも評価が変わる。それを説かずして、何が仏僧か!」
高弟「・・・はあ。」

師匠「相手の意見のみならず、己の持論にも実体が無く、全ては無数にある見解の一つに過ぎないと知れば、言い争いなどしようと思えなくなる。これが正しいとか、唯一絶対だなどと思うからこそ執着心が湧いて来るのだ。確かなものだと思うからこそ、守ろうとしてしまうのだ。」
高弟「イエス。」

師匠「その末に起きるのが、闘争だ。だが、もともと無いものに執着する意味など無い。執着心は妄想の産物に過ぎず、手放すしかないものだ。だが、そんなつまらん理由で争い、時には殺し合うのが人と言う存在だ。人は愚かであり、無明の闇に囚われている!!」
高弟「Exactly (そのとおりでございます)」

師匠「・・・お前、わしの話をちゃんと聞いてる?」
高弟「もちろんですとも。」

師匠「ならば聞くが、仮にお前がその場に居合わせたら、何と言った?」
高弟(少しの沈黙の後、履物を頭に乗せて、師匠の部屋から退出してしまった)

師匠「履物を頭上に・・・? ああ、※顛倒か。わしもまた弟子達と同じく、エキサイトしていたか。やれやれ。・・・もし、あの場にお前が居てくれたなら、子猫の命も助かったものを。」

※仏教用語。真実に反する見解をもつこと。原意は「さかさまにすること」を意味する。逆立ちして周囲を見れば,実際は周囲はありのままの姿であるのに,すべてさかさまに見える。このように心がある見解にとらわれてしまうと,ありのまま見ることができず,真実を知ることができなくなってしまうことをいう。二,三,四,七,八顛倒などが説かれる。
コトバンクから引用
















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続・「初めての禅問答」から読み取る「道」について

2021-06-27 10:17:55 | 禅問答・公案
続・「初めての禅問答」から読み取る「道」について


道には
「悟る為に歩む道」=「悟りへの道」、
「悟った者が生きる道」=「悟り者の道」に分けられる。



悟りへの道は、悟り獲得の為の修行者の道であり、
悟り者の道は、悟った状態維持の為の悟得者の道、と言える。

悟り獲得の道とは、例えるなら「水(未悟得)を沸かして熱湯(悟得)にする道」
悟り維持の為の道とは、例えるなら「熱湯(悟得)を冷やさない(未悟得に戻さない)道。


成仏について以下の解説を入れる。
「成仏 (じょうぶつ、buddhahood; サンスクリット語: buddhatva; パーリ語: buddhatta or buddhabhāva )とは、
「目覚めたもの」という状態・階位を意味する 仏陀 となったという 仏教用語 。成仏への捉え方は宗派によって異なる。. 表. 話.」

悟った状態を「悟得」、「成仏」、「仏に成る」、「目覚めたもの」という意味になるのだろう。


上記の例えは、
常温の水を未悟得状態(仏)、
熱湯状態の水を悟得状態(成仏)、としている。

上記の事を踏まえて以下の記述を読むなら、




>P85  「どうしたら道と合えるでしょうか」

>僧が馬祖にたずねる。「どうしたら道とピタリと合うことができるでしょうか」
>「わしはいまだかつて道とピタリと合ってなどおらん」



修行僧の道は、水を熱湯にする為に高温の熱を加え続ける道。
馬祖の道は、熱湯状態維持の為に熱を維持する道。


そもそも初心者・修行僧には、
熱が何かが分からない。
熱が分かっても加熱の方法が分からない。
加熱できても熱を上げる方法が分からない。
熱を上げられても温度調整が分からない。
熱湯になっても、その状態維持が分からない。
分からないだらけ…である。

上記の全てを習得・修得するのが修行僧の「悟りへの道」

一方、悟得者の道は
過去の修行を踏まえて、熱湯状態維持為に「水の量」と「温度調整」をする道。

修行者の道は「水から熱湯への道」
悟得者の道は「熱湯状態の道」

この例えから言える事は、ここでの「僧の道」と「馬祖の道」は異なっている。

また以下の記述から


>「心は心であり、仏は仏である。
にもかかわらず、心のほかに仏はない、心と仏とは「二にして一」である。
だから馬祖はいう。「いま・ここ」の自分のあり方、すなわち「平常心」をあるがままに受け入れよ、と。
それが仏としてのあり方、すなわち「道」にほかならないんだよ、と。」


この記述をどのように理解するか…

仏と成仏の相違であろうか…
「仏のままの状態」と「成仏した状態」の相違であろう。

仏の状態とは、水の例えなら、熱湯状態を未体験の水(心)。
成仏の状態とは、熱湯を状態・熱湯体験済の水(心)。

馬祖の平常心とは、目覚めた状態が平常な心。
僧の平常心とは、目覚めよう頑張っている状態が平常な心。

同じ平常心でも、その内実・中身は異なっている。

馬祖は果たして、これらの相違に気付いているのだろうか?
観念論者である禅師には、己と僧の違いを意識する事はないだろう……







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「初めての禅問答」から読み取る「道」について

2021-06-26 11:58:13 | 禅問答・公案
「初めての禅問答」から読み取る「道」について



以下のような記述を「初めての禅問答」で発見した。

………引用開始………


  P85  「どうしたら道と合えるでしょうか」

僧が馬祖にたずねる。「どうしたら道とピタリと合うことができるでしょうか」
「わしはいまだかつて道とピタリと合ってなどおらん」

僧問う、如何が道に合することを得ん。祖曰く、我れ早に道合わず。 


僧が「道と合う」というのは、自分が道と別であるということを前提としている。
馬祖が「いまだかつて道と合ってなどおらん」というとき、
道を自分と別のなにかとして対象化していない。

道とは「いま・ここ」に自分として存在していることである。
したがって「どうしたら道と合うことができるでしょうか」という問いは、
ひどくグロテスクである。

そんなふうに問うのは、自分にとって可能なあり方の全体をながめて、
「このあり方は道から外れておるわい」とつぶやくようなものである。
それは、「いま・ここ」に自分として存在していることを超えて、
どこかに自分のあり方の外部にから自分のあり方をとらえるようなしわざである。


(中略)


このさい「僕の道の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎「道程」)
とでもおもっておけば、道に合うとか合わないとかいった問題は生じようがない
(なにせ自分が道をつくってゆくのだろうから)。


すでに「いま・ここ」に自分として存在している以上、
道と合っているかどうかってことは、はなから問題となりえない。
入矢本にも「道と一つに契合した人にあっては、おのれが道と合しているかいなかだとの意識さえない」とある。








P198 「道に達するとはどういうことなのか」

 問う。「どういうふうになれば、道に達したといえるのでしょうか」
馬祖はいう。「自分はもともと自分である。善や悪にこだわらなければ、とうに道を修めている。善をおこない、悪をしりぞける、空をわきまえ、定におもむくというのは無用な作為だ。外にむかって道を探そうものなら、探せば探すほど道から遠ざかってしまう。この世を心でとらえてはならん。心をはたらかせることが苦しみの原因だ。心をはたらかせなければ、あらゆる苦しみとおさらばできよう。


又問う。何の見解を作せば、即ち道に達するを得るや。祖曰く。自性は本来具足す。但だ善悪の事中に於いて滞らざるをば、喚びて修道の人作す。善を取り、悪を捨て、空を観、定に入るは、即ち造作に属す。更に若し外に向いて馳せ求むれば、転た疎にして転た遠し。但だ三界の心量を尽くすのみ。一念の妄心は、即ち是れ三界に生死せる根本なり、但だ一念無くんは、即ち生死の根本を除き、即ち法王の無上の珍宝を得る。

「どういう境地になれば道に達することができるのでしょうか」という問い方はナンセンスである。いったい「道に達する」とは、「ほら、これが道に達することだよ」と示せるようなものなのだろうか。どういう答えを示されれば、「ふむふむ、これが道に達するってことか」と納得できるだろう。

仏道の修行というものは、ひとに答えてもらうのではない。道に達するとはこういうことだ、というふうに事実として示せるものではない。だとすれば、この問いは問いとして成り立っていないことになる。そもそも問いとして成り立っていない問いには馬祖として答えようがない―かとおもったら、ちゃんと答えている。

馬祖はまず、「自分というあり方はもともと自分にそなわっている」と断言する。この自分はどう転んでも自分である、と。あるがままの自分を受け入れよ、と。
 
(中略)

わたしは、自分は自分であると決めている。このことについて。いまさらわかることはありえない。
「決める」ことと「分かる」こことは両立しない。
「わかる」とは、すでに成り立っている事実について認識することである(から、まちがうこともある)。
「決める」とは、わたしが決めたことによって事実が成り立つのである。(から、まちがいようがない)。

「道に達する」とは、どこかに道があって、そいつに達する、という達し方をするわけじゃない。
みずから「よし、これが道だ」と決めることであって、「ふうん、これが道か」とわかるべきことではない。

外にあるものの場合、それが道かどうかは客観的に判断されざるをえないが、
自分で「これが道だ」と決めるものについて、他人に「それは道じゃない」といわれたところ痛くも痒くもない。
したがって、「外にむかって道を探せば探すほど、いよいよ道から遠ざかる」のは当然である。

自分が自分であることに根拠を外にもとめるのはムダである。
この世界が「わたしの世界」であることは、否応なくそうなのであって、それ以外のあり方はありえない。
そういうあり方をついて、あらためて「わかる」ことは不可能であり、不必要である。

 心は心であり、仏は仏である。
にもかかわらず、心のほかに仏はない、心と仏とは「二にして一」である。
だから馬祖はいう。「いま・ここ」の自分のあり方、すなわち「平常心」をあるがままに受け入れよ、と。
それが仏としてのあり方、すなわち「道」にほかならないんだよ、と。



………引用終了………


上記の引用文についての感想は…
後日また~~~






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禅問答の正解

2021-06-15 19:11:16 | 禅問答・公案

禅問答の正解…


ここ数日間、
「初めての『禅問答』」―山田史生―(光文社新書)
を読んでいる。

そんな中、本日、ふと…以下のような事に気づいた。
禅問答・公案は、言葉で書かれている。

その禅問答の正解は「言葉」ではなく「認識」である。
それも体現してしまった認識となろう。

「生命史観」によると、動物の像・認識は、その瞬間を生きる為のモノであり、
認識・像を自覚する=即運動・行動が起こり得るモノ。


問題に対する自己の認識の表現である言葉なら「正解」であるが…
予め問題を知っている場合、その問題の正解を言えたとしても、
それは自己の認識の表現としての言葉でない。
仮に正解を自分の言葉で表現できたとしても、
それは自己の真の実力とは言えない…


禅問答の正解は、瞬間的な自己の認識・表現の中身と言える。
それは、瞬間的に表れた表情、行動、言葉、感情の全てが
求める「禅的正解」と一致して初めて、「自分的正解」なのだろう。



禅の言葉に「日々好日」というのがある。
別言するなら「生きているって素晴らしい」となろう。

最愛の者が亡くなって死にたくなる程に悲しい時、
その悲しみを感じられる今の自分が素晴らしい…
死にそうに苦しくて死にたいと思った時、死にたいと思える自分が素晴らしい…
天に舞い上がる程に嬉しい時、そんな自分が素晴らしい…


何があっても、何が起こっても、生きている自分は素晴らしい、
死んでしまった人達は、自己の中で生きている事が素晴らしい、

自分が死ねば、全ては「無」、
何も感じない、何も感じない事さえ感じない。
「絶対的な無」となろう。

何もないより、何かある方が素晴らしい。
例え素晴らしいと思えない物事でも、
それが「ある」という事自体が素晴らしい。

以上を言葉ではなく、自己の認識・像として
今この瞬間に描ける事が「日々好日」なのだろう。

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